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JR三鷹駅南口から玉川上水に沿った「風の散歩道」を徒歩10分、作家山本有三記念館を訪問しました。<br /><br />この建物は、作家・山本有三が、昭和11年(1936)4月から進駐軍に接収された昭和21年(1946)11月まで家族とともに住んだ家です。<br />ここで、有三は代表作「路傍の石」や戯曲「米・百表」などを書きました。また戦中の本の乏しい時代に、自宅内にミタカ少年国民文庫を開設し、地域の子どもたちに蔵書を開放しました。<br />昭和26年(1952)11月に接収が解除され国立国語研究所三鷹分室に建物を提供した後、昭和31年(1956)に土地とともに東京都に寄贈されました。都は都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」を開設しました。<br />昭和60年(1985)に文庫は三鷹市に移管され、文庫内に新たに山本有三記念室を設けました。その後、市内の図書館整備に伴い文庫活動を終了し、改善整備を経て、平成8年(1996)11月に「三鷹市山本有三記念館」を開館しました。<br />大正15年(1926)建築の建物は、当時導入された海外の近代的様式の折衷的表現を試みており、特色のあるデザインを示す希少な洋風建築として、平成6年(1994)に三鷹市の文化財に指定されています。(山本有三記念館パンフレット)

山本有三記念館訪問

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2011/11/30 - 2011/11/30

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR三鷹駅南口から玉川上水に沿った「風の散歩道」を徒歩10分、作家山本有三記念館を訪問しました。

この建物は、作家・山本有三が、昭和11年(1936)4月から進駐軍に接収された昭和21年(1946)11月まで家族とともに住んだ家です。
ここで、有三は代表作「路傍の石」や戯曲「米・百表」などを書きました。また戦中の本の乏しい時代に、自宅内にミタカ少年国民文庫を開設し、地域の子どもたちに蔵書を開放しました。
昭和26年(1952)11月に接収が解除され国立国語研究所三鷹分室に建物を提供した後、昭和31年(1956)に土地とともに東京都に寄贈されました。都は都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」を開設しました。
昭和60年(1985)に文庫は三鷹市に移管され、文庫内に新たに山本有三記念室を設けました。その後、市内の図書館整備に伴い文庫活動を終了し、改善整備を経て、平成8年(1996)11月に「三鷹市山本有三記念館」を開館しました。
大正15年(1926)建築の建物は、当時導入された海外の近代的様式の折衷的表現を試みており、特色のあるデザインを示す希少な洋風建築として、平成6年(1994)に三鷹市の文化財に指定されています。(山本有三記念館パンフレット)

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 風の散歩道<br /><br />玉川上水に沿った「風の散歩道」を歩きます。辺りは落着いた静かな雰囲気が漂っています。

    風の散歩道

    玉川上水に沿った「風の散歩道」を歩きます。辺りは落着いた静かな雰囲気が漂っています。

  • 山本有三記念館バス停<br /><br />感じの良いバス停が配置されています。

    山本有三記念館バス停

    感じの良いバス停が配置されています。

  • 山本有三記念館入口<br /><br />道路から駐車場とその奥の記念館入口を見渡します。

    山本有三記念館入口

    道路から駐車場とその奥の記念館入口を見渡します。

  • 山本有三記念館案内<br /><br />当記念館は作家・山本有三が昭和11年4月から昭和21年11月まで家族と共に暮らした家で、大正末期建築の建物は平成6年に三鷹市の文化財に指定されています。(現場説明文)

    山本有三記念館案内

    当記念館は作家・山本有三が昭和11年4月から昭和21年11月まで家族と共に暮らした家で、大正末期建築の建物は平成6年に三鷹市の文化財に指定されています。(現場説明文)

  • 山本有三記念館紹介<br /><br />山本有三記念館は大正末期の本格的な洋風建築で石を自然に積み上げたような煙突や、個性的なデザインされた3つの暖炉が見所です。<br />作家・山本有三は、昭和11年から21年までこの洋館で暮らし、「路傍の石」や「米百俵」を執筆しました。<br />現在は三鷹市の文化財に指定されている建物の保存を図りつつ、山本有三の生涯と作品を紹介する施設として公開しています。(現場説明文)

    山本有三記念館紹介

    山本有三記念館は大正末期の本格的な洋風建築で石を自然に積み上げたような煙突や、個性的なデザインされた3つの暖炉が見所です。
    作家・山本有三は、昭和11年から21年までこの洋館で暮らし、「路傍の石」や「米百俵」を執筆しました。
    現在は三鷹市の文化財に指定されている建物の保存を図りつつ、山本有三の生涯と作品を紹介する施設として公開しています。(現場説明文)

  • 記念館開館時間及び料金案内<br /><br />開 館 午前9時30分〜午後5時<br />入館料 300円<br /><br />現在、三人の「女の一生」(10月1日〜2月29日)の企画展実施中です。<br />

    記念館開館時間及び料金案内

    開 館 午前9時30分〜午後5時
    入館料 300円

    現在、三人の「女の一生」(10月1日〜2月29日)の企画展実施中です。

  • 名作を記念する「路傍の石」<br /><br />小説「路傍の石」を執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近のみちばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏側に運んだと伝えられています。この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、その後、東京都に寄附された山本邸が昭和33年有三青少年文庫として開設されるときに現在の位置に移されました。<br />山本有三記念館の開館にあたり、有三の名作「路傍の石」を記念するものとして、この石の由来を記します。三鷹市・平成8年11月3日 (現場説明文)

    イチオシ

    名作を記念する「路傍の石」

    小説「路傍の石」を執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近のみちばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏側に運んだと伝えられています。この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、その後、東京都に寄附された山本邸が昭和33年有三青少年文庫として開設されるときに現在の位置に移されました。
    山本有三記念館の開館にあたり、有三の名作「路傍の石」を記念するものとして、この石の由来を記します。三鷹市・平成8年11月3日 (現場説明文)

  • 路傍の石説明文

    路傍の石説明文

  • 庭園中央部<br /><br />個性的なデザインを配した庭園が印象的です。

    庭園中央部

    個性的なデザインを配した庭園が印象的です。

  • 山本有三記念館<br /><br />デザインが素晴らしく、現在でも立派な建物として評価できると思います。正面左のドアが記念館の入口となります。<br /><br />

    イチオシ

    山本有三記念館

    デザインが素晴らしく、現在でも立派な建物として評価できると思います。正面左のドアが記念館の入口となります。

  • 建物裏側庭園<br /><br />庭を囲む路が庭を囲み、奥の左側にはあずまやが配置されています。自分もここで暫く休憩をしましたが、ひじょうに心地よいものでした。<br /><br /><br /><br />

    イチオシ

    建物裏側庭園

    庭を囲む路が庭を囲み、奥の左側にはあずまやが配置されています。自分もここで暫く休憩をしましたが、ひじょうに心地よいものでした。



  • 有三記念公園<br /><br />少年、少女に心の糧を与え、育成しようとした故山本有三の意思を受け継ぎ、情操を高めるための公園をとして、昭和62年7月22日に開園した。建物の前庭から芝生のある自然空間がひろがり、有三が愛した築山の竹林、故郷栃木から運ばせた石で造った池が園路で区分された、有三の好んだ読書と休息の庭である。「・・・・私は、昔から竹が好きです。前のうちでも、今の住まいでも、私は庭や入り口に竹を植えてあります」・・・「雪もちの竹」より  (現地説明文)

    有三記念公園

    少年、少女に心の糧を与え、育成しようとした故山本有三の意思を受け継ぎ、情操を高めるための公園をとして、昭和62年7月22日に開園した。建物の前庭から芝生のある自然空間がひろがり、有三が愛した築山の竹林、故郷栃木から運ばせた石で造った池が園路で区分された、有三の好んだ読書と休息の庭である。「・・・・私は、昔から竹が好きです。前のうちでも、今の住まいでも、私は庭や入り口に竹を植えてあります」・・・「雪もちの竹」より  (現地説明文)

  • 庭園内部<br /><br />山本有三好みの竹林が庭園にうまく施されています。

    庭園内部

    山本有三好みの竹林が庭園にうまく施されています。

  • 庭園から見た建物<br /><br />こちらが建物の正面ではないかと思わせるほど印象的なデザインです。いわゆる今風で落着いた雰囲気を感じます。

    庭園から見た建物

    こちらが建物の正面ではないかと思わせるほど印象的なデザインです。いわゆる今風で落着いた雰囲気を感じます。

  • 旧応接間<br /><br />

    旧応接間

  • 山本有三の生涯<br />                                                                    山本有三(本名:勇造)は1887(明治20)年、栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木市)に父元吉、母カナの長男として生まれました。<br />高等小学校を卒業後は丁稚奉公に出され、家業の呉服商に就いた時期もありましたが、向学心を持ち続け一高へ入学、そして東京帝大独文科へと進学しました。<br />大正期半ば劇作家として出発し、「生命の冠」「坂崎出羽守」「同志の人々」などで地歩を固めました。<br />大正末期には小説の世界に進出し、「波」「女の一生」や代表作「路傍の石」を執筆すると共に、先駆的な子ども向けの教養叢書「日本少国民文庫」の編纂も手掛けました。<br />戦後は作家以外にも活躍の場を広げ、参議院議員として国立国語研究所の設立や祝日法・文化財保護法などの整備を尽力。<br />国語改革にも熱心に取り組み、当用漢字や現代かなづかいの制定、国語教科書の編集に携わりました。<br />1965(昭和40)年に文化勲章を授与され、「濁流」を連載中の1974(昭和49)年、湯河原にて86歳で亡くなりました。(展示室説明)<br />

    山本有三の生涯
                                                                        山本有三(本名:勇造)は1887(明治20)年、栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木市)に父元吉、母カナの長男として生まれました。
    高等小学校を卒業後は丁稚奉公に出され、家業の呉服商に就いた時期もありましたが、向学心を持ち続け一高へ入学、そして東京帝大独文科へと進学しました。
    大正期半ば劇作家として出発し、「生命の冠」「坂崎出羽守」「同志の人々」などで地歩を固めました。
    大正末期には小説の世界に進出し、「波」「女の一生」や代表作「路傍の石」を執筆すると共に、先駆的な子ども向けの教養叢書「日本少国民文庫」の編纂も手掛けました。
    戦後は作家以外にも活躍の場を広げ、参議院議員として国立国語研究所の設立や祝日法・文化財保護法などの整備を尽力。
    国語改革にも熱心に取り組み、当用漢字や現代かなづかいの制定、国語教科書の編集に携わりました。
    1965(昭和40)年に文化勲章を授与され、「濁流」を連載中の1974(昭和49)年、湯河原にて86歳で亡くなりました。(展示室説明)

  • 企画展案内板<br /><br />テ-マ「女には二つの出産がある」

    企画展案内板

    テ-マ「女には二つの出産がある」

  • 企画展示室

    企画展示室

  • 和室<br /><br />書斎として使用されていました。

    和室

    書斎として使用されていました。

  • 施主清田龍之助<br /><br />清田龍之助は1880(明治13)年3月に広島で生まれ、立教学院専修科(現・立教大学)を卒業。エ−ル大への留学を経て1908(明治41)年に帰国した後、日本電報通信社の外国通信部長や国際新聞協会の名誉書記を歴任し、1913(大正2)年には東京高等学校(現・一橋大学)の教授になっています。<br />登記簿によると、清田が三鷹の土地を購入したのは1918(大正7)年で、その2年後に大学を退職。浜口商事株式会社総支配人の職に就いた後、三鷹の家を建てたと考えられます。<br />浜口商事は醤油醸造業を営む浜田家の興した商社ですが、金融恐慌のあおりを受けて1928(昭和3)年に破綻。<br />清田も実業界から退き、1931(昭和6)年には予科講師として東京商科大学に戻りました。<br />同年6月、三鷹の家は競売に付され、清田は世田谷区北沢へと転居します。<br />最後の住まいとなったのは杉並区天沼で1943(昭和18)年4月24日、清田は62歳で亡くなります。(展示室説明)

    施主清田龍之助

    清田龍之助は1880(明治13)年3月に広島で生まれ、立教学院専修科(現・立教大学)を卒業。エ−ル大への留学を経て1908(明治41)年に帰国した後、日本電報通信社の外国通信部長や国際新聞協会の名誉書記を歴任し、1913(大正2)年には東京高等学校(現・一橋大学)の教授になっています。
    登記簿によると、清田が三鷹の土地を購入したのは1918(大正7)年で、その2年後に大学を退職。浜口商事株式会社総支配人の職に就いた後、三鷹の家を建てたと考えられます。
    浜口商事は醤油醸造業を営む浜田家の興した商社ですが、金融恐慌のあおりを受けて1928(昭和3)年に破綻。
    清田も実業界から退き、1931(昭和6)年には予科講師として東京商科大学に戻りました。
    同年6月、三鷹の家は競売に付され、清田は世田谷区北沢へと転居します。
    最後の住まいとなったのは杉並区天沼で1943(昭和18)年4月24日、清田は62歳で亡くなります。(展示室説明)

  • 建物図面<br /><br />米軍接収時の図面です。

    建物図面

    米軍接収時の図面です。

  • 建物の歴史一覧

    建物の歴史一覧

  • 文化勲章<br /><br />文化勲章授賞関係展示場です。

    文化勲章

    文化勲章授賞関係展示場です。

  • 文化勲章近影

    文化勲章近影

  • 文化勲章記念写真<br /><br />皇居を背景にした記念撮影です。

    文化勲章記念写真

    皇居を背景にした記念撮影です。

  • 有三の愛用着物

    有三の愛用着物

  • 愛用着物説明

    愛用着物説明

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 横浜臨海公園さん 2012/02/09 00:41:34
    山本有三
    滝山氏照さま、こんばんは。


    山本有三が大東亜戦争末期に栃木に疎開するまで三鷹に住んでいた事は広く知られた事実ですが、なかなか旅行記にまとめられた方は居られず、溜飲を下げた旅行記に感服しております。
    因みに、山本有三は旧制高校時代、総理大臣を務めた近衛文麿と同期で、昭和19年(1944年)7月に近衛から電報1本で荻窪に在った近衛邸に呼出され、東条総理暗殺計画を打ち明けられ参加する様に求められましたが、近衛の計画の余りの杜撰ぶりに山本が尻込みして不参加となった経緯等がございます。
    結局、暗殺実行直前にサイパン島失陥の責任を取らされるかたちで東条内閣が総辞職した為に、暗殺計画自体がが中止になりましたが、若し、実施されていれば、憲兵隊は山本も拘引して軍法会議にかけ極刑に処したかもしれません。
    そうなれば、あの、山本特有の、ほのぼのとした戦後の論調も目にすることがなかったものと思われます。



    横浜臨海公園

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