2001/07/02 - 2001/08/07
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ryoさん
ブリュッセルでの泥棒さん事件以来、少し腰がひけてしまった‥。
ドミトリーだったから、同室の子たちと怖かったねぇ~て言いながら怖さを分け合えた感じだったけど、これシングルの部屋で一人だったら、泣いて日本に逃げ帰ってたかも。
なのに大都市パリでは、普通のシングルルームに泊まることに‥。
夜怖くてちょっと眠れなかった。
でも昼間は精力的に動いたなぁ~。
パリはおっきいなぁ。おっきいから移動手段がほぼ地下鉄で、考えてみたら街をあまり歩いていない。
忙しく歩きすぎて、カフェでゆっくりもしなかった。ワインも飲まなかった!
食事さえもまともに取ってなかったかも‥いつもカスクートばっかり買ってかじってた。
でもやっぱりフランスパンておいしいんだな~って思った。
泊まった北駅の近くの宿は、朝食にパンとコーヒーが出て、シンプルだったけどとってもおいしかったのを覚えてる♪
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はいはい、ついにやって来ましたぁぁぁ!!
って感じ。
とにかくルーブルには3日間通って観るつもりで、入念に計画をたてて‥いざっっ! -
オーギュスト王の時代、ルーブルは西方に位置する宿敵ノルマンディー公(後のイギリス王)を意識してセーヌ川右岸西に置かれた。
当時、パリの都市壁がルーブルよりも内側にあったが、14世紀になるとひとまわり大きい都市壁が出来てルーブルはパリの町に組み込まれた。この頃からルーブルは要塞から居城へと変わり、当時のシャルル5世のコレクションを基礎にした美術館としての土台が出来た。
太陽王ルイ14世はヴェルサイユに宮廷を移し、ルーブルは宮殿としての役割を完全に失った。1793年8月10日、共和国となったフランスで、ルーブルは美術館として再生し、世界最大の美術館として成長を続けている。 -
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マルリーの中庭の彫刻。
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ピュジェの中庭。
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マルタン・デジャルダン「4体の捕虜」
これらの捕虜像はヴィクトワール広場のルイ14世歩行像の台座の四隅を飾っていた。
マルタン・デジャルダンはオランダ出身の優れた彫刻家で、当時既にサレ邸(現在ピカソ美術館)の装飾で有名だった。 -
ピエール・ピュジェ「クロトンのミロン」
フランスのマルセイユで生まれたピュジェは、若い頃船大工として働いた後、イタリアで彫刻を学んだ。
この作品は1683年、ヴェルサイユ宮の庭園に置かれたが、このはちきれんばかりの筋肉表現とダイナミズムの美学は、庭園の持つ幾何学的な精神とは調和せず、受け入れられなかった。 -
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ジェルマン・ピロン「三美神」
この記念碑は、王妃カトリーヌ・ド・メディシスが、1559年に亡くなった夫であるフランス王アンリ2世の栄誉のために1561年に注文した。
女性たちはアンリ2世の心臓を入れた壷を支え、王妃自身の心臓も入れる予定になっていた。 -
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フランス彫刻のギャラリー。
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「ガチョウを抱く子供」
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「三美神」
三美神と通称されるカリテスは、典雅、愛嬌、歓喜の三女神のことで、ギリシャ末期の彫刻家はこのカリテスを主題にして美しい女性の裸身を三様のポーズで表現した。 -
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アントニオ・カノーヴァ「アモールとプシュケ」
ギリシャ神話はカノーヴァの得意とするテーマであった。
この作品も古代ギリシャ・ローマの神話で、愛の神アモール(キューピッド)と絶世の美女プシュケの恋物語は彫刻においても良く取り上げられた。
プシュケが横たわって、天から舞い降りたアモールに抱き起こされ、接吻を受けようとしている。冥界の小瓶を嗅いで死の眠りに落ちたプシュケが再び呼吸を取り戻し、不死の生命が吹き込まれて、愛する夫アモールを抱きしめようと腕を伸ばした瞬間を描いている。 -
エドム・ブーシャルドン「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」
ヘラクレスに悪戯をする少年姿のキューピッド(アモル)を表す。
少年姿のキューピッドは、軍神マルスからは武器を、英雄ヘラクレスからは棍棒を盗んだ。この恐ろしい二神から武器を奪って得意気なキューピッドは悪戯っぽく笑い、弾力性を試しながら棍棒で弓を作っている。 -
ピエール・ボンタン「シャルル・ド・メニーの墓」
シャルル・ド・メニーは、フランソワ1世の時代からアンリ2世の時代にかけての1540〜1556年まで、王の警護隊長を任せられていた。
彼は座って居眠りをしているような姿で、君主を永遠に警護するかのような甲冑姿で表されている。 -
ミケランジェロ「瀕死の奴隷」
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ミケランジェロ「抵抗する奴隷」
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「サモトラケのニケ」紀元前190年
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「ダレイオスの射手」紀元前522〜486年頃
ダレイオス1世は、スーサを行政の首都とし、バビロニアの伝統に基づいた宮殿を建築した。
このフリーズは、宮殿内でもっとも美しい建築装飾と言われた。 -
「衛兵像」紀元前5世紀頃
メソポタミアやイラン南西部などでは良質の木材が乏しかったため、建築には粘土が用いられていた。
このフリーズはペルシャ人の衛兵を表したもの。 -
「牡牛柱頭装飾」紀元前5〜4世紀
アケメネス朝のダイオス1世が建造した宮殿の謁見の間は一辺が109mの正方形の大広間で、そこには高さ22mの柱が6列×6列、計36本あり、これはその石柱の最上部にあたるもので、2頭の牡牛を背中合わせにした状態で造形されている。
真ん中の背中の部分が平らになっているのは、ここに太い木の桁を置き、屋根を支えていた。牡牛の下の渦巻きを十字形に配した部分は、これによって上の牡牛像を安定させる役割をしていた。 -
古代イラン美術
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「ヤギを抱いた礼拝者」紀元前8世紀末
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「有翼人面牡牛像」紀元前8世紀末
新アッシリア時代の数多くの宮殿や大きな建物の入り口には、人面獣身の巨像や有翼精霊の像などを置くことによって、悪霊を防ぐものと信じられていた。 -
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「有翼精霊像」紀元前8世紀末
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ティツィアーノ「アレゴリー」
ヴィーナスが手に持つ水晶玉は「調和」のシンボル、小枝の束を担ぐキューピッドは「夫婦の結合」を、ミルテの冠をかぶった女性は「結婚の信義」を、そしてその後ろでバラのかごをかかげる女性はそのポーズから「希望」を表していて、結婚にまつわる寓意的肖像画であるといわれる。 -
ボッティチェリ「聖母子と少年聖ヨハネ(バラ園の聖母子)」
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ボッティチェリ「グイディの聖母」
ボッティチェリが21〜22歳の頃の作品で、構図、人物、背景ともに、師フィリッポ・リッポの聖母子を忠実に手本にしている。 -
ボッティチェリ「聖母子と五人の天使」
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アンドレア・デル・サルト「慈愛」
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アンドレア・デル・サルト「聖母子と洗礼者ヨハネ、聖エリザベスと二天使」
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フラ・バルトロメオ「聖カタリナの神秘的結婚」
1511年、フラ・バルトロメオの成熟期に描かれたこの作品は、彼の代表作となっている。
穏やかな聖母や幼児キリストの微笑や、天蓋のカーテンをたくし上げる天使たちの姿とは反対に、聖人たちは沈んだ雰囲気で描かれている。 -
ラファエロ派「眠る幼児キリストと聖母マリア、洗礼者ヨハネ(冠の聖母)」
下絵はラファエロによるものと思われるが、実際に描いたのは弟子のジャン・フランチェスコ・ペンニとされている。 -
ラファエロ派「聖家族と聖エリザベス、幼児聖ヨハネと二天使」
ロレンツォ・デ・メディチ(ウルビーノ公)がフランス駐在大使だったときに注文されたラファエロの晩年の作品。
ラファエロの下絵をもとに、弟子のジュリオ・ロマーノが制作したものと思われる。 -
ブロンツィーノ「聖家族と聖アンナ、洗礼者ヨハネ」
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コレッジョ「聖カタリナの神秘的結婚」
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ラファエロ「聖母子と幼児聖ヨハネ(美しき女庭師)」
“マドンナの画家”ラファエロの作品の中でも美しい名品。 -
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レオナルド・ダ・ヴィンチ「ミラノ宮廷の女性の肖像」
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レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」
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レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」
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リベラ「えび足の少年」
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リベラ「羊飼いの礼拝」
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エル・グレコ「フランス王聖ルイと小姓」
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ドラクロワ「サルダナパールの死」
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ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」
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ダヴィデ「皇帝ナポレオン1世の聖別式と皇后ジョセフィーヌの戴冠」
1804年12月2日、皇帝ナポレオン即位の儀式がパリのノートルダム大聖堂で行われた。
ナポレオンは世襲で国王の跡を継いだのではなく、実力でフランス帝国の初代皇帝の地位を得たのだという自負があり、この儀式の際も、イタリアから招いた教皇にさえその主導権を与えず、教皇によって冠を授けられるのではなく、自ら頭に冠を載せたという。
この作品は、ナポレオンが一旦自分の頭に載せた冠を今度は皇后ジョセフィーヌに戴冠する場面を描いている。 -
アングル「グランド・オダリスク」
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アングル「リヴィエール婦人の肖像」
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ダヴィデ「ブルートゥスの邸に彼の息子たちの遺骸を運ぶ警士たち」
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ダヴィデ「サビニの女たち」
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ダヴィデ「レカミエ夫人の肖像」
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ジェリコー「メデューズ号の筏」
1816年7月、メデューズ号は西アフリカ海岸近くで座礁した。400人の乗員に対して救命ボートが250人分しかなかったので、大きな筏が組まれ、下級兵士や乗客は身動きできないほどにこれに詰め込まれ、高級船員や将校たちは救命ボートに乗った。初めはボートが筏を引いていたが、やがて足手まといになるため切り離され、水も食料も無く放り出された。このため命を落とす人は後を絶たず、死者の肉を食べる人さえいたという。
政府はこの事故を口外しなかったが、15人の生存者のうちの一人が手記を発表し、明るみに出た。
ジェリコーという画家の名前さえも知らなかったけど、なんとなく衝撃的で、とても印象深い一枚。 -
ル・ブラン「ヴィジェ・ル・ブランとその娘」
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ルーベンス「エレーヌ・フールマンと子供たち」
再婚の妻、エレーヌ・フールマンと二人の子供たちを描いたもので、膝の上にいるのが3歳の長男フランス、横に立っているのが4歳のクララ。さらにこの絵は未完成で、エレーヌの腰の辺りに子供の手らしいものが描きかけのまま見え、当時歩き始めたばかりの次女イサベラのものと思われる。 -
ルーベンスの部屋。
「マリー・ド・メディシスの生涯」
フランス王ルイ13世の母、マリー・ド・メディシスがパリの自邸リュクサンブール宮殿の装飾のためにルーベンスに注文した作品。
マリー・ド・メディシスはトスカーナ大公フランチェスコ1世の娘で、ルネサンスのフィレンツェを事実上支配したメディチ家の後裔だった。
フランス王アンリ4世の妃となって6人の子をもうけ、夫が暗殺されて9歳のルイ13世が即位すると、摂政として政治の実権を握った。やがて成人した息子との間に権力争いを起こすが、1620年に一旦和解し10年ほどは安泰な日々が続いた。この作品群はその時期に制作された。
1630年に再び政争が起こり、翌年マリー・ド・メディシスは国外に亡命するが、二度とフランスには戻れず、ケルンで他界した。 -
「マリー・ド・メディシスの教育」
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「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」
マリー・ド・メディシスが叔母のトスカーナ大公妃の姉のマントヴァ公妃に付き添われて船から降りる場面。 -
「王とマリー・ド・メディシスのリヨンでの対面」
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「フランスとスペインの王女の交換」
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「摂政政治の至福」
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「ルイ13世の成人」
王権の印を身につけたルイ13世が船の船尾でマリー・ド・メディシスから統治権の象徴である舵を譲られている場面。
船の中央には擬人化されたフランスが立っている。 -
「アングレームの和約」
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ジャック・ブランシャール「慈愛のアレゴリー」
パリに生まれたジャック・ブランシャールは、24歳の頃にイタリアに赴き、ローマ、ヴェネツィア、トリノで絵の修行をした。
ブランシャールは盛期ルネサンスの時代にヴェネツィアで活躍したティツィアーノやヴェロネーゼらに深く学び、彼らから受け継いだ華麗な色彩感覚や官能的な女体表現をフランスにもたらした。 -
シモン・ヴーエ「富のアレゴリー」
フランスにバロック様式の絵画をもたらしたシモン・ヴーエはパリに生まれ、20歳の頃イタリアに赴いて13年間滞在した間にバロック美術を学んだ。
1627年、ルイ13世によってフランスに呼び戻され、宮廷画家としてルーブル宮内で制作活動をした。 -
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ピエール・ミニャール「ぶどうの房を持つ聖母」
ミニャールがローマに滞在した頃に描いた作品。
聖母マリアの鮮烈な赤と青の衣装のうえにクッションを置き、幼児イエスを座らせている。
ラファエロを思わせる聖母の優しい顔立ちにダ・ヴィンチのような陰影も見られ、彼の描く優雅な聖母の表情は当時フランスで大変人気があったといわれる。 -
アングル「ルイ・フランソワ・ベルタンの肖像」
アングルの男性肖像画の中でも最も優れたもので、最も有名な作品。 -
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アングル「ヴァルパンソンの浴女」
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アングル「トルコ風呂」
アングルが陶冶した数々の裸婦の形の集大成ともいえる作品。
若い頃から浴女のテーマはアングルの心を捉えてきたが、この作品は中でも最も官能的で、その肢体は極度にデフォルメされている。
この作品はアングルの最晩年のもので、やがて20世紀になり、アングルの裸婦像はフォービズムの巨匠マティスやキュビズムのピカソの芸術に受け継がれ、新たな展開を遂げることになる。 -
ヴァトー「ピエロ」
ベローニというギリシャ人のコメディアンを描いた作品。
ベローニはパリで笑劇などにピエロ役として登場し、絶賛を浴びていた。
演劇はヴァトーが最も好んだテーマでもあった。
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