2010/11/07 - 2010/11/07
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風遊さん
唐招提寺の国宝・千手観音像を見に行ったのですが、当日は平城遷都1300年祭の最終日にあたり、奈良の都は押すなオスナノ大混雑!
平城遷都1300年祭の目的とテーマ
*目的
「美しい日本、はじまりの奈良」を合言葉に日本の歴史文化を世界に発信し、21世紀の地球社会にふさわしい平和で豊かな文化の創造に資するとともに東アジアをはじめ世界各地との交流の拡大を図り、活力と創造性に満ちた社会の構築に寄与することを目的とする。
*テーマ
「歴史文化の対話と交流」
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車
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会場近くのショピングセンターに車を止めて、会場に向かう途中の近鉄奈良線
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カラフルな電車がヒッキリ無しに通過します。
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左端に朱雀門が見えます。
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この様な広大な地を会場えと向かいます。
ここも平城京敷地内 -
荒野の向こうに大極殿が見ててきました。
まだまだ随分先です。 -
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歩く事15分、やっとの思いで大極殿近くに着きました。
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平城遷都1300年祭・最終日!
近隣の町から沢山の神輿が出ていました。 -
面白い神輿です。
何故、座蒲団を飾ってるのかと聞くと、
座布団ではなく布団の事、だだの屋根かわりトの事?・・・・・
だ、そうです。 -
大極殿(だいごくでん)は、古代の朝廷の正殿。宮城(大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である[1]。
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即位の大礼や国家的儀式が行われた高御座。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である
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当時の大極殿からの朱雀門
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大極殿からの朱雀門
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鴟尾(しび)
鴟尾は、建物の大棟の両端を強く反り上がらせるところに起源があると考えられています。中国漢代の墓に副葬されているミニチュアの建物にはすでに鴟尾が表現されています。
わが国では飛鳥時代からすでに鴟尾が作られており、飛鳥寺から古いタイプのものが出土しています。山田寺や和田廃寺には、胴部に羽根形の文様をもつものが作られております。よく知られたものに法隆寺玉虫厨子金銅製鴟尾があります。
白鳳時代の鴟尾には胴部に珠文帯を設けたり、腹部に蓮華文を飾ったり装飾性が豊かなものとなります。
奈良時代の鴟尾は史料に「沓形」と見えますように、奈良時代の貴族たちがはいた沓に似た形になります。唐招提寺金堂大棟西端の鴟尾が典型的なものです。伝世された奈良時代の鴟尾としては唯一のものです。奈良時代には瓦製の鴟尾があまり作られなかったものか、出土例は多くありません。史料に金胴製鴟尾のことがいくつか見えますので、焼き物よりそのようなものが作られたのでしょう(資料参照) -
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会場内にはどんぐりの木に沢山のどんぐりが!
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再び近鉄奈良線を通って朱雀門へ
なかなか遮断機が上がりません、人の多さと列車の通過が多いのでなかなか進みません。 -
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遣唐使船
全長約30m、マスト高約15m。当時の国際交流の象徴的存在である遣唐使船を原寸大に復原、展示します。進取の精神で渡航した先人たちの気概に触れることができます。 -
唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取が 目的だったが、日唐関係が安定した八世紀以降は後者の比重が大きくなった。 唐の諸制度や文化に通じた留学生・留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で 不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えていた。 また、当時の我が国には、今の東京大学のような官僚養成大学が無かったので、外国に情報収集もかねて留学させていた。しかし当時は航海技術が未熟であったため、渡航はまさに命がけだった。
舒明天皇2年(630)から寛平6年(894)の間に、日本から唐に派遣された公式の使節である遣唐使は、およそ20回任命されたが、そのうち、実際に渡唐したのは16回だった。
唐への航路は、はじめ朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島に上陸して唐の都・長安に向かう北路をとったが、朝鮮半島にあった新羅との関係が悪化した8世紀以後は東シナ海を横断して、直通で行くかあるいは南の奄美大島に寄って行く航路で、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かう南路(南島路)をとるようになった。遣唐使船は無風や逆風の際は帆をおろし、櫓を用いたので多数の漕ぎ手を乗せており、また漂着した場所での安全を守るため、同じく多数の射手を乗せていた。
奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は18回出港したが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの8回だと言われている。(資料参照) -
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朱雀門
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平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいました。
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朱雀門の前では、歌垣ではなく「よさこい」が行われていました。
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2時間ズ〜ト歩きぱなしです。
腹は減るし、シンドイし! -
2時間半ズ〜ト歩きぱなしです。
再びショピングセンターに戻ると「長屋王の邸跡」が!
(684-729) 奈良時代の政治家。高市皇子の子。天武天皇の孫。藤原不比等没後、左大臣。不比等の子、聖武天皇の夫人、光明子の皇后冊立に反対、藤原氏の陰謀により自殺させられた(長屋王の変)。「万葉集」「懐風藻」に詩歌をおさめる。 -
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