2012/02/25 - 2012/02/26
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たぁ坊さん
浜松、奥三河、南信州を旅してきました!
武田軍vs織田・徳川軍の激しい攻防の跡を訪ねる旅となりました。
第1日前半は、浜松城、三方原古戦場、長篠・設楽原古戦場を訪ねます。
第1日:浜松城-三方原古戦場-長篠城址-鳥居強右衛門を偲ぶ場所-設楽原古戦場-(続く)
(表紙写真は、川下から望む長篠城址です!)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
まずは、遠州・浜松城に来ました。
若き日の徳川家康が、重要な時期を過ごした城です。 -
再建された浜松城です。
土台の石垣は、在りし日のままだそうです。 -
野面積みという技法だそうです。
-
城内に入ってみました。
地下にある井戸は、在りし日のままだそうです。 -
江戸時代大好きなので、もともと徳川家康は好きなのですが、最近かなり武田氏に興味があり、この浜松城も、「家康公が三方原の合戦で信玄公に大敗して、命からがら逃げ帰った城」という観点で見てしまいます。
三方原の合戦の布陣図です。
サッカーのフォーメーションみたいで、面白いですね! -
家康公の有名な「しかみ像」(複製)です。
三方原の合戦で散々な目にあった自分の姿をあえて描かせ、慢心の自戒として、終生持ち歩いたそうです。 -
出世大名・家康くん。
ちなみに私は、出世よりも心の平安を大切にします。 -
家康公の鎧掛松。
三方原の合戦から命からがら逃げ帰った家康公が、鎧を掛けた松(これは三代目)だそうです。
よほど怖い目にあったのか、一説によると家康公は・・・。 -
若き日の家康公の像。
老練なイメージが強い家康公にも、信玄公の挑発に誘い出される血気盛んな頃があったのだと思うと、何かいいですね。
やっぱり家康公、好きです。 -
三方原古戦場の記念碑です。
実際に、どこで合戦が行われたかは、はっきりしないそうです。
この大勝の勢いで天下統一に突き進むかと思われた信玄公ですが、直後に病いに倒れてしまいます。 -
三方原から、奥三河の山の方に進み、長篠城址に来ました。
鳥居強右衛門(すねえもん)の最期の姿に、早くも目頭がウルウルしてきます。。。 -
有名な「長篠の戦い」には、正確には、長篠城を巡る攻防と、それに続く設楽原の決戦が含まれます。
2つの川が合流して1つになる地点のV字型の断崖上に、長篠城の本丸があります。 -
本丸跡に入ります。
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V字断崖の先端部(渡合)と本丸を分断するように、飯田線が走っています。。。
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本丸からよく見える川の対岸で、鳥居強右衛門が磔にされました。
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広々とした本丸跡です。
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本丸跡の碑。
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長篠城址史跡保存館に入ってみました。
鳥居強右衛門です。 -
鳥居強右衛門は、徳川方の長篠城主・奥平信昌の身分のそれほど高くない家臣です。
武田勝頼率いる1万5千の兵に包囲された長篠城に、奥平信昌はわずか5百の兵で籠城します。
籠城も限界に達し、城外との連絡も断たれ、「果たして織田・徳川軍は長篠城を救いに来てくれるのか?」、籠城を続けるべきか、降伏すべきかの瀬戸際に立たされます。 -
城外との決死の連絡役を募る奥平信昌に対し、「のろ牛」こと鳥居強右衛門が志願します。
鳥居強右衛門は、厠の落とし口から川に降り、長篠城からの脱出に成功して、岡崎城にたどり着き、織田・徳川軍が約4万の援軍を準備していることを確認します。 -
長篠城の窮状を織田・徳川軍に伝えた鳥居強右衛門は、直ちに長篠城に引き返し、「援軍来たる。」の合図の狼煙を打ち上げます。
さらに鳥居強右衛門は、朗報を奥平信昌に直接知らせ、主君の喜ぶ顔を見たい一心で、長篠城内に戻ろうとしますが、武田軍に捕らえられてしまいます。 -
鳥居強右衛門は、武田軍から、「援軍は来ない。」と奥平信昌に向かって叫べば命は助けると強要され、これを承諾して、長篠城の対岸の河原に引き出されます。
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しかし、鳥居強右衛門は、奥平信昌に向かい、「織田・徳川の4万の援軍が来ます。早まって城を明け渡してはなりません!」と叫びます。
怒った武田軍は、長篠城からもよく見える河原で鳥居強右衛門を磔にして処刑します。
以上のエピソードは、池波正太郎先生の「忍びの風」で詳しく語られていて、私は号泣しながら読みました。。。 -
鳥居強右衛門・磔死の跡の碑です。
彼のもたらした朗報により、長篠城は持ちこたえ、設楽原の決戦へと舞台が移っていくことになります。 -
イチオシ
真ん中の断崖の上に長篠城があります。
鳥居強右衛門・磔死の場所は、左手前の方の河原です。 -
鳥居強右衛門の墓です。
はっきり言って、愚直で馬鹿正直なだけの武士です。
でも、何故かたまらなく胸が熱くなります。 -
長篠城址の西方に広がる設楽原に来ました。
まずは、設楽原歴史資料館の見学です。 -
彼のおかげで長篠城は持ちこたえ、織田・徳川軍がここ設楽原に到着して布陣し、決戦の舞台は設楽原に移ります。
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長篠の戦いと言えば、やはり鉄砲ですよね。
ズラッと並ぶ火縄銃です。 -
この資料館は、銃火器マニアなら即昇天でしょう。
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資料館の屋上から周辺360度を見渡せます。
鳥居強右衛門が狼煙を上げた場所も! -
向こうの山の辺りですね!
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資料館近くにある信玄塚。
この大塚は、武田方の戦死者を葬った塚だそうです。
武田軍は、壊滅的な大敗を喫しました。 -
設楽原の最激戦地跡に馬防柵が再現してあります。
織田・徳川軍は、武田の騎馬隊をこの柵で食い止め、内側から鉄砲で撃ちかけたそうです。 -
この場所で、武田方の武将・土屋昌次が、馬防柵を打ち破らんとしたが、銃弾に倒れ、「ただ今、君(=亡き信玄公)のため心おきなく討死して、高恩を地下に報いん」と大音声に叫び、散っていったそうです。
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最後に、真田兄弟の墓に来ました。
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ここを見つけ出すのに、ちょっと苦労しましたが、どうしても来たかった所なので。
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真田昌幸(真田三代の2代目)の二人の兄、信綱と昌輝らの墓です。
二人とも織田・徳川軍の銃弾に倒れました。 -
墓碑は一つで、右側に信綱、左側に昌輝の名が刻まれています。
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真田兄弟の墓のある場所から、設楽原方面を望みます。
長篠の戦いの大敗により、武田勝頼は一気に力を失い、武田氏滅亡へと至ることになります。
まだまだ見たい場所がたくさん残ってしまったので、またいつか再訪しましょう。
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