2010/09/22 - 2010/09/26
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korotamaさん
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今回の旅で最も楽しみにしていた備中松山城。
これは現存する12天守の一つであり、かつ、その中で唯一の山城です。
山城であるところも魅力だし、「びっちゅうまつやまじょう」という響きも美しい…。
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
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眼下に見ゆるは、岡山県高梁の町。
南北に流れる高梁川流域に開けた町。
右手の高い山が臥牛山(がぎゅうざん、標高約480m)。 -
臥牛山をよーく見ると、お城が建っています!
右手の建屋が、中世より現存する十二天守の一つ、備中松山城の天守です。備中松山城 名所・史跡
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高梁の町の北に位置する臥牛山は北から、大松山(おおまつやま)、天神の丸、小松山(こまつやま)、前山(まえやま)の4つの峰からなり、備中松山城は標高約430mの小松山に築かれた、連郭式縄張りを持つ近世の城郭です。
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在りし日の備中松山城。
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車で訪れる際は、8合目のふいご峠駐車場か麓の城見橋公園駐車場に停めます。
一般車は土日祝日は城見橋公園までしか行けないので、そこからふいご峠まではシャトルバス(写真奥)に乗ります。
麓から、「中国自然歩道」が整備されているようで、時間と体力があれば往時を偲びながら登城ができそうです。 -
ふいご峠でシャトルバスを降り、ここから古に戻って、歩いて登城。
ふいご峠とは、実際には「鞴峠」と書くらしい。
が、読めません…。 -
山城です。
ひたすら登ります。
運動不足のkorotamaには息が切れます^_^;
臥牛山、その昔は「松山」と呼ばれていましたが、江戸時代、南から見た山の形が草の上に伏した老牛に似ていることから「老牛伏草山」「臥牛山」と呼ばれるようになったのだとか。
若牛ではなくなぜ老牛なのか??? -
「中太鼓の丸」跡に残る石垣。
標高は355mほど。 -
「中太鼓の丸跡」
眼下には臥牛山の南端の峰である前山があり、その頂には「下太鼓の丸」があったそうな。 -
記憶が定かではないのですが、多分これが「下太鼓の丸」。
中太鼓の丸との標高差は35mほどあるようです。
「殿が来るぞー」「怪しき奴が来るぞー」と、麓から順々に知らせていったのでしょうか。 -
中太鼓の丸から高梁の町を眺めます。
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ふいご峠から歩くこと20分。
ようやく大手門跡が見えました。
急な階段に平行になるような向きで大手門が設えていました。
そう。
攻め込むためにはここでカクッと折れなければならず、勢いはそがれます。 -
文献・古地図によると、石垣の上には十間二間の櫓門がどっしりと守りを固めていたそうです。
十間 = 約18.2m
二間 = 約 3.6m
見上げる自分はさらに下の位置にいますから、
麓から登ってきて、さぞかしド迫力だったことでしょう。 -
でもって、圧巻がこの石垣。
天然の崖のうえに載る厩曲輪石垣。
(土塀は現存。)
自然を巧みに利用した高石垣には、思わず感動の声が漏れてしまいます。
ただ、樹木の成長などにより岩壁に亀裂が入るなどが原因で、石垣崩落の危険性があるのだそうな。
高梁市教育委員会と京都大学防災研究所が調査・研究を続けています。 -
岩壁、石垣、土塀にズームです。
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大手門脇に「足軽箱番所」跡。
それにしても、このような山の上に、このような高石垣。
圧巻としかいいようがありません。 -
こんな光景を見られただけでも、備中松山城にやってきて、満足満足です。
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でも、もちろん、ここで引き返すはずはなく。
大手門をくぐり、先へと進みます。 -
緩やかな階段に、束の間、ほっ。
左手の「三の平櫓東土塀」は現存のもの。
かつて、塀の手前には二の平櫓、向こう側には三の平櫓が建っていました。
二の平櫓は小松山の峰に立つ城郭の南端に位置していました。 -
三の平櫓東土塀を少し高いところから眺めました。
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「三の丸」跡。
石垣が連なる姿は、城郭と言うよりも要塞のという響きのほうがぴったりする感じ。 -
石段が続きます。
往時は馬も登ったのですよね。 -
で、「厩曲輪(うまやぐるわ)」跡。
左手には「厩門」がありました。
奥のほうに見える白い土塀が、 -
大手門前から見上げた岩壁&石垣に載った土塀。
一部現存です。 -
そして、二の丸の入り口、「二の櫓門(鉄門、くろがねもん)」跡。
こちらも間口が広かったようです。 -
二の櫓門の土台に巨石あり。
奥には二の丸が広がっています。
山の峰だけれども、案外広い。 -
そして、二の丸の北に本丸。
天守が顔を覗かせています。 -
天守にず〜む。
天守としてはあっさり2層。
高く立派な石垣を見たあとだと、これが一層小さく見えてしまいますー。 -
本丸の正面玄関とも言える、六の平櫓、本丸南御門、五の平櫓…(左から)。
土塀も含め、1997年に復元されました。 -
五の平櫓を見上げ、本丸へと入ります。
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へへ。
天守に上がる前に、無料の一服(^_^;)
嬉しい心配りです(^。^) -
本丸土塀狭間からの眺め。
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そして、
木造本瓦葺き二層二階の複合式層塔型天守。
小さいながらも、大きな唐破風出格子窓があったり、西面には付櫓、この角度では見えないけれど東面に入母屋造りのでっぱりがあったり、と、複雑・個性的な造りの天守です。
往時は左手前に八の平櫓があり、付櫓(接続廊下)を通って天守に入っていたのだとか。
土台となる石垣が、やはり岩壁の上に築かれていて、存在感をグッと大きくしています。 -
天守から本丸を眺める。
天守がいつ、誰によって造られたかは定かではないそうですが、すでに江戸時代の始まりには存在していたと推測されるそうです。
現在見られる天守は1683年(天和3年、徳川綱吉の時代)に水谷勝宗(みずのやかつむね)により修築されたものとのこと。 -
備中松山城の歴史は鎌倉時代に始まり、多くの城主がここを守りました。
江戸時代だけでも8氏が城主となりました。 -
西の付櫓、接続廊下(つなぎろうか)からお邪魔します。
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接続廊下(つなぎろうか)から天守1階へと上がる梯子。
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梯子から1階を覗き見。
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天守1階。
この、木の質感がたまりません。
現存天守ならではの味わいです。 -
天守には珍しい、囲炉裏です。
籠城時、城主のために食事を作ったり、暖をとるためのものだったとか。
江戸時代、城主は城郭内には住まわず、山麓の「御根小屋(おねごや、現高梁高校)」が居館、政庁でありました。 -
1階北に位置する「装束の間」。
一段高くなっていて、篭城時、城主一家の居室となる部屋。
落城の際には、最期の場にもなる。
小さいながらも、珍しいものばかり。 -
囲炉裏が切られている1階東側。
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2階へ上がります。
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2階に上がって階段を振り返ります。
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防御優先のために踊り場を設けて折り曲げてあり、かつ、急勾配。
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2階の北に位置する「後社壇」。
1863年、藩主水谷勝宗が天守修築の際に、一国一城の守護神を祀りました。 -
外から中は見えにくいが、中からは外が広範囲に見えやすく工夫された太い縦格子の「連子窓(れんじまど)」
から、二の丸越しに城下を眺めます。 -
鯱を間近から。
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外に出まして、天守東側。
1階、囲炉裏が切られている側です。
右奥に、現存する二重櫓が顔を覗かせています。 -
天守北側。
手前には復元された腕木御門。 -
現存する「二重櫓」。
天守のすぐ北側を守っています。 -
本丸を出て、裏手へとまわりました。
「搦手門(からめてもん)」跡。 -
石垣を覆うように、樹木が育っています。
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「後曲輪(あとぐるわ)」跡。
石垣の修復中でしょうけれど、ブルーシートがカナシイ・・・ -
二重櫓を北東から見上げます。
こちらも天然の岩壁の上に石垣を積み、そして櫓が建てられています。 -
想像以上に迫力があった備中松山城。
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今に遺してくれて、ありがとう!
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