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JR水郡線を利用して陸奥白河小峰城(こみねじょう、福島県白河市追廻)<br />を訪問しました。早朝八王子駅を出発、水郡線にて水戸駅経由郡山駅を目指し、郡山駅にて昼食、その後東北本線にて白河駅へと向かいます。白河駅下車すると北側に復元された端正な三重櫓が威風堂々と見えます。<br /><br />白河小峰城は14世紀中頃に結城氏5代目親朝が小峰ケ岡に城を構えたのが初めと言われていますが、天正18年(1590)豊臣秀吉による「奥州仕置」で15代目当主結城義朝は先の小田原攻めに参陣しなかった事を追求され所領を没収、結城氏は滅亡します。以降当領は会津領に併合され、蒲生氏、上杉氏、再度蒲生氏の所領となります。<br /><br />江戸幕府樹立後、当地域が会津領であった頃に一部改修された城郭や城下町を寛永4年(1627)、初代藩主となった築城の名手丹羽長重(にわ・ながしげ、1571~1637)は2代将軍秀忠の命を受け4年の歳月をかけて本格的に城郭の大改修と城下町の整備を行います。<br /><br />その背景としては、当時の幕府体制はまだまだ脆弱であり秀忠は江戸城が攻撃を受ける懸念を抱いており、大改修に当たっては伊達・上杉・佐竹等の外様大名からの侵入路にあたる城郭の北側を重点的に防備を施し「奥州の押え」にふさわしい盤石な城郭を造る必要がありました。<br /><br />幕府は長重没後、寛永20年(1643)嫡男丹羽光重を外様であるが故か次の築城目的の為岩代国二本松に移封、奥州防衛固めの一環として譜代重鎮の榊原忠次を14万石で入城を始めとして本多氏、松平(奥平)氏、松平(結城)氏、松平(久松)氏、阿部氏と7家21代もの譜代・親藩に10~15万石高で交通の要地である白河経営を委ねます。<br /><br />慶応3年(1867)最後の藩主阿部正静が磐城棚倉に移封されると当地は天領となり幕末の動乱、つまり戊辰戦争を迎えます。交通の要地である白河では新政府軍と奥羽越同盟軍が攻防を繰り返し、小峰城は1868年5月1日の戦いで落城、大部分が消失しました。<br /><br />地勢的には北側に流れる阿武隈川に沿った東西に細長く延びた丘陵台地を利用した不整五角形形城郭で、丘陵部西端の頂上部に本丸、南東側に二の丸、更に三の丸を設け、各郭の周囲には石垣・土塁・大小の堀を巡らし、東西南北それぞれに門を設置して城下町と区別しています。本丸北側は土手を築き阿武隈川の流れを北に変え、その旧河道の一部を外堀として、内堀と石垣とで2重・3重の構えとして北側からの攻撃に万全の備えを施しています。<br /><br />自分が訪問した時期は東日本地震による被害を受け石垣が崩落、三重櫓入場が立入禁止となり無残な姿となっており、自分としては心残りな訪問となりました。<br /><br /><br /><br />2022年3月10日追記<br /><br />入手したパンフレットには下記の通り記述されています。<br /><br />「白河小峰城の歴史<br /><br />白河小峰城は結城親朝が14世紀中興、小峰ケ岡に城を構えたのが始めと言われています。<br /><br />江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に一部改修された城郭や城下町を、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重が、城郭の大改修と城下町の整備を行いました。小峰城は4年の歳月を費やし、「奥州の抑え」にふさわしい石垣を多用した梯廓式(はしご状に廓が設けられている)の平山城として同9年に完成しました。<br /><br />その後、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部と7家21代もの大名が交代し、居城としましたが、慶応3年(1867)最後の藩主阿部家が棚倉藩へ移封されると白河は幕領となり、同4年の戊辰戦争を迎えます。<br /><br />交通の要衛である白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返し、小峰城は5月1日の大規模な戦いで落城、大部分が消失しました。」

陸奥白河 関ヶ原合戦で浪人の身から見事に大名復帰、将軍秀忠御伽衆として信任を得て外様ながら父譲りの技術を誇った丹羽長重築城『白河小峰城』訪問

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2011/08/28 - 2011/08/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR水郡線を利用して陸奥白河小峰城(こみねじょう、福島県白河市追廻)
を訪問しました。早朝八王子駅を出発、水郡線にて水戸駅経由郡山駅を目指し、郡山駅にて昼食、その後東北本線にて白河駅へと向かいます。白河駅下車すると北側に復元された端正な三重櫓が威風堂々と見えます。

白河小峰城は14世紀中頃に結城氏5代目親朝が小峰ケ岡に城を構えたのが初めと言われていますが、天正18年(1590)豊臣秀吉による「奥州仕置」で15代目当主結城義朝は先の小田原攻めに参陣しなかった事を追求され所領を没収、結城氏は滅亡します。以降当領は会津領に併合され、蒲生氏、上杉氏、再度蒲生氏の所領となります。

江戸幕府樹立後、当地域が会津領であった頃に一部改修された城郭や城下町を寛永4年(1627)、初代藩主となった築城の名手丹羽長重(にわ・ながしげ、1571~1637)は2代将軍秀忠の命を受け4年の歳月をかけて本格的に城郭の大改修と城下町の整備を行います。

その背景としては、当時の幕府体制はまだまだ脆弱であり秀忠は江戸城が攻撃を受ける懸念を抱いており、大改修に当たっては伊達・上杉・佐竹等の外様大名からの侵入路にあたる城郭の北側を重点的に防備を施し「奥州の押え」にふさわしい盤石な城郭を造る必要がありました。

幕府は長重没後、寛永20年(1643)嫡男丹羽光重を外様であるが故か次の築城目的の為岩代国二本松に移封、奥州防衛固めの一環として譜代重鎮の榊原忠次を14万石で入城を始めとして本多氏、松平(奥平)氏、松平(結城)氏、松平(久松)氏、阿部氏と7家21代もの譜代・親藩に10~15万石高で交通の要地である白河経営を委ねます。

慶応3年(1867)最後の藩主阿部正静が磐城棚倉に移封されると当地は天領となり幕末の動乱、つまり戊辰戦争を迎えます。交通の要地である白河では新政府軍と奥羽越同盟軍が攻防を繰り返し、小峰城は1868年5月1日の戦いで落城、大部分が消失しました。

地勢的には北側に流れる阿武隈川に沿った東西に細長く延びた丘陵台地を利用した不整五角形形城郭で、丘陵部西端の頂上部に本丸、南東側に二の丸、更に三の丸を設け、各郭の周囲には石垣・土塁・大小の堀を巡らし、東西南北それぞれに門を設置して城下町と区別しています。本丸北側は土手を築き阿武隈川の流れを北に変え、その旧河道の一部を外堀として、内堀と石垣とで2重・3重の構えとして北側からの攻撃に万全の備えを施しています。

自分が訪問した時期は東日本地震による被害を受け石垣が崩落、三重櫓入場が立入禁止となり無残な姿となっており、自分としては心残りな訪問となりました。



2022年3月10日追記

入手したパンフレットには下記の通り記述されています。

「白河小峰城の歴史

白河小峰城は結城親朝が14世紀中興、小峰ケ岡に城を構えたのが始めと言われています。

江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に一部改修された城郭や城下町を、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重が、城郭の大改修と城下町の整備を行いました。小峰城は4年の歳月を費やし、「奥州の抑え」にふさわしい石垣を多用した梯廓式(はしご状に廓が設けられている)の平山城として同9年に完成しました。

その後、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部と7家21代もの大名が交代し、居城としましたが、慶応3年(1867)最後の藩主阿部家が棚倉藩へ移封されると白河は幕領となり、同4年の戊辰戦争を迎えます。

交通の要衛である白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返し、小峰城は5月1日の大規模な戦いで落城、大部分が消失しました。」

交通手段
JR特急 JRローカル 徒歩
  • 6:02八王子発<br /><br />この後神田~上野~水戸の順路で移動しました。上野からは常磐線快速に乗車です。

    6:02八王子発

    この後神田~上野~水戸の順路で移動しました。上野からは常磐線快速に乗車です。

  • 9:22水戸発<br /><br />水郡線の途中で棚倉城跡がありますが帰路の時間に余裕が無く下車を断念します。<br /><br />

    9:22水戸発

    水郡線の途中で棚倉城跡がありますが帰路の時間に余裕が無く下車を断念します。

  • 郡山行ディーゼル3輌編成<br /><br />既に多数の乗客が出発を待っています。

    郡山行ディーゼル3輌編成

    既に多数の乗客が出発を待っています。

  • カラフルな車両

    カラフルな車両

  • 常陸大子(ひたちだいご)駅<br /><br />当駅で1輌を切離しします。

    常陸大子(ひたちだいご)駅

    当駅で1輌を切離しします。

  • 常陸大子駅構内<br /><br />広い敷地に車両が駐機しています。

    常陸大子駅構内

    広い敷地に車両が駐機しています。

  • 白河駅からの遠望<br /><br />築城者の丹羽長重は織田信長の重臣で安土城普請奉行を勤めた丹羽長秀(にわ・ながひで)の長男で、父の影響を受け高度な築城技術を持っていました。<br />それは長重は外様大名でありながら、関東と東北の境目である要衛の地で明らかに奥州の有力大名への備えという使命を受けてのことで大改修を行った訳ですから、秀忠及び幕臣の長重への信頼がいかに厚かったかが窺えます。

    白河駅からの遠望

    築城者の丹羽長重は織田信長の重臣で安土城普請奉行を勤めた丹羽長秀(にわ・ながひで)の長男で、父の影響を受け高度な築城技術を持っていました。
    それは長重は外様大名でありながら、関東と東北の境目である要衛の地で明らかに奥州の有力大名への備えという使命を受けてのことで大改修を行った訳ですから、秀忠及び幕臣の長重への信頼がいかに厚かったかが窺えます。

  • 二の丸からの遠望<br /><br />手前のトイレ建物の向こうに三重櫓を眺めます。

    二の丸からの遠望

    手前のトイレ建物の向こうに三重櫓を眺めます。

  • 二の丸の城跡石碑<br /><br />後方は三重櫓が見えます。

    イチオシ

    二の丸の城跡石碑

    後方は三重櫓が見えます。

  • 石垣崩落<br /><br />東日本大震災による被害により石垣崩落のため立入厳禁となってます。

    石垣崩落

    東日本大震災による被害により石垣崩落のため立入厳禁となってます。

  • 立入厳禁看板<br /><br />

    立入厳禁看板

  • 小峰白河城説明

    小峰白河城説明

  • 石垣と水堀<br /><br />清水門跡東側の水堀と竹之丸火見櫓跡櫓台の石垣。

    石垣と水堀

    清水門跡東側の水堀と竹之丸火見櫓跡櫓台の石垣。

  • 崩落写真拡大

    崩落写真拡大

  • 石垣と水堀<br /><br />清水門跡西側の水堀と月見櫓跡櫓台の石垣。

    石垣と水堀

    清水門跡西側の水堀と月見櫓跡櫓台の石垣。

  • 石垣<br /><br />大きい石垣が眼前に迫ります。

    石垣

    大きい石垣が眼前に迫ります。

  • 白河集古苑<br /><br />中世の白河結城氏及び近世最後の白河藩主阿部氏に伝えられた貴重な古文書や工芸美術品等が展示されています。<br /><br />(入場料:大人310円)

    白河集古苑

    中世の白河結城氏及び近世最後の白河藩主阿部氏に伝えられた貴重な古文書や工芸美術品等が展示されています。

    (入場料:大人310円)

  • 二の丸から三重櫓を遠望<br /><br />広々とした三の丸跡です。近隣の家族が犬と戯れています。

    二の丸から三重櫓を遠望

    広々とした三の丸跡です。近隣の家族が犬と戯れています。

  • 太鼓門跡説明<br /><br />太鼓門は二の丸の南側からの入口にあたり、藩士の登城 <br />合図を鳴らす太鼓を置いていたと思われます。

    太鼓門跡説明

    太鼓門は二の丸の南側からの入口にあたり、藩士の登城 
    合図を鳴らす太鼓を置いていたと思われます。

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