ナイロビ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
   この度のアフリカ旅行で桜の他に大きな目的はケニアのジャフェットさんと再会することだった。 ジャフェットさんは25年前、わが家で10ヶ月ホームスティをした人だった。 以前にもちょっと触れたが、ジャフェットさんは日本に稲作の研修に来たのだが、引き受けてくれる農業専従者のホストファミリーが新潟県で見つからなかった。当時、私はEIL(国際生活体験協会)の地区委員をボランティアでやっていた。県庁の国際交流課から協力してくれといわれ、私も農業専従者の知人を5,6人当ってみたが、皆、「色の黒いのはどうも」と断られた。(新潟県は当時、すごい人種差別) 3週間後にはジャフェットさんは来日する。私の職業は農業でなかったが、空いている部屋があったので、「私の家でよければ」というと、「長岡の農業試験場(現在農産普及所)で研修させるから是非、お願いする」とほっとしたようすだった。途中で農業専従者の家が見つかれば、移るという条件でお引き受けしたが、結局、最後までわが家でお預かりした。帰国後、一度、手紙をもらったきりになってしまった。<br /> そのジャフェットさんに25年ぶりに会えたのである。 ジャフェットさんに連絡を取るまで、長岡農産普及所の元所長の星さん、ナイロビ在住のNさん、元、ケニアへ青年海外協力隊で派遣されていた白鳥さんの協力を得て、実現したのである。(ジャフェットサンの携帯電話番号が分っても日本から通じなかったので、ナイロビ在住のNさんに仲介をしていただいた)<br /> ジャフェットさんはナイロビからバスで9時間かかるアンバサから、さらにバスで乗り換えて4時間かかるガルセンという、人口15、000人の集落に住んでいる。ナイロビに来るまで、バスの乗り継ぐ時間を合わせると約一日かかるのだそうだ。(私が日本からナイロビに着くまでの時間よりかかる)<br /> 10月7日朝、7時、けたたましくホテルの私の部屋の電話が鳴った。ジャフェットさんの到来だった。待ち合わせ時間より、ずっと早くホテルに来たのである。なんだか会うのが怖いような気持ちになった。私は急いで着替えて、ホテルのロビーに行くと、昔より一回りも大きいジャフェットさんがにこやかに立っていた。抱擁はしなかったが、両手を握りしめての喜びの再会であった。(51歳よりずっと老けて見えた)<br /> その晩、同じホテルに泊まるよう手配していたのだが、まだチェックインは出来ないので、私の部屋で語りあった。<br /> ジャフェットさんは昔も大きかったが、現在は110キロまで増えたという。私の同じ糖尿病だったが、全然、食事制限なんかしていないのだそうだ。質素な身なりだった。靴ではなくサンダルのようなのを履いていた。汚れた大きなビニール袋に入っていたのが私のお土産だった。<br /> 開けてびっくりした。奥さんが何ヶ月もかけて織ってくれた草の繊維の絨毯だった。中央に「WELCOME TO KENYA MR MINEMURA」という文字が織り込んであった。感動だった。どんな事があってもこれは持ち帰らなければならないと決めた。(1畳以上もあるので、汚れた私の衣類を全部ホテルに捨てて、ケースに押し詰めた)<br />  ジャフェットさんは貧しかった。現在、水田に水を引く灌漑の仕事をしているが1ヶ月の給与は36000円ほどなのだそうだ。集落の人たちの平均賃金は1ヶ月100ドル未満だという。<br /> その後、10月9日、キリマンジャロ空港で別れるまで、ずっと行動を共にした。 巨大なジャフェットさんが側にいるだけで私の身の安全は護れた。予想していた通り、平成版「一本刀土俵入り」だった。往年の力士、小錦にそっくりだった。<br /> ジャフェットさんは日本で農業研修して帰国後、稲作に励んだ。集落の人が総出で広大な荒野を開拓して、灌漑をして川から水を引いた。ようやく完成して、稲が2年ほどたわわに実ったかと思ったら、1996年、大洪水で全滅してしまったのだそうだ。その後、やる気を失くして田を手入れしなかったら、ブッシュが生い茂ってしまった。<br /> 「やはり稲作をして集落を豊にしよう」と思い立ったのが5年前との事だった。「今、5分の1ほど、開墾した」、と嬉しそうに語った。<br /> ジャフェットさんと別れる日の朝、ジャフェットさんは私の部屋のドアーをノックした。私の部屋で、最初に、この度の費用の全額と日当を私が支払ったことの感謝の言葉を述べた。それから、私に真面目にそして、真剣に切願した。<br />「Mr. Minemura, please help me and our villege. We are very poor」 これからは概要で日本語で書かせてもらう。日本の政府や大企業に私たちの集落を救ってくれるように頼んでくれないか。灌漑しで用水を田を水を引いてもセメントの本格工事でないので、又、大雨が降れば洪水となって、全滅してしまうという主旨のことを話した。<br /> 残酷だが、私は「No」としか言わざるを得なかった。私は名もなく貧しい一庶民でしかないことを説明したことは勿論である。<br /> 9日の午後1時、ジャフェットさんの方が1便早い飛行機でナイロビに向かった。(午後6時半の夜行バスに乗るため)<br /> ナイロビの空港までジャフェットさんを送って別れる時、急に悲しくなった。もう、この人とは二度と会うことはないだろう。朝、ジャフェットさんの真剣な願いに「No」と言った自分が薄情に思えた。 別れ際、私はジャフェットさんに抱きついた。ジャフェットさんの首に自分の額を擦り付けた。ジャフェットさんの温かい血の流れを感じた。<br /> そして、別れた。5,6歩進んでから、ジャフェットさんは振り向いた。笑顔だったがジャフェットさんの目に涙が光っていた。 その涙はトピカピ宮殿(イスタンブール)の86カラットのダイヤモンドより光っていた。<br /> ジャフェットさんが消えてから、私は立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んで嗚咽した。キリマンジャロ登山の大きなリュックを背負った白人が不思議そうな顔をして私を見ていた。 <br />

ナイロビ、キリマンジャロ、チェンマイの旅3 ケニアのジャフェットさんとの再会

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2011/10/06 - 2011/10/09

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ゆらのと

ゆらのとさん

   この度のアフリカ旅行で桜の他に大きな目的はケニアのジャフェットさんと再会することだった。 ジャフェットさんは25年前、わが家で10ヶ月ホームスティをした人だった。 以前にもちょっと触れたが、ジャフェットさんは日本に稲作の研修に来たのだが、引き受けてくれる農業専従者のホストファミリーが新潟県で見つからなかった。当時、私はEIL(国際生活体験協会)の地区委員をボランティアでやっていた。県庁の国際交流課から協力してくれといわれ、私も農業専従者の知人を5,6人当ってみたが、皆、「色の黒いのはどうも」と断られた。(新潟県は当時、すごい人種差別) 3週間後にはジャフェットさんは来日する。私の職業は農業でなかったが、空いている部屋があったので、「私の家でよければ」というと、「長岡の農業試験場(現在農産普及所)で研修させるから是非、お願いする」とほっとしたようすだった。途中で農業専従者の家が見つかれば、移るという条件でお引き受けしたが、結局、最後までわが家でお預かりした。帰国後、一度、手紙をもらったきりになってしまった。
 そのジャフェットさんに25年ぶりに会えたのである。 ジャフェットさんに連絡を取るまで、長岡農産普及所の元所長の星さん、ナイロビ在住のNさん、元、ケニアへ青年海外協力隊で派遣されていた白鳥さんの協力を得て、実現したのである。(ジャフェットサンの携帯電話番号が分っても日本から通じなかったので、ナイロビ在住のNさんに仲介をしていただいた)
 ジャフェットさんはナイロビからバスで9時間かかるアンバサから、さらにバスで乗り換えて4時間かかるガルセンという、人口15、000人の集落に住んでいる。ナイロビに来るまで、バスの乗り継ぐ時間を合わせると約一日かかるのだそうだ。(私が日本からナイロビに着くまでの時間よりかかる)
 10月7日朝、7時、けたたましくホテルの私の部屋の電話が鳴った。ジャフェットさんの到来だった。待ち合わせ時間より、ずっと早くホテルに来たのである。なんだか会うのが怖いような気持ちになった。私は急いで着替えて、ホテルのロビーに行くと、昔より一回りも大きいジャフェットさんがにこやかに立っていた。抱擁はしなかったが、両手を握りしめての喜びの再会であった。(51歳よりずっと老けて見えた)
 その晩、同じホテルに泊まるよう手配していたのだが、まだチェックインは出来ないので、私の部屋で語りあった。
 ジャフェットさんは昔も大きかったが、現在は110キロまで増えたという。私の同じ糖尿病だったが、全然、食事制限なんかしていないのだそうだ。質素な身なりだった。靴ではなくサンダルのようなのを履いていた。汚れた大きなビニール袋に入っていたのが私のお土産だった。
 開けてびっくりした。奥さんが何ヶ月もかけて織ってくれた草の繊維の絨毯だった。中央に「WELCOME TO KENYA MR MINEMURA」という文字が織り込んであった。感動だった。どんな事があってもこれは持ち帰らなければならないと決めた。(1畳以上もあるので、汚れた私の衣類を全部ホテルに捨てて、ケースに押し詰めた)
  ジャフェットさんは貧しかった。現在、水田に水を引く灌漑の仕事をしているが1ヶ月の給与は36000円ほどなのだそうだ。集落の人たちの平均賃金は1ヶ月100ドル未満だという。
 その後、10月9日、キリマンジャロ空港で別れるまで、ずっと行動を共にした。 巨大なジャフェットさんが側にいるだけで私の身の安全は護れた。予想していた通り、平成版「一本刀土俵入り」だった。往年の力士、小錦にそっくりだった。
 ジャフェットさんは日本で農業研修して帰国後、稲作に励んだ。集落の人が総出で広大な荒野を開拓して、灌漑をして川から水を引いた。ようやく完成して、稲が2年ほどたわわに実ったかと思ったら、1996年、大洪水で全滅してしまったのだそうだ。その後、やる気を失くして田を手入れしなかったら、ブッシュが生い茂ってしまった。
 「やはり稲作をして集落を豊にしよう」と思い立ったのが5年前との事だった。「今、5分の1ほど、開墾した」、と嬉しそうに語った。
 ジャフェットさんと別れる日の朝、ジャフェットさんは私の部屋のドアーをノックした。私の部屋で、最初に、この度の費用の全額と日当を私が支払ったことの感謝の言葉を述べた。それから、私に真面目にそして、真剣に切願した。
「Mr. Minemura, please help me and our villege. We are very poor」 これからは概要で日本語で書かせてもらう。日本の政府や大企業に私たちの集落を救ってくれるように頼んでくれないか。灌漑しで用水を田を水を引いてもセメントの本格工事でないので、又、大雨が降れば洪水となって、全滅してしまうという主旨のことを話した。
 残酷だが、私は「No」としか言わざるを得なかった。私は名もなく貧しい一庶民でしかないことを説明したことは勿論である。
 9日の午後1時、ジャフェットさんの方が1便早い飛行機でナイロビに向かった。(午後6時半の夜行バスに乗るため)
 ナイロビの空港までジャフェットさんを送って別れる時、急に悲しくなった。もう、この人とは二度と会うことはないだろう。朝、ジャフェットさんの真剣な願いに「No」と言った自分が薄情に思えた。 別れ際、私はジャフェットさんに抱きついた。ジャフェットさんの首に自分の額を擦り付けた。ジャフェットさんの温かい血の流れを感じた。
 そして、別れた。5,6歩進んでから、ジャフェットさんは振り向いた。笑顔だったがジャフェットさんの目に涙が光っていた。 その涙はトピカピ宮殿(イスタンブール)の86カラットのダイヤモンドより光っていた。
 ジャフェットさんが消えてから、私は立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んで嗚咽した。キリマンジャロ登山の大きなリュックを背負った白人が不思議そうな顔をして私を見ていた。 

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
飛行機
旅行の手配内容
個別手配
  • 小錦そっくりのジャフェットさんと。背景に見えるのは数千羽のフラミンゴ。

    小錦そっくりのジャフェットさんと。背景に見えるのは数千羽のフラミンゴ。

  • ジャフェットさんの奥さんが私に負ってくれた絨毯。(私の名前入)

    ジャフェットさんの奥さんが私に負ってくれた絨毯。(私の名前入)

  • キリマンジャロ登山口で。

    キリマンジャロ登山口で。

  • アフリカのバラとジャフェットさん。

    アフリカのバラとジャフェットさん。

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