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1).旅の始めに<br /><br />                    古運河の  鈍色褪せて 春立ちぬ<br /><br />  春節の朝の「瀘寧高速道路」は、意外と空いていた。僕は、「揚州」行きのバスの、運転手の直ぐ後ろの席に座るや、転寝し始め、気がつけば、目の前に「鎮江」の標識が見え、バスは、大きく弧を描いて、右手の「揚○高速」(○はサンズイ偏に、栗)を通り、新しく出来た「潤揚長江大橋」を渡って行った。揚子江を渡ると、「瓜洲鎮」に出た。嘗て、鑑真和上が日本へi向かうために、揚州の「大明寺」から船で古運河を下り、この「瓜洲鎮」に出て、そこから揚子江(長江)を下っている。<br /><br />2).揚州の「大明寺」へ<br /><br />  鑑真縁の地「揚州」には、日本人は、昔から、親近感を持っている。「揚州の 津も見えそみて 雲の峰」と、蕪村は、行きもしない「揚州」の夏の俳句を詠んでいる。「揚州」の街の北東に位置する高台には、嘗ては、「採訪庁」等の官庁が集まる「子城」があった。鑑真縁の「大明寺」は、「子城」の西南角にあり、「子城」の南東方には、四方を運河で囲まれた商店街が並ぶ、「羅城」があった。<br />  午後、「大明寺」への坂道は、混んでおり、その中を、空き缶にコインを入れ、それを振り鳴らしながら、近づいてきて、金を乞う子供や、小声で丁寧に金をせびる老人達が、徘徊していた。<br /><br />3).嘗ての「淮海節度使衙署」に向かう<br />   <br />  タクシーの女性ドライバーに、地図を見せながら、嘗て「淮海節度使衙署」のあった「堡城路」へ行って欲しいと頼むが、「その辺りは茶畑だけで、何もない」と、頑固である。農家集落の脇を通り抜け、茶畑が広がる田舎道を進んで行くと、畑の脇に、「唐代揚州城遺跡」の石碑を見つけた。円仁は、しきりに「天台山」に行かせてもらいたいと、節度使「李徳裕」に陳情するも、色よい返事は、貰えなかったようだ。その「淮海節度使衙署」は、この茶畑の、何処かにあった筈なのだが・・・・。<br /><br />4).「揚州」での、円仁さん<br /><br />                     気儘競り 水面を叩く 柳かな<br /><br />  円仁の日記から、遣唐使一行が「揚州」に到着した前後を拾ってみた。838年7月25日の昼過ぎに、「禅智寺橋」に到着している。橋近くの「禅智寺」で、遣唐使一行は、804年の「最澄」、「空海」も参加した時の遣唐使の副使で、中国で亡くなった「石川道益」の33回忌の法要を営んでいる。<br />  「古運河」には、今も多くの橋が掛かっているが、「禅智寺橋」は見当たらない。地図で、「羅城」の北東側城壁付近から、古運河を辿り、「大王廟」の北近くに、「禅智寺旧址」があるのを見つけ、早速、その旧址を探しに、向かったが、一帯は「再開発計画地区」であり、フエンスで囲まれ、中へ入ることは出来なかった。<br /><br />5).「開元寺」跡へ<br />   <br />  気を取り直し、僕は「開元寺旧址」に向かった。円仁、円載達僧侶は、8月24日から、翌838年2月に「長安」から帰国の途についた大使一行と合流し、「揚州」を発つまで、揚州の「開元寺」に滞在している。<br />  円仁さんの日記には、「開元寺」の位置は、「唐代城壁内北東隅」と書いてある。調べると、現在の「竹西中学校」を中心にかなり大きな境内を持つ官立のお寺であった。中低層住宅の建ち並ぶ脇を歩いて行くと、「竹西中学校」の前に出た。春節の休暇中であり、門は閉まっていた。正門の横にある守衛室に誰かいるようで、校門越しに大声で、「日本から円仁さんの記念碑の写真を撮りに来たものですが、見せていただけませんか」と声を掛けた。やがて、正門の扉がゆっくりと動き始めた。警備員は正面校舎の方を指しながら、「あの裏手の中庭に石碑があります」と、教えてくれた。<br />  僕は校舎の裏手へ向かった。そこには池があり、傍らに、「慈覚大師求法之地」と彫られ石碑があった。裏側には、「1992年比叡山延暦寺の梅山円了第233代座主が建立」と、彫られていた。円仁さんが、この地で天台山への許可を待っていた日々を思い浮かべながら、その石碑を写真に撮った。警備の人にお礼を述べ、校門の外に出たが、校門越しに、円仁さんとの別れを、暫し惜しんでいた。 <br /><br />6).旅の終わりに<br /><br />  円仁さんは 、揚州で、天台山行きの許可を申請し、この地に半年以上滞在している。師「最澄」の中国での様子を知っている中国人僧侶とも出会い、師「最澄」の中国での無念を、改めて感じていたのかもしれない。<br />  838年2月2日、前年に「長安」に入り、遣唐使としての役割を終え、帰国する大使一行と「楚州」で合流するため、円仁さんは、古運河の「揚州府港」から「京杭運河」に出て、「楚州」へ向かった。「揚州」の古運河を眺めていたら、円仁さんの、その時の無念が、僕にも伝わってくるような思いに、陥って入った。(完)<br /><br /><br />参考:比叡山天台宗第3代座主「円仁」の、「揚州」で記録<br /><br /> 838年7月23日 「如皋鎮」から「海陵県」の県庁の所在地に到着。<br />    7月25日  更に西45キロの「揚州」に到着。<br />    8月02日  揚州節度使に、円仁等の「天台山」行きを陳情。<br />    8月03日  改めて正式に「天台山」行きの請状を提出。<br />    8月22日  円仁、円載が「開元寺」に寄宿する許可書を受領。<br />    8月24日  両名「開元寺」に寄宿。<br />    8月29日  円仁、「開元寺」に百僧の供養法要。<br />    9月09日  李相公が大使のための宴を開催。<br />    9月29日  長安に行く人の別れの宴を李相公が催す。                                                         10月4日  大使等「長安」に出発 。                          <br /><br />参考文献:「入唐求法巡礼行記」東洋文庫 足立喜六訳注、塩入良道補注<br /><br />  * Coordinator:  H. Gu   <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> <br />   <br />   <br />

【江蘇省】 揚州 * 円仁 「入唐求法巡礼行記」を 旅する(2)

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2011/02/03 - 2011/02/06

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彷徨人MU

彷徨人MUさん

1).旅の始めに

               古運河の  鈍色褪せて 春立ちぬ

  春節の朝の「瀘寧高速道路」は、意外と空いていた。僕は、「揚州」行きのバスの、運転手の直ぐ後ろの席に座るや、転寝し始め、気がつけば、目の前に「鎮江」の標識が見え、バスは、大きく弧を描いて、右手の「揚○高速」(○はサンズイ偏に、栗)を通り、新しく出来た「潤揚長江大橋」を渡って行った。揚子江を渡ると、「瓜洲鎮」に出た。嘗て、鑑真和上が日本へi向かうために、揚州の「大明寺」から船で古運河を下り、この「瓜洲鎮」に出て、そこから揚子江(長江)を下っている。

2).揚州の「大明寺」へ

  鑑真縁の地「揚州」には、日本人は、昔から、親近感を持っている。「揚州の 津も見えそみて 雲の峰」と、蕪村は、行きもしない「揚州」の夏の俳句を詠んでいる。「揚州」の街の北東に位置する高台には、嘗ては、「採訪庁」等の官庁が集まる「子城」があった。鑑真縁の「大明寺」は、「子城」の西南角にあり、「子城」の南東方には、四方を運河で囲まれた商店街が並ぶ、「羅城」があった。
  午後、「大明寺」への坂道は、混んでおり、その中を、空き缶にコインを入れ、それを振り鳴らしながら、近づいてきて、金を乞う子供や、小声で丁寧に金をせびる老人達が、徘徊していた。

3).嘗ての「淮海節度使衙署」に向かう
   
  タクシーの女性ドライバーに、地図を見せながら、嘗て「淮海節度使衙署」のあった「堡城路」へ行って欲しいと頼むが、「その辺りは茶畑だけで、何もない」と、頑固である。農家集落の脇を通り抜け、茶畑が広がる田舎道を進んで行くと、畑の脇に、「唐代揚州城遺跡」の石碑を見つけた。円仁は、しきりに「天台山」に行かせてもらいたいと、節度使「李徳裕」に陳情するも、色よい返事は、貰えなかったようだ。その「淮海節度使衙署」は、この茶畑の、何処かにあった筈なのだが・・・・。

4).「揚州」での、円仁さん

               気儘競り 水面を叩く 柳かな

  円仁の日記から、遣唐使一行が「揚州」に到着した前後を拾ってみた。838年7月25日の昼過ぎに、「禅智寺橋」に到着している。橋近くの「禅智寺」で、遣唐使一行は、804年の「最澄」、「空海」も参加した時の遣唐使の副使で、中国で亡くなった「石川道益」の33回忌の法要を営んでいる。
  「古運河」には、今も多くの橋が掛かっているが、「禅智寺橋」は見当たらない。地図で、「羅城」の北東側城壁付近から、古運河を辿り、「大王廟」の北近くに、「禅智寺旧址」があるのを見つけ、早速、その旧址を探しに、向かったが、一帯は「再開発計画地区」であり、フエンスで囲まれ、中へ入ることは出来なかった。

5).「開元寺」跡へ
   
  気を取り直し、僕は「開元寺旧址」に向かった。円仁、円載達僧侶は、8月24日から、翌838年2月に「長安」から帰国の途についた大使一行と合流し、「揚州」を発つまで、揚州の「開元寺」に滞在している。
  円仁さんの日記には、「開元寺」の位置は、「唐代城壁内北東隅」と書いてある。調べると、現在の「竹西中学校」を中心にかなり大きな境内を持つ官立のお寺であった。中低層住宅の建ち並ぶ脇を歩いて行くと、「竹西中学校」の前に出た。春節の休暇中であり、門は閉まっていた。正門の横にある守衛室に誰かいるようで、校門越しに大声で、「日本から円仁さんの記念碑の写真を撮りに来たものですが、見せていただけませんか」と声を掛けた。やがて、正門の扉がゆっくりと動き始めた。警備員は正面校舎の方を指しながら、「あの裏手の中庭に石碑があります」と、教えてくれた。
  僕は校舎の裏手へ向かった。そこには池があり、傍らに、「慈覚大師求法之地」と彫られ石碑があった。裏側には、「1992年比叡山延暦寺の梅山円了第233代座主が建立」と、彫られていた。円仁さんが、この地で天台山への許可を待っていた日々を思い浮かべながら、その石碑を写真に撮った。警備の人にお礼を述べ、校門の外に出たが、校門越しに、円仁さんとの別れを、暫し惜しんでいた。 

6).旅の終わりに

  円仁さんは 、揚州で、天台山行きの許可を申請し、この地に半年以上滞在している。師「最澄」の中国での様子を知っている中国人僧侶とも出会い、師「最澄」の中国での無念を、改めて感じていたのかもしれない。
  838年2月2日、前年に「長安」に入り、遣唐使としての役割を終え、帰国する大使一行と「楚州」で合流するため、円仁さんは、古運河の「揚州府港」から「京杭運河」に出て、「楚州」へ向かった。「揚州」の古運河を眺めていたら、円仁さんの、その時の無念が、僕にも伝わってくるような思いに、陥って入った。(完)


参考:比叡山天台宗第3代座主「円仁」の、「揚州」で記録

 838年7月23日 「如皋鎮」から「海陵県」の県庁の所在地に到着。
    7月25日  更に西45キロの「揚州」に到着。
    8月02日  揚州節度使に、円仁等の「天台山」行きを陳情。
    8月03日  改めて正式に「天台山」行きの請状を提出。
    8月22日  円仁、円載が「開元寺」に寄宿する許可書を受領。
    8月24日  両名「開元寺」に寄宿。
    8月29日  円仁、「開元寺」に百僧の供養法要。
    9月09日  李相公が大使のための宴を開催。
    9月29日  長安に行く人の別れの宴を李相公が催す。              10月4日  大使等「長安」に出発 。  

参考文献:「入唐求法巡礼行記」東洋文庫 足立喜六訳注、塩入良道補注

* Coordinator:  H. Gu







 
   
   

交通手段
高速・路線バス 飛行機
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 唐城遺址記念碑、

    唐城遺址記念碑、

  • 唐城遺址、

    唐城遺址、

  • 「唐城遺址」の橋から「大明寺」方面を眺めると、「大明寺」の境内にある「栖霊塔」が見える。<br />1976年に訪れた時はこの塔は無かった。1996年に訪れた時は真新しいこの塔が、青空に聳えていたことを覚えている。

    「唐城遺址」の橋から「大明寺」方面を眺めると、「大明寺」の境内にある「栖霊塔」が見える。
    1976年に訪れた時はこの塔は無かった。1996年に訪れた時は真新しいこの塔が、青空に聳えていたことを覚えている。

  • 観音山から眺めた大明寺境内にある「栖霊塔」

    観音山から眺めた大明寺境内にある「栖霊塔」

  • 春節の「大明寺」本堂

    春節の「大明寺」本堂

  • 「大明寺」本堂の中で、弘法大師・空海さんに出会う

    「大明寺」本堂の中で、弘法大師・空海さんに出会う

  • 「大明寺」にある「栖霊塔」。<br />1976年に訪れた時はこの塔は無かった。1996年に来た時は、真新しい塔が冬空に聳えていたことを覚えている。この周りで、執拗についてくる物乞いの集団に囲まれ、うろたえた事をも思い出される。

    「大明寺」にある「栖霊塔」。
    1976年に訪れた時はこの塔は無かった。1996年に来た時は、真新しい塔が冬空に聳えていたことを覚えている。この周りで、執拗についてくる物乞いの集団に囲まれ、うろたえた事をも思い出される。

  • 「大明寺」にある「唐鑑真大和尚記念碑」、郭沫若の書である。

    「大明寺」にある「唐鑑真大和尚記念碑」、郭沫若の書である。

  • 「大明寺」にある「鑑真記念堂」

    「大明寺」にある「鑑真記念堂」

  • 市政府のある「文昌路」に唐時代にあった「石塔寺」の跡に、今も残っている「石塔」、円仁さんもこの塔を見ているはずだが。

    市政府のある「文昌路」に唐時代にあった「石塔寺」の跡に、今も残っている「石塔」、円仁さんもこの塔を見ているはずだが。

  • 東西に走る「文昌路」と、南北に貫通する「○河路」(○は、サンズイ偏に、旁は文)との交差点に、今はロータリーの役目を果たしている「文昌閣」。この界隈が、現在の揚州の繁華街で、とても賑やかなところである。

    東西に走る「文昌路」と、南北に貫通する「○河路」(○は、サンズイ偏に、旁は文)との交差点に、今はロータリーの役目を果たしている「文昌閣」。この界隈が、現在の揚州の繁華街で、とても賑やかなところである。

  • 「文昌閣」の夜景

    「文昌閣」の夜景

  • ○河路(○は、サンズイ偏に旁は文)にある「四望亭」の夜景

    ○河路(○は、サンズイ偏に旁は文)にある「四望亭」の夜景

  • 「南門遺址」<br />現在遺構などの発掘をし、その保存工事中であった。

    「南門遺址」
    現在遺構などの発掘をし、その保存工事中であった。

  • 南門遺址近くの「古運河」

    南門遺址近くの「古運河」

  • 「古運河」<br /><br />南門遺址近くの古運河から、東方にある渡江橋方面を眺める

    「古運河」

    南門遺址近くの古運河から、東方にある渡江橋方面を眺める

  • 揚州のダウンタウンであった羅城の南西角辺りにある「荷花池公園」

    揚州のダウンタウンであった羅城の南西角辺りにある「荷花池公園」

  • 「古運河」

    「古運河」

  • 「古運河」

    「古運河」

  • 「古運河」

    「古運河」

  • 「古運河」

    「古運河」

  • 古運河沿いにある揚州羅城の「東門」

    古運河沿いにある揚州羅城の「東門」

  • 古運河沿いにある揚州羅城の「東門」

    古運河沿いにある揚州羅城の「東門」

  • 「揚州羅城」の東門内の復元した宋時代の街並み

    「揚州羅城」の東門内の復元した宋時代の街並み

  • 「揚州羅城」の東門と、その奥に見えるのは復元した宋時代の街並み

    「揚州羅城」の東門と、その奥に見えるのは復元した宋時代の街並み

  • 羅城の東城壁に沿って北上する「古運河」

    羅城の東城壁に沿って北上する「古運河」

  • 羅城の東城壁に沿って北上する「古運河」

    羅城の東城壁に沿って北上する「古運河」

  • 「古運河」<br />  「羅城」の東城壁に沿い北上する古運河は、ここから東にカーブしている。<br />円仁さん達の遣唐使一行は、京杭運河を横切り、揚州のこの辺りに到着。その日は船で過ごし、翌日上陸して、近くの「禅智寺」に向かっている。

    「古運河」
      「羅城」の東城壁に沿い北上する古運河は、ここから東にカーブしている。
    円仁さん達の遣唐使一行は、京杭運河を横切り、揚州のこの辺りに到着。その日は船で過ごし、翌日上陸して、近くの「禅智寺」に向かっている。

  • 「古運河」<br />  「大王廟」から京杭運河方面を望む。

    「古運河」
      「大王廟」から京杭運河方面を望む。

  • 「古運河」<br /><br /> 呉王夫差が構築したと言われている「○溝遺址」(○は、偏は干、旁はおおざと)

    「古運河」

     呉王夫差が構築したと言われている「○溝遺址」(○は、偏は干、旁はおおざと)

  • 「禅智寺遺址」は、ショッピングモールや高級マンションの再開発地区に含まれ、すでに更地化されていた。

    「禅智寺遺址」は、ショッピングモールや高級マンションの再開発地区に含まれ、すでに更地化されていた。

  • 古運河沿いにある「大王廟」

    古運河沿いにある「大王廟」

  • 「開元寺遺址」<br /><br />「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑がある、「竹西中学校」の正門。

    「開元寺遺址」

    「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑がある、「竹西中学校」の正門。

  • 「開元寺遺址」<br /><br />「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑がある、「竹西中学校」の正門。

    「開元寺遺址」

    「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑がある、「竹西中学校」の正門。

  • 「開元寺遺址」は、「竹西中学校」になっていた。<br />  その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑。

    「開元寺遺址」は、「竹西中学校」になっていた。
      その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑。

  • 「開元寺遺址」は、現在は「竹西中学校」になっていた。<br />   その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑。

    「開元寺遺址」は、現在は「竹西中学校」になっていた。
       その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑。

  • 「開元寺遺址」は、現在は「竹西中学校」になっていた。<br />  その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑。

    「開元寺遺址」は、現在は「竹西中学校」になっていた。
      その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑。

  • 「開元寺遺址」は、現在は「竹西中学校」になっていた。<br />  その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑の後ろには、この碑を建てた比叡山の天台宗254代座主梅山円了師の名前が刻んであった。

    「開元寺遺址」は、現在は「竹西中学校」になっていた。
      その校庭にある、「円仁・慈覚大師求法の地」の記念碑の後ろには、この碑を建てた比叡山の天台宗254代座主梅山円了師の名前が刻んであった。

  • 古運河に面してある古寺、「文峰寺」と「文峰塔」<br /><br />

    古運河に面してある古寺、「文峰寺」と「文峰塔」

  • 古運河に面する古寺、「文峰寺」<br /><br />鑑真大和上は、6度に渡る日本への旅立ちは、このお寺の前の古運河から船に乗り、出かけることが多かったようだ。<br />鑑真さんゆかりのお寺である大明寺の入場チケットで、この寺にも入ることが出来る。

    古運河に面する古寺、「文峰寺」

    鑑真大和上は、6度に渡る日本への旅立ちは、このお寺の前の古運河から船に乗り、出かけることが多かったようだ。
    鑑真さんゆかりのお寺である大明寺の入場チケットで、この寺にも入ることが出来る。

  • 古運河に面する古寺、文峰寺の「文峰塔」<br /><br />

    古運河に面する古寺、文峰寺の「文峰塔」

  • 「古運河」<br /><br />ナイトクルーズ(1)

    「古運河」

    ナイトクルーズ(1)

  • 「古運河」<br /><br />ナイトクルーズ(2)

    「古運河」

    ナイトクルーズ(2)

  • 「古運河」<br /><br />ナイトクルーズ(3)

    「古運河」

    ナイトクルーズ(3)

  • 「古運河」<br /><br />ナイトクルーズ(4)

    「古運河」

    ナイトクルーズ(4)

  • 「古運河」<br /><br />ナイトクルーズ(5)

    「古運河」

    ナイトクルーズ(5)

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