2011/01/15 - 2011/01/17
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倫清堂さん
真冬の旅は瀬戸内海沿岸の山陽地方に限ると思っていましたが、今年は最大の寒波が到来する時と重なってしまい、何が起きるか分からない天気の下での旅となりました。
朝、目が覚めて外を見ると、かなり積雪があり、その上雪はまだ降り続いています。
いつも旅の時は朝早いので、空港までは車で20分程度ですが、さすがに積雪があるとスムーズに流れず、倍くらいかかってしまいました。
フライトの時間には間に合ったものの、滑走路の除雪をするという放送が聞こえて来ました。
結局1時間遅れで伊丹に到着したのでした。
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最初に目指すのは、岡山県倉敷市。
ノーマルタイヤなので、交通情報を常に確認しながら車を走らせます。
ちょっとした降雪は見えたものの、特に道路の凍結などもなく、倉敷市に入ることができました。
高速道路を降り、狭い路地を進んで到着したのは、日本第一熊野神社です。熊野神社 寺・神社・教会
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古くからの神仏習合の信仰が今に残っており、境内には三重塔があります。
そして神社の社殿に向かいますが、いくつもの社殿が横一列に並んでおり、こういう配置は珍しいと感じました。
正面の若宮には天照大神が祀られ、向かって左側にはその祖先にあたる神々が、右側には子孫にあたる神々が祀られています。
当日はちょうど介護施設の高齢者たちが参拝に訪れており、神職の方は忙しそうでした。
参拝が終わったのを見計らい、仙台から参拝に来たことを告げると、大変喜んで下さって、コーヒーを飲みながら神社の歴史についてお話しして下さいました。
予想していた通り、この地は南北朝時代に活躍した児島高徳公の生誕地であるとのことです。 -
御創建は、役行者が伊豆大島に流された際、高弟たちが紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じてこの地に上陸し、大宝元年に鎮座祭を行ったのが始まりで、天平12年に聖武天皇が児島一円を本宮の御神領として寄進し、社殿を建立しました。
孝謙天皇の御代に、紀州熊野権現とともに日本第一の勅号を賜りました。
その後、承久の変で後鳥羽上皇が隠岐に配流され、第4皇子で次代征夷大将軍候補であった頼仁親王も、皇弟の覚仁親王が住職を務めていたこの地に流されました。
延応元年に後鳥羽上皇が配流地で崩御すると、頼仁親王と覚仁親王は供養塔を建立しました。
その頼仁親王もほどなく薨去したのでした。 -
宮司さんによると、児島高徳公にゆかりのある寺がすぐ隣にあるとのことなので、コーヒーとお時間をいただいたお礼を申し上げて、そちらへ向かいました。
そのお寺は五流尊瀧院。
修験道の総本山とされます。 -
役行者が伊豆に流された際に神宝を奉持して流れ着いた5人の高弟が、それぞれ寺院を建立し、その中でも中心となっていた尊瀧院が今に残ったということです。
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入ってすぐ、頼仁親王の御歌碑がありました。
この里にわれ幾年を過してむ
乳木の煙朝夕にして -
児島高徳公は戦前は唱歌にも歌われる有名な歴史上の人物でしたが、それにしてはその生涯は謎だらけです。
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五流尊瀧院の伝承によると、頼仁親王の子孫であり、生誕地もここであるとのことですが、それを実証する手段はありません。
ただし、皇統に対して忠義を貫いた実在の人物であることだけは間違いなく、今後日本にさらなる危機が訪れることがあれば、必ずその功績が見直されることになるのは間違いありません。
なお、熊野神社の宮司さんの話によれば、五流尊瀧院には大久保利通卿が襲撃された時に乗っていた馬車が、血痕も生々しく保管されているとのことです。五流尊瀧院 寺・神社・教会
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飛行機が1時間遅れ、熊野神社でも宮司さんのお話しに聞き入って予定より長い時間滞在してしまったので、白壁の町並みで有名な倉敷美観地区に到着したのは夕方となってしまいました。
近くに公営の駐車場があったので、そこへ車を入れ、倉敷川沿いのタイムスリップしたかのような一画へと歩いて行きました。 -
この冬一番の冷え込みとのことで、川流しの観光船に乗っている人たちはとても寒そうです。
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イチオシ
倉敷は江戸時代の寛永19年に幕府の天領とされたことから、多くの商人が集まり、次々に蔵を建てて、富を積み重ねてきた歴史があります。
特に倉敷紡績の社長を務めた大原孫三郎氏の生家、大原家住宅は、母屋など計10棟が国の重要文化財に指定されており、倉敷のシンボルとなっています。
ただし内部は残念ながら非公開で、それを知らずに期待して来たものですから、がっかりしてしまいました。旧大原家住宅 名所・史跡
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大原氏は昭和5年、この住宅の向かい側に日本で最初の西洋美術館を創立しました。
蔵の町並みの中にギリシャの神殿風の建物が異彩を放っていますが、違和感なく受け入れられるのは倉敷という町だからでしょう。
美術館ひとつ見学するために半日はかかりそうで、こちらも外観だけ見て終わりです。大原美術館 美術館・博物館
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大原家住宅に隣接する有隣荘は大原家の別邸で、行幸した昭和天皇が宿泊された場所でもあります。
有隣荘 名所・史跡
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観光案内所が入っている、大正時代に建築された洋風の木造建築、倉敷館の向かい側に、倉敷考古館があります。
倉敷館 名所・史跡
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どこか一か所くらいはと思って、中を見学しました。
ここには吉備地方の遺跡から出土した土器や金属器などが展示されています。
銅鐸は、用途が今もって定かでない古代の道具ですが、このような金属器が大量に出土することから考えても、この地方は人と富が集まりやすい場所なのでしょう。
王朝時代以降のような華やかな展示ではありませんが、歴史の原点を感じさせる有意義なものでした。倉敷考古館 美術館・博物館
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そろそろ空腹を覚えたので、今回の旅の目的の一つである倉敷の祭り寿司を食べに行くことにしました。
ちょうど倉敷では、第2回天領寿司祭りが行われており、30近い店が参加しています。
パンフレットを見ると、ほとんどの店は昼食までしか祭り寿司を出しておらず、この時間でも食べられる店は自然に限られてしまいました。
カモ井という店に決めました。
倉敷考古館から2件隣りという近さも決め手となりました。
前に岡山市を訪れた際、ばら寿司を食べたことがあり、旅行先で味わった料理の中で5本の指に入るほどのお気に入りです。
倉敷の祭り寿司は、ちらし寿司の一種という意味でばら寿司と同じですが、ばら寿司が池田光政公による倹約令から生まれたのに対し、祭り寿司は倉敷の町衆が贅沢の限りを尽くして競い合った食膳です。
様々な具が乗って、吸い物までついて1050円でした。
我が仙台では、同じくらいの値段で食べられるのは牛タン定食です。
食文化でも完敗と言わざるを得ません。お食事処 カモ井寿司 グルメ・レストラン
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日没も近いため、倉敷散策の最後に、倉敷総鎮守の阿智神社を参拝することにしました。
『日本書紀』応神天皇条に「阿知使主、その子都加使主、ならびに己が党類十七県を率いて来帰けり」と書かれており、渡来した阿知一族の一部がこの地に定住して祭祀を始めたと伝えられます。
主祭神は宗像三女神。
神功皇后が三韓征伐の途上で暗夜に航路を見失った際、宗像神に祈願したところ、3振の剣が天から降って導いてくれたことから、崇敬されるようになったと伝えられています。 -
有史以前に祭祀されていた磐座も残されており、歴史のスケールはどこまでも広がって行きます。
ひときわ寒い一日でしたが、幸いにも旅先では雪に降られることもなく暮れて行くのでした。阿智神社 寺・神社・教会
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イチオシ
2日目も厳しい寒さは変わらないものの、空は晴れ渡り、絶好の旅日和となりました。
玉島で山陽道に乗り、向かった先はしまなみ海道の大三島です。
都道府県で言えば、四国の愛媛県に属することになります。
本州と四国を結ぶ3つのルートのうち、最も西側に位置するのがしまなみ海道で、サイクリングを楽しめる自転車専用道も設けられています。
玉島から約1時間で、目的地の大山祇神社に到着しました。
土産物屋の駐車場を借り、いざ参拝に向かいます。 -
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大山祇神社は伊予国の一之宮で、御祭神の大山積神は、伊邪那岐命と伊邪那美命による国産みの過程で野の神とともに生じた山の神とされます。
そして同時に瀬戸内海を守る海の神としての一面も持っています。
神話には、国産みで生じた神々の活躍する場面はあまり見られませんが、大山積神だけは例外で、高天原から降臨した天孫瓊瓊杵尊に2人の娘を差し出す父神として登場します。
下の娘の木花之開耶姫は非常に美しかったため、瓊瓊杵尊に愛されますが、上の娘の磐長姫は容貌が醜く、瓊瓊杵尊は彼女を父のもとへ返してしまいます。
そのため子孫にあたる歴代の天皇は、花のような栄華を手にすることはできますが、石のような永遠の命は与えられず、有限の生の中で生きることになったとされます。大山祇神社 寺・神社・教会
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一の鳥居は海に面して建てられており、境内に入る二の鳥居の先には、建設中の総門が初々しい姿で建っています。
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イチオシ
広い参道を更に進むと、圧倒されるような大楠が遠くからでも目に入ります。
この楠の樹齢は2600年以上で、神武天皇の御東征に先駆けて瀬戸内海や四国を治めていた、大山積神の子孫にあたる小千命が自ら植えたものと伝えられています。
小千命はおちのみことと読み、越智氏の祖先とされます。 -
その後、神社には、円融天皇から日本総鎮守の額が奉納され、源氏をはじめとする武家からの崇敬も集め、数多くの武具や甲冑が治められるようになりました。
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現在、日本国中で国宝・重要文化財に指定される武具類のうち、約8割がこの大山祇神社の所有となっています。
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それらの一部は、紫陽館・国宝館で展示されているので、参拝を終えてそれらの見学に向かいました。
中世から戦国時代にかけて、名の知られる多くの武将が奉納した甲冑が、所狭しと並べられておる様子は圧巻です。
その中でも特に目を引くのが、後に「瀬戸内のジャンヌダルク」と呼ばれることになる鶴姫が着用していた、現存する唯一の女性用鎧です。
鶴姫が生まれた大祝家も、越智氏の流れをくむと言われています。 -
鶴姫は大永6年、大祝家第31代当主安用の娘として生まれました。
大祝家は、伊予国の守護である同族の河野家とともに、瀬戸内を支配していました。
安用夫婦にはすでに2人の男子がおり、待ち望んだ女子の誕生でしたが、鶴姫は両親の意に反して武芸を好みました。
鶴姫は、ある日大三島の城に詰めていた越智安成に出会い、思慕するようになります。
その頃、父安用が死去し、長兄安舎が後を継ぎ、次兄安房が三島城の陣代となりました。
当時、室町幕府管領の細川晴元と、周防で勢力を伸ばしていた大内家とが、瀬戸内の支配権をめぐって競っていました。
河野氏は大内義興と手を結び、細川氏に対抗していましたが、義興が死去してからは九州の大友義鑑を頼っていました。
細川晴元は、大内家を継いだ義隆に河野氏を攻めさせたのでした。
河野家の旗色悪しと見た因島の村上家は、大内氏によしみを通じる動きさえ見せていました。
天文10年6月、大内氏の配下白井房胤率いる軍船数百が姿を現し、侵攻の構えを見せたため、安房は将を率いて進撃しますが、果敢に戦った末討ち死にしてしまいます。
鶴姫は三島城の守護を託されていましたが、兄の戦死を聞いて自ら陣頭に立ち、大山積神の化身のごとく戦いを繰り広げ、みごとに敵船団を打ち払ったのでした。 -
大内義隆は10月にも侵攻を企てますが、三島城の陣代となっていた越智安成の防衛によってまたも失敗。
2年後、義隆は満を持して3度目の侵攻に臨み、総大将に陶晴賢を任命して瀬戸内に押し寄せました。
この戦いで、鶴姫と愛し合っていた越智安成が討ち死にしてしまったのです。
勝利に酔う大内の船団に、鶴姫は奇襲をかけ、大きな打撃を与えることに成功しますが、味方の兵士たちを引き揚げさせると、一首をしたためて一人小舟に乗り、海へと消えて行ったのでした。
わが恋は三島の浦のうつせ貝
むなしくなりて名をぞわづらふ
その後、河野家は大内家の支配下にはいりますが、大内義隆が大山祇神社を参拝することで、束の間の平和が訪れたのでした。
境内には、能因法師が雨乞いの和歌を奉納した楠、河野通信の孫にあたる一遍上人が奉納した宝篋印塔、弘安の役で元の水軍に勝った河野通有が兜を掛けた楠などがあり、歴史好きにはたまりません。 -
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しまなみ海道を引き返し、尾道を過ぎて更に北上し、備後国一之宮の吉備津神社へと向かいます。
昼食時が迫っていたので、途中でよさそうな尾道ラーメンの店があったら入ろうと思っていましたが、よく調べてみると尾道ラーメンは基準がないとのことなので、記念にはならないと思いやめることにしました。
そうこうするうちに吉備津神社に到着。
周辺の趣きから、もとは宿場町であったのではないかと思いました。 -
御祭神は大吉備津彦命。
桃太郎さんのモデルとなった古代の人物です。 -
御創建は第51代平城天皇の御代、大同元年のことで、備中国一之宮の吉備津神社から分祀されたと伝えられます。
駐車場には、御神木の巨大な銀杏があります。 -
社殿に向かうと、神楽殿に生け花が立てられていました。
その先には寒桜が植えられていますが、花はほとんど咲いていません。
更に拝殿があり、お焼きがまだ終わっていないのか、大量の正月飾りが積み重ねられていました。
そして一番高い所に、国の重要文化財に指定される本殿が鎮座しています。 -
御祭神の大吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子で、第10代崇神天皇の御代に四道将軍のひとりとして山陽道に派遣され、吉備地方一帯を平定しました。
大吉備津彦命は、毎年10月に全国の八百万の神々が出雲に集う際に欠席したため、心配した大国主命が2人の使者を備後国の使わしたところ、大吉備津彦命は大祭の最中でありました。
2人の使者は歓待され、それ以降大吉備津彦命の親衛の門主として仕えることになり、そのため吉備津彦神社には随身門が2つ建てられているとのことです。
また、備後国は出雲国と同様、10月を神有月と呼んでいます。備後一宮吉備津神社 寺・神社・教会
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鎌倉時代末期、政権の腐敗によって民衆の苦しみが増すと、後醍醐天皇は討幕の決意を固められ、側近の公家らを諸国に遣わして地方の豪族に挙兵を呼びかけられました。
そのような動きを察知した鎌倉幕府は、公家らを捕縛して処断し、後醍醐天皇を廃して持明院派の天皇を立てるため、御所に軍勢を送りますが、後醍醐天皇はからくも追捕の手を逃れ、笠置山で挙兵したのでした。
この時、それまでの側近たちの働きかけに呼応するように討幕の狼煙をあげたのが大楠公であり、備前の児島高徳公であり、ここ備後の桜山茲俊公でありました。
大楠公はその後の桜井の別れや湊川での討ち死にで有名なのは当然として、児島高徳公も唱歌や詩吟で歌われたりして知られていますが、桜山茲俊についてはあまり知られているとは言えず、自分自身もこの旅を計画して下調べするまで、その名前さえ知りませんでした。
後醍醐天皇が挙兵した笠置山は、間もなく幕府の追討軍によって陥落し、後醍醐天皇は捕えられて隠岐へ流されてしまいます。
また大楠公の赤坂城も落ち、幕府軍に制圧されてしまいました。 -
その知らせが茲俊公の軍に届くと、兵たちは四散してしまい、望みを断たれた茲俊公は挙兵地の吉備津神社で妻子を殺し、一族郎党とともに自らも自刃して果てたのでした。
しかしその集団自決の裏には、これ以上抵抗することで後醍醐天皇の玉体が侵されることを恐れての犠牲という本質があったことも、忘れてはなりません。
その後、死んだと思われた大楠公は千早城で幕府軍を引きよせ、後醍醐天皇も隠岐からの島抜けに成功し、鎌倉幕府は一気に崩れさることになります。
兵火によって被害を受けた吉備津神社も復興し、更に時代が下がって慶安元年、福山城主水野勝成公の造営によって現在の社殿が完成したのでした。
茲俊公を憐れんだ人々は、長享年間に桜山城跡に神社を創建して顕彰しましたが、暴風によって倒壊したため、明治44年にここ吉備津神社の境内に遷座され、今に至っています。 -
イチオシ
食事をとらないまま、最後の目的地である福山城に到着してしまいました。
車を停めて福山駅周辺を歩くと、お好み焼きの店を発見。
広島風の焼きそばの上で焼く形式だったので、その店に入って食べると、これが大当たり。
これまで食べたお好み焼きの中で、一番おいしかったと思います。
腹も満ちたところで散策開始。
まず福山城の天守閣に向かいました。
関ヶ原の合戦で東軍に属していた福島正則公は毛利家の東のおさえとして安芸と備後に封ぜられました。
しかし家康公の死後、短兵急な彼の性格を危ぶむ幕府は、無許可で広島城を修理したことを口実に、福島氏を越後の魚沼に改易、かわりに備後には水野勝成公を移しました。
彼は本城として、3年の月日をかけてこの福山城を建てたのでした。
武家諸法度では新たに築城することが禁じられていましたが、福山城は例外的に認められたため、近世城郭としては最後に築かれた城なのです。福山城 名所・史跡
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本丸の正門にあたる筋金御門は、扉や門柱に筋状の鉄板が打ちつけられています。
伏見城から移築されたという説があり、案内板にもその通りに書かれていますが、実際は独自に建設されたもののようです。
駐車した美術館に抜ける道があり、途中には水野勝成公の像がありました。 -
天守閣の北には、備後護国神社が鎮座しています。
福山藩8代藩主の阿部正精公が、阿部家の祖である大彦命とその子の武沼河別命、豊韓別命、そして歴代藩主を祀るために文化9年に工事を始め、翌10年に竣工しました。
勇鷹神社を称していましたが、明治10年に阿部神社と改称しました。
それとは別に、明治元年に旧藩主阿部正桓公が、維新の動乱によって命を落とした備後の英霊を祀るために創建し、明治26年に福山城跡に遷座、34年に招魂社と改称して大東亜戦争までの英霊を合祀しました。 -
昭和32年、この2つの神社が合併して備後護国神社となり、阿部神社の社殿で祭祀が継続されることとなったのでした。
神門から奥へと階段が続いており、それを登ると拝殿・本殿へと至ります。備後護国神社 寺・神社・教会
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備後護国神社の境内には、宮本武蔵腰掛石があります。
説明書きによると、元和元年の大阪夏の陣に水野勝成公の陣に属した宮本武蔵は、後の寛永年中に水野家二番家老の中山将監の自宅に招かれ、宴の最中に庭園にあった庭石に腰掛けたと伝えられる石なのです。
その後、水野家は断絶して阿部氏が入封し、中山氏邸は阿部家第二家老下宮氏の屋敷となります。
そして廃藩置県となり、下宮氏は屋敷を引き払う際、この石の由緒によって阿部神社に寄進したのでした。
宮本武蔵は、水野家中の中川志摩野ノ助の三男を養子として入れるなど、水野家との縁は深く、西軍に属したという俗説が誤りであることは明確です。 -
また境内には、御祭神のひとり、阿部正弘公の石像が置かれていました。
福山藩阿部家第7代藩主でもあった阿部正弘公は、24歳にして老中主座に就任し、嘉永5年には筆頭老中にまで昇ります。
水戸斉昭公や島津斉彬公ら尊皇攘夷派の意見もしっかり聞き、朝廷も尊重して幕政を進めていましたが、井伊大老と尊攘派の狭間に立たされて心労が募ったのか、39歳の若さで世を去ってしまいました。
彼の態度を八方美人と批判する人は、生前・死後を問わずおります。
彼の死後に安政の大獄を断行した井伊大老は暗殺されてしまい、対立の激化がおさまらないまま幕府の崩壊につながったことを思えば、八方美人の人心掌握術も手段の一つとして悪くはなかったと思います。
歴史は過去のことなので、後世の人間は何とでも評価できますが、それぞれの苦悩を思えば、現在の難局も乗り切れる知恵がわいてきそうな気がします。
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