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JR八王子駅南口からバス15分、関東管領山内上杉氏重臣で武蔵野国守護代を務めた大石氏拠点の由木城(ゆぎじょう、東京都八王子市下柚木)を訪問しました。<br /><br />平安時代後期以降武蔵国周辺の小規模武士集団を後世に「武蔵七党」と呼ばれる中で現在の八王子周辺で集団を形成していた横山党の庶流由木(ゆぎ)氏が築城したといわれてますが定かではありません。<br /><br />戦国時代に入りますと大石氏が関東管領山内上杉氏の重臣として上野・武蔵・伊豆の守護代を勤め、その後武蔵国守護代として本拠を武蔵国多摩郡に構えます。<br /><br />大石氏は家臣として山内上杉氏の打ち続く合戦に従軍しては戦功を挙げる中、本領である多摩地域に勢力拡大を図りその一環としてかつての旧由木館を改修し自らの拠点館としたものと思われます。<br /><br />その後定久(さだひさ)は浄福寺(じょうふくじじょう、八王子市大久保)にも新たに築城するなど一層領内の充実に務め、台頭してくる小田原北条氏への対応を念頭に置いた城造りに励み多摩川を要害とする高月城(たかつきじょう)を構築します。<br /><br />永正13年(1516)に相模国三浦氏が小田原北条氏に破れ、三浦半島が北条氏支配下に入り相模国が全て小田原北条氏の勢力下に組み込まれますます。<br /><br />次の進攻矛先が武蔵国に向けられると知った大石定重・定久父子は本拠の高月城の防御に不安を抱き、永正18年(1521)広大な滝山丘陵に一層堅固な築城をしますがこれが後の滝山城(たきやまじょう)であります。<br /><br />当寺の説明板では滝山城竣工し定久が同城に入城を機に由木城敷地を叔父である一種長純大和尚に譲渡し、天正元年(1532)永燐寺として創建されます。(後年永林寺に改称)<br /><br />天正14年小田原北条氏守備軍が立て籠もる河越城奪還を目指すべく、扇谷(おうぎがやつ)上杉軍と合流した山内上杉軍は古河公方軍を加えて総勢8万で河越城攻撃、当然大石定重の子定久も上杉軍に属して参戦、結果は北条氏康の夜戦攻撃で大敗北を喫し扇谷上杉朝定討死、山内上杉憲正及び古河公方足利晴氏はほうほうの態で居城に退却する羽目に陥ります。<br /><br />河越合戦での致命的な敗北で上杉氏の後ろ楯を失った大石定久はついに小田原北条氏の支配下に入る事となります。形式的には氏康の三男である氏照(うじてる)を養子に迎える訳ですが、実際は権力基盤をそっくり譲り自ら滝山城から戸倉城(とくらじょう、現あきる野市)に退去、隠居生活に入りここに大石氏は歴史の表舞台から消え去ります。<br /><br />北条氏照の助成を受けて七堂伽藍の完備された大寺院の完成、近世においては徳川家康の当寺巡拝の折、公卿格10万石を授けられ、赤門建立が許可されると言ったように時の権力者から厚遇されている事がよく理解できました。<br /><br />他方大石氏については小田原北条氏が当地域に進出するまでの大石氏の姿が垣間見えますが、あくまでも山内上杉氏の被官の立場であるだけに独自性が窺えず、例えば同時期に一世を風靡したした大田道灌のようなダイナミックな印象的なストーリーが感じられらないのは誠に残念であります。多摩地域の歴史を作った人物だけに今後の歴史的記録・記述等の発見・研究が出るのを大いに期待するところです。<br /><br /><br />2023年3月18日追記<br /><br />境内の説明板には下記の通り記述されています。<br /><br />「 金峰山 永林寺<br /><br />永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城に移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(1532)3月永鱗寺として創建された。その後八王子城主北条氏照広の助成を受けて天文15年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正15年後陽成天皇より勅願寺のリン旨を受け護国殿の勅額を受ける。天正19年9月徳川家康公が当寺NI巡拝された折り、朱印10石、公卿格式拾万石を授けられ、赤門の建立が許可された。また、永鱗寺の鱗の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。また、当地域に十ケ寺の末寺を有する、格地本寺寺院である。<br /><br />永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葉葵等五つ紋を有しており、往時を偲ぶ事が出来る。<br /><br />        平成11年11月7日記<br />            永林寺第36世 大観英利  」

武蔵八王子 関東管領山内上杉氏重臣で武蔵国守護代を務めるも上杉氏没落により小田原北条氏に臣従した大石氏居城『由木城』訪問

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2012/01/28 - 2012/01/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR八王子駅南口からバス15分、関東管領山内上杉氏重臣で武蔵野国守護代を務めた大石氏拠点の由木城(ゆぎじょう、東京都八王子市下柚木)を訪問しました。

平安時代後期以降武蔵国周辺の小規模武士集団を後世に「武蔵七党」と呼ばれる中で現在の八王子周辺で集団を形成していた横山党の庶流由木(ゆぎ)氏が築城したといわれてますが定かではありません。

戦国時代に入りますと大石氏が関東管領山内上杉氏の重臣として上野・武蔵・伊豆の守護代を勤め、その後武蔵国守護代として本拠を武蔵国多摩郡に構えます。

大石氏は家臣として山内上杉氏の打ち続く合戦に従軍しては戦功を挙げる中、本領である多摩地域に勢力拡大を図りその一環としてかつての旧由木館を改修し自らの拠点館としたものと思われます。

その後定久(さだひさ)は浄福寺(じょうふくじじょう、八王子市大久保)にも新たに築城するなど一層領内の充実に務め、台頭してくる小田原北条氏への対応を念頭に置いた城造りに励み多摩川を要害とする高月城(たかつきじょう)を構築します。

永正13年(1516)に相模国三浦氏が小田原北条氏に破れ、三浦半島が北条氏支配下に入り相模国が全て小田原北条氏の勢力下に組み込まれますます。

次の進攻矛先が武蔵国に向けられると知った大石定重・定久父子は本拠の高月城の防御に不安を抱き、永正18年(1521)広大な滝山丘陵に一層堅固な築城をしますがこれが後の滝山城(たきやまじょう)であります。

当寺の説明板では滝山城竣工し定久が同城に入城を機に由木城敷地を叔父である一種長純大和尚に譲渡し、天正元年(1532)永燐寺として創建されます。(後年永林寺に改称)

天正14年小田原北条氏守備軍が立て籠もる河越城奪還を目指すべく、扇谷(おうぎがやつ)上杉軍と合流した山内上杉軍は古河公方軍を加えて総勢8万で河越城攻撃、当然大石定重の子定久も上杉軍に属して参戦、結果は北条氏康の夜戦攻撃で大敗北を喫し扇谷上杉朝定討死、山内上杉憲正及び古河公方足利晴氏はほうほうの態で居城に退却する羽目に陥ります。

河越合戦での致命的な敗北で上杉氏の後ろ楯を失った大石定久はついに小田原北条氏の支配下に入る事となります。形式的には氏康の三男である氏照(うじてる)を養子に迎える訳ですが、実際は権力基盤をそっくり譲り自ら滝山城から戸倉城(とくらじょう、現あきる野市)に退去、隠居生活に入りここに大石氏は歴史の表舞台から消え去ります。

北条氏照の助成を受けて七堂伽藍の完備された大寺院の完成、近世においては徳川家康の当寺巡拝の折、公卿格10万石を授けられ、赤門建立が許可されると言ったように時の権力者から厚遇されている事がよく理解できました。

他方大石氏については小田原北条氏が当地域に進出するまでの大石氏の姿が垣間見えますが、あくまでも山内上杉氏の被官の立場であるだけに独自性が窺えず、例えば同時期に一世を風靡したした大田道灌のようなダイナミックな印象的なストーリーが感じられらないのは誠に残念であります。多摩地域の歴史を作った人物だけに今後の歴史的記録・記述等の発見・研究が出るのを大いに期待するところです。


2023年3月18日追記

境内の説明板には下記の通り記述されています。

「 金峰山 永林寺

永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城に移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(1532)3月永鱗寺として創建された。その後八王子城主北条氏照広の助成を受けて天文15年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正15年後陽成天皇より勅願寺のリン旨を受け護国殿の勅額を受ける。天正19年9月徳川家康公が当寺NI巡拝された折り、朱印10石、公卿格式拾万石を授けられ、赤門の建立が許可された。また、永鱗寺の鱗の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。また、当地域に十ケ寺の末寺を有する、格地本寺寺院である。

永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葉葵等五つ紋を有しており、往時を偲ぶ事が出来る。

        平成11年11月7日記
            永林寺第36世 大観英利  」

交通手段
高速・路線バス 徒歩
  • JR八王子駅南口<br /><br />八王子市内の案内地図が設置されています。周りは広場になってバス停があります。京王相模原線南大沢駅行のバスに乗車します。(京王相模原線南大沢駅からバス便利用なら5~6分で到着します)

    JR八王子駅南口

    八王子市内の案内地図が設置されています。周りは広場になってバス停があります。京王相模原線南大沢駅行のバスに乗車します。(京王相模原線南大沢駅からバス便利用なら5~6分で到着します)

  • 永林寺(えいりんじ)石標<br /><br />永林寺の石標を目印にして入場します。由木小学校を右手に見ながら細い道を進みます。由木城跡は永林寺の中にあります。<br />

    永林寺(えいりんじ)石標

    永林寺の石標を目印にして入場します。由木小学校を右手に見ながら細い道を進みます。由木城跡は永林寺の中にあります。

  • 土塁<br /><br />永林寺を取り囲む土塁が現在の道路(空堀跡か)の左手から奥まで延びています。

    土塁

    永林寺を取り囲む土塁が現在の道路(空堀跡か)の左手から奥まで延びています。

  • 永林寺総門

    永林寺総門

  • 参道<br /><br />振返りますと参道が続いています。

    参道

    振返りますと参道が続いています。

  • 総門<br /><br />天文15年(1546)建立、文禄4年焼失後宝暦元年(1758)再建されます。公卿格10万石を徳川家康より与えられ、当寺は朱塗りの門と壁の五条線が許されこれより「由木の赤門」と呼称されます。(現場案内)

    イチオシ

    総門

    天文15年(1546)建立、文禄4年焼失後宝暦元年(1758)再建されます。公卿格10万石を徳川家康より与えられ、当寺は朱塗りの門と壁の五条線が許されこれより「由木の赤門」と呼称されます。(現場案内)

  • 総門説明板

    総門説明板

  • 永林寺全景図<br /><br />本堂の横に大石公墓所、更に墓地の後背地に由木城跡が控えています。

    永林寺全景図

    本堂の横に大石公墓所、更に墓地の後背地に由木城跡が控えています。

  • 総門扁額<br /><br />山号はである「金峰山」が書されています。

    総門扁額

    山号はである「金峰山」が書されています。

  • 十六羅漢(じゅうろくらかん)<br /><br />仏法を守護する16人の優れた阿羅漢像が左右に8像ずつ並びます。

    十六羅漢(じゅうろくらかん)

    仏法を守護する16人の優れた阿羅漢像が左右に8像ずつ並びます。

  • 十六羅漢

    十六羅漢

  • 十六羅漢説明板

    十六羅漢説明板

  • 三門(山門)

    イチオシ

    三門(山門)

  • 三門説明板

    三門説明板

  • 大石定久居館跡説明板

    大石定久居館跡説明板

  • 裏門付近土塁<br /><br />裏門に近い駐車場から東側の見上げますと立派に保存されている土塁があります。

    裏門付近土塁

    裏門に近い駐車場から東側の見上げますと立派に保存されている土塁があります。

  • 永林寺・鐘楼<br /><br />鎌倉時代の禅宗様式の鐘楼です。

    永林寺・鐘楼

    鎌倉時代の禅宗様式の鐘楼です。

  • 永林寺説明板

    永林寺説明板

  • 永林寺・本堂<br /><br />天文15年(1546)建立され文禄4年焼失を経て寛文9年(1669)に再建されます。

    永林寺・本堂

    天文15年(1546)建立され文禄4年焼失を経て寛文9年(1669)に再建されます。

  • 本堂説明板

    本堂説明板

  • 由木城跡案内標<br /><br />この先の大石氏墓所を経て城跡に繋がります。

    由木城跡案内標

    この先の大石氏墓所を経て城跡に繋がります。

  • 由木城跡<br /><br />手前の小路を進み階段を登ります。墓地の奥の高台に城跡があります。

    由木城跡

    手前の小路を進み階段を登ります。墓地の奥の高台に城跡があります。

  • 城跡広場<br /><br />奥に大石定久像、中央に由木城跡石碑そして手前に祈念塔がそれぞれ建ち並んでいます。

    城跡広場

    奥に大石定久像、中央に由木城跡石碑そして手前に祈念塔がそれぞれ建ち並んでいます。

  • 大石定久像<br /><br />城跡広場に建立されています。

    イチオシ

    大石定久像

    城跡広場に建立されています。

  • 石像裏面<br /><br />定久公433回忌を記念して篤志家が寄贈したものです。

    石像裏面

    定久公433回忌を記念して篤志家が寄贈したものです。

  • 由木城跡石碑

    イチオシ

    由木城跡石碑

  • 宝供印塔

    宝供印塔

  • 城郭広場<br /><br />東端から城郭広場を捉えます。

    城郭広場

    東端から城郭広場を捉えます。

  • 城郭から遠望<br /><br />南大沢駅方面を望みます。高層マンション群が樹間を通して見えます。

    城郭から遠望

    南大沢駅方面を望みます。高層マンション群が樹間を通して見えます。

  • 城郭広場を一望<br /><br />更に奥に登り途中から城郭広場を一望します。

    城郭広場を一望

    更に奥に登り途中から城郭広場を一望します。

  • 土塁<br /><br />登りますと城郭を囲む土塁が散見されます。

    土塁

    登りますと城郭を囲む土塁が散見されます。

  • 土塁<br /><br />城郭を取り囲む土塁が力強く映ります。

    土塁

    城郭を取り囲む土塁が力強く映ります。

  • 南大沢駅方面遠望<br /><br />城郭広場南端から南大沢駅方面を一望します。

    南大沢駅方面遠望

    城郭広場南端から南大沢駅方面を一望します。

  • 下馬石標<br /><br />

    下馬石標

  • 堀<br /><br />溺れ谷状の堀に水が溜まって池となったようです。



    溺れ谷状の堀に水が溜まって池となったようです。

  • 郭の一部<br /><br />墓地化する前は郭の一部だったと思われます。

    郭の一部

    墓地化する前は郭の一部だったと思われます。

  • 土塁<br /><br />現在でも土塁がしっかり残っています。

    土塁

    現在でも土塁がしっかり残っています。

  • 大石源左衛門尉定久墓所全景<br /><br />武相10郡の太守滝山城主大石定久の公墳えあります。大石定久は在城中にこの地に居館がありました。大石定久は高月城主大石定重の子として永徳3年3月23日に生まれ、幼名を丑丸と言われました。長じて由木と浄福寺に城を持ち、更に大永元年2月父定重と共に滝山に城を築き、大永7年家督を継いで滝山城主となります。<br />没後、猿丸峠の頂上に埋葬され(当時永林寺の境内は平山街道より猿丸峠まで)、文化8年(1811)永林寺25世住職によってこの地に改葬されました。定久の墓石の両側には家臣(後に北条家の家臣)の墓が連なっています。天文18年2月7日没、行年58歳。(現地説明)<br /><br />

    大石源左衛門尉定久墓所全景

    武相10郡の太守滝山城主大石定久の公墳えあります。大石定久は在城中にこの地に居館がありました。大石定久は高月城主大石定重の子として永徳3年3月23日に生まれ、幼名を丑丸と言われました。長じて由木と浄福寺に城を持ち、更に大永元年2月父定重と共に滝山に城を築き、大永7年家督を継いで滝山城主となります。
    没後、猿丸峠の頂上に埋葬され(当時永林寺の境内は平山街道より猿丸峠まで)、文化8年(1811)永林寺25世住職によってこの地に改葬されました。定久の墓石の両側には家臣(後に北条家の家臣)の墓が連なっています。天文18年2月7日没、行年58歳。(現地説明)

  • 大石定久墓石

    イチオシ

    大石定久墓石

  • 大石氏家臣墓石

    大石氏家臣墓石

  • 大石氏家臣墓石

    大石氏家臣墓石

  • 大石定久墓所説明

    大石定久墓所説明

  • 三重塔

    三重塔

  • 三重塔説明

    三重塔説明

  • 本堂方向<br /><br />三重塔から本堂方向を望みます。

    本堂方向

    三重塔から本堂方向を望みます。

  • 三門の扁額<br /><br />「永林禅寺」の扁額が見えます。

    三門の扁額

    「永林禅寺」の扁額が見えます。

  • 仁王像(右)

    仁王像(右)

  • 仁王像(左)

    仁王像(左)

  • 中雀門<br /><br />宮大工により工事中で接近できません。

    中雀門

    宮大工により工事中で接近できません。

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