2010/09/11 - 2010/09/21
162位(同エリア198件中)
明石DSさん
5:19:34
3階の309号室から外を写す
やはり満洲はどこも窓は2重窓になっている
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2010.平成22年9月13日(月)
■方正の朝
5時過ぎに目を覚め出掛ける準備。今日も外は快晴、雲ひとつなさそうな天気だった。
朝食前に朝の散歩と、方正での映像撮影の一つ目、通算7つ目:◎「この方正で思うこと・?」を方正賓館の前で撮影する。
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6:30:50
このライトは浴室の天井についていたけど
すごい熱を放射してくれて暖かい
日中猛暑だけど、今回高熱が出て寒気がした時
この部屋に入れば体が暖かくなった
ライトが二つだけだったけど四個付ければ凄い熱量だと思う -
6:45:20
部屋の廊下から外を写す
何故か?下にパトカーが停まっている
私用で使うこともあるのだろう -
6:46:22
3階から二階に降りる途中
二階がレストランであり、朝食時の食堂になります
宿泊費100元なのにここの朝食は旨かったです
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この方正で思うこと・?
今回私はハルビン・方正・佳木斯・同江・富錦・を訪ねます。この地域のソ連軍との戦争の資料は、ほとんど見つからず戦記本も見つけられませんでした。大きな戦闘が少なかったからでしょうが、富錦では関東軍が奮戦し、ソ連軍の侵攻を一時阻止しています。
そして当地で戦い亡くなった関東軍兵士も多いです。戦後日本人は彼らを顧みる事もせず草生すかばねとして忘れ去られているように思います。この方正には日本人公墓があり、毎年のように慰霊活動をしている日本の団体もあるようです。
私は当初、そのお墓にはどうにも行きたくないと思っていました。何故なら、それは中国共産党の国策偽善の公墓としか思えないからです。
方正友好交流の会のHPには以下のように、この公墓のことが書かれています。
『累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。その人たちを祀るお墓が「方正地区日本人公墓」です。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれ、公墓が建立されたのです。多くの日本人開拓団員等が犠牲となった旧満洲で建立されている公墓はこの方正にあるものだけです。』
これを読み・・・私は次のように思います。↓
私は中国共産党を嫌悪しています。中国政府に人道意識があるとはとても思えません。日本が大東亜戦争によって進出した中国以外の海外の数多くの戦地には、その現場に慰霊碑が建立されています。中国はそれを許さないし、現場での慰霊も自由に出来ないのが実情です。麻山で自決された方々の慰霊碑が遠く離れたこの方正に建てられていることがそれを物語っています。
日本人でありながら「日本を悪」とし、「中国を善」とする。そして日本人でありながら、満洲建国・大東亜戦争を時の軍部や政府にその責任の全てを押し付けて、自分をその被害者或いは犠牲者とすることに疑問はないのでしょうか?
当時、内地から満洲に、はせ参じた日本人は、確かに少年も多かったでしょう。とはいえ幼児ではないはずです。そして誰しも、ある程度の知識を持ち、首に縄を付けられて引き摺られて来たのではないはずです。そこがどんな状況であるのか、戦後になって「全く知らなかった」「騙されて来た」というのは自分の愚かさを述べているに過ぎません。
中国人が言う「日本軍や指導者が悪い、あなたたちはその犠牲者だ」という彼らの決まりに文句に納得し、自らを被害者、或いは犠牲者の立場におく戦後の満洲からの帰国日本人を本当に情けなく思います。
http://www.youtube.com/watch?v=mGmTcQ092co&feature=player_embedded -
7:04:10
朝食は7時から、7時過ぎてから準備という感じ
のんびりしているし、客もそんなに多くないようだ
でもバイキングのメニューは少ないが
料理は暖かく良心的な朝食だった。宿泊費100元で朝食付きだから驚く
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7:04:14
最初は饅頭だけが出て来たけど
中に具が入ったものや、アンいりのもあった
蒸したてホカホカが一番、
その他、おかずも料理したてのようで旨かった -
7:11:48
三種類くらいの“おかゆ”があった
それにアツアツ饅頭
それにあとからおかずもそれなりに
朝食としては十分だ -
7:57:26
日本語看板?
「キンキンゴールドアクセサリーの店」
キンキンゴールドの店に是非一度行って下さい
その他、面白看板多数あり
これって方正の観光誘致の戦略なのか?
他に何か意味でも・・・。 -
7:57:56
「新しい1つは下着の店」
いつから日本語看板がブームになったのか
他の地域では見つからなかったです -
両替
8:03:06
今まで両替が出来るのは「中国銀行」だけだと思っていたが
中国工商銀行でも可能なことが分かった
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■両替
そして8時になったので、両替に中国工商銀行に行った。中央大街沿いの北側、方正賓館から徒歩5分くらいの近さにあるのだけど、看板が小さくて何度かその前を行ったり来たりの末見つけた。中に入れば人が一杯坐っていた。案内コーナーのような所に行き、`「我要换钱:ウオ・ヤオ・ホアンチエン:両替したい」というと、その窓口のナンバーカードを取って待つように教えてくれた。
この1,2年で銀行のサービスも随分変わったように思う。それにバスの座席も指定された通りの場所に坐るようになっているし、銀行でも番号を呼んでくれる。割り込みを気にせずに待つことが出来る。幾ら両替しようかと悩んだが、結局思い切って1日1万円×11+1=12万円の大金を一編にここで両替しようと決めた。こんな小さな街で、それもこの銀行内の窓口に対面して沢山の中国人が坐って自分の順番を待っている。
自分の番まで誰しも手持ち無沙汰だから、窓口での他人の一挙手一投足を飽きずに眺めている。そんな時、帯封のした100元の100枚の束をバックから幾つも放り出して預けているおっさんが居た。一体こんな小さな街で何で稼いだのだろう?窓口の向こうでは大金を預かる行員が、帯封を外して機械で何度も枚数を確認していた。
その“おっさん”は、椅子に坐って反り繰り返って終わるのを待っている。その光景を前にして、待っているみんなはその“おっさん”と預けられた大金を注視しているようだった。
そんな中、ヤバイけど邪魔臭いしここで換えてしまうおうと番号を呼ばれてその窓口の前の椅子に坐った私は、12万円と言った。女性行員はガラス越しに何度か聞き直し、私も言い直し、腹巻から取り出した12万円をガラスの向こうに送った。以前、3万円以上出来ないと言われたこともあったのでどうかなのと一瞬思ったけどOKだった。後は通常通りパスポートを提出し、待った。
いつもは両替前に今日のレートを聞くのだが、それも聞かずにじっと待った。そしたら何と1万円が手取り800元だった。関空出発前に日本の銀行で聞いたら700元が、現地では800元。もちろん日本での交換レートが悪いのは知っていたが、それでも得したような気になる。
去年の10月が730元くらいだったし、800元というのは私にとって最高だ。円高大歓迎!それに切りの良い数字で、12万円×800元=9600元、小銭はなし。全部百元紙幣で96枚、帯封で縛ってくれた。フフフ。
背中に視線を感じながらも極力何食わぬ顔をして、腹巻にねじ込み、極力さりげなく銀行を出て行った。日本から持っていった4000元+両替9600元=13600元。そして持って帰ったのが10070元。結局、今回の道中で使ったのは¥3530元ほどで、一日320元。日本円にして一日¥4000円。
11日間で5万円も使わずに帰国してしまった。次の中国旅行は両替は不要だ・・・ハハハ。 -
8:06:54
朝から多くの人が銀行に来ている
整理券を発行し順番が公平なのでホッとする
まあ少しづついろんなことがマシにはなってきている
腹巻から金を出し、また腹巻に収める -
9:15:42
方正政府庁舎:街は小さくても庁舎は立派だ
客運站で明日の佳木斯行き切符を購入し
通河に向かう
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通河(つうか)へ
銀行から戻ると、タクシーは玄関で待っていた。部屋に戻って大金を整理し、すぐに下に降りた。さあ方正での旅の出発だ。
まずは約束どおり、客運站に行き明日の朝9時発の佳木斯行き切符を購入した。座席番号は「No1」、旅人にとってこの席が一番だ。前もよく見れるし窓側の席だし。
そして、通河に向かう。通河と言うのは北方向に一直線で、松花江の対岸にある街だ。別にここに戦跡がある訳ではないが、この通河にも開拓団が入植し、満洲時代の日本にとっては縁浅からぬ街である。
方正から通河まで昨年、高速道路が延伸して、松花江にも大橋が架かり車で一挙に通河に渡れる。市内の景色はどことも変わらず見分けが付かない。そして河川敷も同じ光景が広がっている。
そしてこの通河出身の朝鮮族の女性が2006年:平成18年2月に起こした日本での悲劇がある。↓
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2006年2月<滋賀園児殺害>
<滋賀園児殺害>容疑者の甥「子供を殺すなんて…」と絶句
【通河(中国黒竜江省)大谷麻由美】「良い叔母さんだった。2人も子供を殺すなんてとても考えられない」。滋賀県長浜市で幼稚園児2人が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された鄭永善容疑者:日本名:谷口充恵(34)の甥(おい)が20日、鄭容疑者の実家があった中国黒竜江省の農村で毎日新聞の取材に応じた。
記者から惨事を知らされてショックを受けた様子で、「日本での暮らしは想像もつかないが、きっと抱え切れない悩みがあったのだろう」とうつむき加減に話した。
(中略)
成浩さんによると、鄭容疑者は兄4人、姉2人の末っ子。実家は農家だが、畑は小さく、貧困にあえいでいたという。鄭容疑者が幼いころ、兄や姉は次々と都会へ出稼ぎに行き、鄭容疑者も80年代後半、両親と長兄夫婦を残して故郷を離れた。父はその後他界、母は90年代半ばから吉林省の親族の下に身を寄せている。
鄭容疑者は中学時代から成績優秀で、日本語を学んだ経験から、卒業後は遼寧省大連で小・中学生を相手に日本語の家庭教師をしていたという。成浩さんは「実家の貧しさ、働かなければという精神的圧力が、きっと大きかったはずだ」と、鄭容疑者の心境を推し量った。
(中略)
成浩さんの幼い記憶に、鄭容疑者が時折みせたある姿が鮮明に焼き付いている。10代半ばだった鄭容疑者が突然、大声で意味不明の言動を繰り返し、直後に、普段の穏やかな表情に戻ったのだ。「その時だけ、いつもと様子が違った」。今ではその原因がどこにあるのか、知る由もない。
五四村は約70世帯、人口約200人で、朝鮮族が8割を占める。
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2009年3月9日 検察・被告とも上告せず、被告の無期懲役の判決が確定。
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9:24:54
松花江の対岸に通河の市街地が見える
ここにも日本からの開拓団が多く入植していた -
9:27:08
松花江大橋を渡る:2578メートル
去年この橋は完成したそうだ
方正⇔通河は便利になっただろう -
9:32:00
通河の街中も風情は変わらず
日本にいる時はここに来る予定は無かったけど
方正からすぐ近いと聞いてやってきた -
9:32:24
通河の街中を走る -
9:32:52
通河でコマツに出会う
この通河でも建設ラッシュの様相は変わらない
建築業界はバブルの如しなのか? -
9:33:32
新旧家屋
東北部の各市は競って建てている
建物だけではなく道路も
まだまだ整備するところは
山ほどあるのだろうけど
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通河の松花江河川敷公園にて
http://www.youtube.com/watch?v=_UULaZ-gQHE&feature=player_embedded -
9:42:18
通河:文政街と通江大街 -
9:42:58
通河は畜産業も盛んなのかも
派出所もある -
9:52:36
河川敷で時間を潰す老人たち
真冬の光景はどうなんだろう?
一度真冬の満洲を訪ねてみたいなあ -
9:53:00
松花江で洗濯
水は綺麗とはとてもいえないが、それでも汚れはとれるのだろう
この風景もいつの日か無くなるのだろうか? -
9:54:30
松花江に橋が架かった
通河から方正にも車で簡単に行ける -
10:04:00
松花江大橋を方正に戻る -
10:10:20
方正周辺は水田に囲まれ、一大穀倉地帯の趣がある
この風景こそが日本から米作り指導に来た藤原長作氏の功績だろう
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方正「僑村」
方正から通河まで昨年、高速道路が延伸して、松花江にも大橋が架かり車で一挙に通河に渡れる。市内の景色はどことも変わらず見分けが付かない。そして河川敷も同じ光景が広がっている。30分くらい通河の町を河川敷中心に散策し、また松花江を南に渡り方正に戻った。
そして、日本の残留孤児で一旦戦後の帰国事業で日本に戻り、再度この方正に戻った帰国者が日本式の住居を建てて暮らしている一画との場所に行った。黒竜江省方正県中心部に「僑村」と呼ばれる高級住宅地がある。朝日新聞が下記の報道を特集している。 第12部〈大陸源流〉
http://www.asahi.com/special/kajin/TKY201004260154.html
元はといえば残留孤児の帰国事業から始まったものだろろうが、今では日本人との結婚ビジネスの根拠地にもなっており、結婚仲介業のWebサイトも方正が多いという。そしてこの地から戸籍偽造によって残留孤児をなりすます者も後を絶たないそうだ。確かに綺麗だが生活臭のないこの住宅街を一人でうろついていたら怪しい者と勘違いされたのだろう。おっさんに誰何された。日本から来たというと何も言わずに行ってしまったが・・・。 -
10:20:48
方正「僑村」
日本からの帰国者たちが住む住居群とのこと
日本でしばらく暮らせば大金持ちになれるのか? -
10:21:58
この住宅地の入り口に警備室があったが
“胡○○”はそれを無視して入って来た
内部は綺麗な住宅が居並ぶが
生活臭はあまりない -
10:22:46
残留孤児と聞くだけで、今では同情どころか気分が悪いだけだ
それは、それを悪用して、戸籍の改竄はもとより
不法に日本を利用する中国人が多すぎるからだ。 -
伊漢通へ
10:30:20
方正から5キロ足らずのところに伊漢通がある
車窓からみれば街の姿とは程遠く村という趣だ
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伊漢通へ
その後、伊漢通に向かった。
伊漢通は方正から北東方向4キロ少し、歩いても1時間くらいで行ける距離にある。運転手の胡○○は40歳、20歳の娘と妻、そして62歳の父親との四人家族で、この伊漢通で暮らし、親父は農業を営み、胡○○も農業をしながらのタクシー運転手でもある。伊漢通に近づいたら彼は伊漢通は「不好!」とつぶやいた。確かに道も舗装がなくなり住居も田舎の様子一色になった。
街らしき建物は目に付かない。そして船着場・港へ行きたいと私が言っていたので、そこに案内してくれたが確かに松花江の河傍だが港らしき物はなかった。「この建物が港の建物だったが今は壊れている」と、その廃墟の建物を指差して教えてくれた。
◎「伊漢通にて」を撮影する。
この伊漢通の港に1945年8月15日終戦の日に佳木斯から転進してきた第134師団司令部、師団長:井関中将が上陸した。その記念すべき場所でもある。
その後、伊漢通の船着場近くをぶらぶらし、農家の家並みを見ながら路地を歩いた。犬が恐かったけど幸い道に出てきている犬の姿はなく、聞えるのは庭奥で泣く遠吠えだけだった。そして方正を離れ日本人公墓に向かう。
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「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)によれば
井関中将以下第134師団司令部が8月15日方正北東側の伊漢通(いかんつう)に上陸すると、先遣してあった佳木斯特務機関員から午後2時頃、天皇の終戦に関する玉音放送があったことを知らされました。
しかし方面軍命令を受けなければならず、連絡にも努力したが無線も通じないので、17日師団後方主任参謀:斉藤政一少佐をハルピン経由敦化(とんか)の第一方面軍司令部に派遣しました。
斉藤少佐は19日司令部に到着し停戦に関する命令を受領し、ハルピンまで引き返して、電話で師団司令部に同命令を伝達しました。これにより師団は20日以降、方正に前進して来たソ連軍と交渉しています。
師団は主力の1万数千の無傷の兵力を擁し、ソ連軍の兵力は約、2千名であったため、日本側の要求は殆ど受け入れられ、武装解除は希望通り(主力8月25日)に実施されました。
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10:35:44
伊漢通に近づくと舗装道路はなくなり
地道の道が多くなった -
10:35:54
伊漢通の入り口に白鮮やかな教会が立っていた
場違いの風景に少し驚く
こんな場所にキリスト教信者がいるのか・・・と -
10:37:18
これが伊漢通の港の建物の廃墟跡らしい
“胡○○”に聞くと、すでに今は
港も船着場もなくなった・・・とのこと。 -
10:37:18
この先が港の跡地だと“胡○○”は先導してくれた。
今は建材置き場のような感じだが -
10:39:48
“胡○○”によれば、ここが伊漢通の港、船着場だった場所
ここに佳木斯から転進してきた第134師団司令部の
師団長以下面々が8月15日の終戦を知らずに上陸してきた -
10:43:52
すぐ横に船着場跡らしき物も残っていた
このコンクリート埠頭で荷物の上げ下ろしをしてたのだろうか?
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伊漢通にて
ここ伊漢通にも開拓団があり、敗戦後は収容所も設けられています。そして収容所の若者はこの船着場で使役として働かされ、ソ連軍は日本軍の武器弾薬食糧などを船に積み込み本国に送った場所でもあります。そして佳木斯から船で転進してきた第134師団もちょうど終戦の日の8月15日ここに上陸しています。方正には武器弾薬食糧を備蓄する兵站基地があり、師団の転進場所となり、ここに近傍の在留邦人も集まってきました。
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)によれば
井関中将以下第134師団司令部が8月15日方正北東側の伊漢通(いかんつう)に上陸すると、先遣してあった佳木斯特務機関員から午後2時頃、天皇の終戦に関する玉音放送があったことを知らされました。しかし方面軍命令を受けなければならず、連絡にも努力したが無線も通じないので、17日師団後方主任参謀:斉藤政一少佐をハルピン経由敦化(とんか)の第一方面軍司令部に派遣しました。
斉藤少佐は19日司令部に到着し停戦に関する命令を受領し、ハルピンまで引き返して、電話で師団司令部に同命令を伝達しました。これにより師団は20日以降、方正に前進して来たソ連軍と交渉しています。師団は主力の1万数千の無傷の兵力を擁し、ソ連軍の兵力は約、2千名であったため、日本側の要求は殆ど受け入れられ、武装解除は希望通り(主力8月25日)に実施されました。
依蘭(いらん)において停戦交渉に当たった藤本中佐は、指導上の責任と、軍使として敵線に進入した際ソ連兵に軍刀を奪取されたことを遺憾とし、司令部に帰着後拳銃自決を遂げています。
ここに藤本中佐のご冥福を心からお祈りします。
http://www.youtube.com/watch?v=9hoS9YkRguw&feature=player_embedded -
10:52:42
この伊漢通の船着場で、
収容所の日本人はソ連の使役として働かされ、
ここからソ連は略奪物資を次々と本国に送った -
11:00:20
伊漢通村の風景 -
方正:日本人公墓へ
11:13:38
手前に中国人の墓
奥に日本人公墓がある
砲台山麓
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正日本人公墓へ
日本人公墓は、方正の中心地から東南東方向に行ったところにある砲台山の北側麓に華僑の墓地と並んであった。当時、方正で亡くなった人たちの亡骸をこの砲台山に運び、昭和21年3月には、山のように積み上がった亡骸を長時間掛けて荼毘に付したそうだ。公墓の正面玄関に辿り着いたら、鍵が掛かっており、玄関横に管理人の電話番号が書いた掲示板が鉄柵に括り付けられていた。
“胡○○”が自分の携帯で何度か電話をしてくれたが、応答がなく、周囲の柵の間から入ることにした。鉄条網が周囲を張り巡らしていたが、その一角に入れる隙間を見つけ、先に胡○○が入り、私も後に続いた。ここまで来て入らずに帰ることは出来ない。この公墓も日本で下調べした時から、何度も写真で見ているのである程度は分かっていたが、砲台山の麓の雰囲気も周囲の様子もこの現地に来て始めて分かった。
方正の収容所跡が何処なのか?誰も知っている者はいなく分からなかった。今の市内にあったのか?それともこの市内から外れたこの砲台山の麓なのか?在留邦人だけではなく、一時期は第134師団のほぼ無傷の将兵、1万6千人もの軍人もこの方正で滞留していた。
そんなことを考えながら誰も居ない公墓の柵の中に入り、お墓に面と向かった。右側に「方正地区 日本人公墓」:左側に「麻山地区 日本人公墓」が並んで建立されていた。
そしてこの公墓の中で◎「鎮魂の証言の要約」を撮影する。
この映像を撮り終える前くらいに管理人の女性が戻って来ていた。私たちが来た時には、ちょうどこの場を離れていたようだ。ここには毎日通って来るらしい。子供も一緒に来ていた。この公墓の中には、「中国人養父母の公墓」そして、この方正で米作りの指導をした「藤原長作さんのお墓」もある。この公墓に入るのは無料ではなく、門票として100元が要る。
門票(入場料)としてではなく、このお墓に訪れた日本人は、感謝の気持ちとしてお金を寄付するようなことがWeb頁に書かれていたので、そのつもりだったが、来て見ればこうやって門票として請求されるので、こっちの方が気楽だ。そして、お墓には今日も綺麗な“お花”が供えられていた。管理の女性に聞けば一昨日三組の日本人が墓参に来たということだった。
資料館に記名のノートが置かれており、その横に寄付箱があった。記帳すれば寄付も必要なのだろう。私は百元払ったことで、何故か、記帳もする気がおきず寄付もしなかった。やはりこの唯一と言う日本人公墓に、今も複雑な気持ちがある。このお墓の前でも素直になれない。実は、この日の夕刻から熱中症なのか?高熱が帰国の日まで続き体調最悪の旅になった。
あるWeb頁によれば、この公墓を訪ねて後にいろんな事故に遭遇したり、体調を崩したり、公墓墓参から帰国後は厄払いをしたほうが良いとか書かれている頁があるが、私はこの地で亡くなられ眠っておられる方々が、墓参に来た日本人にそんな災いを及ぼすとは露も思わない。
確かに私は墓参後、熱に苦しんだが、それでも助けられたと思っている。本来なら熱中症でぶっ倒れて生死を彷徨ったかも知れない私を、無事に旅の目的を果たさせてもらい帰国させてもらいました。帰国後数日たちすっかり元気になってこの旅行記を作っている。今も方正で亡くなられた皆様に助けてもらったと感謝している。
そして退園時はちゃんと鍵を開けてもらい通用口から出て行った。方正日本人公墓に無事墓参を済ませることが出来た。墓前に日本から持参したタバコと森永ビスケット、そして線香を灯し般若心経を唱えてご冥福を祈った。
これで今日の包車の予定は全部終了。6時間の貸切が、その半分の時間で終わってしまった。でも十分満足したので、そのままホテルに直行し、約束の料金¥200元を渡し、胡○○と別れた。 -
11:15:10
玄関も通用口も鍵がかかり入れない
管理者への電話も“胡○○”が何度も掛けてくれたけど繋がらない
やむなく鉄条網の隙間から入ることにする -
11:20:08
この一角に二つの碑が建立されていた
向かって右が「方正地区日本人公墓」
左側に「麻山地区日本人公墓」
墓前には両方とも最近の花が供えられていた
私も日本から持参したタバコとビスケットを供え
線香を灯しご冥福を祈った
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「鎮魂の証言」より一部抜粋
Web頁 http://www.pref.nagano.jp/xtihou/simoina/seisaku/man/manmo.pdf
10歳の時に両親と満洲に渡り15歳で敗戦を迎えたKさんの「鎮魂の証言」に方正のことが書かれています。それを読めば方正収容所生活の一端が分かります。要約すれば次のような状況です。
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方正県に近づけば、すでにどの集落にも門前に長い柱が立てられ、ソ連軍歓迎の赤い旗が翻っていた。そして方正での武装解除は、9月5日だった。方正の町はずれの広場には、至るところに武器、弾薬が山と積まれていた。
収容所生活は、既に武装解除を受けた数万人の軍人や開拓団員が収容され、魔の収容所生活で、得体の知れない病と飢えと寒さのために幾千人かの尊い命が失われた。私たちは伊漢通の港で働かされ、武器、弾薬や日本軍が保管していた食料品などは大きな荷物船に積み込まれ、ソ連本国に送られた。
労働の報酬は、食糧で、もみ米、トウモロコシ、粟、高梁がごく僅か配給されました。高梁は、精白されていず、食べると糞詰まりし、ほとんどの人が苦しい思いをしました。北満の10月はもう初冬で、生活の急変、食糧不足、栄養失調に疲労が重なり、収容所には病人が続々と出ました。医者もいず、一番下の幼い妹は昭和20年10月8日に、母に抱かれたまま小さな命を絶ちました。毎日毎日、死者は増加の一途でした。
この状態では、一家全滅の危険があると、幼い子供を中国人の養子にしたり、娘を中国人の嫁にやったり、一家を引き連れて自分が中国人の妻となった婦人もかなりの数おりました。(満妻・満妾)寒さも一段と厳しくなり死者の数も日増しに増加していったので、私たち若い者は本部の指令で、共同墓地を2か所掘りました。長さ10メートル、幅6メートル、深さ3メートル位の大きな墓地です。3月上旬には亡骸は積み重り山となって、それは想像を絶する光景でした。
中国政府から「衛生上よろしくない。砲台山に集めて火葬にする。」という通知が出ました。薪を1メートル程積み上げて、その上に何千体もの亡骸を積み上げると、大きな山となり、残酷というか異様な光景でした。大量の重油を注ぎ長時間掛けて火葬にしました。白骨化した仏は、中国政府の手によって、墓地に埋葬されました。
現在では「永久不戦の碑」と刻まれた大きな石碑が建立されておりまして、ここを訪れる日本人、中国人を問わず、お墓参りをしています。また、昭和38年3月には、 中国政府によって日本人公墓が建立されましたが、広い中国でも公墓があるのは方正だけなのです。方正での犠牲者の数は定かではありませんが、5千人に達したと言われています。
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・・・と、このように書かれています。この方正の収容所は全満洲でも惨状の殊に甚だしかったものの一つのようですが、『満洲開拓史』によれば昭和20年8月から翌年5月末までの在留邦人の記録は次の通りです。
収容総人員8,640名、ソ連兵に拉致された者460名、自決・病死した者2,360名、自ら脱走した者1,200名、満人の妻等になった者2,300名、現地に残った者、1,120名、ハルピンに移動した者1,200名とあります。
この記録によれば方正での邦人の死者数は、2360名となっています。この地で亡くなられた皆様のご冥福を心からお祈りします。
鎮魂の証言の要約
http://www.youtube.com/watch?v=ikOWshyp0YM&feature=player_embedded -
11:40:14
藤原長作さんのお墓
方正の米作りへの貢献だけではなく
中国全土にその農業技術を普及させた -
11:50:00
資料館に展示されていた写真。
砲台山の麓に日本人公墓がある
写真↓左側から
砲台山 日本人公墓 伊漢通部落開拓団本部 -
11:58:30
日本人公墓の女性管理者
最初不在だったが後ほど現れ、門票100元を支払った
一昨日には三組の日本人が墓参に訪れたと彼女は言っていた -
12:03:10
後方の小高い山が砲台山
左側の赤い屋根が日本人公墓
右側の大きな墓地が中国人墓地 -
12:25:26
方正賓館の隣
小さめの饅頭で旨かった
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方正に戻る
その後、方正賓館のすぐ隣の包子の店で小さな蒸し饅頭を食べた。やはり8個入りだったが全部食った。これは旨かった。そして12時40分頃果物を買って部屋に戻り小休止。1時間ちょっとウトウトして、また町に散策に出掛けた。
この方正は小さな街だが、中央大街に沿って地下街のショッピングモールがある。それに気が付いた時は、ちょっと驚いた。
冬季は氷点下の厳しい寒さの街には、このように良く地下街が作られている。そして一歩この中に入れば如何なる厳冬期でも春の暖かさがある。だからこんな寒冷地の人でも、平気で暮らせるのだろう。地上の建物の中でも同じだ。中に入れば春の暖かさ。明石の我が家の冬より、余程室内や地下街は暖かい。
そして中心街から外れた場所で、◎「この方正で思うこと・?」を撮影した。 -
12:38:12
果物ばかり食っていた気がする
この13日夕刻から熱中症なのか高熱でダウン
果物は美味しかった -
14:08:58
方正:中央大街にある地下街
こんな立派な地下街があるとは・・・知らなかった
厳冬期でもこの中は春なのだろう -
14:11:34
まだこの地下街は新しいのか
全体的に綺麗に感じた
両側に店がぎっしりオープンし
シャッター通りとは無縁のようだ -
14:16:46
地上に出ると“おっちゃん”がたむろして何かに興じていた
トランプ・将棋・麻雀
そんなものだろうけど
金のやり取りは見たことがない -
14:37:22
路上の自転車修理
何でもかんでも個人商いが多い
自転車にリヤカーを付けて荷物運び請負なのか?
ポコポコ何かを叩いて回っているのも良く見かけた -
14:52:02
中心部を少し離れた方正の住宅地
方正でも建設ラッシュはあった
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この方正で思うこと・?
今、残留孤児と言われる者も戸籍の改ざんなどで「成りすまし孤児」となって日本に不法に滞在している人も多いと言われています。満洲建国を成した日本を罵りながら新疆ウィグル・チベット・内蒙古に軍事力を背景に侵略をし、非道な抑圧を続けているのが中国です。
そんな中国及び中国人に対して、ただ感情的に謝罪し、日本の過去現在未来を貶め、そんな自分こそが良識があり、平和を尊ぶ善人であるかのような日本人こそ私は同じ日本人として軽蔑します。
白人列強の驚異渦巻く激動の渦中で日本の独立を守らんがために戦い亡くなった先人たちの崇高な行為を辱める。そんな戦後の日本人たちは、一体いつになったら自分たちの醜い姿に気付くのでしょうか。
ここに来る前に草地貞吾関東軍作戦参謀の伝記や本人の著書も読みました。立派な軍人であり立派な日本人だと思います。昔の軍人の多くは立派でした。ソ連侵攻後の満洲の様子、シベリア抑留の実態。やはりシベリアに抑留された瀬島龍三参謀も立派な人でした。敗戦までの日本には素晴らしい日本人が沢山いました。敗戦のその日から今に至って日本も日本人もおかしくなるばかりです。
草地参謀の奥さんと五人の子供は新京から避難行の途中、奥さんと子供二人は帰国かなわず亡くりました。残った子供三人が昭和21年6月23日日本に帰国し、父の実家に無事に到着しています。草地参謀は瀬島参謀と同じく11年間ものシベリア抑留ののち昭和31年に帰国しています。
「軍人が悪い」「帝国日本が悪い」そんな刷り込みばかりに思考停止になり、軍隊や軍人、と聞くだけで拒否反応を示す。そして自分の国を自分で守ることもせず、拉致被害者を放置したまま平気な顔をしている今こそ最低の日本であり日本人だと、そう思います。私も紛れもないその無様な日本人の中の一人です。
先の戦争で「後に続く者を信ずる」と言って死んでいかれた英霊の方々にはお詫びの気持ちしかありません。
http://www.youtube.com/watch?v=h8_WWGeasiE&feature=player_embedded -
15:09:14
方正の住宅街
中心部より少し離れると静かだ -
15:14:44
午後3時14分の方正の空
雲ひとつ無く猛暑
日差しもきつかった
帽子被らず熱中症になる
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方正散策
その後もカメラ片手にグルグルと方正市内を巡っていた。そして夕方になった頃、蜂蜜屋の男性に声を掛けられ私が日本人だと分かると、「日本語を話せる者を呼ぶからここで待っていてくれ」と中に入らされた。棚には瓶入りの蜂蜜が並んでおり、この方正で養蜂が行われていることを知った。そしてビンの中に蜂の巣が入った物を私に見せて、「これは私にしか作れない物だ」と、説明してくれた。
一体それにどんな効用があり価値があるのか?今もってさっぱり分からない代物だが、おっちゃんは自慢話を繰り返していた。まあおっちゃんと言っても私より5歳ほど若かったと思う。息子も一人いて、やはり親父と一緒に養蜂をおこなっているようだった。その若い23歳の息子も私に向かって「日本でこれを販売する商売に興味はないか?」と、しきりに勧めて来た。「興味はない」と何度も言うと諦めたようだが。
その内、日本語を話す40代の男性(Nさん)がやってきた。聞けば8年間東京で暮らして、三年前くらいにこの方正に戻って来たとのこと。やはり嫁が残留孤児の孫にあたるようで、その嫁と一緒に東京で働いていた。子供も出来て一緒に東京暮らしを続けていたのに、このNさんと子供の二人が帰国し、今は方正で生活している。Nさんは方正で公務員として生計を立てている。
そして嫁の両親(どちらかが残留孤児の子供)もやはり一旦は日本に行ったが、大分前に中国に戻りハルピンで暮らしているようだ。Nさんの子供は三年間でほとんど日本語を忘れてしまっているとのこと。でも、このNさん又日本にいる嫁のところに戻る予定のようだ。今その手続き中。
しかし子供は教育のこともあってこっちに置いて行くと言っていた。嫁の兄弟や“いとこ”など、残留一世の子や孫の多くは今も日本にいるらしい。たった一人の日本人が、一体その子孫を全部入れたらどれだけの人数になることか・・・。
話を聞いているだけでウンザリだ。その上、偽造書類によっての偽の残留孤児子孫が、今や日本に来る残留孤児関係の中国人の90%を占めると聞くと日本の入国管理行政の甘さに愕然とする。往復の飛行機の様子を見てれば、ホトホト日本の将来が心配になる。
この日の夜から高熱に悩まされ、解熱剤を飲んで明日に備えた。ハルピン・方正と猛暑が続き帽子も被らず歩き回った。私はそれが原因だと思っている。まあ何と思われても、この日から熱が出て帰国まで苦しめられたのは事実だ。さあ明日は、9時のバスで佳木斯に向かう。 -
15:20:24
三輪タクシーも暑さでバテテ口を開く
これでも十分走ります -
15:50:26
スイカが道路に山盛りで
トラックに運んできて置いています
腐らんうちにちゃんと売れるのか?心配です
一個も買わずだったのが心残りです -
17:49:50
2時間近く部屋で休憩後
方正賓館の入り口から外を写す
こんな景色の交差点の角に立ってます -
18:03:14
蜂の巣の瓶入り?
この養蜂業のおっちゃんしか出来ない代物だと
彼は自慢していたけど、私にはようわかりません -
18:03:56
養蜂業の親父さん
息子も親父と一緒に養蜂業を営み
心強い跡継ぎです
日本語を話す友人を呼ん出来て
しばらくこの店の中で話をしてました
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