2012/01/03 - 2012/01/03
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滝山氏照さん
「小机はまづ手習いひのはじめにて いろはにほへと ちりじりになる」、長尾景春の乱に発して景春に与する矢野兵庫助ら軍勢を攻める際、太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)が足軽たちに詠ませて士気を高めついに勝利したという小机城(こづくえじょう、神奈川県横浜市港北区小机町)を訪問しました
小机城は歴史上脚光を浴びるのは文明8年(1476)、関東管領山内上杉氏の家宰職の相続を巡り、長尾景春(ながお・かげはる、1443~1514)が武蔵国・鉢形城(はちがたじょう、埼玉県寄居町)で挙兵し、これに与する武蔵国・石神井(しゃくじい)城主の豊島泰経(としま・やすつね、生没不詳)を攻める太田道灌が敗走する泰経一族を小机城まで追撃する時がまず挙げられます。
小机城北方亀之甲山に布陣した道灌ですが、難攻不落の小机城を約2ヶ月も攻めあぐねている中、百戦錬磨の足軽に冒頭の戯言を言わしめて自らを鼓舞してついに攻め落としたという話があります。
次は山内上杉氏を当地域から追放した小田原北条氏二代当主北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1487~1541)は玉縄城(神奈川県鎌倉市玉縄)に続く拠点として交通の要地で経済発展目覚しい小机城を武蔵国南部の司令塔とすべく城郭の拡大充実をはかります。
そして次の攻略先である江戸を目指すため北条氏秀(ほうじょう・うじひで、生誕不詳~1583)らを在城させ、独自の「小机衆」軍団を編成、周辺支城との連携を深めて勢力北進の役割を果たします。
その後天正18年(1590)、豊臣秀吉のいわゆる「小田原征伐」によって北条氏の本城(小田原城)の開城に伴い当該城も落城、徳川家康の関東入部後は廃されます。
現場を見やると想像以上の土塁と空堀などの遺構が連続的に確認でき、極めて見応えのある城跡でありました。特に空堀については全く言いようのないほどの強烈な印象を受けてしまいましたが、残念ながら城跡の西部エリアは第三京浜高速道路によって城郭が東西に分断されているため西側に渡ることが不可能でした。
幸いに交通の便もよくJR横浜線小机駅から八王子方向に約20分ほどの徒歩可能な距離でもあり気軽に訪れる城跡と言えます。自分としてもまた再訪したいと思わざるを得ないほどの高揚した気分に浸りました。
2023年5月27日追記
城跡には下記のように記載の説明板がありました。
「 小机城について
築城の年代は明らかではありませんが、おそらくこの辺りが開けた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方にはその支配下の榎下城があった事から、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春(ながおかげはる、1443~1514)が家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城に立て籠もり、北方の亀ノ甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉氏庶流の扇谷上杉方の家宰太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1489)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条氏の領地となり40年間廃城となっていました。
大永4年(1524)武蔵国南部に進出の小田原北条氏の勢力下に置かれると一族の北条氏尭の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました
小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果たす事になります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が亡び、4代目城主の弥次平衛重政が徳川家の旗本として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住む事になり、小机城は廃城その歴史をとじることになりました。」
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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小机城跡見取図
小机城は半島状に突出た標高25mの台地の突端に築城した平山城です。城郭の西側は残念ながら第三京浜(高速道路)により分断されています。 -
本丸・二の丸道標
二の丸広場を巡ります。 -
深い空堀
途中の深い空堀が待ち構えています。見事な空堀の風景が印象的です。 -
空堀
左右に空堀が控えています。 -
空堀と偽木
左右に深い空堀を従えて二の丸広場に向かいます、 -
土塁
早速土塁が現れます。 -
土塁
見事な土塁が散見されます。 -
地形を利用した空堀
かなり深い空堀です。見応えのある風景です。 -
空堀説明
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土塁
ここにも立派な土塁が配置されています。 -
二の丸広場へ
空堀の底が遊歩道となっています。 -
二の丸広場へ
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二の丸広場
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二の丸広場
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二の丸広場
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二の丸広場
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空堀
孟宗竹林の向こうは深い空堀となっています。 -
二の丸説明
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二の丸
広々とした佇まいです。 -
土塁説明
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櫓台(やぐらだい)登階段
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櫓台跡
周囲は樹木に覆われて遠方まで見えませんが、当時は相当見晴らしが良かったと思われます。 -
櫓台説明
一城には、数箇所の櫓台が置かれています。この櫓台跡もその一つで土塁と連続して作られていました。現在は畑地として土塁は取りされれていますが、昔は井楼跡より二の丸広場へ通じる散策道の上に土塁が作られていました。(説明文) -
空堀
左右の土塁を見ながら空堀底に当たる路を歩きます。 -
本丸・二の丸標柱
今度は本丸広場に移動します。 -
土塁
本丸に向かう途中の土塁です。 -
土塁
本丸に向かう途中のしっかりした土塁です。 -
土塁
大きな土塁が見えます。 -
空堀
深く長い堀となっています。 -
空堀
反対側の堀です。これも長い堀となっています。 -
土橋
左右の堀を見ながら土橋を歩きます。 -
空堀説明
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中世の城について
小机城跡の周辺の武蔵南部の城跡が記載されてます。 -
小机城跡説明板
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小机城想定図
【小机城の縄張】
半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。
また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりと巡らす縄張で後北条氏特有の築城法といえます。
類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では茅ヶ崎城も典型といえます。(現地説明)
【縄張と曲輪】
縄張とは目的が定まった地が決定した後、その広さを決定し曲輪の位置、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めることです。
この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は武士がおこないました。曲輪とは城を構成する区画、即ち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、館の立地される場をいいます。(現地説明) -
本丸跡
相当広い城郭だとわかります。 -
本丸跡近景
調査等が継続しているようです。ビニールシートが一部覆われています。 -
本丸跡説明
まだ調査が続いているようです。 -
小机城跡石碑
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イチオシ
本丸虎口模擬門
本丸虎口は黒色模擬門(冠木門)で往時のイメージを守っています。 -
本丸虎口・土橋
本丸虎口を正面遠景から捉えます。手前に土橋が確認できます。 -
深い空堀
土橋から空堀を見渡します。深いですね。 -
空堀
反対側の空堀も同様です。 -
富士仙元
これから富士仙元に向かいます。富士仙元は第三京浜の反対側にあります。 -
高速道路際の下り坂
フェンスの右側が高速です。猛スピードで走る車輌の騒音が聞こえます。 -
第三京浜
城郭の西側が南北に切り取られ分断されています。歴史的遺産がモータリゼーションの犠牲になっている事例ですが種々考えさせられます。 -
JR横浜線トンネル
横浜線車輌がトンネルから出て小机駅に向かいます。 -
富士仙元道標
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高い土盛
画面の左上に土盛がありその上に「富士仙元大菩薩石碑」が建立されています。 -
第三京浜
小机城跡の一部が高速道路建設の為削られてしまいました。 -
遠景
ここから富士山が展望できるそうですが当日は残念ながら見えませんでした。
然しながら見晴らしは抜群です。 -
富士仙元
素晴らしい展望です。傍らにベンチが配置されています。 -
富士仙元大菩薩石碑
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富士仙元石碑周辺
石碑から下方を見渡します。 -
富士仙元大菩薩遠景
高い土盛を登ってゆきますと石碑が現れます。 -
富士仙元から下る
下りる途中を振返ります。 -
横浜国際競技場遠景
樹間を通して横浜国際競技場のドームが近くに見えます。 -
第三京浜
富士仙元を終えて来た路を戻る階段を望みます。フェンスの向こうは第三京浜が見渡せます。 -
JR横浜線車輌
トンネルを出て小机駅方向(左方向)に走るJR横浜線車輌です。 -
小机城跡遠景
小机駅に戻る途中から城跡を望みます。 -
小机城跡一望
踏切を渡った所で再度城跡を望みます。 -
横浜市マンホール
面白いので撮ってみました。 -
JR小机駅南口
帰路途中で踏切を渡りバス通りから小机駅南口に着きます。 -
横浜国際競技場ドーム
小机駅からドームを望みます。競技場へ一番近い駅でサッカー試合日には観客の往来で賑わいます。
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