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宮城・岩手の両県は大地震からの復興が着々と進んでいるのに対し、福島だけは原発事故の終息が見えず復苦しんでいます。 <br /><br />福島は御先祖にとっても家族にとっても、また自分自身にとっても縁の深い地域なので、少しでも復興の役に立ちたいとの思いから、機会を見つけては足を運ぶことにしました。 <br /><br />今回は、山形県の米沢から会津に抜ける道に沿って、地域の歴史を感じることにします。

米沢・会津へ 会津武士道を培った学び舎

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2011/08/21 - 2011/08/21

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倫清堂

倫清堂さん

宮城・岩手の両県は大地震からの復興が着々と進んでいるのに対し、福島だけは原発事故の終息が見えず復苦しんでいます。

福島は御先祖にとっても家族にとっても、また自分自身にとっても縁の深い地域なので、少しでも復興の役に立ちたいとの思いから、機会を見つけては足を運ぶことにしました。

今回は、山形県の米沢から会津に抜ける道に沿って、地域の歴史を感じることにします。

  • あいにくの雨ですが、朝6時前には目が覚め、自宅のある仙台から関山峠を通って天童に抜けました。 <br /><br />まだ車の数は少なく、天気は悪いものの快適なドライブでした。 <br /><br />そして天童城跡のある舞鶴城公園で車を降り、澄んだ空気を吸いながら散策を行いました。 <br /><br />天童という変わった地名について、以前から疑問を持っていましたが、公園内で城について説明する看板にこう書いてありました。 <br /><br />最初にここに本拠を築いたのは、南北朝時代に南朝方であった北畠天童丸であったと。 <br /><br />調べてみると、天童丸は北畠顕家公の末子らしく、山寺立石寺と協力して足利軍を破るなど戦功もあったようですが、相馬が終焉の地とされていたり、生き延びて津軽に逃れたという説があるなど、その最期ははっきりしません。 <br /><br />先日山寺を訪れた際、途中でふと見つけた北畠神社に参拝しましたが、そこに天童丸も祀られていたかも知れません。 <br /><br />しかし、その時は神職の方の姿も見えず、由緒が書かれた看板なども見つけられなかったため、謎を残したまま立ち去った経緯がありました。 <br /><br />本丸跡には愛宕神社が鎮座していますが、山の細い道は思った以上に険しく、悪天候のために足元も危ないので、今回は途中まで登って引き返しました。

    あいにくの雨ですが、朝6時前には目が覚め、自宅のある仙台から関山峠を通って天童に抜けました。

    まだ車の数は少なく、天気は悪いものの快適なドライブでした。

    そして天童城跡のある舞鶴城公園で車を降り、澄んだ空気を吸いながら散策を行いました。

    天童という変わった地名について、以前から疑問を持っていましたが、公園内で城について説明する看板にこう書いてありました。

    最初にここに本拠を築いたのは、南北朝時代に南朝方であった北畠天童丸であったと。

    調べてみると、天童丸は北畠顕家公の末子らしく、山寺立石寺と協力して足利軍を破るなど戦功もあったようですが、相馬が終焉の地とされていたり、生き延びて津軽に逃れたという説があるなど、その最期ははっきりしません。

    先日山寺を訪れた際、途中でふと見つけた北畠神社に参拝しましたが、そこに天童丸も祀られていたかも知れません。

    しかし、その時は神職の方の姿も見えず、由緒が書かれた看板なども見つけられなかったため、謎を残したまま立ち去った経緯がありました。

    本丸跡には愛宕神社が鎮座していますが、山の細い道は思った以上に険しく、悪天候のために足元も危ないので、今回は途中まで登って引き返しました。

  • しかし、下りの道の途中で記憶に残っている神社を見つけ、そこを参拝しました。 <br /><br />その神社の名前は建勲神社。織田信長公を祀っています。 <br /><br />信長公と嫡子信忠公の死後、次男の信雄公は尾張・下野・大和・上野と国替えさせられ、信雄公から9代目の信浮公の時に天童を居城ととしました。 <br /><br />その後明治維新を迎え、天童織田藩は官軍側についた功績を認められて、信長公には建勲神の神号を賜り、明治3年に建勲神社は創建されました。 <br /><br />境内には本居宣長による信長公を讃えた歌碑が立てられています。

    しかし、下りの道の途中で記憶に残っている神社を見つけ、そこを参拝しました。

    その神社の名前は建勲神社。織田信長公を祀っています。

    信長公と嫡子信忠公の死後、次男の信雄公は尾張・下野・大和・上野と国替えさせられ、信雄公から9代目の信浮公の時に天童を居城ととしました。

    その後明治維新を迎え、天童織田藩は官軍側についた功績を認められて、信長公には建勲神の神号を賜り、明治3年に建勲神社は創建されました。

    境内には本居宣長による信長公を讃えた歌碑が立てられています。

    建勲神社 寺・神社・教会

  • 降りしきる雨の中、車は全線開通前の東北中央自動車道を走り、米沢へ入りました。 <br /><br />道路が便利になると、目的とはまた違った楽しみのある途中での出来事が全て省略されてしまい、効率化された味気ないものとなってしまいますが、時間に追われ忙しい身分にとってそれは仕方のないことです。 <br /><br />旅の途中を楽しむのは、もっと年をとって体力も少なくなってからにしたいと思います。 <br /><br />さて、米沢ではまず上杉神社に参拝しました。 <br /><br />米沢城本丸跡に鎮座し、上杉謙信公をお祀りしています。 <br /><br />米沢は伊達氏の本拠でしたが、政宗公が小田原攻めに遅参したことによって岩出山に転封され、その後を蒲生氏が会津とともに治めました。 <br /><br />しかし蒲生氏は後継ぎが夭逝するなどして断絶し、関ヶ原の役で西軍についた上杉氏が、領地のほとんどを召し上げられ、この小さな藩に封じ込まれたのでした。 <br /><br />蒲生氏・上杉氏の影響もあり、米沢と会津は気風が似ていると言われています。 <br /><br />上杉神社へと向かう参道でまず目に入るのは、上杉鷹山公の像です。 <br /><br />鷹山公は米沢藩9代目藩主で、財政難により滅亡寸前の藩を17歳にして受け継ぎ、改革を断行して藩を建てなおした中興の祖として仰がれています。

    降りしきる雨の中、車は全線開通前の東北中央自動車道を走り、米沢へ入りました。

    道路が便利になると、目的とはまた違った楽しみのある途中での出来事が全て省略されてしまい、効率化された味気ないものとなってしまいますが、時間に追われ忙しい身分にとってそれは仕方のないことです。

    旅の途中を楽しむのは、もっと年をとって体力も少なくなってからにしたいと思います。

    さて、米沢ではまず上杉神社に参拝しました。

    米沢城本丸跡に鎮座し、上杉謙信公をお祀りしています。

    米沢は伊達氏の本拠でしたが、政宗公が小田原攻めに遅参したことによって岩出山に転封され、その後を蒲生氏が会津とともに治めました。

    しかし蒲生氏は後継ぎが夭逝するなどして断絶し、関ヶ原の役で西軍についた上杉氏が、領地のほとんどを召し上げられ、この小さな藩に封じ込まれたのでした。

    蒲生氏・上杉氏の影響もあり、米沢と会津は気風が似ていると言われています。

    上杉神社へと向かう参道でまず目に入るのは、上杉鷹山公の像です。

    鷹山公は米沢藩9代目藩主で、財政難により滅亡寸前の藩を17歳にして受け継ぎ、改革を断行して藩を建てなおした中興の祖として仰がれています。

  • もともと上杉神社に祀られていましたが、二の丸に新たに設けた摂社松岬神社に遷座されました。 <br /><br />鷹山公の歌 <br /><br /><br />なせばなるなさねば成らぬ何事も <br />成らぬは人のなさぬなりけり<br /><br /><br />松岬神社には、他に上杉景勝公や直江兼続公などが祀られています。

    もともと上杉神社に祀られていましたが、二の丸に新たに設けた摂社松岬神社に遷座されました。

    鷹山公の歌


    なせばなるなさねば成らぬ何事も
    成らぬは人のなさぬなりけり


    松岬神社には、他に上杉景勝公や直江兼続公などが祀られています。

  • そして上杉神社の境内に入ると、謙信公・鷹山公・直江兼続公などの銅像がたくさん立っており、この土地に住む人々の歴史に対する思いが伝わって来るようでした。 <br /><br />上杉謙信公は生涯のライバルであった武田晴信公と前後して死去し、越後春日山城の不識庵に葬られ、あとを継いだ景勝公が米沢に転封されるに当たって、その墓も米沢城内に遷されたのでした。

    そして上杉神社の境内に入ると、謙信公・鷹山公・直江兼続公などの銅像がたくさん立っており、この土地に住む人々の歴史に対する思いが伝わって来るようでした。

    上杉謙信公は生涯のライバルであった武田晴信公と前後して死去し、越後春日山城の不識庵に葬られ、あとを継いだ景勝公が米沢に転封されるに当たって、その墓も米沢城内に遷されたのでした。

  • 米沢はそれまで家老直江兼続公の所領でしたが、主君は全ての領地を失い、この狭い米沢だけが残されました。 <br /><br />上杉家がここまで衰退したのは、石田三成と共謀した自分に責任があると感じていたのか、兼続公は妻子が皆死んでしまってからも養子を取らず、自分の死によって家を断絶させたのでした。

    米沢はそれまで家老直江兼続公の所領でしたが、主君は全ての領地を失い、この狭い米沢だけが残されました。

    上杉家がここまで衰退したのは、石田三成と共謀した自分に責任があると感じていたのか、兼続公は妻子が皆死んでしまってからも養子を取らず、自分の死によって家を断絶させたのでした。

  • 上杉神社を参拝した後、宝物殿を見学するつもりでした。 <br /><br />前にここを訪れた時は、時間がなく見学を断念した経緯があります。 <br /><br />しかしこの日は、震災による破損の修復のため、宝物殿は閉館となっていました。 <br /><br />あの地震の影響の大きさを改めて感じ、一日も早い復興を祈らずにはいられませんでした。

    上杉神社を参拝した後、宝物殿を見学するつもりでした。

    前にここを訪れた時は、時間がなく見学を断念した経緯があります。

    しかしこの日は、震災による破損の修復のため、宝物殿は閉館となっていました。

    あの地震の影響の大きさを改めて感じ、一日も早い復興を祈らずにはいられませんでした。

    上杉神社 寺・神社・教会

  • 春日山・会津・米沢城と経て来た謙信公の墓が最終的に落ち着いた上杉家廟所は、上杉神社から車で5分くらいの場所にあります。 <br /><br />ここには2代目藩主から代々の墓があり、もし米沢城に一大事があった時には、謙信公の墓も遷されることに決められていました。 <br /><br />そして明治維新を迎え、廃城令によって米沢城が解体されるに際して、謙信公の墓も遷されたのでした。

    春日山・会津・米沢城と経て来た謙信公の墓が最終的に落ち着いた上杉家廟所は、上杉神社から車で5分くらいの場所にあります。

    ここには2代目藩主から代々の墓があり、もし米沢城に一大事があった時には、謙信公の墓も遷されることに決められていました。

    そして明治維新を迎え、廃城令によって米沢城が解体されるに際して、謙信公の墓も遷されたのでした。

  • 杉の林に囲まれて12代藩主までの霊廟が並ぶ姿は厳かで、歩く靴音を立てることさえ憚られます。 <br /><br />受付の裏にある史料館では、霊廟のひとつが損壊した際の調査の記録が公開されています。 <br /><br />墓の地下・内部がどのようになっているのかは興味がありますが、それを明らかにしてしまうのは死者に対して申し訳ないようでもありますが、文化が死んで消えてしまうことを防ぐためには仕方のないことなのでしょう。 <br /><br />現在の上杉家当主の方は、宇宙航空研究開発機構で教授を務められる学者さんですから、文化の重要性を優先させたのかも知れません。

    杉の林に囲まれて12代藩主までの霊廟が並ぶ姿は厳かで、歩く靴音を立てることさえ憚られます。

    受付の裏にある史料館では、霊廟のひとつが損壊した際の調査の記録が公開されています。

    墓の地下・内部がどのようになっているのかは興味がありますが、それを明らかにしてしまうのは死者に対して申し訳ないようでもありますが、文化が死んで消えてしまうことを防ぐためには仕方のないことなのでしょう。

    現在の上杉家当主の方は、宇宙航空研究開発機構で教授を務められる学者さんですから、文化の重要性を優先させたのかも知れません。

    上杉家廟所 名所・史跡

  • 朝食もとっていなかったことに気付き、喜多方に寄って喜多方ラーメンを食べました。 <br /><br />時刻は正午より少し前。 <br /><br />朝早く出たおかげで、思ったより沢山の場所をめぐることができます。

    朝食もとっていなかったことに気付き、喜多方に寄って喜多方ラーメンを食べました。

    時刻は正午より少し前。

    朝早く出たおかげで、思ったより沢山の場所をめぐることができます。

  • 喜多方では、案内看板で見つけた会津大仏へお参りに行ったりもしました。

    喜多方では、案内看板で見つけた会津大仏へお参りに行ったりもしました。

  • そして少し遠回りになりますが、会津美里町に鎮座する伊佐須美神社に参拝しました。 <br /><br />伊佐須美神社は岩代国一之宮(新一之宮)で会津総鎮守。 <br /><br />崇神天皇によって遣わされた四道将軍のうち、北陸道を平定した大毘古命と東海道を平定した建沼河別命がそれぞれたどり着いて出会った場所とされ、会津という地名の由来にもなっています。 <br /><br />古代の香りが残る境内地の雰囲気が好きで、何年かに一度は必ず参拝に訪れているのですが、平成20年10月、信じられないようなニュースが報道されました。 <br /><br />このお社が火災によって全焼してしまったというものでした。 <br /><br />出火の原因は不明ながら、どうやら不審火ではないかという噂も聞こえ、人一倍このお社を愛する身としては心を引き裂かれる思いでした。 <br /><br />焼けたお社を見ることで現実を思い知る決断がなかなか出来ず、今日ようやくそれを目の当たりにする覚悟を持つことができたのでした。

    そして少し遠回りになりますが、会津美里町に鎮座する伊佐須美神社に参拝しました。

    伊佐須美神社は岩代国一之宮(新一之宮)で会津総鎮守。

    崇神天皇によって遣わされた四道将軍のうち、北陸道を平定した大毘古命と東海道を平定した建沼河別命がそれぞれたどり着いて出会った場所とされ、会津という地名の由来にもなっています。

    古代の香りが残る境内地の雰囲気が好きで、何年かに一度は必ず参拝に訪れているのですが、平成20年10月、信じられないようなニュースが報道されました。

    このお社が火災によって全焼してしまったというものでした。

    出火の原因は不明ながら、どうやら不審火ではないかという噂も聞こえ、人一倍このお社を愛する身としては心を引き裂かれる思いでした。

    焼けたお社を見ることで現実を思い知る決断がなかなか出来ず、今日ようやくそれを目の当たりにする覚悟を持つことができたのでした。

    伊佐須美神社 寺・神社・教会

  • やはり、長い年月をかけて神様のおられた場所というのは、土台だけとなってしまっても神聖さは失われないものです。 <br /><br />そして一つ安堵したのは、御神木の薄墨桜が無事であったことでした。 <br /><br />地元宮城の竹駒神社がやはり火災で焼けてしまった時は、樹齢数百年の大銀杏もその被害を受けてしまいました。 <br /><br />この桜を復興のシンボルとして、新しい社殿での祭祀が始まることを祈っています。

    やはり、長い年月をかけて神様のおられた場所というのは、土台だけとなってしまっても神聖さは失われないものです。

    そして一つ安堵したのは、御神木の薄墨桜が無事であったことでした。

    地元宮城の竹駒神社がやはり火災で焼けてしまった時は、樹齢数百年の大銀杏もその被害を受けてしまいました。

    この桜を復興のシンボルとして、新しい社殿での祭祀が始まることを祈っています。

  • 新しい社殿は、天空にそびえる珍しい様式で建てられることになるそうです。 <br /><br />伊勢神宮の御遷宮の翌年、平成26年着工の予定とのことなので、少しでも復興に役立てるよう、自分なりの努力をしたいと思っています。 <br /><br />最近は原発事業からの信仰も集めていた伊佐須美神社が全焼したことと、あの悲惨な原発事故とを結びつけるのはどうかという気もしますが、新しい社殿が完成する頃には原発事故も終息し、福島がまたもとの活気を取り戻していてくれることを願います。

    新しい社殿は、天空にそびえる珍しい様式で建てられることになるそうです。

    伊勢神宮の御遷宮の翌年、平成26年着工の予定とのことなので、少しでも復興に役立てるよう、自分なりの努力をしたいと思っています。

    最近は原発事業からの信仰も集めていた伊佐須美神社が全焼したことと、あの悲惨な原発事故とを結びつけるのはどうかという気もしますが、新しい社殿が完成する頃には原発事故も終息し、福島がまたもとの活気を取り戻していてくれることを願います。

  • 次に、最近赤瓦に葺きかえられたばかりの鶴ヶ城に到着しました。 <br /><br />鶴ヶ城の歴代藩主は足名氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・保科氏・松平氏と、頻繁に変わっています。 <br /><br />その中で保科氏とは、3代将軍徳川家光公の弟、正之公のことです。 <br /><br />正之公は側室の子であったため、旧武田家の家臣、保科正光公によって養われることになり、秀忠公の死後は家光公に気に入られ、会津藩の藩主になったのでした。 <br /><br />その際、松平の姓を許されますが、養父に対する義理を重んじて生涯を保科姓で通し、将軍家に対しては忠実に守護するよう、家訓を定めたのでした。 <br /><br />3代藩主正容公から松平姓を名乗りますが、家訓はその後も厳しく守られ、9代藩主容保公に至っては新政府軍にどこまでも抵抗して、白虎隊に代表される忠烈な戦いが繰り広げられることになるのでした。 <br /><br />また容保公は孝明天皇の御信認も篤く、宸翰や御製が下賜されました。

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    次に、最近赤瓦に葺きかえられたばかりの鶴ヶ城に到着しました。

    鶴ヶ城の歴代藩主は足名氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・保科氏・松平氏と、頻繁に変わっています。

    その中で保科氏とは、3代将軍徳川家光公の弟、正之公のことです。

    正之公は側室の子であったため、旧武田家の家臣、保科正光公によって養われることになり、秀忠公の死後は家光公に気に入られ、会津藩の藩主になったのでした。

    その際、松平の姓を許されますが、養父に対する義理を重んじて生涯を保科姓で通し、将軍家に対しては忠実に守護するよう、家訓を定めたのでした。

    3代藩主正容公から松平姓を名乗りますが、家訓はその後も厳しく守られ、9代藩主容保公に至っては新政府軍にどこまでも抵抗して、白虎隊に代表される忠烈な戦いが繰り広げられることになるのでした。

    また容保公は孝明天皇の御信認も篤く、宸翰や御製が下賜されました。

    鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡

  • 現在の天守閣は復元で、内部の郷土博物館にはそれらも展示されています。 <br /><br />あの大震災の後とあって、建物や展示品の被害が心配でしたが、ざっと見て目立った被害はありませんでした。 <br /><br />戊辰戦争に敗れて鳥取藩に預けられた容保公は、蟄居を解かれた後、日光東照宮の宮司を務めます。 <br /><br />そして死去するまで、孝明天皇から下賜された宸翰と御製を肌身離さず身につけていたということです。

    現在の天守閣は復元で、内部の郷土博物館にはそれらも展示されています。

    あの大震災の後とあって、建物や展示品の被害が心配でしたが、ざっと見て目立った被害はありませんでした。

    戊辰戦争に敗れて鳥取藩に預けられた容保公は、蟄居を解かれた後、日光東照宮の宮司を務めます。

    そして死去するまで、孝明天皇から下賜された宸翰と御製を肌身離さず身につけていたということです。

  • 鶴ヶ城の見学を終え、その最上階からも見えた飯盛山に、次は向かいました。 <br /><br />小学6年生の時の修学旅行で友達と訪れた飯盛山。 <br /><br />その時、白虎隊の剣舞を見せられ、異空間に迷い込んだような不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。 <br /><br />白虎隊の史実を教えられても、「かわいそう」という気持ちにはならず、「うらやましい」気持ちになった変わった少年でした。

    鶴ヶ城の見学を終え、その最上階からも見えた飯盛山に、次は向かいました。

    小学6年生の時の修学旅行で友達と訪れた飯盛山。

    その時、白虎隊の剣舞を見せられ、異空間に迷い込んだような不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。

    白虎隊の史実を教えられても、「かわいそう」という気持ちにはならず、「うらやましい」気持ちになった変わった少年でした。

    飯盛山 名所・史跡

  • 戊辰戦争の時、会津藩では玄武・青龍・朱雀・白虎の4つの隊が編成され、16・17歳という最も低い年齢の男子が組織したのが白虎隊でした。 <br /><br />白河・二本松と攻め落として会津に迫る新政府軍に対し、会津藩は女子や老人まで動員してこれを防ごうとしますが、物量で劣る会津藩は劣勢に立たされていました。 <br /><br />白虎隊の少年たちは、ほとんど戦闘らしい戦闘も行えなかったことでしょう。 <br /><br />士中二番隊の生き残り20名は飯盛山へと落ち延び、そこで鶴ヶ城が燃えている姿を目の当たりにして、全員で自決することに決めたのでした。 <br /><br />実際には鶴ヶ城ではなく城下町が焼けていたのですが、少年たちはそのままやぶれかぶれに戦うことよりも、恥を恐れて高貴な死を選んだのでしょう。

    戊辰戦争の時、会津藩では玄武・青龍・朱雀・白虎の4つの隊が編成され、16・17歳という最も低い年齢の男子が組織したのが白虎隊でした。

    白河・二本松と攻め落として会津に迫る新政府軍に対し、会津藩は女子や老人まで動員してこれを防ごうとしますが、物量で劣る会津藩は劣勢に立たされていました。

    白虎隊の少年たちは、ほとんど戦闘らしい戦闘も行えなかったことでしょう。

    士中二番隊の生き残り20名は飯盛山へと落ち延び、そこで鶴ヶ城が燃えている姿を目の当たりにして、全員で自決することに決めたのでした。

    実際には鶴ヶ城ではなく城下町が焼けていたのですが、少年たちはそのままやぶれかぶれに戦うことよりも、恥を恐れて高貴な死を選んだのでしょう。

  • 飯盛山には、白虎隊の少年が自決した場所に像が立てられ、19名の死者が一か所に眠っています。 <br /><br />偶然に助けられて一命を取り留めた飯沼貞吉氏は、後にこの時の様子を記録に残し、電信技士として昭和の初めまで生涯を送りました。 <br /><br />死を遂げた19名から少し離れた所に、彼の分骨が納められています。

    飯盛山には、白虎隊の少年が自決した場所に像が立てられ、19名の死者が一か所に眠っています。

    偶然に助けられて一命を取り留めた飯沼貞吉氏は、後にこの時の様子を記録に残し、電信技士として昭和の初めまで生涯を送りました。

    死を遂げた19名から少し離れた所に、彼の分骨が納められています。

    白虎隊の墓 名所・史跡

  • さざえ堂 寺・神社・教会

  • 最後に会津藩校日新館を訪れました。 <br /><br />会津には何度も足を運んでいますが、日新館は今回が初めてです。 <br /><br />日新館は全国にあった300の藩校の中で、規模・内容ともに随一と言われていました。 <br /><br />5代藩主松平容頌公の時、家老田中玄宰の進言によって計画され、享和3年に完成しました。 <br /><br />漢文や武道はもちろん、天文学や医学まで扱う総合的な学問所で、子供たちは「什の掟」を徹底的に教え込まれ、「ならぬことはならぬのものです」との精神で、人間性を高める修養を行っていたのでした。 <br /><br />鶴ヶ城の西にあった日新館は、戊辰戦争で焼失してしまったため、戦後になって現在の場所に忠実に復元され、会津の精神を今に伝えています。

    最後に会津藩校日新館を訪れました。

    会津には何度も足を運んでいますが、日新館は今回が初めてです。

    日新館は全国にあった300の藩校の中で、規模・内容ともに随一と言われていました。

    5代藩主松平容頌公の時、家老田中玄宰の進言によって計画され、享和3年に完成しました。

    漢文や武道はもちろん、天文学や医学まで扱う総合的な学問所で、子供たちは「什の掟」を徹底的に教え込まれ、「ならぬことはならぬのものです」との精神で、人間性を高める修養を行っていたのでした。

    鶴ヶ城の西にあった日新館は、戊辰戦争で焼失してしまったため、戦後になって現在の場所に忠実に復元され、会津の精神を今に伝えています。

  • 入り口には山川健次郎の胸像が立てられています。 <br /><br />山川健次郎は白虎隊に所属していた藩士の子で、維新後は国費留学生としてアメリカで学び、帰国後には東京帝国大学の総長にまで昇ったことから、「白虎隊総長」と呼ばれて仰がれていました。 <br /><br />自刃した白虎隊の少年たちの高貴な精神も、ここ日新館で育まれたのでした。

    入り口には山川健次郎の胸像が立てられています。

    山川健次郎は白虎隊に所属していた藩士の子で、維新後は国費留学生としてアメリカで学び、帰国後には東京帝国大学の総長にまで昇ったことから、「白虎隊総長」と呼ばれて仰がれていました。

    自刃した白虎隊の少年たちの高貴な精神も、ここ日新館で育まれたのでした。

  • 南門から入ると、真正面に大成殿が見えます。 <br /><br />孔子とその弟子たちの像が置かれ、学生たちによって儒教の祭祀が行われた、最も神聖な場所です。 <br /><br />受付で料金を支払うと、まずは日新館を紹介するビデオの映写室へと案内されました。 <br /><br />修学旅行で利用されるのでしょうか、小学生1学年分の人数が全員収容できそうな広い空間で、ひとり贅沢にそのビデオを観賞することができました。 <br /><br />実物が消失してしまったことが非常に惜しまれ、薩長の暴力に対する会津の人たちの恨みが未だ晴れないことも頷けるのでした。

    南門から入ると、真正面に大成殿が見えます。

    孔子とその弟子たちの像が置かれ、学生たちによって儒教の祭祀が行われた、最も神聖な場所です。

    受付で料金を支払うと、まずは日新館を紹介するビデオの映写室へと案内されました。

    修学旅行で利用されるのでしょうか、小学生1学年分の人数が全員収容できそうな広い空間で、ひとり贅沢にそのビデオを観賞することができました。

    実物が消失してしまったことが非常に惜しまれ、薩長の暴力に対する会津の人たちの恨みが未だ晴れないことも頷けるのでした。

    會津藩校日新館 名所・史跡

  • 幕末明治記念館となっている建物には、戊辰戦争に敗れた後の会津人たちが、いかに過酷な生活を強いられたかを示す展示が行われていました。 <br /><br />その中でも特に涙を誘うのは、もうひとつの白虎隊物語とも言える郡長正のお話しです。 <br /><br />父の萱野権兵衛が会津戦争の全責任を負って自刃し、家名断絶となって郡に改正した長正は、日新館が焼失したものの教育への情熱が冷めず、豊津藩校育徳館に留学します。 <br /><br />会津藩出身であることを理由に支給される食糧が少ない窮状を、彼は手紙で母に訴えますが、母からはの手紙は、会津藩士の子が弱音を吐くものではないと叱る内容のものでした。 <br /><br />悪いことに、この手紙が育徳館の学友の手に渡ってしまい、人前で読み上げられて辱めを受けてしまいます。 <br /><br />長正が選んだ道は、恥を受けることを「ならぬこと」と思い、自ら腹を切ることで、会津藩の名誉を守ることでした。 <br /><br />日新館には武道場なども整備され、今も研修会に利用されています。

    幕末明治記念館となっている建物には、戊辰戦争に敗れた後の会津人たちが、いかに過酷な生活を強いられたかを示す展示が行われていました。

    その中でも特に涙を誘うのは、もうひとつの白虎隊物語とも言える郡長正のお話しです。

    父の萱野権兵衛が会津戦争の全責任を負って自刃し、家名断絶となって郡に改正した長正は、日新館が焼失したものの教育への情熱が冷めず、豊津藩校育徳館に留学します。

    会津藩出身であることを理由に支給される食糧が少ない窮状を、彼は手紙で母に訴えますが、母からはの手紙は、会津藩士の子が弱音を吐くものではないと叱る内容のものでした。

    悪いことに、この手紙が育徳館の学友の手に渡ってしまい、人前で読み上げられて辱めを受けてしまいます。

    長正が選んだ道は、恥を受けることを「ならぬこと」と思い、自ら腹を切ることで、会津藩の名誉を守ることでした。

    日新館には武道場なども整備され、今も研修会に利用されています。

  • 驚くべきは、日本で初めて水泳の授業を行うための水練水馬池を設けられていたことで、さすがに今はここで泳ぐ人はいませんが、徳知体の均衡を目指す素晴らしい教育が行われていたことを知りました。 <br /><br />日本の教育は、戦後の誤った価値観を改めることに憶病になっているため、崩壊している状態です。 <br /><br />日新館は今も、教育とはどうあるべきかを我々に教えてくれています。

    驚くべきは、日本で初めて水泳の授業を行うための水練水馬池を設けられていたことで、さすがに今はここで泳ぐ人はいませんが、徳知体の均衡を目指す素晴らしい教育が行われていたことを知りました。

    日本の教育は、戦後の誤った価値観を改めることに憶病になっているため、崩壊している状態です。

    日新館は今も、教育とはどうあるべきかを我々に教えてくれています。

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