2010/06/11 - 2010/06/13
246位(同エリア314件中)
風遊さん
一つの市・町で旅行記を3つUpする事は、未だかってありません。
小さな城下町で、旅行記が3冊に成ろうとは思ってもいませんでした。そんな魅力のある城下町<杵築市>
「坂の向こうにお江戸が見える」を訪れては如何でしょうか。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車
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能見邸/入場無料。
能見邸は北台武家屋敷群にあり、人気の観光施設の一つ「大原邸」に隣接。幕末期の建物と推測され玄関の間、上段の間など12の部屋があり「格式の高さがうかがえる造りです。 -
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藩校の門
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杵築小学校敷地内にある藩校模型学習館
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藩政時代のこと、このあたりは「北台家老丁」と呼ばれていた。
この屋敷は、『居宅考』によると、宝暦(1751〜1763)のころは、安西源兵衛が住んでいたが、寛政の大火(1800年)の後、御用屋敷である「楽寿亭」の一部に組み込まれた。
楽寿亭は、文政7年(1824)に廃止されたが、その後、再び武家屋敷になり、明治初年の「藩士住居地図」や加藤家寄贈文書類の調査から加藤与五右衛門(200石)の屋敷だったと分かった。 -
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北台武家屋敷の土塀は風雪や暑さに耐え、じっと見守って来た事でしょう。
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共通観覧券の最後の訪問は「佐野家」
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昭和の動乱期に外務大臣を務め日本の国際連合加盟に尽力した重光葵(まもる)氏が学生時代を過ごした家。
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その時歴史が動いた:重光葵
外交官だった重光葵(しげみつ まもる)は昭和6(1931)年の満州事変、翌年の上海事変を外交交渉で解決しようとする。停戦交渉をまとめた4月、爆弾テロによって重傷を負いながらも停戦協定に著名。だが国際連盟では昭和8(1933)年、日本に対し満州事変について勧告がなされ、不服とした日本は脱退。
太平洋戦争中、外相となった重光は昭和18(1943)年11月に大東亜会議を開き、アジアの独立と武力によらない協調を決議。終戦時の日本の全権大使として戦艦ミズーリ号において降伏文書に調印。戦後はA級戦犯として禁固7年の判決を受けた。1945年に国際連合が誕生し、昭和26(1952)年にサンフランシスコ講和条約を締結した日本は国連加盟を目標とする。
昭和25(1951)年に仮釈放された重光は政界に復帰し、昭和29(1954)年に鳩山内閣の外相へ。冷戦でソビエトが日本の加盟に拒否権を発動する中、加盟実現に奔走。昭和30(1955)年のバンドン会議でアジアとの協調をはかり、国連に出向いてロビー外交を行うが、4度の加盟申請も拒否された。
そこでソビエトとの関係改善で打開しようと重光は、日ソ国交回復交渉を行うが失敗。鳩山が北方領土問題を棚上げして昭和31(1956)年に日ソ共同宣言と国交回復をまとめた。12月、ポスト鳩山内閣の動きが活発化する中、重光は日本を離れ加盟申請。18日の国連総会において日本の国連加盟が認められた。
重光は議場で「我が国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米およびアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において『東西のかけ橋』になり得る」と演説。日本では石橋湛山内閣が成立し重光は外相の地位を失い、1ヶ月後の昭和32(1957)年1月に69歳の生涯を終えた。(資料参照) -
この蔵にも鍵フックの様なものがあります。
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庭に小さな仏像が・・・・・!
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重光家を午後3時20分に出発し、日出バイパスを通り速見ICから高速に乗り午後7時に関門海峡を通過です。
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走行距離1126k・9湯制覇の楽しい旅でした。
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