2010/12/17 - 2010/12/19
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彷徨人MUさん
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1) . 旅の始めに
身を凌ぐ 影法師踏む 師走かな
谷崎潤一郎が、二度目の上海への旅を書いた『上海交遊記』を、3日間で辿ろうと、師走のある日、上海に出かけた。
1926年(大正15年)1月13日、谷崎は、日本郵船「長崎丸」で、長崎を出航し、翌14日午後、上海の日本郵船「匯山碼頭」に到着している。到着早々、「静安路」の精進料理の『功徳林』で、谷崎の歓迎会が催されている(注:『功徳林』の現住所地「南京西路441号」)。中国では、青年作家等の新しい運動や、日本の小説や戯曲等が、中国語に訳されていることを聞き、谷崎は、「内山書店」の内山完造に、中国の作家を、紹介してもらうことになった。
2).内山書店の「内山完造」との、出会い
数日後、谷崎は、宮崎儀平に連れられ、当時、「北四川路」(現在の「四川北路」)の「魏盛里」にあった「内山書店」に出かけた。谷崎は、「内山書店」について、『主人と言うのは、気の若い、話の分かる、面白い人であった。店の奥のストーウ゛の周りに長椅子やテーブルが置いてあり、店に来たお客が、そこでちょっとお茶を飲みながら、話が出来る様になっていた。この店は本好きの連中の、溜り場になっているらしい。』と、書いている。内山は、新進作家の代表として、「謝六逸」、「田漢」、「郭沫若」の3人と、新劇運動の旗頭の「欧陽予倩」等に声を掛けることを約束した。
3).上海の「四川北路」 を 辿る
行き行けど 虚空を掴む 冬景色
「四川北路」が大きく南にカーブし、「山陰路」と交差する付近に、「中国工商銀行山陰路支店」がある。外壁には「内山書店旧址」と、「魯迅」と「内山完造」の顔のレリーフが貼ってあり、その説明書を読んでいたら、「二階の旧内山書店の陳列室に、お立ち寄りください」と、声を掛けられた。二階に上がり、改めて挨拶したが、この銀行の「陳瑞裕」さんであった。そこには、写真や、「魯迅」の手紙や原稿などが展示され、「内山完造」夫妻と「魯迅」が描かれた油絵(表題写真参照)も掛かっていた。「裏手にある内山完造氏の自宅跡を見ますか」と誘われ、通用口を出た路地にある、「千愛里3号」の建物の一階が、1930年頃内山一家が住んでいた家であった。「魯迅」は、時に、店の通用口から内山の家へ、官憲の手入れから、慌てて逃れたり、そこで人と会ったりしていた。北に上がった「山陰路」には、「魯迅」が最後に住んでいた、「魯迅故居」があった。
4).「顔つなぎの会」の日
「顔つなぎの会」の当日午後6時に、「谷崎」は、内山書店に着いたが、既に黒背広を着た一人の青年が坐っていた。九州大学医学部出身で、中国の“森鴎外”と言われた「郭沫若」である。次に来たのは、早稲田大学出身で、当時上海大学教授の「謝六逸」である。彼が早稲田で、谷崎の弟の精二の教え子であることを知り、驚いている。最後に入って来たのは、東京高等師範出身の「田漢」であった。内山は、馴染みの『供養斉』(精進料理)の仕出しを準備していた。食卓での話は、日本留学時代の思い出や、中国の文学芸術界の現状、日本文学の翻訳、映画、芝居の活動状況等であったが、食通の谷崎は、その日の精進料理の薀蓄をも語っている。
5).その後の動向
「田漢」は、「谷崎」が上海に来た時は、妻に先立たれ、仕事もなく、「谷崎」の専属通訳として、常に一緒に行動していた。日本に来た「田漢」を、「谷崎」は自宅に泊め、京都や大阪へも案内している。「田漢」は、1935年の抗日映画『風雲児女』の主題歌『義勇軍行進曲』を作詞した。中華人民共和国成立後、この歌が「国歌」となり、彼は文化部の戯曲、芸術部門の責任者になった。
1955年(昭和30年)、中華人民共和国の「政務院副総理」となった「郭沫若」は、中国の要人として来日、多忙な時間の中、帝国ホテルで「谷崎」と会っている。
1956年、京劇代表団の副団長として「梅蘭芳」らと共に来日した「欧陽予倩」とは、「谷崎」は、箱根と東京で会い、旧交を温めている。
「谷崎」は、1926年2月17日午前9時に、上海の日本郵船「匯山碼頭」から、長崎丸に乗船し、19日午後3時、神戸に戻っている。この旅では、「谷崎」は、自身の中国観を、些か考えさせられる旅になった様である。(完)
参考文献:「谷崎潤一郎・上海交遊記 」みすず書房、
谷崎 潤一郎 (著) 、千葉 俊二 (編)
表題写真は、油絵で描かれた「魯迅と内山完造夫妻」
* Coordinator: H. Gu
- 交通手段
- タクシー 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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多倫路文化名人街
「魯迅」の前の椅子に座り、魯迅と、お話ししませんか? -
多倫路文化名人街
内山書店の老板「内山完造」は、腰の低い穏やかな人のようだ(谷崎評) -
多倫路文化名人街
「郭沫若」は、親切で、人当たりが柔らかくて、おっとりしたところがある(谷崎評) -
旧内山書店の陳列室の壁のプレート。
「内山書店は、友人である日本人の内山完造が、1929年に開業し、1945年まで営業していた」。
魯迅は、ここで本を買い、ここで客とも会い、一度だが、ここに避難していたこともある。 -
旧「内山書店」界隈
内山書店の裏手は、庭付きの3階建ての建物が並ぶ住宅街である。「千愛里3号」の一階が、1930年代、「内山完造」一家が住んでいた家。 -
旧内山書店界隈
「千愛里3号」の一階に、1930年代、内山完造が住んでいた家。 -
嘗ての「内山書店」界隈
四川北路2048号の今の風景。「中国工商銀行」の建物のうち、三角屋根の白い壁の一階部分が、旧「内山書店」であった。 -
「金子光晴」が、妻「森三千代」と住んでいた家(余慶坊123号)。
漆喰の二階建ての長屋風建物の続く、この里弄内にあったが、正確な場所は確認出来なかった。 -
嘗ての「内山書店」界隈
谷崎が来た時(実1926年)、内山書店は、山陰路の建物より更に四川北路を南に下った人民病院の前の路地を少し中に入った「魏盛里」にあった。今はそこには、再開発によって大型の商業ビルが建っている。 -
旧「郭沫若寓所」
1945年頃、「郭沫若」が住んでいた、○陽路1269号にある「郭沫若寓所」。3階建ての赤煉瓦のテラスハウスである。 -
旧「虹口」の盛り場界隈
「海寧路」と「乍浦路」の交差する辺りは、「虹口」の盛り場であった。南北に走る「乍浦路」には、インド風の「西本願寺」の建物が残っている。嘗ては、この一帯には、日本旅館や下宿屋が集まっていた。 -
旧「乍浦路」界隈
「西本願寺」の隣には、嘗ては日蓮宗のお寺の「本圀寺」の入り口が残っていた。今は住宅として使われているようだ。 -
旧「乍浦路」界隈
旧「西本願寺」と旧「本圀寺」の前辺りの乍浦路の今の街並み。嘗ては、常盤館と言う日本旅館があったようだが、今はレストランとなっている。建物はどうやら昔のものを改築して、利用しているようである。 -
旧「乍浦路」界隈
乍浦路と崑山路の交差点付近の今の街並み。写真の建物は当時の建物のようである。 -
旧「乍浦路」界隈
長崎出身の芸者を数十人抱えていたと言われる、明治半ば創業の、虹口の老舗中の老舗の料亭「六三亭」があった辺り。(塘古街309号) -
旧日本人居住区界隈
塘古路と呉淞路が交差する右手前には、「日本人倶楽部」(塘古路309号)があった。鉄筋4階建ての建物で、バーや集会場や宿泊施設がある邦人社会の社交の場でもあった。一回目の中国旅行の時に、谷崎は友人土屋が住んでいたこの宿舎に転がり込んで、夜な夜な遊び廻り、朝帰りしたところである。1990年代に取り壊されている。 -
峨眉路に、魯迅の最期を看取った須藤五百三医師の経営する『須藤医院』があった。3階建ての建物は当時のもののようだが、今は店舗兼住宅になっている。
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1860年創業の、上海最初の本格的ホテルである『アスター・ハウス・ホテル』(黄浦路15号)
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『外白渡橋』から、最近大規模な改修がされた『蘇州河』を眺める。
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『外白渡橋』を渡ると、最近新しく造り変えられた『黄浦公園』に入る。そこから眺めた浦東側の新しい摩天楼群。
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『黄浦公園」から、黄浦江の流れを東に追うと、河の流れが少し右にカーブする左岸辺りに、嘗ての『日本郵船匯山碼頭』があった。戦前戦中、日本からの船は、此処に着き、多くの日本人が中国大陸上陸の第一歩を記したところである。
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『マジェスティック・ホテル』跡地の一部。写真は、現在営業している『美○大戯院劇場』(マジェスティック劇場)である。
嘗ては、「南京西路」の、現在は『上海伊勢丹』が入っている『梅龍鎮広場ビル』、その背後の『美○大戯院劇場』(マジェスティック劇場)を含み、南京西路、江寧路、北京西路に面するに広大な敷地を占めていた。 -
谷崎を歓迎する消寒会は、「徐家匯路10号」の『新少年影片公司』で行われたが、丁度旧フランス租界地の南端にあたると聞いていた。「徐家匯路」に到着するや早速地番の「徐家匯路10号」を探し始めたが、「徐家匯路」の20番までは探せたが、それより若い番号は、新たな都市計画の進捗に伴い、無くなったようである。
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谷崎を主賓として開かれた消寒会の会場は、「斜橋徐家匯路10号」にあった撮影所である『新少年影片公司』であるが、どうやら、道路を含む、この界隈にあったようだ。
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谷崎が泊まった『一品香ホテル』は、競馬場、現在の人民広場の東を走る西蔵中路を挟んだ向かいに位置し、「漢口路」(三馬路)と「福州路)(四馬路)に挟まれた街区のほぼ真ん中付近にあった。現在はこの街区には、『来福広場』と言う大型商業ビルが建っている。
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『大世界』(ダスカ)
1917年に開かれた東洋一の規模を持った一大歓楽施設。最近大規模な改築がおわり、新装オープンをした。(西蔵南路1号) -
精進料理の名店『功徳林』
「南京西路」を挟んで写した前景。(南京西路441号) -
『功徳林』は、「南京西路」に面し、人民広場の隣にあり、谷崎が訪れた4年ほど前の1922年に、開業した精進料理の名店である。この店は2003年に改築され、現在の店となっている。正面の看板。(南京西路441号)
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上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
「功徳林」と言う銘柄の清酒(アルコール度8%のお米のお酒。甘口) -
上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
冷たい料理:脆香肉松 -
上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
冷たい料理:四喜○夫 -
上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
温かい料理: ミニ「佛跳墻」
あまりにも良い香りに、坊さんが塀を乗り越えたと言う、福州の名物。普通の「佛跳墻」は鮑、幾種類の魚介類やキノコなどの入ったものであるが、精進料理のこの店では、動物性食材などを一切使わず、キノコや、麩などの植物食材だけで造られている。 -
上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
温かい料理:十八羅漢
(何種類かのキノコを使った精進料理) -
上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
冷たい料理:香麻筍糸 -
上海の精進料理の名店『功徳林』での料理:
温かい料理:松鼠鮒魚中段
一見、本物の鮒を使った「甘酢あんかけ」の様であるが、これも本物の魚を使わない精進料理である。皮は、見た目も、感触も本物の魚のようであった) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
テーブルセット -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
桂花糖藕
(蓮根にもち米を詰め蒸し、蜂蜜で味を調えた前菜) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
冷たい料理(蜜汁叉焼、姑蘇鹵鴨、開味肚尖、いずれも前菜) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
毛豆鴨舌
(アヒルの舌に枝豆を添えた前菜) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
風味海蟄
(クラゲと香菜) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
蜜汁南瓜
(カボチャを蒸し、蜂蜜で味を調えたもの) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
時令羊○
(羊のばら肉の煮凝り) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
清溜河蝦仁
(剥き河蝦を軽く油でいため、葛餡でとろみをつけたあっさり料理) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
松鼠桂魚
(桂魚の甘酢あんかけ、魚に包丁を入れ、揚げるとリス〈松鼠〉のように見えるところから、この名が付けられてた。 -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
干○四季豆 (○は火偏に、旁は扁、インゲンなどを短時間炒めたもの) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
雪菜冬筍 -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
響油○糊
(○は魚偏に善、田鰻を高温でさーっと炒めたもの) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
○菜銀魚羹
(○は草冠に、純、ジュンサイと銀魚のとろみ煮込み) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
双椒○嘴蛙
(食用カエルの料理) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
山薬冬耳
(黒木耳と長芋の炒め物) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
蘭花糟魚片
〈白身の魚の切り身を炒め、ブロッコリーを添え、トロミをつけたもの) -
黄氏夫人の退職祝い会での料理:
会場:蘇州 松鶴楼
蘇式(松子棗泥)拉○
(松の実をのせた、棗風味の蒸し菓子)
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