2011/12/04 - 2011/12/04
151位(同エリア423件中)
滝山氏照さん
西武池袋線石神井公園(しゃくじいこうえん)駅下車徒歩15分、石神井公園の一角に豊島氏城郭、石神井城(しゃくじいじょう、東京都練馬区石神井台)を訪問しました。
豊島氏は平安時代末期、武蔵国豊島郡一帯に勢力を持つ秩父一族の傍流で、治承4年(1180)石橋山の戦いで平氏に敗れ安房に逃れ再起を得た源頼朝は下総から武蔵に入る際豊島清光に参向するよう呼掛けます。そして同年9月、大井・隅田両川を渡って武蔵入国時、豊島清光は家臣軍団を引連れ真っ先に頼朝陣に合流します。
その後鎌倉幕府創設を経て御家人となった豊島清光は文治5年(1189)7月、頼朝の奥州征伐に出陣し、又建久元年(1190)11月の頼朝入洛にも随兵として加わっています。
清光の子孫は、本拠の豊島郡を中心に石神井川上流一帯に所領を拡大し石神井台地のこの地に館を建て一族の繁栄を築きます。
然しながら関東管領山内上杉氏の家宰職を巡る争いで長尾景春(ながお・かげはる)に味方したことにより扇谷上杉氏家宰、太田道灌(資長)の攻撃に対し和平交渉決裂を経て三宝寺池に入水して死亡したのかあるいは平塚城から小机城へと落ち延びたとも言われています。
自分にとっては初めての石神井公園訪問でした。三宝寺池と石神井池を取り囲む広大な公園は散策には取って置きの安らぎの場所と言えます。城跡はそれほど大規模ではありませんが壮大な土塁は見事です。
南部の石神井川と北部の三宝寺池を防御とする東西に広がる城郭はよく造られていると思います。周辺の樹木と水沼の情景を考慮すれば四季の変化が楽しめそうです。
現地石神井城跡に建っている説明板には下記の通り記述されています。
「石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。
城の築城時期は、鎌倉時代後期と考えられ、文明9年(1477)4月28日に太田道灌に攻められ落城し、廃城となりました。
「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経(としま・やすつね)は、石神井城落城後、平塚城(東京都北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市港北区)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。
城は石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体で9へクタール前後の規模であったと推定されます。
当時の城は、土塁と濠で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。
例えば、城の東側は、ここより約100メートル程の場所に7メートル程の濠で区画されていたと考えられ、西側はここより約220メートル程の場所に幅9メートル程の濠と土塁で区画されていました。また北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。」
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
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石神井公園(しゃくじいこうえん)駅前広場
西武池袋線下車、駅前から広場が見渡せます。 -
石神井池全景
石神井公園の一部として東に石神井池が占めています。この日は天気のよい休日で子供連れの家族が多数の散策です。中には池面でボートを楽しんでいる親子姿が見受けられます。 -
石神井公園案内地図
東西を占める石神井池と三宝寺池を中心に公園が構成されて、石神井城跡は三宝寺池の南に接する丘陵部に築かれています。 -
城跡への階段
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平坦な城郭
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三宝寺池を望む
中央部に建つ白亜のオブジェが印象的です。 -
公園の一部
所々に池が配置されています。 -
三宝寺池説明
当池は石神井川の有数な水源池ですが、周辺地域が急速な都市化によりかつてのような涌水が確保できなくなり、湿性植物の種類や数が激減しているそうです。 -
三宝寺沼沢植物群落説明
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石神井城の中心内郭跡説明
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内郭跡拡大図
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石神井城跡碑
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石神井城説明板
「 石神井城跡
石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。
豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父流平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有していました。
室町時代に、城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正の重臣の太田道灌は、文明9年(1477)4月、この城に泰経を攻めて、これを落としました。
石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘陵の上にあって、その周囲は空堀や土塁でめぐらされていました。
今でも空堀のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。
昭和58年3月
練馬区教育委員会 」 -
城郭への登り路
階段の左右には崩れた土塁が見られます。 -
イチオシ
土塁
保存の為フェンスで遮られており立入ができませんが立派な土塁が残されています。 -
土塁
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土塁や空堀立入制限立て札
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石神井城跡主郭跡説明
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イチオシ
土塁と空堀
フェンスの向こうには土塁と空堀が見渡せます。保存のため内部には入れません。 -
土塁と空堀
フェンスの内側の土塁と空堀ですが年数経過により原形が崩れています。 -
三宝寺池方面を望む
城郭から樹間を通して三宝寺池を望みます。 -
イチオシ
殿塚石碑
石神井城主である豊島太郎泰経の石碑です。 -
殿塚の由来
文明9年(1477)石神井城が上杉氏の軍将太田道灌との戦いに敗れて落城したときに、城主豊島太郎泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り三宝寺池に沈んだという伝説があります。この塚は縁者が徳をしのんで築いたといわれています。(現地説明文) -
殿塚説明文
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イチオシ
姫塚石碑
文明9年(1477)に石神井城落城したとき、城主豊島太郎泰経の後を追い、二女の照姫も三宝寺池に入水したという伝説があります。
この塚は、縁者が姫の供養のため築いたといわれています。(現場説明文) -
塚姫説明文
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三宝寺池展望台
城郭と思わせるような北岸展望台が広々としています。 -
三宝寺池
北岸から石神井城跡を望みます。樹林が夕陽を浴びてきれいです。 -
謎のネコちゃん
三宝寺池端に謎のネコちゃんがベンチを独占してました。全く離れる気配なく堂々とした姿勢をしています。 -
唯一の渡り橋
三宝寺池を北岸から南岸に渡ります。 -
三宝寺池説明
井の頭池や善福寺池などと共に武蔵野台地の地下水が湧出して水をたたえた池だそうです。(現場説明文一部抜粋) -
三宝寺池に突出した展望台
全景色が視野に入り、なかなか気を利かした建物とそこからの展望が実に雄大です。一度腰を下ろしますといつまでも座っていたくなります。 -
イチオシ
湖畔全景
紅葉がきれいです。 -
湖畔全景
紅と緑のコントラストが印象的です。 -
三宝寺池を祀る弁天様
当池を源とする石神井川の恩恵を受けた周辺農民が「講」を作って尊敬していたそうです。 -
弁天様参道
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氷川神社
応永年間(1394〜1428)、この地を領していた豊島氏の武蔵一の宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したと言われています。 -
氷川神社説明文
「 氷川神社
氷川神社は、社伝によると応永年間(1394~1428)この地を領していた豊島氏が武蔵一の宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したといわれています。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱です。文明9年(1477)石神井城落城のあとは、石神井郷の総鎮守として上石神井・下石神井・谷原・田中・関の5ヶ村の人びとから崇敬されました。境内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ御岳・八幡・榛名・浅間・三峯・阿夫利の各社があります。
境内には、享保12年(1727)の「石神井郷 鎮守社 御手洗鉢」と刻まれた水盤をはじめ多くの石造物があります。なかでも本殿瑞垣の内にある左右一対の石燈籠は、右側の竿に元禄12年(1699)豊島泰みつが寄進したことが刻まれ、左側のものは、火袋が失われ銘文が欠落していますが、康みつの子泰音によって奉納されたと伝えられています。
O 豊島氏奉納の石燈籠(平成6年度 練馬区指定文化財)
O 氷川神社の水盤(昭和63年度 練馬区登録文化財)
平成21年3月
練馬区教育委員会 」 -
長い参道
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石灯籠と拝殿
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拝殿全景
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土塁と空堀の絵
内部に入場できませんので代わりに絵を掲示して内部を説明しています。 -
土塁
フェンスにより立入禁止となっています。立派な土塁が確認できます。 -
土塁と堀
道路はかつては堀の底だったのでしょうか。 -
残された土塁
崩れないようにブロックで支えています。 -
中ノ島
夕日を浴びた中ノ島が見事です。 -
紅葉
まだ紅葉が見ごたえがあります。 -
遊びの風景
モデル船を操縦して楽しんでいます。 -
ボート乗場
乗場で家族ごと休憩・軽食を楽しんでいます。 -
ボート利用料金
ボートが60分で720円は良心的ですね。しかも3人乗りです。
家族連れが利用するにはもってこいの楽しみですね。
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