2010/09/11 - 2010/09/21
186位(同エリア199件中)
明石DSさん
同江の朝
7:36:58
50元の部屋ともお別れ
2階の205号室よサラバ
名残惜しくもあるけど
早くハルピンに近づきたくもある
アカンたれの旅人とは我のこと
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2010.平成22年9月18日(土)
■同江を去る朝
7時35分頃に部屋を出て一泊50元の同江の「圣彼得堡饭店:Sheng bi de bao fandian」を退房した。外は初冬の寒さで同江に来てからは毎日ウィンドブレーカーを着ている。
猛暑から一転しての初冬か。そりゃあ体調もなかなか元には戻れないのも無理はなし
-
7:39:04
一階ロビー
服務員もみんな親切です
この雰囲気はロシア人対象のホテルかも -
7:40:48
ホテル前の同三公路を北へ歩く
この町で日本人の痕跡は見つけられなかった
こっちに来て、その努力もしなかったけど
来る前にほとんど情報もなく、残念だけど
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客運站へ
ホテルの前の同三公路を北に少し歩き大直路を右に曲がって、客運站に向かった。日に日に軽くなるリュックを担ぎ、ゆっくり歩いて15分ほどで客運站に着いた。その時、昨日の車の中の安徽省のおっちゃんに声を掛けられた。昨日お互い明日は富錦に行くと行っていたのだが、ホント偶然だった。彼は仲間と相乗りして富錦に行くそうで私も誘ってくれたが、この駅前で別れ、富錦での二日間に会うことはなかった。
そして、まだ出発の9時まで1時間ほどあるので同江の土曜の朝の繁華街をウロウロした。年配のおっちゃんが馬車を停め、歩道の瓦礫を荷馬車にスコップ一つで積み出した。これが今日の仕事なのだろうが、全部積むのは大変だ。どう見ても自分とは体の作りが違う。
そして小吃店で小さい馒头八個を食った。豆浆(Dou jiang:豆乳)とセットになっていた。久しぶりに朝飯らしき物を食ったような気がした。そして8時40分くらいに客運站に戻り9時を待つ。 -
7:43:16
同三公路を右折して大直路を歩く
客運站を目指し -
7:52:30
客運站
ホテルを出てゆっくり歩いて10分くらいで着いた -
8:16:28
周辺をウロウロしながら唯一見つけた日本語看板
「凡一の家訪」・・・「家訪」は中国語で
その字の通り「家庭訪問」という意味のようです
家に出張してくれるのでしょう
日本語が「の」だけというのが面白いです -
8:21:30
今日は土曜日、婚礼があるのでしょうか
中国人は派手なのが好みのようです
日本ではまず商売になりそうにはないですが -
8:25:52
この瓦礫を馬車に積んで捨てに行く商売のようです
私より年配の“おっちゃん”がスコップ持って
その逞しさには圧倒されます -
8:27:46
サンヨーの看板を持って道路を歩く
この同江でも日本製品は売られているようです
異国をぶらぶらするのが旅の楽しさでもあります -
8:31:56
朝食に饅頭と豆浆(Dou jiang:豆乳)セットを食す -
8:40:36
客運站に戻って9時を待つ -
8:48:50
このバスで富錦に行きました
この時、検札より先にバスに乗り込んだから
出発間際に車掌に切符持って行かれました
切符を検札時に電子センサーで検知して
乗車人員を確認するシステムが機能しています
それをうっかり忘れていました
切符はそのまま返してくれず
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同江から富錦へ
そして時間が来て乗り込んだ。座席はNo1だが、今日のバスは内部の形が違い、運転席のすぐ後ろの空間に荷物置きのようなスペースとその周囲が腰掛のようになっているバスだった。そしてそこにも結局、人と荷物が積まれた。ほぼ満員状態で富錦に出発。
9時に同江を出発して1時間過ぎた頃から進路前方左方向に五頂山が見え出した。まあそのバスの中では確証ともまでもいかなかったがあの山並みがそうだろうと思っていた。グーグルアースで何度も上からの映像を見ていたからこそ、初めての現地でも分かることが多い。
山の上には風力発電のプロペラがずら〜と並び立っている。景色としては興ざめであるけど・・・。あの山並みが五頂山か、乌尔古力山(Wu er gu li shan:ウルクリサン)か・・と。眺めながら富錦にバスは近づいた。 -
9:08:44
このバスは変型バスで、私の座席はNo1なのに
その前に荷物置きのような台座があり
そこにも人が坐ってこの通り
前が見えへんやないか -
9:57:02
同江を出て1時間くらいの所
こんな町を通過しました
どこなのか?分かりません -
10:23:02
同江を出て1時間を過ぎると五頂山が見えてきました
1時間23分のところでバスから見る五頂山です
ここに関東軍の要塞陣地がありました
感無量です
http://www.youtube.com/watch?v=ReEHO6v2Ss4&feature=player_embedded -
10:43:48
富錦市内に入って来ました -
10:44:28
富錦の客運站に到着
同江9時発、富錦まで1時間40分ほどの行程でした
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富錦到着は10時40分
客運站から三輪タクシーで佳木斯で紹介してもらった金橋賓館に行った。一泊80元で宿泊可、もっと料金が高いとパソコンが使えるらしい。私はパソコンを持っていないというと80元の部屋にしてくれた。ホンマ安い。ベッドも二つで部屋も広く十分だった。
ここでもフロントの小姐に五頂山の日本軍要塞跡に行きたいから、その場所を知っているタクシーの運転手を紹介してくれと頼んだ。でも、日本軍要塞跡の場所が、あんまり一般的ではないのか?小姐は困って、このホテルのおっちゃんに声を掛けてくれた。
その年配の男性にまた場所を説明して、運転手の紹介を頼んだら、ちょっと考え込んだ後適当な人物が思い浮かんだのか、自分の携帯で連絡してくれた。
そしてしばらく待っていた。その間、30分以上だと思う。そして、来てくれたのが寡黙な41歳の運転手:“王○○”「五頂山の日本軍要塞跡に行きたい。場所を知ってるか?」と聞いたら「知っている」という。現地滞在2時間以内で、150元で包車の交渉は成立、早速出発した。 -
10:47:50
三輪タクシーに乗ってホテルへ
右も左も北も南もさっぱり分からない富錦市内を走る
http://www.youtube.com/watch?v=QkRcFNx73Gs&feature=player_embedded -
11:03:44
一泊80元のホテルの部屋
3階、エレベーターがあった -
11:54:34
41歳の寡黙な運転手“王○○”と一緒に
五頂山を目指す。こっちの人は
東山(ドンシャン:Dong shan)とも呼ぶ
西山があるから -
11:57:22
富錦の町を西南西に向かえば
すぐに五頂山が見えてくる
当時、この関東軍陣地を目指して
各地から転進してきた兵士や
在留邦人もこの山を目指して集まってきた -
12:00:02
五頂山の全貌が近づいてきた
あの山のどこに陣地があるのだろう・・・と、思い巡らせながら
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早速、五頂山(烏爾古力山 乌尔古力山 Wu er gu li shan :ウルクリ:ウルコリ:ウルグリ)に向かう
30分ほどで五頂山山麓に到着したが、近づくとやはり五つの頂を持つ山並みは大きく、このどこに日本軍陣地跡があるのか?不安になって来た。“王○○”は知っていると言っていたが、その雰囲気からあまり信用していなかったが、やはりその予感は的中し、彼も運転しながら場所を聞く人間を探していた。しかし聞く者が誰も見当たらず見当をつけて一つの山に登って行った。
まだどこも車で上がれる道が付いており助かる。これが徒歩で行くとなると間違うとこの広さでは大変だ。五つの頂はそれぞれ「礼・智・信・勇・武」と言う名前が付いているようだ。最初に上っていった先には「富龙发电有限责任公司 乌尔古力山风电场」という看板の掛かった建物があった。どうもこの山は違うようで一旦下に下りて、もっと最東端の山とおぼしきところに登っていった。
そして途中、何か土産物屋らしき店があり、そこで停まって“王○○”が、店の女性に聞いていた。そしたら彼女が「ここだ」というようにこの山の上の方角を指で差し示してくれた。私が「歩いてどのくらいかかる?」と聞くと、「25分くらい」と言った。でも車でも登って行けるようで車で登った。山に近づくと道は舗装でなくなり、もし雨が降ればすぐにも4WDの車以外は無理になるような道ばかりだった。 -
12:00:20
途中鉄路を横切った -
12:11:04
三江平野が広がる -
12:22:04
いよいよ山麓から山へと登って行った
“王○○”も要塞場所がおぼろげなようで
とりあえずここから登ってみるという雰囲気だった -
12:48:16
最初ここに上ってきたが場所が違うようだった -
12:53:06
もう一度途中まで下り、更に東にある山に向かった
その途中、この店に行き当たる
売店のようであった
ここの奥さんに聞いて場所が分かった
この上に遺跡があるとのこと
http://www.youtube.com/watch?v=xMzKTECgJEw&feature=player_embedded -
13:04:06
あの山頂に要塞陣地跡があるらしい -
13:07:38
山頂が近づいたら遺跡らしきものが見えてきた
この監視哨のような建物跡が当時の関東軍の陣地跡なのか
残念ながら何も説明がなく私には確証がない -
13:09:16
五頂山の主峰の山頂で北東方向を写す
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五頂山要塞陣地跡に来る
ほぼ頂上まで車で登って行ったら、そこに遺跡らしき物が見えてきた。そして巨大なコンクリート片が転がる要塞陣地の破壊跡もあったが、表面に露出している部分だけで、その他はまったく分からない。
監視哨のような建物も二ヶ所残っているが、これが当時の関東軍の遺跡なのか?その後の物なのか私には定かではない。ソ連の方向に向かって眺望の開けた場所に作られているが、何の説明書きもないので残念ながら分からない。
その他、洞窟陣地がここには一ヶ所残っていた。周囲はレンガ作りの壁に囲まれていたが、洞窟そのものは岩をくり貫いただけのもので奥行き20メートルくらいのものだった。懐中電灯を持たずに来たので、中は真っ暗。もし中で下へ繋がっていたりしていたら危険なので、おそるおそる入って行った。時折デジカメのフラッシュで確認しながら歩を進めた。足元は染み出した水でぬるぬるしている。
そして突き当たり近くまで行って、日本から持参した森永キャラメルと線香に灯をともし般若心経を唱えこの地で亡くなった英霊の方々のご冥福を祈った。そして眼が慣れてきたときに、マッチ箱を見つけて写真を撮った。その写真を見れば「三浦半島 油壺 政府登録 国際観光旅館 ホテル:観潮壮」のマッチ箱だった。
マッチ箱は乾燥したままで、まだ最近の物だと思われる。こんな時に一番感動する。遠く離れた日本から、この五頂山の山頂の洞窟陣地に最近訪れた日本人が居ることを知り。
そして山頂のコンクリートの要塞破壊跡やこの洞窟に入ると、ここが五頂山の関東軍陣地だったことをひしひしと感じる。65年前8月9日にソ連侵攻を受けて、その後臨戦態勢をとり、ここが分散されていた各部隊の転進の際の集結場所になったようだ。
五頂山に要塞陣地のあることを在留邦人も知っており、それを頼って集まってきた邦人も少なくないのだろう。そしてここから又方正の方向に南下して行った。
富錦の扶桑台陣地で激戦を戦った歩兵第367連隊第二大隊:木村大尉以下の兵士たちも、この五頂山に転進し、又8月16日に、この陣地を包囲したソ連軍の一部と交戦し、反撃しながら包囲網を突破して方正方面に転進して行った。又、この五頂山に向かう途中ソ連軍機甲部隊と遭遇し、脱出者の更に約半数の損害を受けている部隊もある。
今回の私の旅の中の戦跡としてはメーンの場所でもある五頂山陣地跡に無事辿り着けた。この場所は、一番東側の山頂で、この山が最高峰だそうだ。海抜546.8メートルを示す山頂の碑があった。
◎「富錦でソ連軍と戦った、主計伍長Nさんの回想記」を撮影する。
そしてこの山頂を後にした。まだこの五頂山全体にトーチカ・掩体壕や軍馬に水を与えていた飲馬池(現在は臥虎泉)等々、日本軍のいろんな軍事遺跡があるようだが、“王○○”も知らないようだし、自分の体調のこともあって誠に不甲斐なかったが、これ以上の意欲が湧かず、明日また来れたら来ようと思いながら下っていった。
途中、 この山の山頂から少し下がったところに「南木石隆or楠木実隆」という満洲軍中将がこの五頂山の要塞築城過程を視察に来た時に、この一行を襲撃したとされる「常隆基」なる者の銅像もあった。「南木石隆or楠木実隆」という人物は関東軍派遣の軍事顧問のようだが、Web頁では検索できない。
中将は軽傷を受けただけと言う記述もある。そして常隆基は松花江に身を投げたと碑に書いてあった。しかし、この手の話は私は全く信用しない。大概が作り話だと思っている。
その理由の最たることは、「南京屠殺館」なる物を平然と建立し世に嘘八百を垂れ流す国家国民だからだ。その一点を持ってしても、その他の全てを信用できない。又信用するに値しない。あの南京屠殺館こそ中共政府と中国人自らの恥晒しの象徴であり、あれが中国にあり続ける以上、私は中国を軽蔑の対象としてしか見ない。
五頂山に名残を残しながら富錦に戻った。 -
13:10:34
五頂山山頂よりソ連の方向を写す
この監視哨のような建物跡が
当時の物なのか否か?不明 -
13:13:18
五頂山山頂の要塞陣地跡
北方向を写す
コンクリートの厚みが凄く
破壊された跡が生々しい
破壊前の姿が想像できない -
13:13:36
山中への坑道もあったのだろうか?
表面に出ているのが少ないので
全容は不明だ
日本軍兵士たちが65年前の
8月15日前後、この地で
命を賭して戦っていたことは確かだ
不安と焦燥の中、日本人として生きていた
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富錦:主計伍長Nさんの回想記
http://www.heiwakinen.org/shiryokan/heiwa/12yokuryu/S_12_029_1.pdf
上記Web頁:富錦でソ連軍と戦った、主計伍長Nさんの回想記によると・・・。
七月三十日には第一三四師団歩兵第三六七連隊に編成替えとなって、八月に入り、経理室の業務にもまだ慣れない九日未明、非常呼集のラッパで起こされて、ソ連軍の侵攻で国境第一線部隊は戦闘中との事で、部隊も終日戦闘準備で暮れました。
富錦街に侵入したソ連軍は部隊の陣地を包囲し我が方より二桁も三桁も違う膨大な兵力で攻撃を開始しました。これを迎え撃ち十一日より三日間にわたる激戦で約三百人の部隊の半数を失い、十四日の午前零時を期して包囲された要塞陣地を脱出、近郊の五頂山要塞陣地に撤退して十五日夜半まで山頂の陣地で生存者の集結を待ちました。後方の本隊との通信も絶え、その日正午に終戦の大詔(たいしょう)が下されたことなど知るすべもありませんでした。
再びソ連軍に包囲された五頂山(ウルクリ山)を十六日未明再び脱出、連隊本部のある方正に向かって撤退を開始しました。当時の第七七五部隊木村義巳部隊長の回想録をお借りして亡き戦友に捧げます。
《そもそも日ソ中立条約を一方的に破棄し、突如として国境を突破し、怒涛の如く侵攻して来た極東第二戦線軍の主力である第十五軍の進撃は、空、陸、江(川)、一体となり我に十数倍する物量に物を言わせ、一挙に富錦陣地を壊滅せんと熾烈(しれつ)な攻撃を加えて来たのであるが、陣地を死守して頑強な抵抗をつづけ、その強引な前進を阻止して一歩も譲らず、あくまで我が主力たる第一三四師団の戦闘準備の時間的余裕を稼ぐために、勇猛果敢な死闘を繰返し、対戦車肉迫攻撃、猛烈なる砲爆撃により多数の戦友の尊い生命を失ったが、その使命達成に死力を尽くしたのである。
この事実は、ソ連軍のマリノフスキー元帥が「関東軍潰滅す」の著書に、壮烈を極めた「富錦攻防戦」と題し、ソ連邦英雄称号を受けた二人の勇士を作り出した大激戦の模様を述べているが、それ以上に勇戦奮闘した多くの戦友の遺勲を忘れてはならぬ。一旦師団の転進命令を受けるや、夜陰に乗じて敵の包囲を突破するために敵前斬込みを敢行し、九死に一生を得て五頂山陣地に集結して、再び敵を牽引した。
更に終戦の事実も知らされずその翌日より転進を始め、ひたすら師団主力に合流すべく、道なき湿地を渡り、食なき密林の山岳地帯を彷徨し、満人の襲撃を逃れる一般日本人や残存兵を収容しつつ、日夜を問わず強行踏破すること五百キロ、一ヵ月に及ぶ難行苦行の体験を重ね、師団司令部の方正を目前にして武装解除を受けたのである。この貴重な戦争の体験を後世に語り継ぐことこそ、生死を共にした多くの戦友の英霊を慰め、その遺志を継ぐ道であると思う。》
方正近郊の部落まで撤退した九月十日、ソ連軍の軍使が来てようやく終戦の事実を認め、翌九月十一日、涙をのんで武装解除しました。
と、Nさんの回想記にあります。第七七五部隊木村義巳部隊長というのは、歩兵第367連隊第二大隊:木村大尉と同じ方だと思います
http://www.youtube.com/watch?v=AcIOYTbBT2s&feature=player_embedded -
13:31:56
洞窟陣地跡 -
13:32:10
ここら辺にはこの一つに気付いただけだが
他にもあるのかも知れない -
13:33:12
洞窟内部の入り口付近にはゴミが散らかっている
懐中電灯を持っていっていないので
現場では何も見えず写真を見て分かるくらいだった -
13:35:22
洞窟の突き当たり
20メール足らずの長さのように思う
広い空間はなく、他との繋がりは分からない
この洞窟の壁の白い部分は何なのだろう?
現場では何も見えず分からなかったが、写真に写っている
氷のように見なくも無いが分からない -
13:40:02
日本から持参した森永キャラメルを供え
線香を灯し般若心経を詠む -
13:40:38
すぐ傍に日本のマッチを見つける
まだ箱は乾いたままで最近のようだ
この富錦の五頂山陣地に
最近日本人が訪れている
旅の醍醐味であり感動の一瞬だ
マッチ箱には下記の文字が印刷されていた
「三浦半島 油壺 政府登録
国際観光旅館 ホテル:観潮壮」 -
13:43:16
洞窟の突き当りから出口を写す
右にあるのはキャラメルと線香
他の線香も私がばら撒いたもの
真っ暗で何も分からないまま適当に撒いた
http://www.youtube.com/watch?v=GDaAYrTkcYU&feature=player_embedded -
13:48:02
背中が富錦方向
こっちは北東の方向だと思います -
13:51:02
富錦市を望む
松花江の流れも見える
五頂山主峰:海抜546.8メートルより -
13:55:40
ほぼ山頂まで車で上がれる -
14:01:00
山頂のすぐ下にあった
抗日戦士?「常隆基」の象 -
14:02:54
運転手“王○○” -
14:03:02
この全体が五頂山
写真右より遠くに
通称:西山が遠望できる
西山に対して五頂山は地元では
東山とも呼ばれているそうだ -
14:10:16
五頂山を下る -
14:21:46
こんなところに門のようなものがあった
逆行で字が読み取れないが
五頂山森林公園の入り口かも
午後2時21分の太陽の日差し
方向が推測できると思う -
14:24:02
麓で果物を売っていた -
14:26:32
サラバ五頂山!
日本軍兵士かく戦えり!
英霊の皆様、亡くなられた邦人の皆様に哀悼の意を表し
心からのご冥福をお祈りします -
14:43:40
来る時越えた踏切を渡る
富錦に戻り行く -
15:13:00
富錦駅
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富錦駅で降りる
最後は富錦駅で150元を払い私は降りた。明日の夕刻、この駅から哈爾濱に戻る。3時過ぎの富錦駅はほとんど人もなくガランとしていた。そしてこの周辺でデジカメ動画の撮影をした。
◎「富錦の攻防:その一」
◎「富錦の攻防:その二」
◎「満州国軍について」
駅から歩きながらデジカメ映像を撮っていたが、まだ場所が何も分からず金橋賓館への道も分からなかった。途中、公安のワンボックスカーが路肩に停まっており、車中に公安の人が乗っていたので新開路と金橋賓館を聞いたら指差して教えてくれた。
その方向に向かってボチボチと写真を撮りながら歩いていたら、さっきの公安の車が停まってくれて、「乗っていけ」とドアを開けてくれた。えっと思ったが後部座席に女性が乗っており笑顔でこっちを見ていた。それですぐにピンと来た。
あっそうか、車は公安の車だけど奥さんの送迎かで私用に使っているのだと思った。それで乗せてもらってすぐだったけどホテルまで送ってもらう。ラッキー。一旦午後4時に部屋に戻る。
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富錦の攻防:その一
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)より
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佳木斯北東130キロ、当時は人口約1万人の富錦も三江省北部の商業中心都市で、防衛上は佳木斯の前方拠点をなしていました。
ソ連軍侵攻に際して本格的戦闘を戦ったのは、富錦の歩兵367連隊第二大隊だけでしたが、ソ連軍が佳木斯を占領したのは、終戦後の8月16日〜17日であり、方正において殆ど無傷の第134師団が武装解除をしたのは8月25日のことでした。
三江省の松花江(しょうかこう:スンガリー河)流域は第134師団の担当でした。その中で富錦での戦いが一番の激戦となったようです。
開戦時富錦付近にあった部隊は、歩兵第367連隊第二大隊:木村大尉以下、約500名。同第三大隊残留隊:中尾中尉以下約120名。野砲兵第134連隊残留隊、木庭少尉以下136名。師団通信隊の一部及び富錦陸軍病院等の約800名(他に朝鮮人数十名)が居ました。
そして扶桑台、西部には第四中隊「柏野中尉」以下、130名。東部に第五中隊「片山少尉」以下、110名。扶桑台中央には中尾隊(第三大隊の残留隊)主力である第二機関銃中隊「片岡中尉」以下、134名。第二歩兵小隊「坂井少尉」以下、52名。など、これら約2000名が富錦で戦った関東軍です。
木村大尉以下が立てこもった富錦南側の扶桑台には富錦駐屯隊の既設陣地がありましたが、ソ連軍の侵攻切迫をひかえて、木村大尉はこれの強化に努力しています。各拠点を連ねる地下坑道の構築(7割方完成していました。)。そして兵舎、陣地の強化増設、偽装、コンクリート予備銃眼作成等を行っています。また富錦市街を直接守るため、5,000人の住民を動員して、その東側及び南東側に大型の対戦車壕と城壁陣地を6月中旬に完成していました。
そして、8月11日早朝、ソ連軍の艦砲射撃が始まり、間もなく敵が上陸してきす。木庭小隊の野砲は水上の艦艇と砲戦の後、扶桑台に復帰しています。富錦市街東門にあった第四中隊第三小隊長:水越軍曹以下13名は戦いつつ後退しましたが、復帰したのは水越軍曹以下2名のみです。しかし、その東方に出ていた同小隊主力は殆ど無傷で復帰しています。
又、ソ連軍が記述している富錦市街の激戦の相手の主体は満州国江上軍第二団であり、これら満洲軍将兵はよく善戦したようです。しかし、午前11ごろソ連軍戦車が市内に突入するに及び、満洲国軍兵士の多くは白旗を掲げて降伏し、団付きの日系軍官のうち生存者三名は脱出して扶桑台陣地に合流しています。そして、これら満洲国軍の一部は、その後ソ連軍によって扶桑台に対する日本軍への攻撃に使用されたようです。
http://www.youtube.com/watch?v=QSN6rNA9Y_c&feature=player_embedded -
15:14:46
富錦駅の左側に連なる建物
なんだか古そうだけど・・・。
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富錦の攻防:その二
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)より
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市街を占領したソ連軍は、一挙に扶桑台陣地を占領しようと戦車を先頭に攻撃して来ました。守備隊はソ連軍を陣地前60メートルに引き寄せて火力急襲を行い、ソ連軍歩兵部隊に大損害を与えて退却させています。一方、そのまま陣内に侵入した中・軽戦車12両に対し、野砲・速射砲の射撃と肉迫攻撃で10両を擱座させました。この戦闘で第二機関銃隊:中隊長・片岡中尉は自ら戦車に体当たり肉迫攻撃して戦死しています。
しかし、関東軍の損害は全般に軽微で、その夜は酒をくんで戦勝を祝ったようです。一方、各隊三組宛ての挺進奇襲隊を派遣しましたが、ソ連軍は後退して近くに敵影なしの有様だったそうです。この激戦中の11日午後3時ごろ、佳木斯の師団参謀長・末永大佐から直接木村大尉に電話があり、「極力敵を阻止し、後、方正に転進せよ」と命じられました。大尉は、「敵は四方から包囲しようとしており、転進は困難だからここで死守させて欲しい」旨を申し述べたようですが、師団長の爾後の作戦方針があるとの参謀長の強い指示により、「機会があったら転進する」と答えたそうです。そして、これを最後に、電話も無線も不通になりました。
そして翌日の12日午後、ソ連軍はT−34戦車を主とし、歩兵と協同して本格的に攻撃して来ました。戦車砲の射撃で各トーチカの銃眼は破壊され、逐次陣内に侵入されたので予備陣地を使い、白兵戦をもって逆襲し、陣地の確保に努めました。我が損害も多発し、弾薬・爆薬も心細くなったので、12日夜、木村大尉は初めて転進を決意し、同日午後11時、まず五頂山(ウルクリ山)に転進の命令を下達(かたつ)しました。
実際の転進は戦況によって、13日から14日にかけてバラバラに行われました。第五中隊基幹は第三小隊をもって斬り込みをかけ、その間に第一・第二小隊は包囲を突破して五頂山に転進しました。中尾隊もこれに前後して転進しています。柏野中隊長が戦死した第四中隊は橋本軍曹が指揮し、大隊本部、歩兵砲小隊と共に脱出後退しています。
ソ連軍は五頂山に対しては本格的攻撃を行いませんでした。木村大尉は五頂山において脱出各隊を掌握し、16日ソ連軍の一部の攻撃に反撃の後、方正に向かって転進し、9月11日主力は方正において武装解除しています。
この戦闘及び脱出・転進の間に各隊とも概ね半数の戦死、不明を出しています。片岡中隊長の戦死した第二機関銃中隊は第二小隊長:岩崎曹長、第三小隊長:中江曹長も戦死し、第一小隊長:真田少尉が残余を指揮して脱出しましたが、五頂山に向かう途中ソ連軍機甲部隊と遭遇し、脱出者の更に約半数の損害を受けています。中でも損害の大きかった第四中隊は、160名中、方正に到着した者は僅かに26名であったそうです。
第五中隊の片山中尉以下は方正においても終戦を信じず、更に100キロ南進して9月20日亜布洛尼(やぶろに)において中隊長以下54名がはじめて武装解除しています。木村大隊より先に五頂山から転進した各部隊の大部分は師団主力に合流できず、途中若干の損害を出した後、9月に入って亜布洛尼(やぶろに)、横道河子(おうどうかし)で武装解除しています。
この戦いで亡くなられた方々に、この富錦において感謝の気持ちを捧げ、心からのご冥福を祈ります。
http://www.youtube.com/watch?v=CxlEg8x4EAI&feature=player_embedded -
15:53:48
こんな古めかしい建物を見ると
ついこれは満洲時代の物ではと思ってしまう
当時日本人も多くがこの富錦で暮らしていたから
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満州国軍について
http://www.geocities.jp/mor25/mdo.htmより
/////////////////////////////////////// 1932年昭和7年の満洲建国と期を一にして満洲国軍が創設されました。その軍医学校に在籍していた日本人Nさんの証言する昭和10年ごろの満洲国軍は次のようでした。
「私のいた三江省の富錦(ふうきん)県一帯は当時阿片の栽培が認められており、公に栽培が行われていた。六月頃の採取期に入ると軍も警察も匪賊も一切休戦となって、ひたすら採取に専念する。芥子(かいし)の実が熟し過ぎると液が出なくなるし、出る量が減少するので、一日を争う作業となるわけで、猫の手も借りたいほど多忙で、急を要し、軍隊の人海戦術の威力を発揮する絶好の機会という次第である。
もっともこれは援農とかいうものではなくて、団長(連隊長)は何町歩、連長(中隊長)は何町歩、排長は何段歩という割当てというか、権利というかを消化する作業で、兵は兵でそれ相当の余得があり、この時ばかりは討伐には行かない軍医や軍需官(主計官)までが総動員で参加するわけである。
その時の軍隊出動一週間の戦果は、莫大な金額と思われるが、おそらくこの金は旅長、軍管区司令官と上司につながって、当時半分は私兵であった軍の資金となっていたものと思われる。」と、あります。
又、こんな証言もあります。
中国では、儒教の影響で文を尊び武を卑しむ。満州国軍の将兵も、中国社会の最底辺の人物が多く、阿片の密売、武器弾薬の横流し、良民への犯罪行為などは日常茶飯事であった。また、満州国軍将兵の相当数が阿片中毒者であった。この頃、匪賊討伐の目的の一つには、万能薬として高価で取り引きされた「生き肝」取りがあった。「生き肝」とは人間の胆嚢のことを言い、これを陰干ししたものは金と同額で売れたという。
このように満州国陸軍は、国防の任を任せるには、はなはだ心許ない集団でもあった。事実、昭和八年頃より、関東軍の指導によって満州国軍は「警察軍」にと改編されて行き、満州国軍はあくまでも、「国内治安維持」に任じることになった。 同時に、戦車・重砲・航空機などといった兵器の保有は禁じられ、その規模も歩兵・騎兵を主とする六万人に削減された。
さらに、昭和十二年七月一日。軍政部は「治安部」と改称されて、国内警備に任じる警備軍と、国防に任じる直轄軍として編成された。のちのノモンハン事変においては、満洲国軍も日本軍に劣らぬほどに勇戦し、支那事変にも外征して、日本軍とともに戦った。大戦末期にソ連軍が侵攻してくるとソ連軍に離反する者が相次いだ。
ということです。
http://www.youtube.com/watch?v=2yB53YUyisY&feature=player_embedded -
16:02:52
ホテルの部屋から窓外を写す
公安のパトカーで送ってもらった
昼前に富錦に着き、一気に五頂山の陣地跡を目指した
明日の天気はどうなるかも?
体調はどうなるかも?
行ける時に行っておこうという気持ちの焦りもある
まあでも元気でも一緒だ。性分だ(笑) -
17:25:50
一泊80元の金橋賓館
ここはエレベーターがあります
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夕方の散歩
1時間半くらい部屋で休憩し、またおもむろに夕方の富錦に散歩に出た。そして周囲を散歩しながら、夕飯にとマクドでもなくケンタッキーでもない、中国のファーストフードの店に入りお持ち帰りで買った。そして又果物を買って部屋に戻りダウン。結局果物を少し食ったが持ち帰りは食べれずに翌日ゴミ箱に行く羽目になった。
13日から18日と未だ熱は上がったり下がったり、悪戦苦闘の日々なり。
ふ〜ん、田中角栄もこの富錦に1年半ほどいたようだ。
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富錦と田中角栄
『田中角栄の昭和』(保阪正康)を読む(1)
http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2010-09-14
上記Web頁抜粋↓
何せ学校を卒業して、15歳からはたらきはじめ、16歳から東京に出て、小僧として住み込み先を転々としながら、夜間の学校に行くという苦労を味わっている。19歳で建築事務所を旗揚げしたというのは驚きだ。その矢先に召集令状が舞いこんだときは、出鼻をくじかれた思いがしただろう。中国との本格的な戦争がはじまった翌年、1938年(昭和13)のことで、配属されたのはソ連との国境に近い満州の富錦(フーチン)というところだ。
角栄はここに1年半ほどいて、肺炎にかかり、結核と診断されて、大阪日赤病院、仙台陸軍病院へと送られ、そこで病状を悪化させて、11カ月入院の末、除隊となる。保阪はこの病気を仮病、つまりみずから見せかけた病気ではないかと疑っている。
〈田中は、反戦主義者でも非戦主義者でもない代わりに、この世に生まれてきて戦場などで死んでたまるか、という自我をもち、それを土台に生きてきた人物だったのだ〉人の気をひく魅力があるいっぽうで、要領のよさ、損得づく、目端のきくところを備えていた。それらはすべて、15歳から社会の荒波にもまれるなかで、身につけたものだろう。同じ世代を考えれば、そういう苦労人は、ほかにも数多くいたかもしれない。
だが、角栄には、そういう同世代にはない強烈な自我と度胸、大きな計算、見きわめのよさがあった。それでなければ、19歳で建設会社をつくったり、除隊後25歳で「田中土建」を設立して、それを中堅企業に育てあげたりする大仕事はできなかっただろう。
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17:25:54
ホテル前の新開路の南方向を写す -
17:25:58
ホテル前の新開路の北方向を写す
写真の右奥が富錦の政府庁舎 -
17:27:30
公園から金橋賓館を写す -
17:30:18
ホテル横の公園
政府庁舎の向かえ
この写真の奥がケンタッキー?
ファーストフードの店 -
17:34:18
このファーストフードの店で何か食い物を買う -
17:37:12
確かホットドッグを買った -
18:12:40
果物屋を探して果物を買って部屋に戻る
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