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戦国時代関八州の覇者小田原北条氏が5代(約100年)に亘って支配し、いわゆる小田原征伐後に関東入部した徳川家康が江戸の守りとして近世城に改修した相模小田原城(おだわらじょう、神奈川県小田原市城内)を訪問しました。<br /><br />豊臣秀吉に関東移封を命ぜられた徳川家康は三河を含む信濃・甲斐といった旧領を手放す事になり、譜代の重臣たちの反発を尻目に本拠を関東のいずこに定めるかを熟慮します。<br /><br />最終的には秀吉の教示に従い扇谷上杉氏家宰であった太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)築城したといわれる江戸城に本拠を構えることになりますが、他の候補地もあったようでしてその中にこの小田原城も挙げられました。<br /><br />理由としては既存の城郭を転用できる、交通の要地である、経済活動が安定している等あったでしょうが、地勢的には小田原は関東の中心ではなく後背地が狭いという事で将来を見据えると江戸より劣るという判断があったのかも知れません。<br /><br />小田原を拠点とする北条氏の場合は氏綱以降、嫡男が小田原在とし弟達が重要地域の方面司令官とするネットワーク化により勢力の拡大維持に努めましたが本拠との情報連絡には極めて頼りないものでした。<br /><br />結果として家康は江戸に拠点を置きますが、入封したばかりの徳川本拠は地勢的には平地で隣国からの攻撃には耐えることはできません。<br /><br />そこで最初の仕事は防御態勢の構築が最優先であり、家康が手放した駿河・甲斐・信濃に配置された秀吉の忠臣大名への対抗策が急務であります。とりわけ最も重視すべきは西の固めであり、家康は「重臣中の重臣」である大久保忠世(おおくぼ・ただよ、1532~1594)に命じ小田原城の近代化工事を推進させます。<br /><br />次に小田原城の存在価値が極めて高いのは、歴代将軍の上洛の際における宿泊地であります。本丸御殿は将軍の専用宿泊所で、藩主の居住や行政対応はもっぱら二の丸でありました。<br /><br />自分は訪問は3回目で久しぶりの訪問でした。天守や石垣は目を見張るものがありました。天守からの展望も伊豆半島や三浦半島などが見渡せて清々しい気持ちを味わいました。<br /><br /><br /><br />2022年3月30日追記<br /><br />現地で入手のパンフレットには次の通り記載されています。<br /><br />「 小田原城の歴史<br />小田原城の築城や築城者、築城当時の規模などについては、不明な点が多いのが実情です。築城年については、享徳3年(1454)に勃発した享徳の乱を契機とする見方が有力です。<br /><br />当時小田原城周辺地域に勢力を持っていたのは大森氏であった事から、その頃の大森氏当主が築城者であったと考えられています。<br />位置は、北条氏入城以前のものと見られる城郭に関連する地名・伝承などから、八幡山古郭と呼ばれる現在の本丸の西北に位置する丘陵上と考えられています。<br /><br />15世紀末頃[通説では明応4年(1495)]に伊勢宗瑞(北条早雲)が相模国に進出し、小田原城は北条氏の支配する城となりました。早雲没後に家督を継承した氏綱が小田原城を本城と定め、現在の本丸を中心とした位置に新たな拠点を設けたと考えられています。<br /><br />北条氏滅亡迄の間にその城域は、俗に八幡山、天神山と呼ばれる二つの丘陵部を取り込む範囲にまで拡大しました。更に、豊臣秀吉によって天下統一が進む中、北条氏はこれに対抗するため、城下町全体を空堀と土塁で囲む総延長9Kmに及ぶ総構を築造しました。<br /><br />天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると、徳川家康の重臣であった大久保忠世が小田原城に入城します。忠世とその息子忠隣が在城した時期(1590~1619)に、小田原城は空堀と土塁の姿から高石垣と水堀を持つ近世城郭の姿に変わったと見られています。<br /><br />阿部氏在城の時代、番城時代を経て、寛永9年(1632)に入城した稲葉正勝はすぐさま小田原城修築に着手しています。<br />現在の小田原城の縄張や高石垣・水堀の姿は概ねこの時期に設定されたものです。その後、明治3年(1870)に明治政府により破却の許可が下りるまで小田原城は存続します。<br /><br />明治3年(1870)に天守が、明治5年(1872)には銅門などが解体され、小田原城の建造物はそのほとんどが失われました。陸軍省の管轄地となった小田原城跡は、その後所有者が転々としています。この間、明治34年(1901)から昭和5年(1930)には小田原御用邸が設置されています。昭和9年(1934)には二の丸平櫓が復興されています。二の丸平櫓は江戸時代の姿とはだいぶかけ離れていますが、小田原城が城の姿を取り戻す第一歩となりました。更に、昭和13年(1938)には小田原城跡の一部が国指定史跡となりました。<br /><br />戦後、昭和24年(1949)から28年(1953)にかけて、天守台の石垣の積み直しが行われ、昭和35年(1960)に天守閣が復興されました。また昭和46(1971)には常盤木門が復興され、平成2年(1990)に住吉橋、平成9年(1997)に銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されています。」

相模小田原 百年に亘り関東を制覇した伊勢宗瑞を初代とする北条氏本城で江戸期では東海道の要衝の地として信頼厚い大久保氏が城主の『小田原城』訪問

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2012/01/03 - 2012/01/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

戦国時代関八州の覇者小田原北条氏が5代(約100年)に亘って支配し、いわゆる小田原征伐後に関東入部した徳川家康が江戸の守りとして近世城に改修した相模小田原城(おだわらじょう、神奈川県小田原市城内)を訪問しました。

豊臣秀吉に関東移封を命ぜられた徳川家康は三河を含む信濃・甲斐といった旧領を手放す事になり、譜代の重臣たちの反発を尻目に本拠を関東のいずこに定めるかを熟慮します。

最終的には秀吉の教示に従い扇谷上杉氏家宰であった太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)築城したといわれる江戸城に本拠を構えることになりますが、他の候補地もあったようでしてその中にこの小田原城も挙げられました。

理由としては既存の城郭を転用できる、交通の要地である、経済活動が安定している等あったでしょうが、地勢的には小田原は関東の中心ではなく後背地が狭いという事で将来を見据えると江戸より劣るという判断があったのかも知れません。

小田原を拠点とする北条氏の場合は氏綱以降、嫡男が小田原在とし弟達が重要地域の方面司令官とするネットワーク化により勢力の拡大維持に努めましたが本拠との情報連絡には極めて頼りないものでした。

結果として家康は江戸に拠点を置きますが、入封したばかりの徳川本拠は地勢的には平地で隣国からの攻撃には耐えることはできません。

そこで最初の仕事は防御態勢の構築が最優先であり、家康が手放した駿河・甲斐・信濃に配置された秀吉の忠臣大名への対抗策が急務であります。とりわけ最も重視すべきは西の固めであり、家康は「重臣中の重臣」である大久保忠世(おおくぼ・ただよ、1532~1594)に命じ小田原城の近代化工事を推進させます。

次に小田原城の存在価値が極めて高いのは、歴代将軍の上洛の際における宿泊地であります。本丸御殿は将軍の専用宿泊所で、藩主の居住や行政対応はもっぱら二の丸でありました。

自分は訪問は3回目で久しぶりの訪問でした。天守や石垣は目を見張るものがありました。天守からの展望も伊豆半島や三浦半島などが見渡せて清々しい気持ちを味わいました。



2022年3月30日追記

現地で入手のパンフレットには次の通り記載されています。

「 小田原城の歴史
小田原城の築城や築城者、築城当時の規模などについては、不明な点が多いのが実情です。築城年については、享徳3年(1454)に勃発した享徳の乱を契機とする見方が有力です。

当時小田原城周辺地域に勢力を持っていたのは大森氏であった事から、その頃の大森氏当主が築城者であったと考えられています。
位置は、北条氏入城以前のものと見られる城郭に関連する地名・伝承などから、八幡山古郭と呼ばれる現在の本丸の西北に位置する丘陵上と考えられています。

15世紀末頃[通説では明応4年(1495)]に伊勢宗瑞(北条早雲)が相模国に進出し、小田原城は北条氏の支配する城となりました。早雲没後に家督を継承した氏綱が小田原城を本城と定め、現在の本丸を中心とした位置に新たな拠点を設けたと考えられています。

北条氏滅亡迄の間にその城域は、俗に八幡山、天神山と呼ばれる二つの丘陵部を取り込む範囲にまで拡大しました。更に、豊臣秀吉によって天下統一が進む中、北条氏はこれに対抗するため、城下町全体を空堀と土塁で囲む総延長9Kmに及ぶ総構を築造しました。

天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると、徳川家康の重臣であった大久保忠世が小田原城に入城します。忠世とその息子忠隣が在城した時期(1590~1619)に、小田原城は空堀と土塁の姿から高石垣と水堀を持つ近世城郭の姿に変わったと見られています。

阿部氏在城の時代、番城時代を経て、寛永9年(1632)に入城した稲葉正勝はすぐさま小田原城修築に着手しています。
現在の小田原城の縄張や高石垣・水堀の姿は概ねこの時期に設定されたものです。その後、明治3年(1870)に明治政府により破却の許可が下りるまで小田原城は存続します。

明治3年(1870)に天守が、明治5年(1872)には銅門などが解体され、小田原城の建造物はそのほとんどが失われました。陸軍省の管轄地となった小田原城跡は、その後所有者が転々としています。この間、明治34年(1901)から昭和5年(1930)には小田原御用邸が設置されています。昭和9年(1934)には二の丸平櫓が復興されています。二の丸平櫓は江戸時代の姿とはだいぶかけ離れていますが、小田原城が城の姿を取り戻す第一歩となりました。更に、昭和13年(1938)には小田原城跡の一部が国指定史跡となりました。

戦後、昭和24年(1949)から28年(1953)にかけて、天守台の石垣の積み直しが行われ、昭和35年(1960)に天守閣が復興されました。また昭和46(1971)には常盤木門が復興され、平成2年(1990)に住吉橋、平成9年(1997)に銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されています。」

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 小田原城・遠望<br /><br />小田原駅南口から右手に小田原城を捉えます。豊臣秀吉の攻勢に備え総構えとした小田原城の広範な城地は東海道線の敷設により分断されています。

    小田原城・遠望

    小田原駅南口から右手に小田原城を捉えます。豊臣秀吉の攻勢に備え総構えとした小田原城の広範な城地は東海道線の敷設により分断されています。

  • 小田原市周辺地図<br /><br />本来の小田原城郭は東海道線を越えるまでに広がっていました。

    小田原市周辺地図

    本来の小田原城郭は東海道線を越えるまでに広がっていました。

  • 二の丸東堀説明<br /><br />本丸・二の丸を守る堀の中で最も大規模なもので、幅は最大40mあり現在よりも更に北に約60m先まで続いていました。<br />源氏の石垣は大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものです。

    二の丸東堀説明

    本丸・二の丸を守る堀の中で最も大規模なもので、幅は最大40mあり現在よりも更に北に約60m先まで続いていました。
    源氏の石垣は大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものです。

  • 学橋(まなぶばし)<br /><br />城郭見学を終えて三々五々橋から出てきます。<br /><br />

    学橋(まなぶばし)

    城郭見学を終えて三々五々橋から出てきます。

  • 二の丸跡<br /><br />江戸時代の二の丸は藩主の居館や行政を行う政庁としての役割がありました。<br />元禄16年(1703)、大地震で小田原城は甚大な被害を受けて二の丸御殿は倒壊し炎上してしまいますがその後再建、徐々に増築されます。<br /><br />

    二の丸跡

    江戸時代の二の丸は藩主の居館や行政を行う政庁としての役割がありました。
    元禄16年(1703)、大地震で小田原城は甚大な被害を受けて二の丸御殿は倒壊し炎上してしまいますがその後再建、徐々に増築されます。

  • 銅門(あかがねもん)及び歴史見聞間案内<br /><br />銅門から入って見ます。<br /><br />

    銅門(あかがねもん)及び歴史見聞間案内

    銅門から入って見ます。

  • 二の丸御殿跡

    二の丸御殿跡

  • 銅門土塀模型

    銅門土塀模型

  • 小田原城案内図

    小田原城案内図

  • 馬出門土橋(めがね橋)<br /><br />正面入口となっています。

    馬出門土橋(めがね橋)

    正面入口となっています。

  • 隅櫓<br /><br />土橋から隅櫓を望みます。水堀が広がっています。

    隅櫓

    土橋から隅櫓を望みます。水堀が広がっています。

  • 馬出門正面<br /><br />馬出門は二の丸正面に位置するもんで、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたと見れれます。(平成21年復元)(小田原城歴史見聞間パンフレットより)

    馬出門正面

    馬出門は二の丸正面に位置するもんで、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたと見れれます。(平成21年復元)(小田原城歴史見聞間パンフレットより)

  • 隅櫓<br /><br />馬出門入口から隅櫓を再度望みます。

    隅櫓

    馬出門入口から隅櫓を再度望みます。

  • 馬出門

    馬出門

  • 小田原城と銅門案内図

    小田原城と銅門案内図

  • 住吉橋<br /><br />馬出門を入って次の住吉橋を望みます。

    住吉橋

    馬出門を入って次の住吉橋を望みます。

  • 解体前の銅門<br /><br />明治5年撮影の解体される前の銅門です。

    解体前の銅門

    明治5年撮影の解体される前の銅門です。

  • 現在の銅門<br /><br />馬場曲輪から銅門の櫓を望みます。

    現在の銅門

    馬場曲輪から銅門の櫓を望みます。

  • 住吉橋<br /><br />住吉橋から正面を望みます。

    住吉橋

    住吉橋から正面を望みます。

  • 銅門(あかがねもん)<br /><br />馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸のい正面にあたります。渡櫓門、内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます。(平成9年復元)(小田原城歴史見聞間パンフレット)

    銅門(あかがねもん)

    馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸のい正面にあたります。渡櫓門、内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます。(平成9年復元)(小田原城歴史見聞間パンフレット)

  • 銅門の正面

    銅門の正面

  • 銅門の裏<br /><br />銅門を入ってすぐ振返ります。

    銅門の裏

    銅門を入ってすぐ振返ります。

  • 小田原城歴史見聞間案内図<br /><br />開館時間 9:00 〜 17:00<br />料  金 ¥600 (天守閣・歴史見聞館)

    小田原城歴史見聞間案内図

    開館時間 9:00 〜 17:00
    料  金 ¥600 (天守閣・歴史見聞館)

  • 歴史見聞館<br /><br />「模型や映像で楽しむ小田原城の歴史」のテ?マのもと建物内部は「北条五代ゾ?ン」や「江戸時代ゾーン」がそれぞれ展示されています。<br /><br />

    歴史見聞館

    「模型や映像で楽しむ小田原城の歴史」のテ?マのもと建物内部は「北条五代ゾ?ン」や「江戸時代ゾーン」がそれぞれ展示されています。

  • 北条氏歴代当主<br /><br />左から早雲(初代)、氏綱(第2代)、氏康(第3代)、氏政(第4代)、氏直(第5代)が続きます。

    北条氏歴代当主

    左から早雲(初代)、氏綱(第2代)、氏康(第3代)、氏政(第4代)、氏直(第5代)が続きます。

  • 初代北条早雲(早瑞)(1456頃ー1519)<br /><br />室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の一族で文明年間(1470年代)に駿河今川氏家督相続争いを収めるため、駿河に下向しました。後に伊豆・相模国に侵攻し、韮山城(現静岡県伊豆の国市)を本拠地として、二カ国を支配しました。

    初代北条早雲(早瑞)(1456頃ー1519)

    室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の一族で文明年間(1470年代)に駿河今川氏家督相続争いを収めるため、駿河に下向しました。後に伊豆・相模国に侵攻し、韮山城(現静岡県伊豆の国市)を本拠地として、二カ国を支配しました。

  • 第二代北条氏綱(1486ー1541)<br /><br />小田原城を本拠地とし、大永3年(1523頃)に姓を「北条」に改めました。また武蔵国河越城まで進攻し、武蔵南部まで支配を拡大しました。

    第二代北条氏綱(1486ー1541)

    小田原城を本拠地とし、大永3年(1523頃)に姓を「北条」に改めました。また武蔵国河越城まで進攻し、武蔵南部まで支配を拡大しました。

  • 鶴岡八幡宮の再建

    鶴岡八幡宮の再建

  • 第三代北条氏康(1515ー1572)<br /><br />武蔵北部に進攻し、天文15年(1546)の河越合戦の勝利によって、武蔵国のほぼ全域を支配しました。また天文末年頃(1550頃)からさまざまな制度を整備し、領国支配のしくみを整えました。

    第三代北条氏康(1515ー1572)

    武蔵北部に進攻し、天文15年(1546)の河越合戦の勝利によって、武蔵国のほぼ全域を支配しました。また天文末年頃(1550頃)からさまざまな制度を整備し、領国支配のしくみを整えました。

  • 評定衆制度・北条氏所領役帳

    評定衆制度・北条氏所領役帳

  • 第四代北条氏政(1538ー1590)<br /><br />南関東地方全域をほぼ支配下に治め、さらに上野・下野等北関東方面へと進攻しました。<br />豊臣秀吉との小田原合戦では第五代当主氏直と共に籠城をしますが、結果開城して弟氏照とともに切腹を命ぜられます。

    第四代北条氏政(1538ー1590)

    南関東地方全域をほぼ支配下に治め、さらに上野・下野等北関東方面へと進攻しました。
    豊臣秀吉との小田原合戦では第五代当主氏直と共に籠城をしますが、結果開城して弟氏照とともに切腹を命ぜられます。

  • 越相同盟

    越相同盟

  • 第五代北条氏直(1562ー1591)<br /><br />豊臣秀吉との小田原合戦では隠居した氏政と共に籠城しますが、長期に亘る包囲網に耐え切れず義父である徳川家康を通じ開城・降伏し小田原北条氏は滅亡します。父氏政・叔父氏照の切腹に対し家康が義父であったこともあり死罪を免れ、高野山追放となります。<br /><br />

    第五代北条氏直(1562ー1591)

    豊臣秀吉との小田原合戦では隠居した氏政と共に籠城しますが、長期に亘る包囲網に耐え切れず義父である徳川家康を通じ開城・降伏し小田原北条氏は滅亡します。父氏政・叔父氏照の切腹に対し家康が義父であったこともあり死罪を免れ、高野山追放となります。

  • その後の北条氏

    その後の北条氏

  • 小田原城模型

    小田原城模型

  • 江戸時代の歴代城主一覧<br /><br />2代目城主大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)が係累の大久保長安不整蓄財事件に連座し、改易に遭いますがその後子孫の大久保忠朝が藩主に返咲き、以降大政奉還まで大久保氏が城主として小田原城を守ります。<br />尚小田原城主は譜代でも格式高く、歴代の中で幕府の老中職を7名も輩出しています。

    江戸時代の歴代城主一覧

    2代目城主大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)が係累の大久保長安不整蓄財事件に連座し、改易に遭いますがその後子孫の大久保忠朝が藩主に返咲き、以降大政奉還まで大久保氏が城主として小田原城を守ります。
    尚小田原城主は譜代でも格式高く、歴代の中で幕府の老中職を7名も輩出しています。

  • 一部歴代城主<br /><br />大久保忠世(初代)・大久保忠隣(第2代)、稲葉正勝(第6代)に関して記事が描かれています。

    一部歴代城主

    大久保忠世(初代)・大久保忠隣(第2代)、稲葉正勝(第6代)に関して記事が描かれています。

  • 一部歴代城主<br /><br />大久保忠朝(第9代)、大久保忠真(第15代)に関して記事が描かれています。

    一部歴代城主

    大久保忠朝(第9代)、大久保忠真(第15代)に関して記事が描かれています。

  • 天守閣案内板

    天守閣案内板

  • 小田原城と小田原合戦<br /><br />天正14年(1586)豊臣秀吉は「関東・奥州両国惣無事令」を発布し、秀吉の許可なく諸大名が交戦する事を禁じました。<br />秀吉への従属か対決を迫られた北条氏は従属の意思表明をしますが氏政・氏直の上洛をについては条件として真田氏領有の上野国沼田領の割譲を申入れ、秀吉はこれを受入れ真田領の2/3を割譲します。                   <br />天正17年(1589)北条氏に割譲された沼田城に入城した城代猪俣邦憲は突如真田領名胡桃城を攻撃する事件が発生し、秀吉はこれを違約として俣邦憲の成敗を要求しますが北条氏は関与せずと表明します。<br />天正18年(1590)2月各大名が小田原向け出陣、続いて秀吉も出発し、同年4月には早雲寺に秀吉以下主力軍の本陣とします。

    小田原城と小田原合戦

    天正14年(1586)豊臣秀吉は「関東・奥州両国惣無事令」を発布し、秀吉の許可なく諸大名が交戦する事を禁じました。
    秀吉への従属か対決を迫られた北条氏は従属の意思表明をしますが氏政・氏直の上洛をについては条件として真田氏領有の上野国沼田領の割譲を申入れ、秀吉はこれを受入れ真田領の2/3を割譲します。
    天正17年(1589)北条氏に割譲された沼田城に入城した城代猪俣邦憲は突如真田領名胡桃城を攻撃する事件が発生し、秀吉はこれを違約として俣邦憲の成敗を要求しますが北条氏は関与せずと表明します。
    天正18年(1590)2月各大名が小田原向け出陣、続いて秀吉も出発し、同年4月には早雲寺に秀吉以下主力軍の本陣とします。

  • 本丸東堀跡説明板

    本丸東堀跡説明板

  • 本丸東堀跡<br /><br />発掘調査によって最大20m以上の幅が確認されています。

    本丸東堀跡

    発掘調査によって最大20m以上の幅が確認されています。

  • 本丸東堀跡<br /><br />反対側にも続いています。

    本丸東堀跡

    反対側にも続いています。

  • 常盤木門(ときわぎもん)説明板

    常盤木門(ときわぎもん)説明板

  • 常盤木門・石標

    常盤木門・石標

  • 常盤木門<br /><br />小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持ち、そばにある巨松になぞらえてその名が付けられたと言われています。(昭和46年復興)(小田原城歴史見聞間パンフレット)

    常盤木門

    小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持ち、そばにある巨松になぞらえてその名が付けられたと言われています。(昭和46年復興)(小田原城歴史見聞間パンフレット)

  • 常盤木門説明板

    常盤木門説明板

  • 常盤門近景

    常盤門近景

  • 本丸跡と天守閣

    本丸跡と天守閣

  • 小田原城絵図<br /><br />弘化2年(1845)の絵図です。幕府より提出を命じた際の絵図と思われます。

    小田原城絵図

    弘化2年(1845)の絵図です。幕府より提出を命じた際の絵図と思われます。

  • 小田原城天守<br /><br />江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興されました。三重四回の天守に付櫓、渡櫓を付しています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されれいます。<br />(小田原城歴史見聞間パンフレット)<br />

    小田原城天守

    江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興されました。三重四回の天守に付櫓、渡櫓を付しています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されれいます。
    (小田原城歴史見聞間パンフレット)

  • 小田原城入場口

    小田原城入場口

  • 伊豆半島を望む<br /><br />

    伊豆半島を望む

  • 三浦半島を望む

    三浦半島を望む

  • 丹沢方面を望む

    丹沢方面を望む

  • 小田原城

    イチオシ

    小田原城

  • 御用米曲輪の調査説明

    御用米曲輪の調査説明

  • 発掘調査<br /><br />調査中の現場を見渡します。

    発掘調査

    調査中の現場を見渡します。

  • 小田原市のマンホール<br /><br />小田原城がデザインされて印象的です。

    小田原市のマンホール

    小田原城がデザインされて印象的です。

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