2011/01/01 - 2011/01/01
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HYRONさん
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パリ10区。
サン・マルタン運河が縦断し、パリ東駅、北駅を擁す一大ターミナル的な役割を持っています。その為かよく治安が悪いと言われますが、昼間のため、その様な感じは受けませんでした。
本日は北端の地下鉄Stalingrad駅から出発し、運河沿いに10区を縦断。南端のRepublique駅周辺まで3時間程度の散歩です。
ここ数年、お正月のパリは晴天だったのに・・・。
すこし寒々とした風景ですが、しばらくお付き合い下さい。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 鉄道
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
地下鉄Stalingrad駅を出ると目の前に運河があり、この辺りでサン・マルタン運河は、ラ・ヴィレット運河と繋がります。
ここからバスティーユ広場辺りまで運河沿いを南下していけば、全長4.5kmのサン・マルタン運河を制覇した事になります。
本日の出発点は二つの運河を繋ぐポイントに立っている建物、ロトンド・ド・ラ・ヴィレット。
ロトンドは「丸い」という意味。世界遺産「アル=ケ=スナンの王立製塩所」の設計者、建築家ルドゥーによる18世紀の建物は、パリに入る際の税金を徴収する場所だったとのこと。
現在は路上生活者テントがあったり、あまり治安は良く無いと思われます。 -
ロトンド周辺にある閘門。
25m程の高低差があるサン・マルタン運河には9つの閘門があります。 -
運河にはこのような太鼓橋(?)がいくつも架かっています。
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マルセル・カルネ監督の映画「北ホテル」の建物。
戦前の映画だそうで、私は見たことがありません。 -
船が行き来する際に水位を調整する閘門。
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運河から少し西側にそれて、パリ東駅の方に歩いていきます。
こちらはサン・ローラン教会。 -
パリ10区役所。
そのまま運河沿いを歩かなかったのは、この建物を見たかったからです。 -
何ともパリらしい建物ですね。
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区役所から少し歩くと見えてくるサン・マルタン門。
パリには5つの門があります。
・エトワール凱旋門
・カルーゼル凱旋門
・サンドニ門
・サンマルタン門
・新凱旋門
このサン・マルタン門はパリ拡張の歴史の名残。1674年に出来た門なので、当時はこの辺り(レピュブリック通り沿い)に城壁があったという事になります。
今回でやっと、全ての門を制覇できました!! -
もう一度運河沿いに戻ります。
三角屋根の建物は、サンマルタン・デ・シャン教会。
街に溶け込んでいる教会って、いい感じですね。 -
運河は続く〜よ〜。
もう少しですが・・・。 -
この辺りから運河は地下にもぐり、セーヌ川と合流します。
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最後はレピュブリック広場のマリアンヌ像です。
マリアンヌは、共和制や自由を象徴する女性像で、フランス共和国の象徴でもあります。
このマリアンヌさん、いろいろな所で象徴となっており、切手に描かれていたり、ドラクロワの絵でフランスの旗を振っていたり、ニューヨークでは大きな松明を持って、自由の女神として世界を照らしたり(自由の女神の正式名称は、Liberty Enlightening the World)しています。
台座にはフランスの共和政の歴史がプレートとして埋め込まれています。
以下、プレートを順に追っていきますが、記述が長くなってしまいそうなので、読み飛ばしてください・・・。
(自己満足の世界デス) -
1789年6月20日
球戯場の誓い
度重なる戦争と飢餓で破綻した財政を立て直すべく、ルイ16世は免税されていた第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)への課税制度を制定しようと三部会を招集する。第一・二身分の議員はこれに反発し、第三身分(平民)の議員と激しく対立した。紛糾した議会に対し、第三身分の議員は、我々こそが国民を代表する国民議会であると宣言。これに開明派の僧侶や貴族も次第に合流を始めた。激論の末、第三身分の審議に僧侶出身の議員が合流する事が決定するが、第二身分を代表する王弟ら強硬派は、議場を閉鎖してしまう。
6月20日、議場から締め出された議員達は、ヴェルサイユ宮殿近くの球戯場に集まると、憲法制定まで議会を解散しないことを誓った。
議会が絶対王政に対し公然と反意を表明した事件であり、フランス革命勃発に至る重要な事件ともなった。中央で手を上げているのは、議長を務めたバイイ。
この球戯場(ジュ・ド・ポーム)はヴェルサイユ宮殿の近く、リブ・ゴーシュ駅とヴェルサイユ宮のあいだ辺りに現存するそうです。
知らなかった・・・。今度、行ってみます。
ちなみに「テニスコートの誓い」とも称されますが、ジュ・ド・ポームはテニスというよりもスカッシュに近いスポーツらしいです。 -
1789年7月14日
バスティーユ襲撃
フランス革命の勃発を象徴する事件。
球戯場の誓いにより設立した国民議会は、国王ルイ16世の譲歩により承認され、憲法制定議会と改称。一方で政治的緊張が続く中、国王は2万の兵を集め、その武力を背景に議会に対し圧力を掛け始める。
財務大臣の罷免等がこれにあたるが、この事は王妃マリー・アントワネットや王弟アルトワ伯など強硬派による独断であったという。
これに反発した民衆は、7月12日、自衛と秩序保持を名目に、アンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ、武器・弾薬を引き渡すよう要求する。
7月14日、群集は廃兵院から小銃を奪うと、さらに弾薬の調達を目的とし、バスティーユ牢獄へ向かう。群集は牢獄に雪崩れ込み、バスティーユ牢獄は陥落。当時バスティーユ牢獄は旧体制(アンシャン・レジーム)を象徴する建物と考られていたが、牢獄には群集が考えていたような政治犯はおらず、収監されていた囚人は窃盗犯や狂人など5人程であったとされている。
この日の国王ルイ16世の日記には「何事も無し」と書かれており、国王は政治に全く無関心だった、と学校で教わった記憶があります。しかし、この記述はルイ16世が趣味としていた狩猟の結果について毎日記録していた内容であり、事件について書かれている訳では無いそうです。
ちなみに、フランス語でバスティーユ(bastille)は要塞、監獄、牢獄といった意味があり、バスティーユ要塞というと「要塞要塞」になってしまいます。大文字から綴ると(Bastille)、地名や固有名詞としてのバスティーユになります。 -
1789年8月4日
立憲国民議会による封建制廃止の議決
提案者はアメリカ独立戦争にも参加したルイ・マルク・アントワーヌ・ド・ノアイユ子爵。
アンシャン・レジームを覆すこの議決により、領主が農民に課す夫役の禁止、農奴の廃止、領主の狩猟権、裁判権の廃止、官職の売買の廃止などが決定した。同月26日には人権宣言が採択される。 -
1790年7月14日
共和政府による革命一周年式典
バスティーユ牢獄襲撃からちょうど1年を祝って、シャン・ド・マルス広場で行われた式典。全国連盟祭とも呼ばれる。
革命成功の式典には、ルイ16世も参加しました。
これは興味深い事実です。この時点において、革命の成功と国王の存在は、並存していたことになるからです。 -
1792年7月11日
「祖国の危機」を訴える非常事態宣言、義勇兵の呼びかけ
前年4月18日、国王一家が復活祭のミサの為にチュイルリー宮殿を出ようとしたところ、民衆は国王が亡命するものと勘違いし、宮殿の門を人垣で封鎖してしまう。信頼する立憲王政派のミラボーが急死した事に加えてのこの事件は、亡命に反対していた国王に亡命を決意させてしまった。
6月20日〜25日に発生した、国王の亡命未遂事件(ヴァレンヌ事件)は、それまで国民の大多数派であった国王擁護の論調を反国王へと変化させ、革命の波及を恐れる周辺国家(プロイセン、オーストリア、ロシア等)は国王の地位保障を求め革命政府に介入を行うようになる。この様な情勢下において、フランス革命政府はオーストリアへの宣戦布告を行い、フランス革命戦争が幕を上げた。
将校(貴族階級)の指示を得られなかった為、指揮系統が不在。開戦当初のフランス軍は連敗続きであった。プロイセン軍がフランス国内に侵攻するにいたり、議会は「祖国の危機」宣言を出した。曰く、
「多くの軍隊がわが国の国境に向かっている。自由を恐れる全ての者が、フランスの憲法に反対して武器を取っている。諸君、祖国は危機にある」
フランス国民は義憤に駆られ、国民軍として周辺国家の軍と戦うこととなる。集まった義勇兵の中で、マルセイユ出身の兵が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」は後のフランス国歌となる。 -
1792年9月20日
ヴァルミーの勝利
ランスから東へ70km程、ヴァルミーで行われたプロイセン軍とフランス軍の戦い。
フランス革命戦争において初めての革命軍の勝利であり、旧来の傭兵部隊に対し新しく組織された国民軍が勝利した最初の戦いともなった。 -
1792年9月21日
王政廃止の決議
この日、フランスでは王政が廃止され共和政に移行した。開会された国民公会は、身分や階級の別なく成人男子による普通選挙で選出されるフランス史上最初の議会である。有権者の選挙権は21歳にまで引き下げられ、被選挙権は25歳とされた。
ジャコバン派が多数派を占め、この日を期にいわゆる恐怖政治が始まったともいえる。翌年の9月22日には、新たに革命暦が制定されフランス共和国第一年となった。 -
1794年6月1日
栄光の6月1日
国民公会下のフランスとイギリスとの間で行われたフランス革命戦争の最初の海戦を栄光の6月1日と呼ぶ。
プレートの表示である、「13 PRAIRAL AN 2」は「革命暦2年プレリアル(牧草月)13日」の事で、1794年6月1日に該当する。
当時のフランスは恐怖政治の基で社会的な大変動期であった上に、厳しい冬が重なり食糧難の状態であった。国内の食料生産力が著しく低下している上に、近隣諸国とは交戦状態にあり輸入に頼ることもできなかったのである。
国民公会は新大陸(アメリカ)の植民地で生産される食料を集め、大西洋を横断し輸送する事を決定する。
この護衛艦隊を含むフランスの輸送船団をイギリス艦隊がビスケー湾(イベリア半島の北岸からフランス西岸に面する湾)で待ち構え交戦に入る。
結果として、両国共にこの海戦の勝利を主張している。イギリス艦隊は戦場の主導権を終始握り、1隻の船も損なうことが無かった。一方でフランス軍は輸送艦隊の大西洋横断を成功させ、フランス本国に到着させている。
しかしイギリスがこの海戦後、海洋の覇権を握ったのに対し、この海戦時には装備的に優位であったフランス海軍は、革命による粛清の結果、有能な仕官の多くを失っており、士気は低く海軍力は急速に低下していった。
ナポレオンが登場し、陸戦では破竹の勝利を収めたフランス軍であったが、海戦においては1805年のトラファルガーの海戦において壊滅的な打撃を蒙り、その後フランス海軍が再建する事はなかった。 -
1830年7月29日
7月革命
皇帝ナポレオンが失脚したヨーロッパは、ウィーン体制のもと大国の勢力均衡が図られる。
ウィーン体制はフランスの外相タレーランが主張した正統主義を基本とし、フランス革命以前の状態を復活させるものであった。
王政復古を果したルイ18世(ルイ16世の弟)は、革命の成果を無視した反動政治を開始する。ルイ18世の後を継いだシャルル10世も言論弾圧、亡命貴族の保護の強化などの政策を取り始めるが、市民の不満は高まる一方であった。
シャルル10世は議会を強制解散させ、選挙権の縮小を命ずる勅令を発したが、これにより市民の不満は爆発。7月27日に民衆は蜂起し、シャルル10世は亡命。再び王政は崩壊した。
この後、ブルジョワジー(富裕層)に人気のあったオルレアン公ルイ・フィリップが王位に付き、フランスの政治体制は立憲君主制(7月王政)へと転換した。 -
1848年3月4日
諸国民の春
7月王政下のフランスではブルジョワジーの権利が確保され自由主義と資本主義体制が確立された。一方で労働者階級(プロレタリアート)は、フランス革命時には保持していた選挙権すらも与えられない状況であり、選挙権を求める要求は弾圧された。
労働者階級の不満に対し、革命宴会(労働者や農民の諸権利を要求する政治集会であったが、名目上は宴会として実施していた)を催す事である程度のガス抜きが行われていたが、1848年2月22日、革命宴会が政府により強制的に解散に追い込まれると、これに対し労働者や農民、学生らはデモやストライキを実施し、暴動は全土に及んだ(二月革命)。
事態は国王ルイ・フィリップの退位・亡命により収束に向かい、再び王政は廃止され、政治体制は共和政(第二共和政)に移行した。
特徴的なのは、従来の共和政はブルジョワジーにより運営されていたのに対し、二月革命以降は労働者階級がその主役となり、一種の階級闘争へと変化したことである。
二月革命はウィーン反動体制下のヨーロッパ各地に飛び火し、3月革命となり、ウィーン体制は崩壊することになる。
これらの事象は総称して「諸国民の春」と呼ばれる。 -
1870年9月4日
第三共和制の樹立
1848年の二月革命の結果、第二共和政に移行したフランスでは、同年11月に大統領選挙が行われると、ナポレオンの甥、シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。
ルイ=ナポレオンは1852年、国民投票を経て帝政を開始(第二帝政)、ナポレオン3世と名乗る。
ナポレオン3世は、皇帝ナポレオンの人気を背景に対外政策に乗り出す。初期においてはクリミア戦争(対ロシア)やアロー戦争(清朝中国)等で成功するが、メキシコ出兵に失敗すると人気は凋落。
1870年の普仏戦争に敗北し、プロイセン軍の捕虜になると、パリ市民の反感を買い、同年9月4日、ナポレオン3世は失脚し、第二帝政は幕を下ろす。
再びフランスの政治体制は共和政(第三共和政)に移行し1940年のナチスによるパリ占領まで続くことになる。 -
1880年7月14日
革命記念日として7月14日を国祭日として制定
7月14日は革命記念日として制定され、現在でも7月14日は国民の休日となっていますが、日本では「パリ祭」と呼ばれています。旅行ガイドブック等にもその謂れは書かれていますね。
長々と記述してしまいましたが、約100年の歴史を、台座を1周するだけで巡れてしまうマリアンヌ像でした。
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