2012/04/10 - 2012/04/10
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ドクターキムルさん
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上野公園の薬師如来を安置する仏塔パゴダがある丘が大仏山と呼ばれている。かつてこの場所に大仏があったからだ。 寛永8年(1631年)に越後村上藩主、堀直寄が戦死者慰霊のため、屋敷内のこの丘の上に漆喰の釈迦如来坐像を建立したが、正保4年(1647年)の地震で倒壊してしまった。その後、明暦・万治年間(1655年〜1661年)に青銅製の像高約6mの釈迦如来坐像が建立され、元禄11年(1698年)には大仏を覆う立派な大仏殿も建立された。
その後も地震や火事のたびに修復を繰り返してきたが、関東大震災では頚部が崩れ、仏体から仏頭が落ちてしまった。 修復費用が思うように集まらず、仏顔だけが長く寛永寺に保存されていた。残った仏体は、戦時中に供出されてしまった。
関東大震災50回忌となる昭和47年(1972年)に仏顔が元の大仏山に戻った。大仏のあった所にパゴダが建てられ、戻った仏顔はレリーフになり記念塔としてパゴダの隣に保存されている。
上野に最初に大仏を建立した堀直寄の屋敷は、藤堂高虎、津軽信枚の屋敷と共に上野にあったが、召上げられ、寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創された。不忍池も直寄が旧上屋敷に作ったものとも言われる。上野には津梁院以外は津軽家の足跡は少ないようだ。弘前城の築城に財力を注ぎ込んでいたためであろうか。あるいは、それぞれの石高(藤堂:22万石、堀:10万石、津軽:4.万7千石)相応なのだろうか。
直寄は元和2年(1616年)に再び長岡の領主となり、越後長岡藩(8万石)が立藩された。しかし、元和4年(1618年)に、2万石の加増を受け、村上藩10万石に転封した。村上藩堀家は寛永19年(1642年)に無嗣断絶となったが、3万石で分家した越後安田藩堀家は、後に村松藩として明治維新まで存続した。
(表紙写真は上野大仏の尊顔)
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薬師如来を安置する仏塔パゴダ。
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上野大仏の尊顔。
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「上野大仏略記
寛永八年(一八三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
青銅大仏
明暦・万治の頃(一六五五〜六○年)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
仏殿
元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に大仏殿は建立された。
改鋳
天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公は大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和四十七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
昭和四十七年春彼岸
」。
施主名はガムテープが貼られて隠されている。 -
上野大仏のかつての姿。
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上野大仏のかつての姿。
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「当病平癒(心と身の病を癒す)
祈願成就のお参り
薬師如来は大医王仏とも称され、人々の病苦を救う仏様です。
‥
東叡山 寛永寺 大仏バゴダ」 -
香炉。
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絵馬掛。
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新聞コピー。
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「パゴダ薬師堂」の提灯。
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「就職合格祈願 上野大仏」の旗。
大仏バゴダ、パゴダ薬師堂、上野大仏などがこのお堂では使われており、
上野大仏略記に記載できる正式名称は決まっていないような‥? -
「南無薬師如来」の旗。
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お地蔵さま。
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「萬霊供養塔」。
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八角宝塔。
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寛永寺時鐘堂。
寛文九年(1669)に設けられたこの鐘は、現在も正午と朝夕六時の計三回、毎日時を告げている。現在の鐘は天明七年(1787)に改鋳されたものである。
芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で知られる。
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