2010/07/11 - 2010/07/11
737位(同エリア842件中)
まみさん
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2010/07/11日 リガ観光2日目
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<トロリーバスを乗り間違えてしまい、旧市街に歩いて戻る>
・ブリーヴィーバス大通りとゲルトルーデス通りの交差点近くの教会見学
・救世主生誕大聖堂(ロシア正教会)見学
・大聖堂は12時〜14時までミサのために入れず
・聖母受難教会見学
・英国教会見学
・国立歴史博物館見学&写真撮影
・聖ヤコブ教会見学
・リーガの歴史と海運の博物館見学&写真撮影
・大聖堂オルガンとチェロ・コンサート鑑賞
・聖ペテロ教会前のブレーメンの音楽隊の像を見に行く
・ガレリヤ・セントゥルス(デパート)を見に行く(食品売り場でミネラルウォーターを買うついで)
【リガ泊:ホテル・イリーナ(Iriena)】
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本日は1日リガ市内観光に当てます。
バスやトロリーバスの主要路線も載っている「地球の歩き方」の地図をにらめっこしながら、ルートを考えました。ホテルは駅前の旧市街の入口にあります。ホテルの前にはバスやトロリーバスの停留所がいくつもあります。
なので、今回もヴイリニュス初日の観光の時のように、まずトロリーバスで旧市街の端にあるリガ城の国立歴史博物館の近くまで行って、国立歴史博物館を見学し、そして戻りながら観光する方法をとろうと思いました。
リガは昨日から猛暑なので歩く距離を減らしたい気持ちはもちろんありましたが、それよりも、せっかくなので市内公共交通機関を利用したくなったのです。
リガ観光は徒歩圏内とはいえ、市内交通を制すれば、行動範囲の可能性がぐんと広がります。
ただ、切符はキオスクで買わなくてはならないのですが、(バルト3国は共通して、運転手の負担を減らす目的で乗車券をキオスクなどで買わせるため、車内販売だと高くつきます)、停留所の近くに見当たらなくて(探し方がヘタだっただけかもしれません)、駅ビルの中のキオスクまで行きました。
ところが。
ロータリーにすらなっていないふつうの通りであるホテルの前に停留所がいくつもあるものだから、バスやトロリーバスは次から次へとやって来るだけでなく、前の車両が止まっていれば停留所のすぐそばには停車できず、停留所からずれたところに停まったりします。
慣れない私にとってはめまぐるしかったです。
そんなわけで、次から次へとやって来るバスの番号を確認しているうちに、頭の中で目当てのトロリーバスの番号がいつのまにか入れ違ってしまいました(泣)。
飛び込むようにして乗り込んだトロリーバスの中は、ステップに一歩足を乗せた段階で、中から熱気と臭気がムワッと押し寄せてきて、くらくら……。
夏の猛暑より冬の寒さを凌ぐことが大変なお国柄か、こんなに暑いのにトロリーバスは窓が開かない仕様で、車内は蒸し風呂状態どころではありませんでした。
汗と体臭と熱気で気持ち悪くなりそうでした。
そして、なんとなぁく他の乗客が私をじろじろ見ている気がしてなりませんでした。なんでこんな路線に外国人観光客がわざわざ乗っているんだろうってかんじで。被害妄想?
こんなに苦労して(?)トロリーバスに乗り込んだのに、しばらくして乗り間違えに気付いて、ガクゼン!!
車内の蒸し暑い不快さに気を取られているうちに、トロリーバスは途中で旧市街を背に道を曲がってしまい、そのままずっと直進しました。
私が下りる目印にしていた交差点に一向にたどり着かず、こんなに時間がかかるはずがない、と思ったときにやっと、乗り間違いに気付きました。
このままどんどん郊外に行ってしまったらたまったもんじゃないので、自分がどこにいるか分からないまま、トロリーバスを慌てて降りました。
片道しか乗るつもりがなかったので切符は一枚しか持っていないし、トロリーバスの時刻表を見てもすぐに戻りのバスが来そうになかったので、仕方がなく、来た道をてくてく歩いて戻ることにしました(泣)。
ラクしようと思って返ってとんだ寄り道になり、余計な時間を食うことになりました。
空港やホテルで比較的広範囲が載っているリガの地図を手に入れていたのですが、それでも自分がどこにいるか分かりませんでした。
トロリーバスでやって来た道をそのままたどって戻ればよいことだけは分かっていたので、完全に道に迷ったわけではなく、半分は開き直っていられたのですが、一体どのくらい歩けば旧市街に戻れるか見当もつかなかったのが心細かったです。
こんなところでせっかくの観光時間がどんどんつぶれてしまうなんて。
悔しさが原動力となってひたすら歩き続けていたら、やっと覚えのある通りの名の標識を見つけて、自分の位置を確認することができました。
地図を広げてあとどのくらい歩かなくてはならないかな……とじっと眺めていたら、「何かお困りですか」と2人連れの女性に声をかけてもらえました。
内心、本当に心細かったときには声がかからなかったのに、もう大丈夫となったとたんかかったなんて、皮肉!───と思ったのですが、現地の人の優しさは身に沁みました。
思わぬ時間のロスでしたが、歩き始める前に教会が目についたので、転んでもただでは起きないぞ!というつもりで、旧市街に戻りがてらでも、気になる教会があったら寄ることにしました。
そうやって、旧市街に戻るまでに、予定のなかった教会を2つ回ることができました。
2つ目は旧市街のすぐ外のロシア正教の救世主生誕聖堂でした。
正教会の国でもないバルト3国では、正教会はたいてい写真が撮れないので敢えて回らなくてもいいやと思って優先順位を下げていましたが、写真が撮れなくてもやっぱり外すべきではないと思いました。
カトリックやプロテスタントの教会での撮影散策も楽しいですが、煌びやかで贅沢でありながら、どこか素朴な土臭さを感じさせるロシア教会は、たまらなく魅力的です。
この旅行記ではリガ2日目の市内観光のうち、教会の写真でまとめました。
市内観光で教会は外せませんが、その中でも特に外せないところといえば大聖堂です。
ところが、今回は大聖堂はタイミングが悪くてなかなか入ることができませんでした。
1度目は昼のミサの時間帯にバッティングしてしまいました。
リガの大聖堂はミサの時間帯には信者でもないただの観光客は締め出していたんです。
どこをどう見ても信者らしさが全くない私は、偽ってまで中に入ることはできません(苦笑)。
それに私は撮影可ならぜひ写真を撮りたいと思っているのですが、信者は教会内でカメラをパチパチやったりしませんものね。
2度目は夕方だったのですが、夜のオルガンとチェロのコンサートのリハーサルのために閉まっていました。
コンサートがなければ、まだ開いていた時間帯だったので悔しくなりましたが、その夜のコンサートを待つことにしました。
もともと大聖堂の日曜日のオルガン・コンサートは狙っていました。リガ市の公式サイトで情報をゲットしていたんです。
というわけで、3度目の正直、コンサートのときに、最中にちょこっと、終わってからちょこっと、という風に、なんとか大聖堂内を見学することができました。
大聖堂でのオルガンとチェロのコンサートは、まるでどこかのホールのコンサートみたいに、座席の位置によって値段のカテゴリーがありました。
チケットは5.00ラトヴィア・ラッツ、7.00ラトヴィア・ラッツ、10.00ラトヴィア・ラッツの3カテゴリーありました。
(旅行前に調べた2010年6月30日現在の換算レート:1.00ラトビィア・ラッツ(Ls)=152.47円)
演奏の最中にパイプオルガンが見えるいい席に着く必要はないと思ったし、前向いて聴こうが横向いて聴こうが音響効果にそれほど差があるとは思わなかったので、横向きの座席に当たる、真ん中のランクの7.00ラトヴィア・ラッツのチケットを買いました。
リガ大聖堂のパイプオルガンはとても有名らしいですが、あいにく一部修復中で外側はビニールに覆われていました。
ただし、音色には支障のない修復だそうなので、コンサートは滞りなく行われました。
でも、チケット代が1番高い席でオルガンを眺めながら聴く意味はなくなったわけです。
それとも耳の良い人にとっては、やはりオルガンを真正面に見る席と、横向きになる席とでは、音色が違って聞えるのかしら。
コンサートは19時から1時間ほどで、プログラムは迫力がある曲とやさしい曲とがだいたい交互に組まれていました。
チェロが入る曲はオルガンが伴奏でした。
美しいメロディーのやさしい曲ももちろん良かったですが、体の中に音がわんわんと反響するような迫力ある曲や、背筋がぞくぞくっとするくらい厳かな曲はとても感動的でした。
2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/
詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html
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旧市街に戻る途中で見つけた、ゲルトルーデス(Gertrudes)通りの教会
レンガ造りのなかなかステキな教会です。
トロリーバスを乗り間違えて郊外に行ってしまうような失敗をしない限り、出会うことがなかった教会でしょう。 -
ゴシック風の高い天井が美しい、主廊から主祭壇にかけて
日曜の午前中なのでミサの最中でした。
というか、どうやら定例のミサが終わって、洗礼か何か特別な式を行っている最中に見えました。 -
主祭壇の上のステンドグラスとシャンデリア
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側廊のステンドグラス
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説教台の上の部分とシャンデリア
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反対側の側廊のステンドグラス
こちらはカーテンのデザインが赤いです。 -
説教台の上の部分とシャンデリア、反対側からも迫る
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おそらく聖体拝領
キリストの血と肉であるパンとワインを頂いているところだと思います。 -
聖体拝領
背後の主祭壇にも注目。 -
主祭壇の上のシャンデリア
シルエットは主祭壇のものです。 -
救世主生誕教会(ロシア正教会)
リガの市内地図でこれを見つけたとき、ラトヴィアは正教会の国ではないし、正教会はどうせ内部写真は撮れないだろうから……と思って、見学したいところの優先順位を下げました。
でも、せっかく通りかかったので、見学することにしました。 -
入口側
「ロシア正教会の大聖堂(救世主生誕大聖堂)
1876年から1884年に建てられた、5つの円屋根を持つ黄色いレンガのこの教会は、占領時代はプラネタリウムにされましたが、ようやく1990年になって正教会として復活しました。有名なロシアの画家Vereshchaginによる壁や天井のフレスコ画を含め、教会のたくさんの装飾美術品はソ連によって破壊されました。教会の大部分は現在修復され、かつての荘厳な姿を取り戻しています。」
(「In Your Pocket RIGA June-July 2010」より私訳) -
入ってすぐの玄関部分
うん、ロシア正教会らしい空間です。 -
入ってすぐの玄関部分
ここまでは撮影してもいいのかなぁと思ったけど、ひょっとしたらここもすでに撮影禁止だったかも!? -
リーフレットの写真より、イコノスタシスとその向かって右脇
内部撮影が叶わない代わりに、リーフレットを買いました。
リーフレット(英語版)の値段は、1.20ラトヴィア・ラッツでした。
(旅行前に調べた2010年6月30日現在の換算レート:1.00ラトビィア・ラッツ(Ls)=152.47円) -
イコノスタシスの中心の黄金門の部分
ミサの最中にはこの扉とカーテンが開いて、奥の祭壇が見えるはずです。
宗派によって儀式のしきたりに多少違いはあるとは思いますが、この黄金門を出入りできるのは、基本的には神がこの世に遣わした神の恩寵の象徴である聖書だけのはずです。とはいえ、聖書はさすがに一人では歩かないので、持ち運ぶ司祭さまももちろん出入りしますけど@
また、ミサのときにはたくさん教会内にはたくさん明かりが点されるし、司祭さまたち聖職者の方々の衣装はとても豪華ですし、アカペラで唄うような調子で聖書の文句が読まれたりするので、あちこち見て回れない代わりに、荘厳ですばらしい世界が垣間見られるはずです。 -
リーフレットの写真より、3つもあって驚きのイコノスタシスの1つ
イコノスタシスとは聖なる礼拝堂と信者たちが立つ世俗エリアの境界にあるイコンの壁で、正教会の中で最も重要なものです。
それが3つもあるなんて驚きです。
今回の旅行でカトリックやプロテスタントの教会ばかり見学してきて、正教会は久しぶりだからか、イコノスタシスはどこかエキゾチックに感じられました。 -
リーフレットの写真より、3つあったイコノスタシスのうち向かって左側
シャンデリアやイコノスタシスの向こうに見えるフレスコ(イコン)やさまざまな宗教調度品も見ごたえありました。
壁にもぎっしりフレスコや装飾が描かれていて、イコンもたくさん掛けられていて、金襴豪華でミーハー気分を大満足させてくれました。
非常に写欲が刺激されたのに、撮影禁止で残念でした。
まだ一部、昔のフレスコを修復中のところもありました。
下絵に色を塗っている人たちがいたので少しだけ様子を見学しました。
ほんとうにちょっとずつちょっとずつ丁寧に仕上げていて、進み具合は微々たるもので、辛抱がいる仕事だと思いました。 -
横からもう一度眺めた、救世主生誕聖堂
しばし別世界に浸れました。
旅行前に読んだ原翔さんの「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」によると、内部修復にはまだまだ時間もかかるし、イコンはほとんどない、とありました。
でも、原さんが訪れたときからもう数年はたっているからでしょうか。修復したての新しくピカピカな印象はありましたが、内部はかなりの部分が往時の姿に戻っているのではないかと思いました。
「(前略)これが1884年に建てられた「救世主生誕大聖堂」で、かつてのリーガにおけるロシア正教布教の拠点である。ロシアのアレクサンドル3世はタリンのアレクサンドル・ネフスキー聖堂に17年先行してこの聖堂を建設した。だが、その建設には手間どったそうだ。進出してきたロシア正教はすぐにドイツの支配を象徴するルター派の教会に攻撃を仕掛けた。ロシア正教の教理問答集をラトヴィア語に翻訳して住民に配布し、布教活動を強化した。一方、ドイツ人地主側は正教会に土地を提供せずに仕返しをする。やがて、このロシアとドイツの対立はロシアのアレクサンドル3世とドイツ帝国のビスマルクとの大喧嘩へと発展する。ロシアはルター派の牧師をシベリアに追放し、3万人のプロテスタントを正教に改宗させた。この騒動の元となったこの大聖堂も宗教を否定したソ連時代にはプラネタリュームになってしまう。本来の教会に戻ったのはごく最近で、現在は改装工事の途上にある。内部はイコンなどほとんどない。以前の姿に戻るにはまだまだ時間がかかるのだろう。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
大聖堂を仰ぎ見る
12時から14時までミサのため観光客は入れませんでした。
先に国立歴史博物館を見学してから、また戻って来ることにしました。 -
リガ城のとなりの聖母受難教会
本日の1番の目的のリガ城(国立歴史博物館)のとなりにあった教会です。
とてもステキな教会だったので、先にちょっくら中を覗いてみました。
「リーガ城の近くのポリュ・ガーテ(Polu gate)通りにあるカトリックの聖母受難教会は、かつて掘だったところに1761年に木造の教会として建てられた。1784年から1785年にかけて改修され、さらに1860年に入口を東に移動させて再建された。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
ちょうど昼どきだったので、ミサの最中
外も白亜の教会ですが、中も白亜の教会でした。
最近、修復が終わったばかりのような、まだ真新しい印象を受けました。本当は歴史ある教会かもしれません。
また、この柱の一つ一つには、往時には貴重な宗教画が掛けられていたかもしれません。
そういった貴重な品々は、戦禍か災害か、あるいはソ連時代に失われたのだろうと思います。 -
白亜で豪華な主祭壇
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ダウガヴァ川沿いにあった英国教会
本日ハイライトの国立歴史博物館に入る前に、昼食をとらない代わりにジュースで一息ついた喫茶店のそばにあったので、立ち寄りました。
「英国教会
この小さな教会は、リガに住んでいたイギリス人商人によって、1857年に、とりわけイギリスから運ばれた土を使って建てられました。1859年に献堂されたこの教会は、イギリス軍艦がラトヴィアを訪れたときだけ満員となりました。ソ連時代には学生のディスコとして使われましたが、再び、リガに住む英語圏の人々が礼拝に来る場所となりました。この教会の牧師と信者は、慈善事業でも有名です。」
(「In Your Pocket RIGA June-July 2010」より私訳) -
英国教会の中に入ると
ミサの最中というわけでもなく、誰もいなかったので、落ち着いて見学できました。
入口から入ってすぐに目に入ってくるのはふつうは主祭壇なのですが……。
「(前略)その先のアングリカーニュ(Anglikanu)2A番地にあるのが聖救世主教会の名があるプロテスタントのアングリカン教会である。ここはかつて聖バーヴィラ稜堡の跡地である。イギリスの商人が1857年に故郷から運んだ土を10センチの厚さに敷きつめて基礎をおいたという。現在のゴシック様式の教会が完成したのが1861年である。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
なぜか主祭壇らしきものが見当たらなかった英国教会
まさかこのオルガンが主祭壇の代わり!? -
入口側
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幾何学的でなかなかお洒落なステンドグラスと、シャンデリア
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オルガンと台
奥の布に注目。 -
世界はひとつ!?
着物を着ている日本人らしき女の子が1番目立っています。 -
パッチワーク風のもう一つの布
いろんな都市の象徴的な建築物のようです。
リガになにかしらゆかりのある都市のものかもしれません。姉妹都市とか。
真ん中の列の上から4つめは分かりました。パリのサクレ・クール寺院です。 -
聖ヤコブ教会
旧市街の建物が密集した中に教会があるので、全貌を撮るのがむずかしいです。
「聖ヤコブ(イェーカバ)教会
1225年に最初の記録に登場する古い教会。15世紀に建て直され、塔は80mの高さがある。
その塔の中程に突起物があるのが見えるだろうか。ここには“哀れな罪人の鐘”と呼ばれた鐘がつらされている。市庁舎広場で罪人の処罰が行われる際には、この鐘がこれを市民に知らせる役を担っていたからである。
また言い伝えによると、この鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴りだした。それゆえ女性たちに嫌われ、夫らに圧力をかけて、この鐘をはずしてしまったという。鐘は再び、2001年のリーガ800年祭を機に取り付けられている。」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より) -
創設年度が書かれた聖ヤコブ教会の入口
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ここもミサの最中だった、聖ヤコブ教会
少しだけお邪魔します。 -
美しいステンドグラスと白く清楚な主祭壇と
白い衣装の子供が可愛い@
聖歌隊の子供というかんじですが、この子はここで何をしているのでしょうか。 -
主祭壇のキリスト磔の十字架とステンドグラス
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博物館見学の後に入ろうとしたら、またしても閉まっていた大聖堂(泣)
訪れたのは確か15時頃。
通常ならまだ開いている時間。
なのに、夜のコンサートのリハーサルのため、もう閉まっていました(泣)。
でも、コンサートには行くつもりなので、そのときに見学できるはずです。
「リーガ大聖堂(ドゥァムス)
騎士団が占領したリヴォニア(現在の北部ラトヴィアと南部エストニア)の宗教的中心を成してきた教会。1211年に僧正アルベルトが建設を始め、その後何度も増改築なされて18世紀の後半に現在のような姿になった。そのため、ロマネスクからバロックにいたるさまざまなスタイルが、この教会には混在している。(中略)
高さ90mの現在の塔は1776年に建て直されたものだが、それ以前の塔はさらに50mも高かった。塔の上の雄鶏は1985年に付け替えられ、以前のものは教会内に保存されている。
教会の内部には墓碑銘や、司祭やギルドの墓石などが展示されている。そのなかで特に目を引き、また大聖堂の名声を高めているのが、美しいステンドグラスとパイプオルガンだ。数あるステンドグラスのうち、興味深いのは北側にあるリーガの歴史を映したもの。19世紀の終わりにミュンヘンで作られたもので、左から順に「ティゼンハウゼン一家(ステンドグラスの寄進者)と聖母マリア」、「アルベルト僧正による大聖堂の創設」、「1525年、リーガ市長に信仰の自由の宣言書を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」、「1621年、スゥェーデン王グスタフIIアドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」となっている。
重厚なパイプオルガンは1883年に造られたものだが、木彫りの彫像で装飾されたフレームは16世紀以来のものが慎重に保存され、使われている。パイプは6718本を数え、長いものは10mにも達する。造られた当時は世界に並ぶものがない最大級のものだった。(後略)」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より) -
やっと中が見学できた大聖堂の説教台の上の部分
オルガンとチェロ・コンサートの最中に撮りました。
ちょうどこの説教台に向き合うような座席でしたから。
「説教壇は1641年に寄贈されたという精巧な木造の芸術品である。祭壇の右の壁には1709年の大洪水の水位がしるされている。北方戦争でピョートル大帝に敗北するときの洪水だから、リーガの混乱は大変だったろう。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
歴史を描いたステンドグラスとシャンデリア
おそらく左は「1525年、リーガ市長に信仰の自由の宣言書を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」、右は「1621年、スゥェーデン王グスタフIIアドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」だと思います。 -
修復中で一部見えないオルガン
木製のフレーム部分が修復中でした。
「この聖堂に最初に設置されたパイプオルガンは1601年の製作だった。現在あるのは1884年製で世界で4番目に大きいといわれる代物である。このオルガンはパイプの数が6768本、パイプの長さは1センチ3ミリから10メートル、音域が9オクターブ半という。これらのパイプが、1601年、1681年、1773年に造られたという装飾が施された木製のフレームに納まっている。湾曲した天井に反響するオルガンの透き通る音色での宗教音楽の演奏は世界的に有名である。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)
パイプオルガンの数が「地球の歩き方」と原翔さんの「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」では違っていました。
どちらが正しいのか。
あるいはどちらも正しいのだとすると、減ったのかしら。 -
主祭壇に向かって
コンサートの最中なので、席を立つことができませんが、長いす一列まるまる占領できたので、少しずつ場所を移動してそっと撮影しました。 -
意外に簡素な主祭壇
14倍にズームしてなんとか。
一見、簡素だけど、よく見ると豪華な祭壇です。
また、ステンドグラスもとても美しいです。 -
主祭壇とキリストのステンドグラス
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側廊のステンドグラスとシャンデリア
さまざまな聖人のエピソードが描かれていると思います。
左上はドラゴンを退治する聖ジョージでしょう。
右上は物乞いに自らの衣装を切り刻んで与える聖マリウスかな。 -
説教台、全体
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聖ペテロと聖ヤコブのステンドグラス
コンサートが終わった後、明かりが消されてしまうまでほんの10分程度でしたが、ステンドグラスに近寄って大急ぎで撮影しました。
鍵を持つのが聖ペテロ、剣を持つのが聖ヤコブです。 -
1621年、スゥェーデン王グスタフIIアドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」あるいは「スウェーデン王グスターヴ2世アドルフにリーガ市のお偉方が市の鍵を渡す歓迎式」
花輪を持った少女たちも可愛らしいです。
「聖書とリーガの歴史をテーマとしたステンドグラスも有名である。このステンドグラスの窓は比較的に新しく19世紀末から20世紀初頭にかけてリーガ、ミュンヘン、ドレスデンなどで製作された。「ステンドグラスの寄進者と聖母マリア」「アルベルト司教の聖堂建立」「プロテスタントに改宗するリヴォニア騎士団長」「スウェーデン王グスターヴ2世アドルフにリーガ市のお偉方が市の鍵を渡す歓迎式」などの図柄が面白い。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
「1525年、リーガ市長に信仰の自由の宣言書を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」あるいは「プロテスタントに改宗するリヴォニア騎士団長」
「地球の歩き方」と原翔さんの「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」では少し説明が違いますね。 -
「アルベルト僧正による大聖堂の創設」のステンドグラス
原翔さんの「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」でにわか勉強したバルト3国の歴史からすると、アルベルト司祭は地元の人にとって、かなり非道なやり方でキリスト教化を進めたし、当時の聖職者なら当然かもしれませんが(あととりになれない貴族の子弟の天下り先でもあったから)、世俗的な権力への執着も見せていたようなので、私の中では彼はいい人というよりは、プチ悪役です@。 -
「ティゼンハウゼン一家(ステンドグラスの寄進者)と聖母マリア」
向かって右手はティゼンハウゼン夫人でしょう。髪の毛を布ですっぽり覆い隠しています。 -
細長い主廊
帰り間際に急いでパチリ。
説教台が見えます。
コンサートの最中は、あの向かいの横向きの席に座っていました。
「アルベルト司教は1211年にクールシ人の小さな墓地の小山に礎石をおいてこの教会を建設した。当時、ドイツ人の居住区は拡大しつつあったが、現在のロァゼナ(Rozena)通りとジィルグ(Zirgu)通り辺りまで半円形に広がっていただけだったから、この教会はリーガの城壁の外側に建てられたのだ。教会がリーガ大聖堂になるのはアルベルト・ズエルベールが大司教となってリーガに大司教座がおかれた1254年である。その当時でもまだ簡素な建物だった。
(中略)
大聖堂は宗教改革によってルター派の教会になる。現在の大聖堂は七つの道路が集まる広場にあるが、この広場は1860年から1880年にかけて周囲の建物を壊して造られたものだから比較的に新しい。
バルトで最大といわれる大聖堂は横が187メートルで縦が43メートルである。度重なる改造や建築で13世紀のロマネスク、15世紀のゴシック、18世紀のバロックと様々な様式の集合体となった。祭壇の部分と東翼部分をつなぐところが最も旧く、斜めのアーチ型の天井や半円形の窓が並ぶところがロマネスクである。尖ったアーチ、大きな窓、星型の天井などシンプルな部分が次に加えられたゴシック様式である。東の部分の切妻壁と尖塔はバロック様式である。最も新しく19世紀後半に再建された入口はホールの部分が20世紀初めにアール・ヌーヴォー様式となっている。尖塔は1547年に火災にあうが1595年に木造の140メートルの高さで再建された。でも、風に弱くて不安定だとの理由で1776年に現在の90メートルの高さに建て替えられた。
大聖堂の最後の改修は1886年から1906年にかけてなされた。でも、ソ連は1959年に宗教活動を禁止し、大聖堂は国に没収されて改造され、1962年にはコンサート・ホールにされてしまった。」
(中略)
カトリック時代の調度や備品は大変に豪華だったようだが、宗教改革の1524年にすべてが撤去されたそうだ。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)
「2010年バルト3国旅行第8日目(2)リガ:国立歴史博物館でバルト民族の文化に触れる&おもちゃコレクション」へとつづく。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10540940
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