2014/09/18 - 2014/09/19
203位(同エリア341件中)
ムッシュさん
これから、奥州仙台道のウォークに出発です。幕府管理から外れる郊外の街道ということです。よって大きな宿場は数少ない。
この先、須賀川宿までは小さな集落がつづきます。
順路は、白河宿→根田宿→小田川宿(こたがわ)→大田川宿→踏瀬(ふませ)→中田新田宿→
- 旅行の満足度
- 4.0
-
幕府道中奉行管轄の奥州道中はこの女石追分までです、奥州道中の終点です
ここからは、奥州古仙台道を北上します。
白河宿の外れ、女石追分から川を渡らず、右の旧道を歩き、100mほどで石碑群があった。 -
【遊女志げ女の碑】
戊辰戦争の折り、奥羽鎮撫参謀長州藩士 世良修蔵が志げ女と遊ぶが、この地が危険と察して白河を脱した。このことから会津藩士は志げ女を憎み殺した。これを知った遊女屋の下男が会津藩士を殺し仇を打った。と説明あり。
【遊女志げ女の碑】
女石追分より少し進むと、右側に石仏群があった。その中の一つが遊女志げ女の碑である。
越後三条生まれの志げ女は、幼少の頃白河の坂田屋に引き取られ、客を取る様になる。戊辰戦争の時、客よりこの地が危険であることを知り、白河を抜け出した。会津藩士がそれを怪しみ殺害した。それを知った遊女屋の下男が、ここで会津藩士を殺害し、仇を討ったと石碑に刻まれてあった。 -
国道4号線を少し歩きます。その後旧街道に入る
国道4号に合流して右に行く。「須賀川22km 郡山35km 福島80km」の表示がある。 -
【庭渡神社】
草が生えている土の道が、昔の神社参道。現在は横にアスファルトの道。
鎮守前地区に入ると、旧街道右側山麓に庭渡神社があった。
鶏の神、にわたり神社である。福島県や山形、宮城県を中心に、100社以上あるという。この庭渡の他、二渡、荷渡、二羽渡、仁和多利、新渡、他とある。
この「にわたり」は鶏(にわとり)から来た様で、いろいろ謂れがあるが、
不吉を予言する神で、村の守り神としている例が多いようである。 -
大きな出入り口を有する、立派な家が街道に沿いにあります。
-
ここは根田宿「根田醤油屋。」
みそと醤油を売って200年になるとか。
根田醤油合名会社があります。創業200年の老舗。郵便局も兼ねている。
江戸時代より味噌、醤油を造っていると言う。
建物も当時のものを修理して使用している由。
醤油では「2年もろみ」、味噌では「田舎味噌」が人気とか。
この「田舎味噌」は、大豆1斗に米1斗の配合で、
大豆と米との配合が同量の物は「十合米麹味噌」と呼ばれ、
米麹から出た自然の甘さが、独特のまろやかさを出している。
当地方では、もともと味噌の自家醸造が盛んなところであった。 -
静かな旧道歩きです。気分は良好なり
-
【小田川宿(こたがわ)】
国道のきり通しを進み1km先で宿に入って行く。すぐに小野薬師堂がある。
創建は800年頃と伝わる古社。
伝説:小野小町は故郷秋田に帰郷する際、小田川付近で病気になり、病が治るよう「南無薬師 かけし諸願の根も切れば 身より薬師の名こそ惜しけ れ」と詠い祈願したところ薬師如来が夢枕に立ち「村雨の 雨は一時のかりの宿 みのかさなれば ぬぎすててゆけ」と応えた。小町が目を覚ますと病がすっかり治り無事秋田へ帰郷することが出来た。古くから信仰の対象となり奥州街道の往来時には道中祈願として参拝した。 -
旧道に入って小田川宿入口すぐ左手に、
【小野薬師堂】の境内には戊辰の役戦死者供養塔(フォト)や左手には、明和五年(1768)の二十三夜供養塔がある。他にも如意輪観音、古い庚申塔などがずらりと並んでいる。
【小野薬師堂】
小野薬師堂は、大同年間(806~810年)の創建と伝えられている。
小野小町が、故郷の秋田に帰るときに、小田川宿付近で、病にかかり床に伏せってしまった。白山寺の薬師如来に病が治るように祈願したところ、病が癒え、無地故郷に帰ることが出来た。
境内には戊辰戦争の犠牲者を弔う為の「戊辰戦死供養塔」や二十三夜塔など多くの石仏や石塔があり。 -
街道沿いに、綺麗な花壇もあり、地元の人達の心使いが嬉しいですね。
-
八幡神社
-
-
大山阿夫利神社の碑
-
木立の中に【武光地蔵】
大きな地蔵である。伊達藩の居合抜きの達人が、江戸へ向かい、この地を通るとき、妖しい女の影が現われたので、持っていた「武光」で斬り捨てた。侍は用事を終え江戸から帰りに、この地を通ると、道端に二つに切断された石地蔵が転がっていたという。村人が切られた首を修復してお祭りをしたが、切った刀が「武光」だったので、「武光地蔵」と呼ばれるようになったとのこと。
*武光地蔵と称される高さ230cmもの地蔵が見えます。 江戸時代、この地を訪れた井原西鶴は「夜毎に火焔を発して恐れられていたが、飛脚が袈裟掛けに斬ると何事もなくなった」との伝承を記したという。 -
大田川宿に入ってゆく。
左に【常願寺】が見えてくる。遠くから見ても、枝垂れ柳の大木がお寺全体を覆っているように見える。嘉暦2年(1327年)、慈伝法印により開山された天台宗叡山派の寺院。枝垂桜は「願い桜・樹齢600年」の表示杭が立っていた。
「浮彫阿弥陀三尊来迎板碑」という板碑もある。年代は平安時代末の寿永二年(1183)の銘が刻まれていたと伝えられているそうだから随分古いものだ。この種の板碑は、ここの解説によると、福島県内には約3500基くらいあり、中通りには白河~本宮、福島~国見地方に多いそうだ -
【常願寺】
奥州街道30番目の宿場・太田川宿に入ると左側に常願寺がある。嘉暦2年(1327年)、慈伝法印により開山された天台宗叡山派の寺院である。樹齢600年の枝垂桜が有名な寺である
泉崎村の無形文化財となっている「太田川梅若念仏踊り」が
四半世紀ぶりに復活し、この常願寺境内で披露されたとのこと。
この民族芸能は太田川に古くから伝わる「梅若伝説」に由来するもので、
伝説に登場する梅若丸を供養する不動堂が、太田川平次山に残されているとのこと。
伝説によると、比叡山の稚児・梅若丸は、人買いの信夫藤太にかどわかされ、奥州に連れさられたが、その途中、武蔵国隅田川で病に罹り亡くなった。その梅若をかどわかした信夫藤太は、ここ太田川の住人で、村人に災いが及んだので、梅若丸の命日(3/15)に念仏踊りを行うようになったとのこと。
この梅若丸は、京都の吉田少将惟房卿の一子で、7歳の時死別し、比叡山の稚児となったと、謡曲「隅田川」にある。
その梅若丸を追って、母が隅田川まで来たが、その死を知り、
悲しみのあまり発狂して、隅田川の畔をさ迷うという物語となって、
歌舞伎や文楽でも「隅田川物」として取り上げられている。 -
太田川宿は、静かな落ち着いた家並みが続くが、愛宕神社に突き当たって右折した所で終わる。
その先で道は丁字路となるが、その突き当りには「愛宕神社」の鳥居。愛宕神社は、見えないくらいの高台に石段が続いている。鳥居脇の樹齢120年の枝垂桜が名所となっている。 -
【愛宕神社】は太田川宿の鎮守である。
鳥居を潜り、階段を181段登ったところにある。 -
愛宕神社のとても長くて急な石段を登ると,境内からは太田川宿が一望できる。
太田川宿の中心部である。
ここも戊辰戦争の兵火で殆ど全焼して、建物はその後に建てられたものであるが、
旧宿場町の面影が残されている。 -
緩やかな峠道を上がって行く。左に多数の石碑が、新しい石の社を囲むように集められていた。
坂を上って行く途中左手に「天王社」の石祠があり、石仏石塔が取り囲んでいる。享保17年(1732年)の石仏や、珍しい十八夜塔もある。 -
湯殿山碑や石仏群。
-
街道沿いに、現代技術のソーラーパネルの集熱場があった。
-
【踏瀬(ふませ)宿】
宿の入口の左には、枝垂桜の木に隠れるように愛宕神社の鳥居が見えており、周辺には二十三夜塔、庚申供養塔、飯豊山碑等の石碑が多数建っている。
踏瀬宿入口の左側に愛宕神社がある。この鳥居の右脚に「几号水準点」が彫られてあった。 -
枝垂桜の木に隠れるように愛宕神社の鳥居
-
街道左に、【慈眼寺】がある。
江戸時代より続く寺で、正しくは真言宗、経覚山慈眼寺である。
枝垂桜の大木が茂っている。この辺りのお寺は枝垂桜の大きな木が植えられているのが多く見られる。桜の季節は見事であろう。
他に二十三夜塔もあります。
踏瀬宿の外れに枝垂桜の見事な慈眼寺がある。
江戸時代より続く寺で、正しくは真言宗、経覚山慈眼寺である。
踏瀬宿を抜けると、今でも松並木が残されている旧街道となる。 -
「慈眼寺」を過ぎると、松並木が見えてくる。
説明板によれば、白河藩主松平定信が街道沿いに2,300本の松を旅人の日除け、風除けとして植えたのが始まりで、現在の松並木は明治18年(1885)年頃に補植されたものとのこと。 -
踏瀬(ふませ)の松並木についての説明。
説明板によれば、白河藩主松平定信が街道沿いに2,300本の松を参勤交代や旅人の日除け、風除けとして植えたのが始まりで、現在の松並木は明治18年(1885)年頃に補植されたものとのこと。 -
-
福島緑の百景に選ばれている
-
【踏瀬旧国道五本松】の案内板が立っていて、その先に●五本松の松並木が続いている。松並木は白河藩主・松平定信の植樹に始まり、明治18年ごろに補植した。
-
暫しの松並木道歩きが楽しめた
-
【中畑新田宿(なかはたしんでん)】
(大和久宿から奥州街道33番目の宿場・中畑新田宿)
慶長年間(1596?1615年)、蒲生氏の命で中畑村(矢吹町)の民家が、大和久村内の赤坂に移り宿駅となったのが始まりである。脇街道である常陸街道の起点として栄えたこともあった
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある。山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社。
大山祇(おおやまつみ)神社がある。高床式の小さな社があった。
大山祇神は山を司る神である。山の樹木が雨水を涵養することから水源、水利の神として崇められている様だ。 -
街道左に【幸福寺】がある。樹齢150年の枝垂桜が見事である。
この境内は戊辰戦争の時、野戦病院となったようだ。
戊辰戦争時の幕府軍の戦死者の墓がある。
また本堂前には、加波山事件の小針重雄の碑と遺髪碑があった。
この小針氏は、中畑新田の庄屋の名前と同じである。恐らく一族なのであろう。 -
左に枝垂桜の大木の茂る「しあわせ観音」がある。
-
一里塚跡の表示
奥州街道34番目の宿場【矢吹宿(やぶき)】の入口である。
矢吹宿は天正6年(1578年)に宿駅として開かれ、
天正18年(1590年)に町割が行われたという。この天正18年は、秀吉が小田原城征伐を行い、奥州制圧も終り全国統一の成った年である。
矢吹町の由来は、源義家が奥州征伐の時、八幡社を造営し屋根を矢柄で葺いたことから、「矢らい」、「矢葺」の地名になったという。 -
これより鏡石町に入ります。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
36