2015/11/17 - 2015/11/17
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アルプ・グリュムさん
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小田原宿は江戸日本橋から9番目の宿場、最初にある城が小田原城で、大名、旅人にとっては箱根越えを控えた重要な宿場でありました。
宿場は、本陣4、脇本陣4、約100余軒の旅籠屋が軒を並べて東海道随一の規模を誇っていました。
しかしながら、震災と戦災で壊滅的被害を受けたため当時の建物は全く現存していませんでした。
又、大変残念なことに小田原宿のあったことを示す本陣、脇本陣、問屋場、高札場等の碑も全く見つけることができませんでした。
山王口の江戸方見附から板橋口見付までの小田原宿内を散策しました。
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北条氏政・氏照の墓
小田原駅から山王の江戸口見付跡へ向かう途中の小田原駅近くの場所に墓があります。北条氏政 氏照の墓所 名所・史跡
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向かって右が氏政、左が氏照。
そして、氏政の五輪塔の右隣によりそうようにして氏政夫人(黄梅院、信玄娘)の少し大きな五輪塔がある。 -
北条氏政・氏照の墓の案内板
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旧東海道小田原宿はここ山王神社からスタートします。
山王神社 (小田原市) 寺・神社・教会
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山王神社の井戸
この神社には、昼間でも井戸の底に空の星が写る「星月夜」という井戸があります。 -
山王神社と山王曲輪(くるわ)
山王神社は北条家の郭内(かくない)で山王曲輪(くるわ)で徳川家康が陣を敷いた今井陣場の目と鼻の先に位置している最前線の場所でもあります。
曲輪(くるわ)とは城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲いのことです。 -
江戸口見付の碑は歩道橋の両横にあります。
見付とは、城の桝形門に設けられた見張り番所です。 -
江戸口見付の案内板
左側には小田原宿の詳細が書かれています。 -
大正初期の山王口見付の写真が掲示されてあります。
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小田原北条氏は豊臣秀吉の小田原攻めに対し総構と言われれる周囲9kmの塀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
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歩道妙の上から箱根方向を見ています。
旧東海道は国道一号線となり、道幅も変わり痕跡は全く見られません。 -
歩道橋から見た江戸口見付並びに一里塚の碑と案内板
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江戸方見附及び一里塚跡の碑
この碑が小田原宿に関する唯一の碑です。
小田原市は江戸時代の旧町名を示す碑は各所で見られましたが小田原宿に関する碑は残念ですがありませんでした。 -
北条稲荷
国道から多少海側に入った住宅街の一角にあります。 -
北条稲荷の蛙石(かわずいし)
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北条稲荷の蛙石(かわずいし)
今から400年前、後北条三代目・北条氏康の死を狐のたたりと
考えた、子の氏政が社を建てて祀ったのが北条稲荷神社で、
”蛙石(かわずいし)”はもとは小田原城内にあったものを稲荷勧請の際に
ここに移されたものと云われています。 -
蛙に似た石で、後北条氏小田原城落城前夜に夜泣きしたと伝えられている
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連上院土塁
後北条氏時代の小田原城の外郭遺構で、周囲は金網で守られています。蓮上院土塁 名所・史跡
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蓮上院土塁
豊臣秀吉との合戦に備えた周囲約9kmにも及ぶ大規模な空堀と土塁の一部で、国の史跡に指定されています。 -
蓮上院土塁には太平洋戦争の爆弾着弾跡が残されています。
戦国時代の遺構を大きく損傷させた戦争時の爆弾の威力が目で確認でき、戦国時代と太平洋戦争時の後を同時に見られる貴重な遺跡です。 -
昭和20年8月13日の空襲で、投下された爆弾が、此処、蓮上院土塁に落ちました
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新宿町の碑
小田原市は江戸時代の旧町名の碑を各所に設置いていてどのような町だったのか理解できます。
これは旧東海道沿いだけではなく小田原市の総構の中すべてに設置されているようです。 -
新宿町の碑
江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。 -
旧東海道は新宿交差点を曲がり、僅かながら旧道を歩きます。
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旧東海道には蒲鉾店が軒を連ねています。
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脇本陣古清水旅館と8月15日の小田原空襲
8月15日と言えば終戦の日そのものです。 -
8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記録は一切なく、計画されたものではありませんでした。
しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
8月15日の小田原空襲で被災した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目にまたがり国道一号線をはさんで国際通りの両側にあたります。
被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並が映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。 -
脇本陣古清水旅館は現在高齢者向けのマンションと化していました。
脇本陣も旅館からマンションにに変貌していて、時代の流れを感じます。 -
碑は明治天皇宮の前行在所跡となっていますが清水金左衛門本陣跡跡でもあります。
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明治天皇宮の前行在所跡
4トラの地図では実際の場所と地図の場所が異なっています。
明治天皇の碑はもう一か所あり、明治天皇宮本町行在所跡として存在します。
地図の場所はこちら側となります。明治天皇宮ノ前行在所跡 名所・史跡
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明治天皇宮の前行在所跡
これについては実際の歴史の一過程ですので特に申し上げることはありません。 -
明治天皇宮の前行在所跡案内板
この案内で清水金左衛門本陣に天皇が宿泊したそうですが清水金左衛門本陣に関する碑とその説明が一切ありません。
天皇が本陣宿泊したことになっていますが明治になってからも本陣という名で営業していたのでしょうか?
高級旅館と名を変えてなかったのでしょうか -
清水金左衛門本陣跡跡
清水金左衛門がつとめた。天保期には間口18間、屋敷面積400坪、建坪242坪の大本陣で、「大清水」とも呼ばれた。 尾張徳川家をはじめ、島津(薩摩)、細川(肥後)、浅野(安芸)、井伊(近江)、池田(備前)、藤堂(伊勢)、山内(土佐)の諸大名が宿泊した。 明治天皇が5回宿泊した。
本陣の碑はありません
小田原市は碑と案内板の設置を要望します。 -
本町交差点で再び国道一号線に合流した場所になりわい交流館があります。
初めて目にする歴史的な家です。
関東大震災(大正12年)により被害を受けた建物を昭和七年に再建された旧網問屋を再整備した建物です。
小田原の典型的な商家の造りである「出桁(だしげた)造り」という建築方法が用いられている。また、2階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。 -
なりわい交流館の前には東海道小田原宿の説明と本陣、脇本陣の地図が見られます。
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本陣、副本陣、高札場、問屋場(人馬継立場)の場所が判ります。
小田原市にはその碑と案内板の設置を強く要望します。 後世のために!
市の職員は一度、隣の宿場である平塚へ視察にもらいたいと存じます。 -
国道を越えた所から見たなりわい交流館
この辺りに高札場があったことになります。
法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法で、木製の板にびっしりと書き込まれていました。
是非とも碑と案内板を希望します。小田原宿なりわい交流館 名所・史跡
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松原神社
後北条氏が社領を寄進するなどして崇敬した。稲葉氏、大久保氏からも崇敬され、小田原宿の総鎮守とされています。松原神社 寺・神社・教会
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なりわい交流館と奥には脇本陣古清水旅館(2棟のマンション)が見えます。
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時代を感じさせてくれる小西薬局
なりわい交流館の前にあった地図にも名前が記載されてあった老舗の商店です。 -
ういろう(漢字で書くと「外郎」)
かなり存在感を示す外観の建物ですがなりわい交流館の前にあった地図にも記載されてあった600年の歴史がある老舗の商店です。
この場所(ういろうの正面)に清水彦十郎本陣がありました。外郎博物館 専門店
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ういろう
余りにもインパクトのある建物なのでもう一枚。
商品は薬と菓子ですので大手の明治製菓も同じで、水虫の薬は定評があります。 -
御幸の浜交差点
御幸の浜は天皇が地引網をご覧なった場所で命名されました。
この先に小田原城がありますが現在修復中で足場が組まれていました。
私が立っている場所に久保田本陣がありました。 -
片岡本陣跡
明治天皇宮本町行在所跡にしか見えませんが片岡本陣跡です。
小田原市は片岡本陣の碑と案内板を設置すべきです。
本陣とは大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家のことで宿場の中心に位置し、大規模な間取りとなっていた建物です。 -
明治天皇聖蹟
立派な碑でほれぼれします。
天皇が宿泊、立ち寄った場所等には明治政府により碑が設置されました。
これはこれで歴史を語るのには最高の代物です。
明治天皇が宿泊した数日の事実と江戸400年間の本陣の歴史は重みがどちらにあるのかは平成の今日小田原市は判っていると判断します。
よって片岡本陣がここにあったことを示す碑と案内板のせっちを強く要望します。 -
明治天皇宮本町行在所跡の説明していますが片岡本陣に宿泊したことだけが記されています。
先ほどの明治天皇宮の前行在所跡の地図の場所はこちら側です。 -
小伊勢屋
なりわい交流館の前にあった地図にも記載されてあった料理店です。
江戸時代は旅籠だったのです。料理茶屋 小伊勢屋 グルメ・レストラン
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箱根口交差点
小田原城への最寄の道ですが何故か箱根です。 -
箱根口
東海道小田原宿では遺構は皆無でしたが今回の収穫の一つであった。
この何の変哲もない石垣が大変貴重な遺構だったのです。
ここを通る地元の方、観光客も通り過ぎて行きます。 -
箱根口
この場所はベンチもありほっと休息できることろです。
ただし、この遺構を示す案内板がないのです。
ですからこの遺構も人工的に造成した石垣にしかみえません。
とっても残念なことです。小田原市は何を考えているのか不可解です。 -
箱根口の遺構の案内板
道路を越えた小田原スポーツセンターの敷地内にあり、江戸口の遺構、三の丸小学校、小田原スポーツセンターを含めたこの一帯の遺跡調査の結果を掲示していました。
小田原市には箱根口の案内板を遺構の横に設置願います。 -
箱根口の遺構の案内板
この付近の地勢等が詳細に記されています。
これはこれで問題はないのですが! -
箱根口の遺構の案内板
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人車鉄道、軽便鉄道小田原駅跡
豆相人車鉄道と呼ばれ熱海まで鉄道が敷かれていました。 -
人車鉄道、軽便鉄道小田原駅跡
鉄道ですが最初の頃は人車で人間が客車を押していました。
その後蒸気機関車による牽引となり、蒸気機関車は熱海駅に展示されてあります。 -
明治29年3月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。 明治41年に軽便鉄道とし、小田原電鉄からの乗換駅として、この地方の交通に恩恵を与えた。 大正11年12月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした。
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居神神社
鎌倉時代末期の古碑群があります。 -
居神神社
社殿左の奥にあります。 -
居神神社
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居神神社
この古碑群は小田原市内に残るものとしては最も古いもので、小田原市の重要文化財に指定されています。 -
光円寺
この寺の壁に板橋(上方)口の案内板が掲示されてあります。 -
板橋(上方)口の案内板
周辺の案内と案内地図と板橋(上方)口の案内板 -
板橋(上方)口
戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、 城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。 この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所です。 江戸時代においても、この口から内側は城下府内の山角町、外側は板橋村で、 遠くは京都に通じていたので、板橋口または上方口と呼ばれ、 東に設けられた山王(江戸)口と並ぶ最も主要な出入り口として、厳重な構造をもっていました。 現在の国道1号線はそのまま直進していますが、 かつての東海道は板橋口を出ると一度北に折れて、再び西に曲がっており、 その地形は旧道としてよく残されています。 -
地図には江戸時代の土塁、石垣等が描かれています。
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板橋見付
この交差点が国道一号線と旧東海道にに分かれます。 -
江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、
先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組が住む御組長屋
(新宿町組、山角町組、竹花町組)が設けられていた。
その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。 -
大九寺
小田原城主大久保忠世を開基とする寺で、大久保家の菩提寺です。
小田原市指定史蹟大久保一族の墓所あるので寄ってみます。大久寺 寺・神社・教会
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大九寺本堂
本堂の左側の一般の方の墓地の横を通ります。 -
小田原市指定史蹟大久保一族の墓所です。
初代・忠世の墓石は法華五輪塔の代表的なもので損傷もなく立派なものです。
2代忠隣など7基の墓石が並んでいます。 -
箱根登山鉄道のガード先には旧東海道が続きます。
余談ですが箱根登山鉄道の小田原から箱根湯本までの区間は箱根登山鉄道の電車は一本も走っていません、走っているのはすべて小田急の電車です。
箱根登山鉄道の電車は線路幅が違うために走ることができないのです。 -
報徳二宮神社
旧東海道 小田原宿とは直接関係ありませんが帰り際に寄った -
報徳二宮神社の二宮尊徳翁像
兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された「二宮尊徳翁立像」10体の内1体。二宮尊徳翁 (二宮金次郎) 像 名所・史跡
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全国の小学校でおなじみの二宮金次郎像
当神社にある少年像は昭和3年、昭和天皇即位御大 礼記念として神戸の中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。製作者は三代目慶寺丹長。これと同じ像は、全国の小学校に向けて約一千体制作されましたが、戦時中全て供出に遇い、現在残っているのは、この一体だけです。 -
二宮金次郎像とその周囲の絵馬
それにしてもたくさんの絵馬には驚きます。
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