2011/11/26 - 2011/11/28
140位(同エリア365件中)
倫清堂さん
今年最後の旅は、丹波路から日本海へと抜ける道をたどることにしました。
天気は申し分のない快晴。
飛行機がこれほど揺れなかったのは、初めてかも知れません。
伊丹空港から阪急線とJR線を乗り継いで篠山口まで出ました。
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最初に向かったのは篠山城跡。
慶長14年に徳川家康公が西日本を抑える拠点として築城の名人であった藤堂高虎公に命じて造らせ、家康公の実子とも言われる松平康重公が初代城主として八上城から移りました。
別名、桐ヶ城。
家康公の命により、天守閣は築かれませんでしたが、二条城本丸御殿にも匹敵する大書院が建てられました。
廃城令によって多くの建物が破却される中、大書院だけは残されましたが、昭和19年の火災によって焼失してしまい、平成12年に学術調査を踏まえて再建されました。篠山城大書院 花見
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入館料を払って中を見学することができます。
大書院の建物の中で最も格式の高い「上段の間」も、部屋の外から見ることができます。
一段高くなった所は城主の席なのか、あるいは将軍が訪れた時の席なのか、そのあたりの解説はなく、もっと詳しく知りたいと思いました。
篠山は武家屋敷や杜氏などもある歴史の町で、名物は猪の肉を使ったぼたん鍋。
またいつか、のんびり訪れてみたいものです。 -
次に向かったのは福知山。
福知山市は明智光秀公ゆかりの地として町おこしを行っており、あちこちで光秀公と妻をモデルとする「光秀くんとひろこさん」を見かけました。
その光秀公によって縄張りされたのが福知山城。
大手門のあたりは工事中でしたが、観光駐車場から川にかかる橋を越えて、ところどころで紅葉が鮮やかに見える道を登りました。福知山城(福知山市郷土資料館) 名所・史跡
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イチオシ
光秀公は美濃国に生まれ、斎藤道三と関係が深かったために、道三氏が殺されると越前国の朝倉家に仕えます。
そこで、京都から逃れて来た足利義昭公と出会い、彼を織田信長公に紹介して自らも世に出ようと野心を膨らませました。
光秀公は信長公の正室である濃姫と従兄弟であったという説もあります。
その後、信長公の力に寄って将軍の座を手に入れることができた義昭公ですが、その恩も忘れて武田氏や比叡山などの宗教勢力に呼びかけ、織田包囲網を形成します。
光秀公が織田家に直接仕えるようになったのは、ちょうどその頃のことでした。
信長公にとっては、戦の上手な光秀公は非常に頼もしく思っていたらしく、いずれ九州を平定する際に彼を急先鋒として送るつもりで、九州の名族である惟任氏を名乗らせたりもしました。
天正7年、丹波国を平定し福知山城を建てましたが、この頃が光秀公の人生で最も幸福な時期だったのかも知れません。 -
徳川幕府の時代となってからは、朽木家が代々城主を務めました。
現在の福知山城は天守・小天守とも復元で、内部は資料館になっています。 -
本能寺の変は、日本の歴史上最も劇的な場面の一つに数えられると思います。
中国平定が間もなく実現するという時期、誰も信長公の死など考えた者はいなかったでしょう。
盟友である徳川家康公も京都に滞在しているという、まさに役者が揃った時、重臣の一人である光秀公は守りの手薄な本能寺を襲ったのでした。
光秀公の蹶起の理由は色々な説があり、八上城の戦いで母が磔にされた原因が信長公の下した軍令にあったという怨恨説などが語られますが、光秀公の言葉としては理由を示すものは何も残されていません。
毛利氏との戦場で偶然にも本能寺の変を知った秀吉公は、すぐに休戦して引き返し、あっという間に光秀公を討ってしまいました。
その手際のよさに、秀吉黒幕説が今も一部で信じられているほどです。
福知山城の見学を終えて次の訪れた御霊神社には、宇賀御霊大神とともに明智日向守光秀公が祀られています。御霊神社 寺・神社・教会
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ここには家中軍法などの貴重な資料が所蔵されており、全国から光秀研究家が訪れるそうです。
自分もその一人と勘違いされてしまいましたが、趣味で歩いていることを説明すると、古い社殿が収められている蔵を見せていただくことができました。 -
境内には、頼山陽による「本能寺」の碑も立っています。
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福知山から舞鶴まで、高速道路を使いましたが、サービスエリアの食堂はどこも満席。
高速道路を降りて一般道路を走りながら食べられる所を探しますが、なかなか見つかりません。
舞鶴はどこにでもあるようなファストフード店やファミリーレストランが少なく、司馬遼太郎風に言うと風景の破壊が進んでいない数少ない町の一つと言えるかもしれません。
舞鶴の町の風景を形作る一番の要素は、赤レンガによる倉庫です。 -
その舞鶴の魅力を伝えるための資料を展示する赤れんが博物館を訪れました。
明治36年、旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたもので、鉄骨構造のレンガ建築物としては我が国における最古級のものとされます。
展示は、古今東西のレンガ建造物の紹介で、エジプトや万里の長城などあらゆる時代と国のレンガが展示され、その製造法が模型とパネルに寄って紹介されています。
また、国に寄って異なるレンガの積み方も、積木によって体験することができ、子供づれの家族も楽しめるようになっています。舞鶴市立赤れんが博物館 美術館・博物館
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赤れんが博物館から歩いてすぐの所には、12棟のレンガ建築物による舞鶴市政記念館があります。
旧海軍の砲弾庫だった建物で、今は周辺の歩道の整備のため工事が行われていました。
内部にはイベントなどを行うことができる多目的ホールが設けられ、市民の憩いの場となっています。
土産物などを扱うまいづる智恵蔵では、赤れんがの風景を写した市民による写真展が行われていました。舞鶴市政記念館 美術館・博物館
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赤れんが博物館で購入した観覧券は、舞鶴引揚記念館との共通券でした。
まだ閉館まで時間があるので、車で10分くらいの少し離れた場所まで見学に行くことにしました。
舞鶴港は、先の大戦で各地に取り残された日本兵の引揚者たちを迎える舞台となりました。
ほとんど無計画とも言ってよいほどの勢いで戦線を広げたのはよいものの、政府は戦局が悪化しても戦をやめることもできず、ついに昭和天皇の御聖断を仰ぐという無責任さで終戦を迎えます。
そして、日本の敗戦が間近であることを知ったソ連は中立の立場から一転して宣戦布告し、日本の領土と国民を奪ったのでした。
そうしてシベリアへ送られた日本兵たちは強制労働を強いられ、公式には約50万人が抑留されてその1割が現地で亡くなったとされますが、実際はその何倍もの死者がいると言われています。
シベリアの凍土の下には、今も多くの日本人同胞の遺骨が眠っており、政権が変わってもその全員を帰国させるという強い意志を、政府には持ち続けてほしいと思います。
引揚記念館には、彼らが収容所で送った悲惨な生活を今に伝える貴重な資料も展示されていました。舞鶴引揚記念館 美術館・博物館
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見学を終えて外に出ると、冬の太陽はもう沈みかけていました。
最後に復元された引揚桟橋へと向かいました。復元引揚桟橋 名所・史跡
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夕食は舞鶴が発祥の肉じゃが。
ホテル アマービレ舞鶴 宿・ホテル
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舞鶴は軍港としての歴史も持っており、現在は海上自衛隊の地方隊が置かれています。
2日目は、自衛隊の基地内にある海軍記念館を見学する予定でした。
開館の9時よりも早く着いてしまったので、入り口の守衛さんに待っていてもよいものか訊ねたところ、当然ながらあっさりと断られました。
しかし、同じ9時からですが、桟橋から艦船を見学できることを教えてもらい、そちらへ先に行くことにしました。
受付開始とほぼ同時に桟橋の敷地へ入り、氏名や住所などの必要事項を記入すると、見学許可証が渡されます。
それを首にかけ、桟橋に停泊している艦船の間近まで寄って見ることができました。海上自衛隊 舞鶴地方隊 名所・史跡
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また、日によって乗船できる船もあり、この日は護衛艦まつゆきに乗船。
警備のために立っている隊員の方のほとんどは、まだ入隊したてのような若い方でした。 -
外部なら写真撮影も可能とのことで、軍隊というよりも公務員の雰囲気の方が強いことに、国の守りという意味では少々の不安を覚えました。
しかし、自衛隊はたび重なる災害に派遣され、多くの人命を救っています。
トイレを借りるために、事務などを行っているであろう建物に入った時、東日本大震災の被害者から寄せられた感謝の言葉を紹介する張り紙が掲示されていました。 -
まつゆきの見学を終え、当初の目的地である海軍記念館に入りました。
海軍記念館は、舞鶴総監部のある敷地の中にあり、入場は無料です。
地方総監部の前には芝生の広場がありますが、芝生と道路を隔てる柵の役割をしているのは、使い終わった砲弾に白いペンキを塗ったようなものの列でした。海上自衛隊海軍記念館 美術館・博物館
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昭和8年に建設された大講堂の一部が、自衛隊員の教育を目的とした資料展示の場となっています。
入り口には、東郷元帥の胸像。
つい一週間前に横須賀でもお会いしたばかりです。
恩賜の軍刀や軍服など、帝国海軍に関する様々な資料が展示されていますが、今回一番見てみたいと思ったのは、講堂に掲げてある2幅の絵でした。
しかし講堂へ通じるドアには、立入禁止の張り紙が。
一般人は講堂へ入れないのかと思い、近くの女性自衛官に訊いてみると、翌日に行われる式典の準備のためにこの日だけ入れないのだと答えられ、タイミングの悪さにがっかりしてしまいました。
いずれまた来ることになりそうです。 -
次に向かったのは五老スカイタワー。
地上からはどこにあるのか分からないくらい、山の中に入って行くことになりました。五老スカイタワー 名所・史跡
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海抜325メートルから見える入り組んだ海岸線の風景は、さすが近畿百景第一位と言われる眺めです。
先ほど訪れた自衛隊の桟橋や、艦船したまつゆきも見えました。 -
モダンな町の舞鶴にも、かつてお城がありました。
明智光秀とともに足利義昭公を将軍に擁立する運動を展開した細川藤孝公(幽斎)の居城、田辺城です。
明智光秀の娘ガラシャは、幽斎の後を継いだ忠興公の正室となったほど、両家の縁は強いものがありました。
関ヶ原の戦いで田辺城は西軍の猛攻にさらされ、幽斎は細川家に伝わる古今集の秘伝が失われるのを怖れて、これを智仁親王に伝授しました。
ほぼ同時期に、石田三成はガラシャを人質として捕えようとしますが、ガラシャは自害することで抵抗したのでした。
父光秀の死後、キリシタンに改宗していた彼女は自殺を禁じる教義を守り、家老に槍で胸を突かせて死んだのでした。
田辺城は明治の廃城令で棄却されますが、現在は舞鶴城公園として市民の憩いの場所となっており、復元も進んでいます。
公園の一画には古今伝授の場所が、庭園となって残されています。田辺城資料館 美術館・博物館
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古今伝授に際して細川幽斎が詠んだ歌は
いにしへも今もかはらぬ世の中に
こころの種を残す言の葉 -
舞鶴の観光案内には、神社は全く紹介されていません。
しかし、日本全国どこへ行っても土地の神様はいるはずです。
苦労して見つけたのは、式内社の大川神社でした。 -
イチオシ
一の鳥居のすぐ先には、茅葺の大きなお屋敷が構えられています。
全く観光地化されていない、よい雰囲気が守られている場所で、古びていながらもよく手入れされている石段を登って行くと、社殿が見えて来ます。
初宮でしょうか、ちょうど地元の子連れの方が訪れていましたが、静かな環境の中でお参りをすることができました。 -
大川神社は第23代顕宗天皇の御代の御創建で、主祭神は保食神。
相殿には、木・火・土・金・水の五元神が祀られています。
これまで多くの神社を参拝しましたが、五行を司る神様が一か所で祀られているのを見るのは初めてです。
いつからこのような祀り方が始まったのか、とても興味があります。
大川神社は、田辺藩主牧野惟成公から武具の寄進を受けています。 -
せっかく日本海側まで来たので、丹後国一之宮の籠神社に参拝することにしました。
初めて参拝した時は、ちょうど新しく始めた事業がうまく行かず、やめようか悩んでいた時でした。
その時、籠神社から元伊勢伝説の地を巡り、自分の悩みの小ささに気付いて反省したのです。
事業はようやく軌道に乗り、なんとか継続して行けそうな見込みとなったので、お礼も込めて再び参拝することにしました。元伊勢籠神社 寺・神社・教会
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それにしても天橋立から近いからか、観光客を乗せた大型バスが次から次に訪れ、境内はとてもにぎやかです。
残念なことに、酒に酔っているなどしてマナーの悪い観光客の方が多いようです。
神社もそれに対応するために境内の土地を駐車場としてアスファルトで固めてしまっており、聖地とは言えない姿に変わりつつあるのが残念です。 -
かなり遠回りとなりますが、竹田城跡へ登って今回の旅を締めくくることにしました。
籠神社から車で2時間近く、ひたすら田舎道を走ります。
まずは竹田駅の観光案内で情報収集。
夕方ということもあり、山頂付近の駐車場に空きはあるだろうとのこと。
霧がかかる明け方や、観光客の多い昼間は、駐車場がいっぱいとなるため、通行制限がかかるそうです。
細い山道を、誘導員の案内で登って行くと、小さな駐車場へとたどり着きました。
ここから、勾配がきついが近い道と、緩やかだが遠い道の、どちらかを選んで進むことになります。竹田城跡 名所・史跡
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竹田城は永享3年、守護大名の山名持豊によって着工されました。
それから12年後の嘉吉3年に完成し、初代城主に太田垣誠朝を配したとされます。
7代城主輝延の時、秀吉公による攻撃が始まり、天正8年には落城していたと言います。
緩やかな道ではあっても上り坂が続くため、次第に息がはずんできました。
駅から歩いて登ることもできると言いますが、それなりの覚悟が必要そうです。
それ以前に、このような要害の地にこれだけの規模の城を築くことは、いったいどのような技術が可能とするのでしょうか。 -
ようやく石垣が見えて来ました。
竹田城は本丸から三方に手を伸ばすような縄張りで、曲輪の全てが石垣で囲まれています。 -
太田垣氏のあとに羽柴秀長公が城代として入り、その後城主となった赤松広秀がこの石垣を完成させました。
広秀は関ヶ原の戦いでは西軍につき、田辺城攻めにも加わりますが、その後東軍に寝返り鳥取城を攻め落とします。
しかし、その際に鳥取城下を焼いたため、家康公の命により切腹となりました。
これにより竹田城は廃城となりますが、石垣はほぼ当時の姿のまま現在まで残されています。
虎が臥せている姿に見えることから臥虎城とも呼ばれ、雲海に包まれる姿を見た人は天空の城と呼んで讃えます。 -
イチオシ
最も高い位置にある天守は、石段さえなくはしごで登ることになりました。
しかしそこから一望する景色は、時間をかけてここまで来た甲斐があったと言えるほど、想像を絶する眺めでした。
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