
2011/08/30 - 2011/08/30
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横浜臨海公園さん
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西園寺公望(さいおんじ きんもち)公(嘉永2年(1849年)12月7日〜昭和15年(1940年)11月24日)は、明治期から昭和期初期にかけて活躍した政治家であり、且つ、明治維新(めいじ いしん)最後の元老職に在った人物である。
即ち、元老とは明治維新で活躍した『元勲優諚(げんくん ゆうじょう)』とされ、官軍方首脳人で明治期に内閣制度が確立するに及び薩長、及び、公家出身で内閣総理大臣経験者、若しくは、それに準ずる者は「元老」と称し、国事に関する重大決定事項に対し天皇の輔弼諮問機関の一員として活躍する機会を得た。
即ち、
伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日〜明治42年(1909年)10月26日)長州
黒田清隆(くろだきよたか)(天保11年(1840年)11月19日〜明治33年(1900年)8月23日)薩摩
山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日〜大正11年(1922年)2月1日)長州
松方正義(まつかた まさよし)(天保6年(1835年)3月23日〜大正13年(1924年)7月2日)薩摩
井上 馨 (いのうえ かおる)(天保6年(1836年)1月16日〜大正4年(1915年)9月1日)長州
西郷従道(さいごう つぐみち)(天保14年(1843年)6月1日〜明治35年(1902年)7月18日)薩摩
大山 巌 (おおやま いわお)(天保13年(1842年)11月12日〜大正5年(1916年)12月10日)薩摩
桂 太郎 (かつら たろう)(弘化4年(1848年)1月4日〜大正2年(1913年)10月10日)長州
西園寺公望(さいおんじ きんもち)公家
の9名である。
西園寺公は、明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)7月14日に第12代、及び、明治44年(1911年)8月30日〜大正元年(1912年)12月21日に第14代内閣総理大臣を拝命組閣したが、特に後者では明治天皇崩御に伴い葬儀執行の重責を果す。
此の時代は 桂 太郎 と内閣を交互に組織した事から桂園時代(けいえん じだい)と称される。
然るに、時代は下がり大正期ともなると幕末期に活躍した元老は次々と死去し、薩摩藩出身の松方正義が大正13年(1924年)7月2日に死去するに及び、元老職に在る者は西園寺公唯1人となった。
西園寺公は、東海道往還の都度、風光明媚で温暖な気候に恵まれた興津清見潟に着眼したに相違無い。
西園寺公は、江戸期天明5年(1785年)12月から興津宿で脇本陣として営業していた旅館一碧楼水口屋を贔屓にし度々投宿していた。
西園寺公は第1次世界大戦(大正3年(1914年)7月28日〜大正7年(1918年)11月11日)終結と連合国側が戦後処理確定を協議する為に開催されたヴェルサイユ講和会議に日本全権代表として出席すべく大正8年(1919年)1月に渡仏活躍し同年8月に帰国したが、西園寺公は講和会議帰国後は政界から引退し悠々自適生活を期待していたものと推定せられ、事実、此れを裏付けるが如く、同年9月21日に坐漁荘が竣工する。
坐漁荘は、西園寺公が老後の静養と避寒を目的に静岡県庵原郡興津清見町に建築した別荘で、設計は西園寺公と関係が深かった住友本社建築技師 則松幸十が行ない、京都から馴染みの大工衆を呼寄せ建てられた。
坐漁荘外観は、成り上がり共達が好んで建てるが如き御殿構造様式とは著しく異なり、屋敷構造としては簡素で地味ならが、且つ、こじんまりとした構造で、西園寺公が好まれた竹を欄間の意匠に用いたが、然し、テロが横行した当時の世情背景が充分反映され、窓に取付けられた装飾竹格子の節穴中には鉄筋が充填され、更に、板張り廊下は注意深く歩行しても、歩く都度、軋み音が生じる「鶯張り」構造が採用され、何れも、外部不法侵入者防止の為の防犯機能を有していた。
世情を反映し、政治情勢が混沌として内閣総辞職に拠る政変が免れぬ状況ともなると、在京政府要人、政党幹部が西園寺公に意見を求めんとして坐漁荘を訪問した事から、此れを興津詣(おきつもうで)でと称した。
また、天皇の求めに応じ、内大臣を通じ上京要請を受け、興津から東京に出向き、元老として時の天皇に助言と云ふ形態で輔弼を行う。
然るに、西園寺公が必要に応じ興津駅に特別急行列車を臨時停車させ東京との往還に利用したとの説が当時から現在も根強く流布しているが、坐漁荘完成以前に、西園寺公が愛用していた一碧楼水口屋旅館に現存する西園寺公が該旅館宛に投函した大正6年(1917年)12月11日附書簡本文に於いて、
「来ル十五日午前九時二四分京都驛發ニテ静岡乗カへ午後五時三二分御地ニ参リ候、云々」
との記述が確認される。
即ち、大正4年(1915年)3月東京博文館発売 公認汽車汽舩旅行案内 に拠れば、
下関19時10分発東京行特別急行列車2列車に京都駅から乗車し静岡駅16時18分に到着し、神戸5時発東京行普通列車18列車に乗換、興津駅に17時32分に到着する旨を通知した内容で、少なくとも、該特別急列車を興津駅に臨時停車などさせていない。
恐らく、政友会総務で初代鐵道大臣を務めた 元田肇(もとだ はじめ)(安政5年(1858年)2月28日〜昭和13年(1038年)10月1日)や、第7代大臣 小川平吉(おがわ へいきち)(明治2年(1869年)12月〜昭和17年(1942年)2月5日)達が該職務権限を露骨に行使し西園寺公面会を名目に、当時唯一の存在だった特別急行列車を興津駅に臨時停車させていた史実が、あたかも西園寺公がしていたかの如く誤伝されたのが発端と推定される。
昭和になり興津詣で坐漁荘訪問者が激増した事もあり、昭和4年(1929年)坐漁荘は増築され、洋間、及び、テラスが設置され、洋間は応接間兼用の機能を果たす。
大正8年(1919年)9月に坐漁荘竣工時に於ける西園寺公警備は、静岡県清水警察署興津派出所勤務警察官7名中1名交代で行うと云う牧歌的状況だったが、大正10年(1921年)11月4日に東京駅頭で 原 敬(はら たかし)(安政3年(1854年)3月15日〜大正10年(1921年)11月4日)内閣総理大臣暗殺事件が発生すると該派出所勤務警察官は9名体制となり隔日交代警備体制となるが、然し、世情が安定した事から、大正13年(1924年)該派出所勤務者は5名に減少した。
再び慌しさと緊張感が増すのは、昭和5年(1930年)11月14日に岡山県で開催される陸軍大演習参観の為に東京駅から特別急行列車つばめ号に乗車直前に狙撃された濱口雄幸(はまぐち おさち)(明治3年(1870年)5月1日〜昭和6年(1931年)8月26日)内閣総理大臣暗殺未遂事件が発生した事から西園寺公専従警備の為に警察官2名が配備され、坐漁荘山側の女中部屋隣に警察官詰所が設置された。
その後、昭和7年(1932年)5月15日に海軍青年将校数名に依る犬養 毅(いぬかい つよし)(安政2年(1855年)6月4日〜昭和7年(1932年)5月15日)内閣総理大臣暗殺事件発生に及び、該詰所配置が20名に増強される。
更に、昭和11年(1936年)2月26日発生の 2.26事件の結果、警備人数不足が指摘され、60名に増強され、それ迄は、近所の子供達が邸内敷地に入っても咎められすら無かったものが、此れ以降、警戒厳重になり、許可無き部外者の立入は厳しく制限され、且つ、西園寺公も警備上の理由から邸外に出る事する自由に叶わなくなり、薨去まで半ば軟禁生活を強いられる事となった。
因みに、当時の内務省警保局極秘資料に拠れば、要人警護として西園寺公警備に関しては1人1日2円50銭の特別手当が支給されたが、此の金額が安いか高いかが議論が分れる処だが、2.26事件で神奈川県湯河原に滞在中に襲撃された牧野伸厭顯(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)1月25日)警護の警視庁皆川巡査は拳銃で応戦後、弾丸が尽き襲撃隊に射殺された事などを考慮すると、現在の民主党デモシカ閣僚達の警備などと異なり当時の要人警備は正に命懸である。
殊に、5.15事件以降は、坐漁荘との間に、政府首相官邸、宮内省、内大臣府、静岡県知事、及び、警察部長と直通緊急回線が敷設された。
昭和11年(1936年)2月26日深更、坐漁荘に内大臣秘書室長 木戸幸一から緊急電話が入電し、払暁、帝都在勤陸軍第1師団が青年将校数名に引率され重臣を襲撃し別働隊が静岡県内に所在し、西園寺公も襲撃対象となる恐れ有りとの驚くべき内容を伝えてきた。
電話を受けたのは女中頭 漆原 綾 で、直ちに就寝中の西園寺公を起こすと共に、静岡県警から110名が緊急配備で配置に付き、西園寺公は静岡県警察部長差回しの乗用車に乗せられ、静岡旧市内に在った警察部長官舎で翌27日14時まで保護され同日15時に坐漁荘に帰宅が許された。
西園寺公は、昭和15年(1940年)11月に体調不調を訴え治療に専念していたが、同月23日に危篤状態となり、東京から東京帝國大学医学部教授 三浦謹之助や内大臣秘書官長 松平恒雄(まつだいら つねお)(明治10年(1877年)4月17日〜昭和24年(1949年)11月14日)などが坐漁荘を訪れたが成すすべもなく翌24日21時54分に92才で薨去され、棺は同月28日に興津駅発11時15分発の宮内省差回しの霊柩列車で東京に搬送され、同年12月5日に日比谷公園に於いて国葬が執り行われ近衛文麿が祭儀を執り行ったが、西園寺公は大往生だったが、然して思い残す懸念は山の様に在り、事実、翌年、昭和16年(1941年)12月8日に我が国は英米に開戦し大東亜戦争が勃発する。
西園寺公の死後、跡継の西園寺八郎(さいおんじ はちろう)(明治14年(1881年)4月22日〜昭和21年(1946年)7月1日)は、坐漁荘を高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひと しんのう)(明治38年(1905年)1月3日〜昭和62年(1987年)2月3日)に献上され終戦を迎える。
戦後、坐漁荘は、高松宮喜久子妃(たかまつのみや きくこ ひ)(明治44年1911年)12月26日〜平成16年(2004年)12月18日)の御実家たる徳川家を通じ西園寺家に戻されたが、西園寺公一(さいおんじ きんいち)(明治39年(1906年)11月1日〜平成5年(1993年)4月22日)は勝手に豪州のバイヤーに売却し、此れを知り驚愕した在日英国大使館レッドマン参事官の奔走に拠り買戻され、座漁荘は昭和26年(1951年)11月24日に設立された、財団法人西園寺記念協会が管理運営する事となった。
庵原郡興津町は、当時の静岡県知事 斉藤寿夫(さいとう ひさお)(明治41年(1908年)1月11日〜平成11年(1999年)5月21日)の裁定を受け、昭和36年(1961年)6月30日に清水市に合併し清水市興津町となったが、此の頃より、高度経済成長と東京オリンピック開催を名目に全国で建設工事が盛んになり、興津でも萬葉集で詠われて以来の名立たる景勝地 駿河湾清見潟は東海道新幹線、国道1号線バイパス、及び、東名高速道路建設で次々と埋立てられ景観は激変し嘗ての光景は永久に喪失した。
昭和40年代ともなると坐漁荘も築50年近くなり、根太の腐朽が深刻な状態となった事から、西園寺協会では、母屋内に存在した家具、什器、書籍、及び、遺品の整理を開始し、空き家になった事を受け、昭和44年(1969年)10月に解体工事を開始し、住友銀行頭取の発議に依り、住友関連企業各社の献金を元に坐漁荘は愛知県犬山市の明治村に移築が決定し、昭和46年(1971年)6月に移築完了し坐漁荘跡地は西園寺記念公園となった。
平成になり西園寺公園に座漁荘復活の声が挙がり、平成12年(2000年)9月13日に地元政財界代表者40名余が 亜漁荘のつどい が開催され、官民一体で坐魚荘復元が決定し、紆余曲折を経て、平成16年(2004年)3月に竣工し、同年4月25日から一般公開された。
話は前後するが、昭和天皇は、皇孫時代の明治45年(1912年)2月28日に弟宮たる淳宮、及び、光宮を伴い、興津を訪問し清見寺に行啓された。
下って、昭和32年(1957年)10月25日に静岡県に於いて第12回国民体育大会が開催され静岡県をご訪問された両陛下は、昭和天皇の強い意向に依り興津訪問を所望され水口屋に2泊された。
恐らく、昭和天皇が即位された昭和元年(1926年)の際に、天皇26才、それに対し、西園寺公78才の折、昭和天皇が摂政時代から自身を補佐した西園寺公への想いと信頼が深く内在していたものと推察されるのは、昭和天皇が興津滞在時に詠んだ御製に如実に表われている。
そのかみの 君をしみじみ 思うかな ゆかりも深き この家にして
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
興津(おきつ)駅
駅本屋
東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時に開業。
但し、開業当時は新橋方に160m東に存在したが、明治35年(1902年)11月1日に現在地に移転。
現駅本屋は昭和56年(1981年)10月26日竣工。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/okitsu/index.html興津駅 駅
-
興津駅
上りホーム2番線
西園寺公が上京の都度、立った興津駅上りホーム。
因みに、天皇に対し元勲として輔弼の任に担うべく、次期内閣総理大臣奏上の為に、東京駅着発の特別急行つばめ号を興津駅に臨時停車させ西園寺公を乗降車させたとの文献を散見するが、該駅に普通急行列車を臨時停車させ西園寺公乗降車の事実は存在するも、つばめ号に関する限り当時その様な事実は無く、後世の茶話が誤伝例である。興津駅 駅
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国道1号線
東海道は、昭和11〜14年(1936〜39年)、及び、昭和32年(1957年)拡張工事施行。
江戸期の道幅と比較して約3倍に拡張。 -
国道1号線
澤端川橋梁(さわはしがわ きょうりょう)
興津町内国道拡張工事は翌昭和14年(1939年)3月26日竣工。
西園寺公薨去の際に棺が当時新橋だった該橋上を通過し興津駅へと運ばれた。
静岡市清水区興津中町178
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩10秒興津駅 駅
-
国道1号線
澤端川橋梁
昭和13年(1938年)11月竣工
静岡市清水区興津中町178
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩10秒興津駅 駅
-
宮様まんじゅう本舗 潮屋(みやさま まんじゅう ほんぽ うしおや)
店舗
外観
創業は明治30年(1897年)で今年114年。
静岡市清水区興津本町27−1
?: 054−364−0348
8:00〜19:00
火曜、及び、年末年始定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分
http://www.miyasamamanjiu.com/ -
宮様まんじゅう本舗 潮屋
宮様まんじゅう
大正天皇が皇太子時代に避暑避寒で度々興津を行啓された際に献上した処、殊の外お気に召され当時の宮内省から特に「宮様」の名称使用を許された事から命名された。
静岡市清水区興津本町27−1
?: 054−364−0348
8:00〜19:00
火曜、及び、年末年始定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
宮様まんじゅう本舗 潮屋
揚げまんじゅう
宮様まんじゅうを揚げた物。
薄皮がぺりぺり感。
静岡市清水区興津本町27−1
?: 054−364−0348
8:00〜19:00
火曜、及び、年末年始定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
宮様まんじゅう本舗 潮屋
商品
右上から時計回りで、
栗どら焼き
栗饅頭
ワラビ餅
静岡市清水区興津本町27−1
?: 054−364−0348
8:00〜19:00
火曜、及び、年末年始定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
水口屋ギャラリー(みなぐちや ぎゃらりー)
旧一碧楼水口屋跡
外塀
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分
http://www.shimizu-net.com/shimizu/kankou/5-okitu/5-7mizukuti.htm -
水口屋ギャラリー
旧一碧楼水口屋跡
入口
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
水口屋ギャラリー
旧一碧楼水口屋跡
入口
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
泰山竹(たいざんちく)
公私共々、西園寺公と共に立命館大学(りつめいかんだいがく)創立者たる中川小十郎(なかがわ こじゅうろう)(慶應2年(1866年)2月18日〜昭和19年(1944年)10月7日)は西園寺公私設秘書。
公家出身の西園寺公が美竹林を好む性格を知悉し、台湾銀行頭取在任中、台湾泰山から珍種の竹を該旅館庭に移植。
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
泰山竹
台湾特産の泰山竹は寒地たる我が国では移植困難とされたが、気候温暖な興津の地に根付き現在も生育している。
平成14年(2002年)7月に西園寺公と中川小十郎ゆかりの立命館大学の要請に依り移植が実施され、京都立命館大学衣笠キャンパスに株分けされた。
該竹は、西園寺公と中川小十郎、水口屋旅館との関係を現在に残す。
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
玄関
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
玄関
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
展示室
一般人の室内撮影禁止。
特別許可に依り以下撮影。
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
展示室
写真左
西園寺公望公
写真右
秘書 原田熊雄
原田熊雄(はらだ くまお)(明治21年(1888年)1月7日〜昭和21年(1946年)2月26日)は、西園寺公の私設秘書。
中川小十郎が西園寺公の私設秘書的立場に在ったのに対し、原田は寧ろ政治秘書の立場に在った人物である。
原田は出身校たる京都帝國大学に於いて、近衛文麿(このえ ふみまろ)(明治24年(1891年)10月21日〜昭和20年(1945年)12月16日)、及び、木戸幸一(きど こういち)(明治22年(1889年)7月15日〜昭和52年(1977年)4月6日)と同級だったが、西園寺公は、彼らが京都帝大在学中から目を掛け、将来に於ける自身の後継者なりと考えていた。
原田は卒業後、近衛は公家出身独自の優柔不断性が強く、更に、西園寺公が嫌悪の情念を抱いていた帝國陸軍皇道派高官と親密に交流し、自己保身ばかり強い木戸に対し、原田個人の性格から来る謙虚で客観性に基づいた洞察力の強さと対英米協調思潮が西園寺公が抱く信念と悉く一致する事から信認を得るに至る。
西園寺公が東京を不在にし当時の情報過疎なる興津在住状態に在りながら、常に、最新、且つ、正鵠的確な情報に接し得て判断を可能としていたのは、原田が得た情報を根拠にしていたからに他ならない。
原田は、政財学界は基より、対英米協調の条約派に属する陸海軍高官とも親しく接し広く人脈を有していた為に、此れら高度な機密情報に接する機会を得ていた。
原田が親交を深めていた人物は、
小原 直(こはら なおし)(明治10年(1877年)1月24日〜昭和42年(1967年)9月8日 司法官僚・司法大臣
松平恒雄(まつだいら つねお)(明治10年(1877年)4月17日〜昭和24年(1949年)11月14日 外務官僚・駐英大使
吉田 茂(よしだ しげる)(明治11年(1878年)9月22日〜昭和42年(1967年)10月20日 外務官僚・駐英大使
有田八郎(ありた はちろう)(明治17年(1884年)7月21日〜昭和40年(1965年)3月4日)外務官僚・外務大臣
重光 葵(しげみつ まもる)(明治20年(1887年)7月29日〜昭和32年(1957年)1月26日)外務官僚・駐ソ大使
藤井洋治(ふじい ようじ)(明治20年(1887年)10月5日〜昭和20年(1945年)8月6日)陸軍少将・第2総軍参謀長
本間正晴(ほんま まさはる)(明治20年(1887年)11月27日〜昭和21年(1946年)4月3日)陸軍中将
山梨勝之進(やまなし かつのしん)(明治10年(1877年)7月26日〜昭和42年(1967年)12月17日)海軍大将
米内光政(よない みつまさ)(明治13年(1880年)3月2日〜昭和23年(1948年)4月20日)海軍大将・海軍大臣
左近司政三(さこんじ せいぞう)(明治12年(1879年)6月27日〜昭和44年(1969年)8月30日)海軍中将
山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日〜昭和18年(1943年)4月8日)海軍大将・元帥・聯合艦隊司令長官
古賀峯一(こが みねいち)(明治18年(1885年)9月25日〜昭和19年(1944年)3月31日)海軍大将・元帥・聯合艦隊司令長官
高木惣吉(たかき そうきち)(明治27年(1893年)8月9日〜昭和54年(1979年)7月27日)海軍少将・教育局長
佐々弘雄(さっさ ひろお)(明治30年(1897年)1月23日〜昭和23年(1948年)10月9日)九州大学法文学部教授
などである。
陸軍皇道派将校に拠る2.26事件収束後は、事件の責任を取るかたちで岡田内閣が総辞職し、後継内閣総理大臣指名に鑑み、西園寺公が筆頭に据えたのが近衛だったが、近衛は固辞し病気と称して引篭ってしまった為に、近衛に代わる者として司法省出身の平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)(慶應3年(1867年)10月25日〜昭和27年(1952年)11月12日)を推挙する一派が存在し、自身も総理就任への執念を燃やしたが、平沼が信望する極右思想と此れに属する団体代表たる関係に対し、昭和天皇が平沼に対する強い不快感と不信たる事を熟知していた西園寺公は総理就任に対し強い難色を示し、紆余曲折の上、結果的に中間色で外務省出身の広田弘毅(ひろた こうき)(明治11年(1878年)2月14日〜昭和23年(1948年)12月23日)に落着く。
原田は、西園寺公薨去の昭和15年(1940年)11月24日まで超多忙な日々の内で、当時、東京興津間が列車で片道5時間余掛かるにも拘らず1日1往復ならぬ時には2往復する過酷な日々を送る中で克明な日記を記し、後の極東軍事裁判が東京で開廷される際に検事側証拠として採用された。
現在は、国立国会図書館憲政資料室に於いて保存されているが、海軍調査室長だった高木惣吉海軍少将が残した政界諸情報綴と共に、昭和初期から大東亜戦争勃発に至るまで当時の政治史研究解明上、貴重な重要資料である。
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
展示室
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
展示室
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
展示室
中央右は
杉孫七郎 揮毫
中央左は
山縣有朋 揮毫
特別許可を得て撮影。
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
展示室
旧門札
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
旧清見潟側
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
水口屋ギャラリー
一碧楼水口屋跡
旧清見潟側
手前防波堤跡が海辺たる事を示す。
静岡市清水区興津本町36
?: 054−352−8060
10:00〜16:00
月曜、及び、年末年始休館
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
東海道本線興津-清水間
清見寺臨時乗降場跡(せいけんじ りんじじょうこうじょうあと)
明治天皇皇后たる昭憲皇太后(しょうけん こうたいごう)は、殊のほか興津の地を好まれ、明治後半ともなると度々行啓された。
明治40年(1907年)4月9日に清見寺が御宿泊所の際に該寺下に臨時乗降場を設置し御召列車を臨時停車させ利用に供した。
因みに、清見寺臨時乗降場設置は該日、及び、翌日のみとされているが、井上毅の一件も在り、且つ、当時の鐵道院資料記述が無き為に今後の研究課題。
清見寺臨時乗降場跡
静岡市清水区興津清見寺町36
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
清見ヶ関跡
白鳳時代、東北の蝦夷襲撃防備の為に、大和國、山背國と共に、駿河國清見崎に設置された関所跡。
関所鎮護として開寺されたものが清見寺。
静岡市清水区興津清見寺町30
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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大正天皇東宮海水浴御成道
大正天皇が皇太子時代に清見寺に滞在され清見潟に海水浴の為に通られた道。
静岡市清水区興津清見町86
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
大正天皇東宮海水浴御成道
記念碑
後に大正天皇となられる嘉仁皇太子殿下は、明治22年(1889年)2月1日に東海道本線國府津-静岡間開通の年の7月に興津清見寺に行啓された際に清見潟で海水浴を楽しまわれた事から、興津清見潟は海水浴場として全国に知れ渡る。
静岡市清水区興津清見町86
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
皇太子殿下御海水浴跡碑
建立当時は干潟で周囲は海。
静岡市清水区興津清見寺町1375−11
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩3分興津駅 駅
-
皇太子殿下御海水浴跡碑
戦後、昭和36年(1961年)付近一帯は埋立てられ、現在では旧海側を国道1号線静清バイパスが無粋に通る。
静岡市清水区興津清見寺町1375−11
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩3分興津駅 駅
-
皇太子殿下御海水浴跡碑
昭和36年(1961年)まで海だったとは最早想像すら困難。
静岡市清水区興津清見寺町1375−11
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩3分興津駅 駅
-
清見寺
該寺は正式には、
巨鼇山清見興國禅寺
と称する。 -
巨鼇山清見興國禅寺
昭和11年(1936年)2月26日以前に於ける西園寺公散歩コース。 -
巨鼇山清見興國禅寺
大玄関
元和2年(1616年)竣工 -
東海道本線興津-清水間
清見寺跨線橋
明治22年(1889年)2月1日に鉄道開通の際に古刹たる清見寺境内を通過。
時の住職は政府から見舞金を払下げられるも国益の為と政府に寄付。
廃仏毀釈の時代背景。
静岡市清水区興津清見寺町28
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
巨鼇山清見興國禅寺
山門
慶安4年(1651年)竣工 -
巨鼇山清見興國禅寺
鐘楼
文久3年(1863年)竣工 -
東海道本線興津-清水間
興津駅 駅
-
巨鼇山清見興國禅寺
-
巨鼇山清見興國禅寺
-
巨鼇山清見興國禅寺
咸臨丸乗組員供養碑(かんりんまる のりくみいん くようひ)
食人之食者死人之事
従二位 榎本武揚 書
人の食を食む者は人の事に死す。
慶應4年(1868年)10月4日未明、清水湊に停泊中の咸臨丸は、明治新政府に依る徳川家の府中静岡藩封を潔くとせず、反抗的態度を継続させた為に旧幕府側としても見逃す訳にならず艦長上陸不在中に、不意に討伐隊、即ち、富士丸、武蔵丸、及び、飛龍丸を送り咸臨丸を攻撃した。
咸臨丸乗組員、副長 春日辨蔵、士官 長谷川得蔵、准士官 長谷川清四郎、春日鑛平は新政府軍との殺傷行為はせずとの議決に拠り恭順の意を示しマストに降伏旗たる白旗を掲揚したが、討伐軍側に降伏旗を解する者が存在しなかった事から、新政府軍側の一方的攻撃に依り咸臨丸准士官以上は全員戦死、乗組員も艦から脱出し清水湾内を泳ぎ逃げようとしたが全員虐殺され、遺体は切刻まれ湾内に投棄された。
折から秋暑で遺体は腐敗し湾内外に臭気が拡がったが後難を恐れ、誰1人遺体を回収せんとする者が無かったが、山本次郎長こと、清水次郎長(しみず の じろちょう)(文政3年(1820年)2月14日〜明治26年(1893年)6月12日)が戦死者を哀れみ遺体を回収させた上、埋葬させた。
榎本武揚(えのもと たけあき)(天保7年(1836年)10月5日〜明治41年(1908年)10月26日)は以前、咸臨丸艦長であり、死者を悼み、幕臣として新政府軍と戦った、大鳥圭介(おおとり けいすけ)(天保4年(1833年)4月14日〜明治44年(1911年)6月15日)や永井尚志(ながい ながゆき)(文化13年(1816年)12月21日〜明治24年(1891年)7月1日)等と共に明治20年(1887年)4月17日に清水湾内が見下せる清見寺境内に慰霊碑を建立。 -
巨鼇山清見興國禅寺
高山樗牛文学碑(たかやま ちょぎゅう ぶんがくひ)
尾上柴舟 書
高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)(明治4年(1871年)1月10日〜明治35年(1902年)12月24日)は明治期に活躍した政治思潮評論家。
東京帝國大学卒業後官吏となり欧州出張拝命直後に吐血し断念、興津で療養に努めた。興津駅 駅
-
巨鼇山清見興國禅寺
現在の眺望
清見潟が埋立てられ跡地に東名高速道路等々が建設され往年の絶景は喪失。 -
東海道本線興津-清水間
無名横断路
所謂法規で云う「踏切」では無い自己責任で通行する自然路。
静岡市清水区興津清見寺町25
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩2分興津駅 駅
-
坐漁荘
外塀
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分 -
坐漁荘
正門から玄関までの小道
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐魚荘
坐魚荘址碑
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐魚荘
坐魚荘址
碑石と碑文
坐魚荘は、公爵西園寺公望の旧居、大正八年一二月に建築された。その敷地は一二五五・九六平方メートル前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。建物総面積は四六〇・二七平方メートル、二階建、瀟洒雅到ただよう和風建築であり、洋間一室とテラスが附属していた。
坐魚荘の名称は子爵渡辺千秋の撰にかかる。周の文王が渭陽で呂尚(太公望)の坐魚するに会い、礼を厚くして迎えて軍師とした。渡辺は中国のこの故事に因み、太公望を西園寺公望の名に通わせ、坐魚を前庭に海迫るこの地に結びつけ、さらに元老として天皇補佐の重責を荷う西園寺公の地位を軍師呂尚のそれに対照させ、坐魚荘を命名した。公はかねて国際間の平和とわが国憲政の発達を念願してやまなかった。しかし満州事変以後のわが国政治の動向は公の所期と全く相反するものがあり公は破局的事態の到来をふかく危惧しこれを阻止せんがため元老として実に焦心苦慮を重ねた。
公が国の行末に限りなき憂いを抱きつつ細雨に煙るこの坐魚荘に九二年の生涯を閉じたのは昭和一五年一一月二四日、太平洋戦争開幕に先立つこと約一年であった。近年坐魚荘周辺の景観は一変し且つ建物も損壊の惧れを生じたので、住友銀行頭取堀田庄三の発議により住友連係各社の後援の下、財団法人明治村並びに清水市地元の協力を得て、昭和四六年三月坐魚荘の主要部分を愛知県犬山市所在の明治村に移築し、この歴史的建物は永く同地に保存されるのことになった。
昭和四六年八月
東京大学名誉教授
財団法人西園寺記念協会理事
岡 義武
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
坐漁荘
碑文解説
岡 義武(おか よしたけ)(明治35年(1902年)10月21日〜平成2年(1990年)10月5日)は、主に昭和期に活躍した政治学者。
東京帝國大学法文学科卒業後母校助手となり、文部省派遣で昭和11年(1936年)〜昭和13年(1938年)渡英研究。
帰国後は東京帝国大学助教授に任官したが、帝國陸軍参謀本部を核とする我が国多数の者がヒットラー率いるナチスドイツの急激な勃興に幻惑傾倒した時代、当時の英国から観たナチスドイツの国情を冷静に解析し政治学講座で暗にヒットラーとドイツを批判する内容を講義した。
大東亜戦争後は世論が急激な左翼思想傾斜に追従する事無くリベラルな信念を維持。
後に、東京大学法文学部長を経て定年退官後は没するまで母校名誉教授の職に在った。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
坪庭
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
正面玄関
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
扁額
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分
扁額 -
坐漁荘
正面玄関
土間
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分 -
坐漁荘
正面玄関
靴脱
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
正面玄関
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分 -
坐漁荘
1階
次の間 8畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
正面玄関
畳廊下 10畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
広縁 5畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
広縁
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
広縁
庭園
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
庭園
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
洋間兼応接間
外観
昭和3年(1928年)増築。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
テラス
庭園
テラスは昭和3年(1928年)増築。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
洋間兼応接間
出窓外観
昭和3年(1928年)増築。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
上湯殿
外観
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
上湯殿
小扉は緊急脱出用も兼ねる。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
竹格子
竹を好んだ西園寺公の好みで竹をふんだんに使用。
但し、竹は節穴を刳り貫き、内部に鉄筋を充填し簡単に破壊不可能な構造としている。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
1階
台所
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
1階
女中部屋前
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
洗面流し台
当時の日本家屋に洗面流し台設備は珍しい存在。
渡仏滞在が長かった西園寺公の好みが如実に表れている。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
上湯殿
内部
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
1階
次の間 8畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
床の間 8畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
居間 8畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
居間 8畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
広縁と庭
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
洋間兼応接間
昭和3年(1928)増築
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分年)増築興津駅 駅
-
坐漁荘
1階
洋間兼応接間
昭和3年(1928年)増築
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
正面
接景
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分 -
坐漁荘
鶯張板張廊下(うぐいす いたばり ろうか)
細心の注意を払って歩いても軋み音が鳴る仕掛け。
外部侵入者防備の為の特異建築。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
2階
居間 8畳
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
2階
居間 8畳
埋立以前は清見潟が拡がる光景が存在。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
左手側面
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
-
坐漁荘
全景
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
全景
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
全景
坐漁荘竣工時は石垣手前道路は清見潟。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
庭園
植木は全部当時の物。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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坐漁荘
庭園
当時は庭園から清見潟海浜に続いていた。
静岡市清水区興津清見寺町115
?: 054−369−2221
平日: 10:00〜17:00
土日祭: 9:30〜17:30
月曜、及び、年末年始定休日
入場料無料
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩1分興津駅 駅
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この旅行記へのコメント (10)
-
- 毛利慎太朗さん 2018/11/25 20:16:47
- 御礼
- 横浜臨海公園さん、こんばんは。
遅くなりましたが、信濃の旅行記への投票ありがとうございます。
今回の旅行記の題材が「西園寺公望公」とあって、ついつい目に留まった次第です。
今回も緻密な取材に基づいた旅行記、さすがフォートラベルの司馬遷だなあと感服する次第です。
西園寺公については何ゆえ寡聞で、政治秘書であった原田熊雄男爵や立命館大学の創設者であったことをこの旅行記で初めて知り、目から鱗が落ちるような心地です。
私が西園寺公に抱く印象としては、以下の通りです。
◎元老、首相を務め保守的な印象
(血統的にも、重臣としても、天皇に一番近いお方)
◎戊辰戦争に従軍して鉄砲をぶっぱなしたり、明治14年に中江兆民らと新聞社を設立、社長になるなど、型破りな公家。
◎法典調査会副総裁(明治25年より)時代に戸主制度を否定したり、第二次伊藤内閣文相時代に女子教育の発展を求めるなどリベラルな政治家。
◎部下であった原敬(日本初の政党内閣、シベリアの撤兵、摂政宮殿下の御外遊)に比べ、インパクトのある功績に欠く。
だが、原敬のこうした功績も西園寺公の後押しあってこそ。
原敬は王貞治(ホームラン世界記録)みたいな感じで、「記録」に残る方であるが、西園寺公は長嶋茂雄(天覧試合でホームラン)みたいに「記憶」に残る方である。
次に近衛文麿公について横浜臨海公園さんはどういう印象を抱いているかうかがいたいなあと思います。
私は第一次内閣のとき、戦線不拡大を掲げたわりに、軍の突き上げで予算を増額したり、首相辞めたとたん終戦を唱えたりと、文中にあるとおり公家特有の優柔不断である点は、国民福祉税を掲げて連立与党から批判された細川護煕氏(近衛公の孫)や「最低でも県外」の鳩山由紀夫氏と重なります。
細川氏が首相になった際、父・護貞氏(第二次近衛内閣で首相秘書官)がインタビューで「あれはすぐ辞める」とおっしゃっていたのも、身近で近衛公を見ていたからなのかなと思う節があります。
最後に浅学非才の点なにとぞご容赦いただきたく思い、文を締めたいとおもいます。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2018/12/02 15:51:20
- 拝復
- 毛利慎太朗さま、こんにちは。
拙稿に投票と掲示板に過分なるコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
西園寺公に就いては、生まれるのがもう少し早ければ、例の長州7卿落の際に同行したものと思われます。
長州に於いて、非業の死を遂げられた中山卿に大事にされたとの事で、その関係で明治天皇とは兄弟の様な関係だった様です。
晩年は、政治秘書の原田熊雄の存在があったからこそ、興津や御殿場に居ながらにして中央情勢に明るい点では、情報と称しながら一方的で歪な内容を審査もせず鵜呑み状態だった近衛文麿などは足元にも及びつかなかったと考えております。
政治史に暗く疎い左巻自称学者の学説では、2.26事件で東京を中心に戒厳令が施行された際に、大多数の文献では原田が西園寺公の自動車で東京を脱出した事になっておりますが、戒厳令発令中に東京府下から他県への自動車通行が許されていたのは陸海軍鎮圧部隊関係だけで、事実は、原田の鉄道省の某高官の制服を借用し、高等官吏になりすまし、特別急行つばめ号に乗車して脱出し静岡に向かったというのが真相で、何れ、小生の東海道本線の旅行記上で上程したいと考えております。
> 次に近衛文麿公について横浜臨海公園さんはどういう印象を抱いているかうかがいたいなあと思います。
→小生の近衛と言う人物に対しては、見せ掛けだけのハッタリ大好き迷惑人物だと印象が拭い切れません。
そして責任逃れと言う点では、木戸内大臣も含め、自身の責任の重大性を知りつつ、責任が及ぶと昭和天皇に丸投げと言う、ヤラシイ公家的性格がミエミエで、小生なら絶対に友人なんかにしたくない人物です。
> 細川氏が首相になった際、父・護貞氏(第二次近衛内閣で首相秘書官)がインタビューで「あれはすぐ辞める」とおっしゃっていたのも、身近で近衛公を見ていたからなのかなと思う節があります。
→仰せのとおりでございます。
実は、小生、生前の護貞さまには数回お目にかかる機会を得ております。
ご存知と思いますが、東條内閣末期に東條総理暗殺計画が複数進行しており、その1つに、高木惣吉海軍少将に近いラインだった高松宮殿下に護貞さまがお目通りされた際に、
殿下、その卓上の電話で東條に此処に来る様に呼んでください。来室直前に自分は陰に隠れ東條を切ります。今の日本を救うのは東條を排し連合国と和平を結ぶことです。
その時に殿下と睨み合う事数分に及び、殿下が日本には陛下がおられる。謀反はいけません。
と仰り、それを耳にし、自分の浅はかさを恥じたと申されておられましたが、小生、護貞さまは武門の方だなと、つい感心したものです。
ご子息に関しては、小生の出身校の先輩筋ですが、当時から余り評判が芳しくなく、実際にお目にかかり、お父上との落差を痛感させられた記憶が痛烈に残っております。
横浜臨海公園
-
- しょーきちさん 2012/01/08 09:19:32
- 坐漁荘とそれを取り巻く歴史物語に感銘しました
- 横浜臨海公園さま
しょーきちです。
おはようございます。
いつも横浜臨海公園さまのすばらしく、そしてお手本のような旅行記に感銘の連続です。
今回の興津旅行記も読み応えがあり、堪能いたしました(勉強させて戴きました)。
坐漁荘の造り、周辺の様子など大変面白かったです。
無料で見学できる坐漁荘に驚きです。
ありがとうございました。
坐漁荘の歴史と背景、そして西園寺公望公を慕ってそれを復元させた皆様、
大変素敵なお話ですね。
私は静岡と浜松にそれぞれ2年間、学生時代を過ごしたので、静岡は第二の故郷のようで
静岡県各地の旅行記には愛着を感じます。
私もベルリン旅行記では少しは横浜臨海公園さまを見習って訪問地の情報を記述しようと
しましたが、勉強不足で筆が進みませんでした。
帰国後、時間が経つのに、正確な地名を日本語と現地語で記述するのがやっとでした。
これからも横浜臨海公園さまの旅行記を楽しみにしています。
よろしくお願い申し上げます。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/01/09 02:56:46
- 拝復
- しょーきちさま、こんばんは。
過分なるお褒めのメッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
仰せのとおり、現在の興津は地味過ぎて観光客の姿もまばらな所です。
然し、フォートラベルの国内旅行記の9割は、何れも同様な地域種別で、特異なヵ所を公表された方は僅少だと思います。
小生、国内旅行こそ、日の当たらぬ地の紹介で良いのではと考えております。
興津に関しては、あと1点を作成中です。
余り上等とは申せませんがご批判などありましたらご遠慮なく仰って下されば幸甚です。
横浜臨海公園
-
- 近鉄バッファローズさん 2011/10/12 23:47:24
- 興津の旅行記を拝見致しました
- 横浜臨海公園さん、こんばんは。
近鉄バッファローズです。
駿河國興津の旅行記を拝見致しました。
今ではJRの普通列車しか止まらない、普通の駅に私には思えましたが、
いろんな歴史がかくされていることに驚かされました。
また、平素の如く、そのとても深いところまで調べられた内容にも
感嘆しきりでした。有り難う御座いました。
坐漁荘の命名の由来には、思わず膝を打ってしまいました。
四書五経の素養のある方は、私のような凡夫とは異なります。
横文字全盛の時代の現代では、こんな命名は最早不可能かと。
西園寺公望公やその周辺の方々の事績についても寡聞にして存じず、
自分の不明を恥じるばかりです。
大正天皇の東宮時代の海水浴の話しについても、
全くの初耳でとても興味深く拝見致しました。
天皇家の方々を保守的だと思う方も多いでしょうが、
奈良時代の昔からその当時の先進的なことをすすんでされていたと思います。
また、他の旅行記も拝見させて頂きます。
取り急ぎ、御礼まで。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/10/15 07:23:27
- 拝復
- 近鉄バッファローズさま、おはようございます。
旅行記に投票とメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
フォートラベルの旅行記などを見ても、隣接地たる蒲原、由比に関しては桜えびに因んだ投稿をされた方は見かけるようですが、興津に関して殆ど見かけた記憶が無く、然も、興津鯛を味わった方は絶無の様です。
興津は奈良時代から登場する所で、寧ろ、現在の静岡市などより歴史は古い所です。
興津宿に関する旅行記の制作も検討しておりますので、何卒ご期待を願います。
横浜臨海公園
-
- kuritchiさん 2011/10/09 09:02:49
- 明治、大正、昭和の時代に思いを馳せながら…
- 横浜臨海公園さん、おはようございます。
西園寺公ゆかりの興津の旅行記にお邪魔させていただております。
宮さままんじゅう、一碧楼水口屋跡に始まり、西園寺公の散歩コースに、ゆかりの数々…。
咸臨丸殉難の件は痛ましい限りです。
清水次郎長の人情の深さに、救われた思いです。
西園寺公の安息の住処の坐漁荘も、味わい深いです。
主要部分は明治村に移転されているといっても、モダンな西園寺公のお好みが伝わってくる造りの建物、お庭ですね。
大正から昭和の初めの時代に思いを馳せながら拝見させていただきました。
kuritchi
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/10/10 23:07:46
- 拝復
- kuritchiさま、こんばんは。
何時も拙稿にお立寄りを賜りまして誠に有難うございます。
興津は鉄道に乗っても、東名高速で通っても、何時も通過するだけで、意外と街を訪ねられた方は少ないと思います。
今や興津は、旧清水市が合併され静岡市清水区の一角となってしまいましたが、街のソコソコに歴史を感じさせる雰囲気を濃厚に残しております。
興津は旅行記として、あと1編を作成予定で進めておりますのでご期待くだされば幸甚です。
横浜臨海公園
-
- frau.himmelさん 2011/10/08 10:17:18
- 高木惣吉少将の名前が出てきてびっくり!
- 横浜臨海公園さま おはようございます。
いつもありがとうございます。
さて、西園寺公望公に愛され、終の棲家となった興津の坐漁荘の旅行記 興味深く読ませていただきました。
とても読み応えのある旅行記でじっくり時間をかけて読ませていただきました。
読むほどに興津は歴史の宝庫だと感じました。
歴代の天皇も滞在された場所でもあり、また、西園寺公の下に日本の重鎮が集まり日本の政治が語られたこともあったでしょう。
また咸臨丸の名前が出てきたり、清水の次郎長が活躍したりと、興味が尽きませんでした。
そんな中に、西園寺氏の右腕とも言える秘書、原田熊雄氏に関係する人として高木惣吉氏の名前が出てきたのにはビックリしました。
私も少しばかり高木惣吉少将について興味を持って調べたことがありました。
日本の敗戦が色濃くなった太平洋戦争末期において、米内光政内閣の下で終戦工作に尽力した人物ですね。
軍部では敗戦は確実だと分かっていても、最後の一人まで戦おう、と一億総玉砕が叫ばれていた時代でしたから、一言で終戦工作と言っても大変な任務だったと思います。
高木少将らの勇気ある行動がなかったら、或いは今の日本はなかったかもしれないと思うとぞっとします。
私的には、もう少し高木惣吉の名前もメジャーになってもいいのではないかと思います。
あ、すみません。歴史の大家でいらっしゃる横浜臨海公園さまに言わずもがなことを申しましたかしら。
ありがとうございました。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/10/10 03:26:37
- 拝復
- frau.himmelさま、こんばんは。
この度は該旅行記に投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。
高木惣吉海軍少将は熊本県人吉市の出身で、実家が極貧だった為に当時の上級学校たる旧制中学校に進級できず、高等小学校の学歴で海軍兵学校を受験合格し、その後、海軍大学校を首席で卒業しフランス駐在武官補佐官を拝命した関係で、当時の直属上司たる駐在武官の古賀峯一海軍大佐の関係で西園寺公と接する機会を得た関係で原田男爵との交友が発生します。
帰国後、高木は当時の死病たる肺結核の為に海軍上級将校の必須とされた海上勤務ができず、昭和20年まで舞鶴勤務を除き東京勤務に終始し、当時の海軍条約派高官の下で調査課長になり原田氏と積極的な交流が続きます。
特に、ゾルゲ事件発生では、原田氏に容疑がかかった際に、海軍として弁護用語に回り、結局関与なしとの判断を得るのは、ひとえに高木海軍大佐の尽力があったこそだからです。
終戦工作では、井上次官直命で各方面との折衝に終始し、時に、陸軍省軍務局青年将校たちから命の危険さえあったほどでした。
我が国では、当時の海軍と言えば、米内光政海軍大臣、井上成美海軍次官、山本五十六連合艦隊司令長官などが知られておりますが、仰るとおり、高木海軍少将の功績に就いて、もっと研究解明がなされて然るべきと思います。
横浜臨海公園
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