2016/05/30 - 2016/05/30
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chiaki-kさん
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今日はエストニア・タリンからラトビア・リガへ移動する日。
表紙の写真は翌日に行ったリガから1時間ほどのバウスカという町にある「ルンダーレ宮殿」。”バルトのヴェルサイユ”とも言われる宮殿でロシアの女帝アンナから地元の貴族にプレゼントされた館。宮殿の南側に広がるフランス庭園では時期になるとこのようにバラが美しく咲き乱れる様子が庭に展示してあった。
2024/03/05 一部修正
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 1.0
- グルメ
- 2.5
- ショッピング
- 1.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- フィンランド航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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5/30
8:00 タリン出発。4号線をラトビアへ向けバスはひた走る。道はほぼ一直線で路肩は余裕を持たせてあるが、基本的に片側1車線。写真のような草原や、緑の壁のようにうっそうと茂る森の中をバスは100km/hかそれ以上でブッとバス。
タリン編に記述したとおり、バスのドライバーさん結構飛ばす人で、対抗車が接近していても前車を抜きまくる! (対抗車が遠慮することを計算済み) -
パルヌという町を過ぎるとこんな橋を渡る。今日も良い天気だ。
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やがてバスの前方に国境のゲートが見えてきた。
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EUに加盟した今は、ドライブインを残してゲートは全てクローズしている。
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検問所が使われていた頃は、さぞかし長い行列が出来ていたことだろう。なお、こちら側はエストニア、向こう側はラトビアのゲート。
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ラトビアに入国、道路名はA1号線に変わる。ところで、この国もエストニアと同様周辺諸国の支配を長く受けてきた歴史をもっている。
まず13世紀には帯剣騎士団と呼ばれるドイツ騎士団による植民地化が進められる。 -
ラトビアに入って間もなく大きな川を渡る。バスの窓からバルト海がはっきり見えたのはここだけ。
やがて16世紀になると南部はリトアニア・ポーランドに、北部はスェーデンの支配を受ける。 -
途中こんな風景も。
やがてポーランドに替わってやってきたのはロシア帝国。WW1の後ラトビアは一時独立するが、WW2直前ヒトラーとスターリンの密約によりソ連に占領される。 -
相変わらず森を切り開いたような箇所や草原の中を片側1車線の道路は続いている。
その後ソ連を追い払ったナチス・ドイツ(ラトビア人はナチス・ドイツを解放軍と思った)に兵力の提供やユダヤ人の排斥などに協力したりするが、間もなくドイツは敗北、再びソ連がやって、ついには併合されてしまう。結局ラトビアが真の独立を果たすのは1991年、ソ連共産党政権崩壊後であった。 -
右折すれば1時間ほどでリガという立体交差点を左折。バスが向かったのはラトビアのスイスと言われる保養地スィグルダ。ちなみにこの橋が架かる川はガウヤ川。13世紀にこの川を挟んで西側がリガ僧正領に、東側が騎士団領となった。
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スィグルダには駅もあり、小さな町もある。今日の昼食はこちらのレストラン。
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とりあえずビールとスープ。そしてメインはポーク料理だった。ジャガイモとキャベツの付け合わせは、この辺ではど定番。
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リガから列車でやってくるガイドさんが遅れた為、予定外の観光地がプラスされた。やってきたのはグートゥーマニャ洞窟。洞窟の中にサックス吹きのオジさんがいて、我々がアジア人だと解ると「百万本のバラ」を演奏してくれた。
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地元の若い男女とポーランド兵との三角関係のもつれによる悲恋物語なのだが、柔らかな泥岩の壁にはこのような落彫り?がいっぱい。
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公園内には、このようなすがすがしい池もあった。
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スィグルダ駅でガイドさんを拾って、やってきたのはトゥライダ城。13世紀に騎士団に対抗してリガのアルベルト僧正によって建てられた城。
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↑の写真に写っている塔へ登ってみる。今日も暑い日だったので一汗かいた。
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塔の物見窓から眺めた城側。流れている川はガウヤ川。川の向こう側には騎士団の城があった。
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レンガの部分は殆どが再建されたものだが、内部は博物館となっている。
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時間が無かったので城の内部見学はカットしてバスへ戻る。写真はトゥライダ城のチケット売り場兼管理事務所。この後1時間ほどA2号線をひた走るが、暑さと寒さ(車内)に加え舗装の状態やバスのサスペンションが悪いため揺れが収まらず、私にしては珍しくバス酔いする。
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バス酔いと格闘している内、リガに到着。行程には入っていないがTDさんの機転でユーゲントシュテール建築巡りとなる。なお、ユーゲントシュテールとはフランス語でアールヌーボーのこと。
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リガのユーゲントシュテール建築は20世紀初頭に起きた独創的な建築で、中心となった建築家はミハイル・エイゼンシュタイン。
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ミハイル・エイゼンシュタインはソビエト映画「戦艦ポチョムキン」を監督したセルゲイ・エイゼンシュタインの父親。
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メデューサもビックリ。なお、旧市街と併せて1997年に「リガ歴史地区」として世界遺産に登録されている。
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排泄中のライオン。
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女神1
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女神2
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女神?3
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神様いっぱい。
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ユーゲントシュテール建築見学終了後、今度は旧市街観光。自由祈念碑前で下車。
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この記念碑は1935年にラトビアの最初の独立を記念して建てられたものだが、5年後にソ連がやってきてからは近づくことも出来ない反体制のシンボルとなった。この像はミルダという名の女神なのだが、心なしか、眼差しがもの悲しい。
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タリンと違ってリガには城壁がほとんど残っていない。写真はわずかに残ったものだが基礎部分だけが当時のものだという。
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聖ヨハネ教会は13世紀創立の古い教会。
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ブレーメンの音楽隊は、ハンザ同盟のよしみでドイツのブレーメン市からプレゼントされたものだが、ブレーメンにあるものよりちょっと表情が暗い。もっともブレーメンへは行ってないけど。
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聖ペテロ教会、高さは123mほど。72mまでEVで登れるそうだ。
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ブラックヘッドの会館。中世の貿易商人達によって建てられた建物だが1999年に再建されたばかりでキラキラと輝いていた。
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これはギリシャ神話の神々か。
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1999年という文字がしっかりと書かれている。時計文字盤のブルーがきれい。
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現役のリガ市庁舎。
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リガ市庁舎前広場に立っているのはリガの守護聖人・聖ローランド。
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”RESTORANS tokyo”は良いとして”YAKUZA”はちょっとね・・・
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猫の家には昔、裕福なラトビア商人が住んでいた。彼は大ギルドに加わりたいと思ったがラトビア人ということで規則により入れてもらえなかった。
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怒った男は大ギルド会館に尻を向けた猫の像を屋根のてっぺんに取り付けた。(ガイドさんの話によると、排泄中の猫!)ギルドは怒ったが男は「私の猫は規則などもっていないのだから、どう振る舞おうと勝手じゃないか」と答えたという。
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その後大ギルドの会館はコンサートホールとなり、音楽の好きな猫は向きを変えたとのこと。めでたしめでたし。
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この後3人兄弟(3つのくっついた建物)、聖ヤコブ教会、国会議事堂(写真)、英国教会、リガ城などの外観だけ眺めるが、もう暑さと足の痛みでヘロヘロに。
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リガ市の中央を流れるダウガヴァ川に沿ってバスの駐まっているところまで歩く。本当ならこの辺に駐まっていないとおかしいのだが・・・いやな予感が
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予感は的中。バスのエンジントラブル発生。ファンベルトが切れたようでドライバー仲間が集まって全てのベルト交換作業中。写真はラトビア国立図書館(不謹慎なので作業中の撮影は遠慮する)。
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いつ修理が終えるのか時間が読めないのでTDさんが替わりのバスを必死で見つけるが、やっと見つかったのがなんと2階建てのオープントップバス。写真は2階席の先頭から眺めるリガの風景だが、こんなところでオープントップバス初体験とは!
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ダウガヴァ川にはこんな大きなクルーズ船も入ってくる。
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普段は通らないルートを無理やり通るので並木の枝が当たる当たる。
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おまけにホテルを間違えるというハプニングも重なり、ホテル・イビススタイル・リガにやっとのことで到着したのはすでに19:30。荷下ろしをしていると修理を終わったバスが何食わぬ顔でやってきたのでTDさん大ガックリ。
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ホテル・イビススタイル・リガはリガ市郊外にあり、周辺は住宅街で店などは無くトラムの停留所も遠いまことに不便なホテル。寝るだけのつもりだったので、それは良いとして、部屋のエアコンがまだ冷房に切り替わっておらず、さらには風呂場の乾燥用ヒーターがこれでもかと暖房中というお粗末なホテルだった。仕方が無いので10cmしか開かない窓を開け、備えてあった扇風機を回して就寝する。暑いーーーーーーーーーーーー!
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夕食はホテルで。前菜はわずかな野菜とパンに何か塗ったもの。メインはまたまたブタ肉とジャガイモ・・・・この取り合わせ・・・何とかなりませんか。
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05/31
ホテルの朝食。可も無し不可も無し。 -
09:00 ホテル出発。車窓からはスターリンからの贈り物・科学アカデミーの建物が見えた。
リガの人口は70万人ほどであるが、ソ連併合時代に移り住んできたロシア人の比率が40%と高く、ラトビア語を話せないロシア人には市民権が与えられないなど、ロシア人の取り扱いが大きな問題になっている。 -
リガからバウスカへ向かう道。昨日タリンからリガへ向けて走った道もこんな感じ。今日は一番前の席なので前方写真はバッチリなのだが・・・
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1時間ほど走るとバウスカ到着。なお、バスのフロントグラスにはヒビが入っている。ここはアジアそれとも南米か・・・
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ルンダーレ宮殿観光スタート。ちなみにフランスのヴェルサイユと違い宮殿の周囲は畑、足下は砂利。
”バルトのヴェルサイユ”とも言われるルンダーレ宮殿は、ロシアの女帝アンナ(1693〜1740)に愛され、貧しい田舎貴族からクールラント・ゼムガレン公国の大公にまで出世したビロン公の夏の宮殿として建てられた。 -
宮殿中庭内に入るとやっと石畳になる。
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左翼の建物の屋根の上に注目すると・・・
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コウノトリの巣・発見! こちらではコウノトリの巣は取り除いてはいけないそうだ。
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宮殿内部に潜入。
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「黄金の間」は、宮殿で最も豪華な部屋で、公の戴冠式が行われた。天井がはイタリア人の画家が描いたもの。
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「白の広間」は、舞踏会が開催された部屋。女性の華やかなドレスを引き立てるため、あえて真っ白な造りになっている。なお、右側で口元を冊子で隠している方が現地ガイドのLさん。ラトビア人だが数少ない日本語ガイド。なまりも無くジョークまで交える素晴らしいガイドさんだった。(他の地域は全て英語ガイド)
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漆喰彫刻が素晴らしい。彫刻1
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彫刻2
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彫刻3
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彫刻4
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バラの間。ピンクの人工大理石の壁と、天井画には春の女神が。
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支配者の間には・・・
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ビロン公と・・
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アンナ女帝の肖像画が。
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南棟中央にあるのは「公の寝室」寄せ木細工の床がみごと。
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窓からは綺麗に整備されたフランス庭園が見える。なお、庭園入場は別料金。
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「大理石の広間」は食堂として使われていた。
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食卓には高そうな食器が並んでいる。中央の像はマイセンか。
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アンナ女帝が亡くなった後、ビロン公は女帝の遺言でロシアの摂政となるが3週間後に政敵に逮捕されシベリア送りになってしまう。22年後に大公として復活するが、1795年に第3次ポーランド分割のあおりを受けて公国は消滅する。しかし、国外には子孫が現存しており、何かのイベントに招待されたりしているそうだ。
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この角度から見るルンダーレ宮殿がベストショットかも。
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マロニエの花が満開だった。
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昼食は宮殿近くのレストラン Balta maja 。
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頼んだビールは BAUSKAS とい名の黒ビール、料理はマッシュルームのスープといつものブー&ジャガイモ。マッシュルームのスープはおいしかったが、ポークは AKITA!
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バウスカを後に30分ほど走るとラトビア・リトアニア国境。
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Lietuvos Respublika というのがリトアニア共和国の正式名。この後ノンストップで国境を越えるのだが、日本ではあり得ない感覚。もちろん無粋なゲートなど無い。
これで「2016年 バルト3国&ポーランド旅行記2:リガ・ルンダーレ宮殿」はこれで終了です。最後まで、ご覧いただきありがとうございます。
2024/03/05 一部修正
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