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県境を越えたので福島県へ。白河市の入口にある白坂宿へ。<br /><br />【白坂宿】<br />天正18年(1590年)、秀吉が伊達政宗に小田原から会津への街道の<br />整備をさせた時に、芦野宿と白河宿の間が長すぎるので、<br />ここ白坂(泉岡)を宿駅としたのが始まりである。<br />天正18年は、秀吉が小田原を攻略した年であった。<br />江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には<br />家屋数は66軒であった

奥州古道歩き No7. 福島県の最初の宿は白坂宿(7)へ

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2014/06/19 - 2014/06/19

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ムッシュ

ムッシュさん

県境を越えたので福島県へ。白河市の入口にある白坂宿へ。

【白坂宿】
天正18年(1590年)、秀吉が伊達政宗に小田原から会津への街道の
整備をさせた時に、芦野宿と白河宿の間が長すぎるので、
ここ白坂(泉岡)を宿駅としたのが始まりである。
天正18年は、秀吉が小田原を攻略した年であった。
江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には
家屋数は66軒であった

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  • 福島県白河市の標識が出て来ました。これで栃木県を終え、もうすぐ福島県ウォーク開始です。

    福島県白河市の標識が出て来ました。これで栃木県を終え、もうすぐ福島県ウォーク開始です。

  • 国境(現県境、下野側、那須町)手前の【境の明神】である<br />玉津島神社と呼ばれ、陸奥側の住吉神社と国境を挟んで並立している<br />創立は古く、天喜元年(1053年)に紀州和歌浦の玉津島神社を分霊勧請と伝えられている<br />境の明神と呼ばれる玉津島神社が鎮座しています、峠神で寄居の総鎮守です。<br /><br />玉津島明神(女神)と住吉明神(男神)は共に國境の神として祀られています、女神は内(國)を守り、男神は外(外敵)を防ぐという信仰に基づいています

    国境(現県境、下野側、那須町)手前の【境の明神】である
    玉津島神社と呼ばれ、陸奥側の住吉神社と国境を挟んで並立している
    創立は古く、天喜元年(1053年)に紀州和歌浦の玉津島神社を分霊勧請と伝えられている
    境の明神と呼ばれる玉津島神社が鎮座しています、峠神で寄居の総鎮守です。

    玉津島明神(女神)と住吉明神(男神)は共に國境の神として祀られています、女神は内(國)を守り、男神は外(外敵)を防ぐという信仰に基づいています

  • いよいよ栃木と福島の県境。旧奥州街道の関東と奥州の境にあり国境をはさんで2社があり、「境の明神」と呼んでいるる<br />手前の栃木側に、【玉津島神社】がある。<br />玉津島明神は明治39年の火災後に再建された。 神社の先が県境の峠で樹木が鬱蒼と茂り、右手上方に松平定信が書いた境界石が置いてある。現在の道は2m程切下げられていて,昔はもっと急だった。<br /><br />	<br />【境の明神】 那須町指定史跡<br />玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。<br />創建は古く、天喜元年(1053)四月十四日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治三九年十二月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。<br />                           那須町教育委員会

    いよいよ栃木と福島の県境。旧奥州街道の関東と奥州の境にあり国境をはさんで2社があり、「境の明神」と呼んでいるる
    手前の栃木側に、【玉津島神社】がある。
    玉津島明神は明治39年の火災後に再建された。 神社の先が県境の峠で樹木が鬱蒼と茂り、右手上方に松平定信が書いた境界石が置いてある。現在の道は2m程切下げられていて,昔はもっと急だった。


    【境の明神】 那須町指定史跡
    玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。
    創建は古く、天喜元年(1053)四月十四日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治三九年十二月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。
                               那須町教育委員会

  • こちらは福島県側(陸奥国側)というか、白坂宿側の”境の明神”です。<br />境界を挟んで、それぞれに、”境の明神”を祭っているわけです。<br /><br />なお、白河側ではこの境の明神では玉津島明神(女神、衣通姫、そとおりひめ)を祀り、<br />下野側では住吉明神(男神、中筒男命、なかつつおのみこと)を祀っている

    こちらは福島県側(陸奥国側)というか、白坂宿側の”境の明神”です。
    境界を挟んで、それぞれに、”境の明神”を祭っているわけです。

    なお、白河側ではこの境の明神では玉津島明神(女神、衣通姫、そとおりひめ)を祀り、
    下野側では住吉明神(男神、中筒男命、なかつつおのみこと)を祀っている

  • こちらの神社には、和算学の教えが奉納されている。

    こちらの神社には、和算学の教えが奉納されている。

  • 奉納和算額 数学の問題が解けた喜びを神仏に感謝し奉納したもの

    奉納和算額 数学の問題が解けた喜びを神仏に感謝し奉納したもの

  • 明神さんの本殿<br />境の明神である住吉神社が鎮座しています、文禄4年(1595年)白河を支配していた会津蒲生氏の創建です。<br /><br />【境の明神と玉津島神社】<br /> 「衣かへ紐ときあへず奈良川にをちこち人の越え渡るなり (読み人知らず)」<br /> 境の明神の地に二社ある。その一つは天喜元年(1053)四月十四日、紀州和歌の浦玉津島神社を勧請したと伝えられている。祭神は衣通姫(そとおりひめ)である古代国境には住吉神社(中筒男命・なかつつおのみこと)と玉津島神社の両神を祀ることが慣わしであったという。両神とも和歌の神として知られ、女神は内、自らの国を守り、男神は外、他地方を抑えるという考えがあるという。<br />  京の都と奥州を結ぶ道は、古代には東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。途中の追分には追分明神(住吉玉津島神社という)が鎮座している。祭神は衣通姫である。<br />  中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(鎌倉街道)が確認されている。さらには奥州道中の前身(芦野では往古街道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州道中が整備され、参勤交代をはじめ交通、流通の幹線として多くの人馬の往来があった。<br />  境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として信仰の対象となったものである。<br />  近年、境の明神の二社をめぐって祭神の異説があるが、江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、奥州側を境明神としている。<br />  境の明神の由来は国境の神がその原形であり、当初は小さな祠であったろうと推察される。その後、為政者や経済、信仰などの事由によって現在のような社が形成されてきたものであろう。<br />  境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。那須町以外では茨城県と福島県境や旧黒羽町須佐木と須賀川境、旧馬頭町と太子町の県境に明神峠が存在するが、いずれも建立時期に違いもあり、目的もまた異なるが、二社の存在が明確にはなっていない。<br /><br /> 国境(県境)に建つ二社の歴史的な意義をさぐり、正しく後世に伝えることも重要な課題であろう。

    明神さんの本殿
    境の明神である住吉神社が鎮座しています、文禄4年(1595年)白河を支配していた会津蒲生氏の創建です。

    【境の明神と玉津島神社】
     「衣かへ紐ときあへず奈良川にをちこち人の越え渡るなり (読み人知らず)」
     境の明神の地に二社ある。その一つは天喜元年(1053)四月十四日、紀州和歌の浦玉津島神社を勧請したと伝えられている。祭神は衣通姫(そとおりひめ)である古代国境には住吉神社(中筒男命・なかつつおのみこと)と玉津島神社の両神を祀ることが慣わしであったという。両神とも和歌の神として知られ、女神は内、自らの国を守り、男神は外、他地方を抑えるという考えがあるという。
      京の都と奥州を結ぶ道は、古代には東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。途中の追分には追分明神(住吉玉津島神社という)が鎮座している。祭神は衣通姫である。
      中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(鎌倉街道)が確認されている。さらには奥州道中の前身(芦野では往古街道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州道中が整備され、参勤交代をはじめ交通、流通の幹線として多くの人馬の往来があった。
      境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として信仰の対象となったものである。
      近年、境の明神の二社をめぐって祭神の異説があるが、江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、奥州側を境明神としている。
      境の明神の由来は国境の神がその原形であり、当初は小さな祠であったろうと推察される。その後、為政者や経済、信仰などの事由によって現在のような社が形成されてきたものであろう。
      境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。那須町以外では茨城県と福島県境や旧黒羽町須佐木と須賀川境、旧馬頭町と太子町の県境に明神峠が存在するが、いずれも建立時期に違いもあり、目的もまた異なるが、二社の存在が明確にはなっていない。

     国境(県境)に建つ二社の歴史的な意義をさぐり、正しく後世に伝えることも重要な課題であろう。

  • 境神社境内の安永6年(1777年)建立の<br />芭蕉句碑「風流のはじめや奥の田うへ哥」

    境神社境内の安永6年(1777年)建立の
    芭蕉句碑「風流のはじめや奥の田うへ哥」

  • 境神社境内の俳諧碑林

    境神社境内の俳諧碑林

  • 【白河二所の関の石碑】<br />街道を挟んで住吉神社の向いの段上に白河二所之関址碑があります、奥州道中のここと旗宿道の二ケ所に白河の関があったといいます。<br /><br />ここには関守であった石井七兵衛の子孫が営むお休所南部屋七兵衛がありました、八戸藩主南部直房が参勤の度に境の明神に詣でた後、この茶屋で名物の千台(せんだい)餅を賞味したところから南部屋と称しました。<br /><br />	<br />【白河ニ所関址】<br />  白河ノ関ハ古クカラニ所ノ関ト呼ハレハ潢準平原ノ中ヲ横断スル奥州路ハココテ道ヲ幾通リニモ選ヘルノテアル白河樂翁ニヨリ指定サレタ今ノ旗宿道ハ其ノ一本テアル 然シコレヨリ西側三キロノ所ヲ通 ツテイル白坂道ハ昔カラヨク利用サレ古ノ関蹟ニミラレル関ノ男女ノ明神址カアリ古関ノ体裁ヲモツトモヨク保チナカラ白坂ノ関址ハ全ク無視サレテ来タ 余 多年関境ノ研究ニ没頭シ江戸時代ヨリノ関守ノ家テアル石井浩然(南部藩士テ故アツテ南部藩ノ参勤交代路ニアタル白河ノ関守トナッタ石井七兵衛ノ子孫)ト其ノ考証ノ當タリ遂ニソノ関屋跡ヲ確認スルコトカ出来タ 茲ニ白河ニ所ノ関址之証ヲ機トシ白坂道白河関址ニ記念碑ヲ建立シ永ク白河ニ所ノ関ノ意ヲ傳承セントスルモノテアル<br />    昭和五十七年五月  建之<br />    理学博士・東京学藝大学名譽教授・國士館大学教授 岩田孝三<br />    白河関守 石井浩然

    【白河二所の関の石碑】
    街道を挟んで住吉神社の向いの段上に白河二所之関址碑があります、奥州道中のここと旗宿道の二ケ所に白河の関があったといいます。

    ここには関守であった石井七兵衛の子孫が営むお休所南部屋七兵衛がありました、八戸藩主南部直房が参勤の度に境の明神に詣でた後、この茶屋で名物の千台(せんだい)餅を賞味したところから南部屋と称しました。


    【白河ニ所関址】
      白河ノ関ハ古クカラニ所ノ関ト呼ハレハ潢準平原ノ中ヲ横断スル奥州路ハココテ道ヲ幾通リニモ選ヘルノテアル白河樂翁ニヨリ指定サレタ今ノ旗宿道ハ其ノ一本テアル 然シコレヨリ西側三キロノ所ヲ通 ツテイル白坂道ハ昔カラヨク利用サレ古ノ関蹟ニミラレル関ノ男女ノ明神址カアリ古関ノ体裁ヲモツトモヨク保チナカラ白坂ノ関址ハ全ク無視サレテ来タ 余 多年関境ノ研究ニ没頭シ江戸時代ヨリノ関守ノ家テアル石井浩然(南部藩士テ故アツテ南部藩ノ参勤交代路ニアタル白河ノ関守トナッタ石井七兵衛ノ子孫)ト其ノ考証ノ當タリ遂ニソノ関屋跡ヲ確認スルコトカ出来タ 茲ニ白河ニ所ノ関址之証ヲ機トシ白坂道白河関址ニ記念碑ヲ建立シ永ク白河ニ所ノ関ノ意ヲ傳承セントスルモノテアル
        昭和五十七年五月  建之
        理学博士・東京学藝大学名譽教授・國士館大学教授 岩田孝三
        白河関守 石井浩然

  • 白坂山観音寺

    白坂山観音寺

  • 木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の<br />【「金売吉次三兄弟の墓」】と伝えられている。<br />石塔の石囲いは元治元年(1864年)となっている。承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害された。この地に葬り供養したと伝えられている。<br />後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。<br /><br />承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉寺兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。<br /> 石塔の石囲いは、元治元年(1864)7月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。<br />                     平成十六年 白河市教育委員会<br /><br />木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の<br />【金売吉次三兄弟の墓】と伝えられている。<br />石塔は白河石で作られてた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は不明であるが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。<br />なお、石塔の石囲いは元治元年(1864年)となっている。<br />  承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害され里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。<br />この墓は白河市重要文化財(史蹟)に指定されている。<br /><br />後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。

    木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の
    【「金売吉次三兄弟の墓」】と伝えられている。
    石塔の石囲いは元治元年(1864年)となっている。承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害された。この地に葬り供養したと伝えられている。
    後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。

    承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉寺兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。
     石塔の石囲いは、元治元年(1864)7月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。
                         平成十六年 白河市教育委員会

    木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の
    【金売吉次三兄弟の墓】と伝えられている。
    石塔は白河石で作られてた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は不明であるが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。
    なお、石塔の石囲いは元治元年(1864年)となっている。
      承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害され里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。
    この墓は白河市重要文化財(史蹟)に指定されている。

    後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。

  • 前記の説明板<br />木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の【金売吉次三兄弟の墓】と伝えられている。<br />石塔は白河石で作られてた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は不明であるが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。<br />なお、石塔の石囲いは元治元年(1864年)となっている。<br />承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害された。里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。この墓は白河市重要文化財(史蹟)に指定されている。<br />後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。         平成十六年 白河市教育委員会

    前記の説明板
    木立の中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の【金売吉次三兄弟の墓】と伝えられている。
    石塔は白河石で作られてた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は不明であるが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。
    なお、石塔の石囲いは元治元年(1864年)となっている。
    承安4年(1174年)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害された。里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。この墓は白河市重要文化財(史蹟)に指定されている。
    後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられている。         平成十六年 白河市教育委員会

  • 【皮籠(かわご)・地蔵尊】<br />皮籠八幡神社(吉次八幡)の旧街道を挟んで反対側に、大きな二十三夜塔、その先の街道左側には座り地蔵と石仏群がある。旧街道を偲ばせるてくれるところである。<br />明神旧道北口の左手段上に享保十四年(1729年)と延享三年(1746年)造立の地蔵尊坐像が二体安置されています、地元では明神の地蔵様と呼ばれています、並びには如意輪観音像十九夜塔、光明真言三百萬遍供養塔が祀られています。

    【皮籠(かわご)・地蔵尊】
    皮籠八幡神社(吉次八幡)の旧街道を挟んで反対側に、大きな二十三夜塔、その先の街道左側には座り地蔵と石仏群がある。旧街道を偲ばせるてくれるところである。
    明神旧道北口の左手段上に享保十四年(1729年)と延享三年(1746年)造立の地蔵尊坐像が二体安置されています、地元では明神の地蔵様と呼ばれています、並びには如意輪観音像十九夜塔、光明真言三百萬遍供養塔が祀られています。

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