2016/05/27 - 2016/05/27
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はくさんちどりさん
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妻は1948年10月9日が誕生日です。2年前の義母の葬儀で初めて義父の軍隊履歴簿が出てきて分かりました。何と、奇しくも妻が誕生するちょうど1年前に、シベリア抑留から解放され、舞鶴港の引揚桟橋に上陸したのでした。
陸軍軍曹として吉林省吉林で終戦を迎え、シベリアのムーリン収容所に収容されて、極寒の中シベリア鉄道敷設に2年間強制的に従事させれたのでした。幸い強健な身体で生きぬいて帰国できましたが、多くの同胞が故国に帰ることができぬまま、戦後の強制労働中に異国で落命したと聞きました。
義父が帰国できなかったなら、当然妻はこの世に生まれることはなく、また我家の3人の子供たちも存在しなかったことになります。したがって、1947年10月9日という日は、小生にとってもエポックメーキングな特別の日であり、義父が上陸した舞鶴の引揚記念館と引揚桟橋を見ることは、今回の旅行の重要なミッションでした。
昨日、頑張って五老スカイタワーに寄ることができたため、じっくり時間をかけて思い残すことなく見まわることができました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- じゃらん
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宿泊した『プラザホテル舞鶴』の全景。
アパホテル<西舞鶴駅前> 宿・ホテル
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ホテルの入口。
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から海上自衛隊基地脇を通ったりして、ホテルから40分ほどで『舞鶴引揚記念館』に着きました。
開館時間前なので、外の記念公園の案内図などを見ています。背後が記念館です。 -
引揚記念公園の全体が分かります。
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開館まで時間があるので、先に『平引揚桟橋』を見ることにしました。
舞鶴引揚記念館 美術館・博物館
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道路に出る前に『ユネスコ世界記憶遺産』登録決定のお知らせが!
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復元された『平引揚桟橋』の全景。
途中から車止めで車両が入れないようにしてあります。
写真に入っていませんが、左側に車が数台駐車できるスペースがあります。 -
小生にはわからない歌謡曲ですが、『まぶたの桟橋 舞鶴よ』の歌詞と引揚船『興安丸』の引揚当時の写真。モノクロ写真がなぜか郷愁をそそります!!
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引揚記念に関する事業に寄付をしてくださった方々や尽力された団体ならびに関係者の皆様方のご芳名。
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桟橋復元の由緒。
このモノクロ写真を見ると、往時の桟橋はかなり長かったようです。 -
復元された桟橋に向かって左側にある『招霊の碑』。
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この碑の説明にあるように、日ソ不可侵条約一方的に破棄して、シベリアに抑留(強制労働)された訳ですから、義父は、生涯ソ連を“○スケ”(○に入る一文字は想像にお任せします)と呼び捨てにしていました。
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『語り部の鐘』の前で合掌する妻の後ろ姿。
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『平引揚桟橋(復元)』。
往時の陸に近い一部ですね。復元引揚桟橋 名所・史跡
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桟橋の上から見える斜張橋。橋の向こうが舞鶴湾の出口方面になるようです。
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後ろ髪を引かれつつ、『平引揚桟橋(復元)』を後にすることにしました。
もう一度振り返ります。 -
引揚記念館に戻り、広い駐車場に車を停め、外を見ると、例の斜張橋が見えました。
結構目立ちます。 -
引揚記念館の広い駐車場。
記念館に近い側に、大型バス用のスペースがあります。 -
『舞鶴引揚記念館』の入口。
開館時間と入場料が記されています。 -
入場料を支払って中に入ると、床面に地図が貼ってありました。
ソ連(現在のロシア)に抑留された時の収容所が示されたもので、そのうちの極東シベリアの部分です。
収容人員数を色分けしてあり、義父が収容されたと思われるモリスという町の近くのムリ(ン)は、2万人以上だったようです。 -
収容人員の凡例。
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ボランティアガイドの方に同行していただき、展示ブースの中に入ると、引揚の年表が掲示されていました。
1947年の一連の記載に10月分がないので、ガッカリして、妻が「父は昭和22年10月9日に帰国したんですけど、もっと細かくわかる資料ってないのかしら?」と漏らします。 -
それを耳にしたガイドさんが、「それでしたら、こんなのがあります」と言って、舞鶴港へ入港した引揚船の一覧表を出してくれました。
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その中にちゃんとありました。
昭22.10.9 恵山丸 ナホトカ 2,003
軍隊履歴書で、10月6日ナホトカ出帆と記載されていましたから、間違いありません! -
写真上が恵山丸です。客船には見えませんが・・・。
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恵山丸の船舶および引揚実績諸元。
7,000トンに満たない貨物船でしたが、19回にわたり延41,444名の引揚者を運んでくれました。 -
紙がないので、その代わりに白樺の樹皮を代用した記録。
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収容所での生活の一端を示す。
暖炉の上に横になっている者は弱っている人。 -
敗戦後の抑留開始時の様子を示す写真。
ウクライナ方面まで遠く離れて連れて行かれた人も多くいたものの、待遇はシベリアほどひどくはなく、その後現地に終生とどまった人もいたとのことです(ガイドさんの話)。 -
強制労働の様子。
義父も森林伐採に従事させられ、ある時伐採した木が倒れる時、義父と反対側に避難した人が下敷きになり、落命したことがあったそうです。 -
これは厳冬期の絵です。
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シベリア抑留時の服装とのこと。
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作業用具の他、トランペットや手づくりの麻雀パイがあり、苦しい生活の中でひと時の楽しみを求めたのでしょうね。
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収容所のミニジオラマ。
見るだけで寒々とします。 -
兵舎、といっても、もう兵士ではありませんが・・・。
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民間人で抑留された羽根田光雄さんが抑留時のの様子を絵に描いており、その型の略歴。
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上・下ともに、亡くなった人の埋葬の様子。
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兵舎の浴場(上)と食事の分配(下)の様子。
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引き揚げて舞鶴に上陸した時の喜びの様子。
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舞鶴港に上陸して、DDT散布(上)と入浴(下)の様子。
今の人には、DDTなんてわからないでしょうね。 -
ウクライナに抑留された木内信夫さんの略歴。
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描いた絵も、同じ抑留者でありながら、何となく明るさが漂います。
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やはりナホトカから帰国の途についたようです。
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抑留者の帰還に尽力した大木英一氏の写真と活動紹介文。
隣りには未だ帰らぬ夫を待つ『岸壁の妻』の写真。 -
『岸壁の母』のモデルとなった端野いせさん。
双葉百合子の歌で、あまりにも有名ですね。 -
引揚が行われていた当時の様子を今と重ねあわせると、こんな感じかな?
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俗に『赤紙』と称されていた召集令状。
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ユネスコ世界記憶遺産登録証明書。
フランスの『人権宣言』やオランダの『アンネ・フランクの日記』などもそうです。 -
記念館の中を見終えたので、今度は記念公園に行ってみることにしました。
記念館の裏手、公園への入口方面にある『カリヨンモニュメント』・ -
『平和のメッセージ』が記されています。
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引揚記念公園への上り口。
至る所にかつての部隊や自衛隊関係者の記念樹が植栽されていました。 -
展望広場の『平和の群像』。
引揚記念公園 名所・史跡
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こちらは『望郷慰霊の碑』。
抑留先で無念にも亡くなった方々の慰霊のためでしょうか。 -
『異国の丘 詩碑』(藤田まさと作詞)。
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『あゝ母なる國 石碑』。
展望広場の各方角にありました。 -
引揚桟橋と兵舎の俯瞰図。
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展望広場から見た『平引揚桟橋(復元)』。
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引揚桟橋方面の全景。
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展望広場から眺める舞鶴湾口方面の全景。
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展望広場に造られた『平引揚桟橋』と同等の復元桟橋。
これを見納めに、舞鶴引揚記念館・記念公園に別れを告げました。
福井県内のいくつかの観光スポットを目指します。
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