2010/09/11 - 2010/09/21
162位(同エリア198件中)
明石DSさん
5:48:42
5階の509号室からの眺望
朝は必ず来ます、もし来なければ?
考えてもせんなきことです
さあ今日からが旅の初日だって感じです
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2010.平成22年9月12日(日)
■快晴のハルピンの朝
満洲での旅の朝は、いつも早く目覚める。5時前後といっても日本時間なら6時前後なのだろうが、やはりそんなことよりぐっすり寝れずに早く目覚めると言った方が、私の旅では適切だ。基本的に熟睡とは程遠い。
今日は方正にバスで向かう予定だが、その前にハルピンの各所の風景を背景にして動画を写すつもりだ。そしてハルピン駅前の南崗客運站でも方正行きが1時半ごろあるし、それまでに予定が終了すればハルピン東駅前の三棵树公路客运站なら方正行きが幾らでも出ているので、そこから適当な時間に乗ろうと思っていた。
果物を食べて7時前にハルピンでの時間もはっきり決めずにまずはホテルから出た。400元の押金から208元を差し引いた192元を返却してもらい、20日戻って来る部屋の予約の確認をし、509号室を退房(チェックアウト)した。
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6:44:26
何でトイレとシャワールームがすりガラスやねん
黒河に行った時もそうだったので
ロシア人の趣味かと思っていたが、よう分からん -
6:48:18
東大直街に面しています
キングサイズよりツインベッドの方が便利です -
7:14:48
紅博広場の朝
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■動画撮影の開始
そして、まずはすぐ近くの東大直街の秋林公司の道を隔てた場所でナレーションを入れながら最初の動画を写した。テーマは◎「満洲の旅で思うこと」。
http://www.youtube.com/watch?v=sug-vUpjkYM&feature=player_embedded
小さなデジカメを構えてぶつぶつ語っている変な奴を、通勤に急ぐ満洲人が時々こっちを見ながら通り過ぎる。日本なら恥ずかしいことも、ここでは何ともない。
朝はさすがに涼しいハルピンだった。次に場所を変えて紅博(Hong bo:ホンボ)広場辺りで、7時7分頃、◎「何故?こんなことをするのか?」を語る。
そして、次に紅軍街(Hong jun jie:ホンジュンジエ)を駅に向かいながら旧ハルピン領事館前で、紅軍街を挟んで斜め前に満州時代の大和ホテルが有る場所で◎「捕虜使役に関しての密約問題」
大和ホテルは現在、龍門大厦というビジネスホテルに付属したレストランとして外見は当時のままの「龍門貴賓酒店」という名前のレストランとして営業している。
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満洲への旅で思うこと
日本が大東亜戦争に敗北を期するまで地球世界は、白人列強を中心に覇権主義全盛の時代を歩んでいた。まさに当時の世界は強い国がどこまでも勢力を拡張し、植民地からの収奪を当然としながら覇権を競いあっていた。覇権国家すなわち文明国が弱小国家を非文明国と定め、それらの弱小国を植民地化し、非文明国を発展させてゆくという、強者の論理が当然の如くまかり通っていた時代だった。
当時の地球の人口の内訳は白人種4割:有色人種六割、そんな世界で日本は有色人種唯一の覇権国家として白人列強と並び存在していた。そんな中、日本は白人列強の植民地化とまるで異なる“併合”という形で台湾・朝鮮・サイパン・パラオなどを統治した。それこそ非文明国を文明国にと発展させる日本独特の統治であった。
今にして思えば行き過ぎた同化政策はあっただろうが、当時の白人列強やその傘下の植民地国は、日本の台湾・朝鮮統治をどのように思っていたのか想像が出来る。併合した国に自国民から徴収した多額の税金を投入し、ありとあらゆる社会資本整備を進め、短期間に見違える国にした。その事実は誰にも否定できる物ではないはずだ。
そして満洲。
ロシアの進出を日本は日露戦争で食い止め、その後も満洲の大地を巡って群雄割拠の時代が続いていた。そんな満洲に資源なき日本は新天地を求め、「五族協和」「王道楽土」の大儀を掲げ満州国を建国した。
白人列強が世界を制するのを食い止めるには日本が強国にならざるを得ず、何をおいても日本の独立自尊・皇室を戴く国体護持が最優先されたことは、今思い返しても先人たちの英断と行動を賞賛する。ただ一点支那事変の拡大だけは疑問に思うが、悔やんでもせん無きこともあるのが歴史の常だ。
そして昭和16年12月8日:白人列強相手に火蓋を切った。これは「黄禍論」に示されるように人種差別という人類の宿命が招いた戦いであり、戦争に至った経緯に関しては、覇権を争う時代での歴史の必然と私はそう確信している。
そして戦いに結果は付き物である。しかし、世に敗戦と言う結果はあれど、私の戦争の定義は、共に大儀を持っての戦いならば「戦争に敗者はない。」私の敗者の定義は「戦うべき時に戦わない者、戦えない者」が真の敗者だ。
その気になれば今の日本の力で現実に十分可能な「拉致被害者奪還」「竹島の奪還」「尖閣諸島の実効支配を強化すること」・・・それが出来ない戦後の今の日本と日本人こそ恥ずべき「真の敗者」だと、私は、そう思っている。 -
7:20:30
紅軍街の果物屋さん
ここで果物買って部屋で食べました
量り売りが主です
バナナ一本でも量って売ってくれます
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私が何故?こんなことをするのか?
動画を撮って発信する理由
私は昭和25年生まれで平成22年現在60歳になりました。学歴なく地位なく、ごくごく普通の日本人小市民です。そんな私が今の時代、Uチューブなどを通して自分の意見をこのように発信できるようになりました。
何故?こんなことをするのか?それはインターネットがある程度普及した現在でも、産経新聞はまあまあですが、その他はあまりに既存のテレビや新聞の意見と自分の思いが乖離し、そのメディアの偏向振りに憤っているからです。チャネル桜以外、大手のメディアに登場するいわゆる知識人や評論家・キャスター・コメンテーターの方で私が尊敬できる日本人と言うのは皆無です。でも、このように誰しもが意見を発信できるようになり、こんな思いの一庶民もいることを知ってもらいたく、こうやってUチューブを利用させてもらっています。
「戦争はむごい」・・・想像力があれば経験が無くても誰にも分かることです。だから誰しもその当事者になりたくはありません。ならばその戦争を二度と再び起こさないためにはどうしたら良いのでしょうか?大東亜戦争の敗戦に何を学べは良いのか?
日本軍はあそこでもここでもこんなにひどいことをした。中国人にだけではなく、同胞である日本人にさえも・・・。このように戦った先人を非難し、自分を被害者の立場に置き、ひたすら平和唱えれば戦争は二度と再び起こらないのでしょうか?
人類の歴史は戦争の歴史とたとえられることもあります。いつの時代も地球上のどこかで戦争が行われています。それは国内で、地域で、家族でも争いが起こり、時には殺人事件になるのと同じことです。そしていわゆる先進国というレベルの国であれば、国内での争いは法治国家として法律によって裁かれ、被害者となった者も加害者が罰を受けることによって少しは救済され、ある程度の公平性は保たれ集団としての暮らしが成り立ちます。
しかし国と国の争いには世界共通の法律はありません。警察もありません。そこに存在するのは「力」です。幾ら綺麗ごとを言っても変わり様がありません。地球外惑星から地球を滅ぼすために攻撃を受ければ、その時初めて地球は一つになれるかも知れませんがそれ以外は不可能です。
そんな現実をしっかり見据えて、戦争を避けるには自らが「力」を持つしかありません。今の日本のように戦争を放棄しひたすら周囲の国に媚を売り平和を哀願するような国には、奴隷の平和、米国のような強者への隷属での平和しか保てません。
大東亜戦争は白人列強国に比較して軍事力だけではなく国家としての総合力が弱かったから戦争に踏み込まざるを得なかったのです。戦争というのは勝者も敗者も悲惨を極めるわけです。ならば平和を真に希求するなら戦争を仕掛けられないように、こちらが相手を上回る総合力を持つことです。戦後65年、日本が隷属の平和、似非平和ですが、それでも維持できたのは、憲法9条のお陰などではありません。東西冷戦と日米安保条約が日本を戦争から守ったのです。
国家の独立を守るために悲惨を恐れず戦争を実行した先人を辱め、自らを天使の生まれ変わりであるかのように高尚なる人間として、平和や友好の念仏を唱えて中国を訪れる日本人には軽蔑の思いしかありません。
http://www.youtube.com/watch?v=KZ4Io7og4yw&feature=player_embedded -
7:28:36
上は昔の紅軍街に立つ大和ホテル
現在の旧大和ホテル
今、龍門貴賓酒店
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■ソ連との密約問題
関東軍とソ連軍との間に交わされた関東軍兵士の労働使役に関する密約、世に言う「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」は、1993年:平成5年7月、ロシア国防省公文書館により公開されたものだ。
この報告書を探し出し、世間に関東軍憎むべしを画策したのが、シベリア抑留の補償を日本政府に求める裁判を起こした故・斎藤六郎:全国抑留者補償協議会会長と共同通信社である。その真実は、斉藤が裁判を有利にするために、この資料を関東軍をこき下ろすための材料として、その文言を悪意を持って解釈している。それは草地貞吾参謀が、武装解除後に、関東軍兵士や在留邦人を救うために元帥へ陳情した文章だ。
その文章を読めば日本人なら誰しも分かることであり、それを関東軍参謀を密約の悪者に作りあげんがために作為的に吹聴した。そして抑留されたことを、あろうことか暴虐非道なるソ連への怒りではなく、敗戦ゆえの武装解除に陥り、何の効果的な対策を取り得ない関東軍にこれでもかと責任を押し付け、日本政府に保障を求める。
「シベリア抑留1450日」の著者:山下静夫氏によれば
《日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。》
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↑こういった記述があります。 そしてこれがスターリン共産党の実態であり真実だ。戦争で亡くなった人の総数よりも、戦争とは無関係に戦後、ソ連・中国の共産党独裁政権下で粛清や飢餓で死んだ人間の方が圧倒的に多いのは周知の事実だ。そんなスターリンに感謝状を贈ったのは、紛れもなく関東軍を罵り日本政府を糾弾する日本人の抑留者だけだ。
これらの顛末を産経新聞記者がブログに記している。これを読めば所謂「密約」なる物の真相が良く分かる。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/137648/
http://www.youtube.com/watch?v=vpVY5Y94HJU&feature=player_embedded -
7:41:14
上は1903年当時のハルピン駅
下は現在のハルピン駅
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■ハルピン駅周辺にて
その後、次に少し駅に近づいた場所で、午前7時31分◎「ドイツの戦後処理と日本の戦後」を撮影。
連続して動画を四本写し、ちょうどハルピン駅前に来たので、若しや?9月19日の富錦からのハルピンの寝台列車の切符が買えるかも?と思いたち荷物を「寄存=手荷物預かり所」に預けて、メモ用紙に{ 9月19日 4132 富錦〜ハルピン 20:16 软臥 下铺 }と書いてのを持ち窓口に並び順番を待った。
ダメもとでそのメモを渡し、「一枚欲しい」というと、あっさりOK「下鋪(下段)は無いが上段はある」だった。ラッキー買えた。これで不安の一つだったことが早々に解消した。
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■ドイツの戦後処理と日本の戦後
シベリア抑留の代償を日本政府へ求める裁判の原告である元シベリア抑留者が、Web頁「老いたる蟷螂の言い分」で、ドイツの戦後処理を賛美しています。
http://kamakiriikeda.hp.infoseek.co.jp/19980619.html
そこにはドイツ賛美が次のように書かれていました。
5、見習うべきドイツの抑留者対策
私は抑留地でドイツの捕虜を知ったが、民族のプライドの高さ、簡単にはソ連に屈しない毅然たる日常には感心させられた。捕虜の資格や国際法も知らず、ひたすらソ連に引き回された当方に比べまことに立派な集団であった。偉いのは抑留中だけのことではなく、戦後処理の見事さは雲泥の差で、比較にもならない。
シベリアでの強制労働はもともと国の担うべき賠償を肩代りしてくれた愛国的苦役として彼らは英雄とされ、さまざまな優遇を受けている。彼らには国際法も労働証明書も裁判も不要で、国は「帰還捕虜に対する援助に関する法律」など一連の手厚い補償で労苦に酬いている。
アデナウアー首相をはじめ与野党国民が一丸となって占領弁務官やソ連と渡り合い、国の誇りと公正を保ちながら見事に戦後処理を終えているが、われわれが格段に見劣りするのは抑留中だけのことではなかったのである。
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↑以上のような文章がありました。「格段に見劣りがするのは抑留中だけのことではない」という文言に全てが含まれている。それは敗戦を期に今に続く日本人の無様さが顕著に現れたのが「シベリア民主運動」であり、「スターリンへの感謝状」だ。
こんな連中が戦後の日本で大手を振って生き抜き、敵はソ連ではなく、当時の日本軍の中枢及び幹部を敵として、自らを戦争の被害者とする卑怯者たちだ。厚顔無恥とはシベリアで民主運動を行い同胞である日本人抑留者を苦しめた民主運動の指導者たちだ。
ハイラル・シベリア戦友会の方々はシベリア抑留中も民主運動なるものに染まらず同胞同士の骨肉の争いとは無縁だったようだ。そういった関東軍抑留部隊も現にいる。
そしてドイツが戦後、帰還兵たちを優遇したのは、理の当然だ。その理由は、ドイツという国とドイツ人は戦争には敗れたが、アウシュビッツの責任はナチに押し付け、戦後のドイツもドイツ人も元兵士も戦争自体を何ら自虐することなどしていない。
敗戦後も自国の憲法を自ら制定し、軍隊を持った真の独立国への道を選択した。引き換え戦後の日本は、まんまと占領政策にのり、戦後、国民も帰還した元兵士も戦いを遂行した日本帝国や先人たち、そして満洲建国・大東亜戦争・帝国陸海軍、その全てを“悪”であるかのように声高に否定し、自分を被害者の立場に置いてきた。
もし、敗戦となっても堂々と戦ったことを誇りとし、先人たちの名誉を傷つけることなく、昭和26年のサンフランシスコ平和条約締結後、占領の頚木から脱した時に、占領憲法を即刻廃棄し、軍隊を持つ真の独立国への道を選択したならば、戦後の日本国も日本国民もドイツ同様、先の戦争で辛酸を舐めた元兵士の方々への十二分の配慮を行ったに違いない。
その上、東京裁判などと言う勝者による一方的な復讐裁判を肯定し、絞首刑にされた方々を未だに戦犯扱いしたがる日本人の醜さと情けなさは言語に絶する。そして、その延長にシベリア抑留の代償をソ連ではなく、何処までも日本政府に要求する情けなさには哀れとしか言いようがない。自ら先の戦争を自虐し否定し、挙句にソ連の暴挙の前に「スターリンに感謝状」を贈り、今になってまで日本政府に文句を言う。そんなつまらぬ日本人に同情する気持ちはない。
ドイツを褒め羨む前に、自らの無様な姿を省みろ。戦後の日本を腐らせた原因の一つが、シベリア民主運動に見る戦後日本人の卑怯極まりない姿だ。無論、シベリアでの民主運動には同情すべき点は多々ある。しかし復員後、今に至るまでの抑留者たちの心根と、この裁判に見られる日本国への恨みのような意識が、何処までも救われない日本人の資質の堕落を感じる。
ただ、こういったシベリアの運動に関東軍の将官や高級将校の参加は、上記のWeb頁によれば長谷川宇一大佐一人を除き、他にないというのが、せめてもの救いだ。
立派な日本人は戦場で亡くなった。或いは敗戦の責任と散華した戦友への想いから自決した。或いは戦後生き延びても大儀を掲げて戦った大東亜戦争の兵士であったことを誇りに思い、戦場で散っていった戦友の名誉を聊かも裏切ることなく、戦後の反戦反軍の風潮に媚びず、黙して語らず、または堂々と聖戦を語り、草地貞吾参謀のように生き抜いた。私が尊敬する真の日本人は本当に数少ない。
http://www.youtube.com/watch?v=tzq5uvUfet4&feature=player_embedded -
7:48:38
ハルピン駅の切符売り場
19日の富錦からの寝台車の切符が買えた
これでひとまず安心 -
8:07:44
このタクシーの運転手に騙された
10元(125円)だが、金額の多寡ではなく
オモロクナイ
ハルピン駅前〜松花江へは大概ワンメーターの8元
そして支払いは+1元で計9元、歩いても25分で行ける
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■松花江へ
気分も爽快、次なる撮影場所を求めて、やはりハルピンといえばここ「中央大街」の松花江沿いにタクシーで向かった。この時のタクシーの運転手に料金を騙された。確かにメーターを倒して走り出したが、最初8.00の表示が幾らも走らないうちに18.00になっていた。
今まで何度もこの間をタクシーで行き来していたので、何かキツネにつままれたような気がしたが確証なく下車時にメーターは19.00を示しており20元を支払った。
1年ぶりのハルピンで最初に乗ったタクシー。頭が混乱している内に文句も言えず易々と騙された。やはり帰路は8.00元で、ハルピンではいつもメーター表示+1元が正規の料金?で9元を払った。例え1元でも騙されるのは不愉快だ。でもこの時は、メーター表示を10元増やされたのが今もって分からない。皆さん気をつけて下さい。
8時17分頃の日曜日の松花江の斯大林公園(スターリン公園)にはもう人も多く来ていた。滔々と流れる川の水量もたっぷりで、その存在感を目一杯示していた。しばし河川敷に佇みスンガリー(松花江)の景色に満洲を感じていた。そしていつものように中央大街へ向かう。日曜日の朝で人の行き来も多かった。
このキタイスカヤの松浦洋行の前で◎「私が思う戦後の日本と日本人」と「関東軍作戦参謀(草地貞吾)の証言」その?を撮影。 -
8:17:50
松花江斯大林公園
日曜日の朝の風景
天気快晴流れ穏やか人生の至福を感じるひと時 -
8:26:54
キタイスカヤの石畳
みんなが踏みしめて歩いた道、そしてこれからも
悲喜こもごも、様々な人間の営みを
この石畳は踏まれながら見続ける
100年後は如何に?
http://www.youtube.com/watch?v=xvcVvHQj3ZA&feature=player_embedded -
「私が思う戦後の日本と日本人」
私は戦後日本と日本人が、軍隊を持たず「自分の国を自分で守る」ということを放棄し、それが、如何に愚かなことかも認識できないことが、今の日本が抱える諸問題の全ての根本的要因だと確信しています。
奇跡的にこの世に誕生した命ある生き物は、日々が戦いだと思います。何故なら、生まれた以上、次の瞬間にも死があるからです。そんな緊張感や命を失わないための日々の戦いこそ、意識してもしなくても生き物のエネルギーであると思います。
ようは戦うことは、命あるものにとって快感のはずです。無論、その戦いには隠れることも、裏切ることも、我慢することも、強者に擦り寄って身の保全を計る事も、すべては生きるための戦いの一部だと思います。
しかし真の戦いの快感は、大いなる大儀を持って・又信念に基づいて・或いは正義の戦いのほうが余程、気力充実し生きている喜びに通じると思います。戦後、戦いを全て「悪」としたことから日本と日本人は醜く無様な国になり、日本人になりました。私は今回満洲に来るにあたり「関東軍作戦参謀の証言」草地貞吾(著)を読みました。そこには草地参謀の戦後日本への思いが綴られています。 それを紹介します。
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「関東軍作戦参謀(草地貞吾)の証言」その?
135頁
人間や、国家の歴史は波瀾万丈である。戦争は、希望すべきものではないが、かといって戦争を恐れた民族や国家は亡びる。戦争を全面的に無条件に否定した国は、すでに国家生命のない国だ。一切の闘争を断念した個人は死骸である。あらゆる戦争を放棄した国家は亡国である。
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148頁
人間の言葉や行為というものは、今の瞬間に処する真理の具現である。すべてを結果からさかのぼってみるのでは、人間の言行は死んでしまう。私は、8月13日に生きたように、8月15日に生き、そしてまた十年、二十年後の今日にも生きている。それは、生の現実に対する真理の追求である。大東亜戦争を結果からだけ見て、愚劣だという人間ほど愚劣なものはありはしない。
無武装宣言とは、敗戦状態を永遠に持続させようとするポツダム宣言と同じものである。日本は自らポツダム宣言を永久的に受諾した状態で喜んでいる不思議な国である。 無防備宣言とは、剣道や柔道でいうなれば「参った」であり、碁や将棋で言えば「投げる」ことである。しかも、それが憲法で公示したということになると、永久の「参った」であり、「投了」であるから困ったものである。だからそこには剣道や柔道の、また碁や将棋の生命と言うものが全然ない
http://www.youtube.com/watch?v=eJg8FxvrTnQ&feature=player_embedded -
8:59:46
青空の下の聖ソフィスカヤ寺院:圣索非亚教堂
内部は建築芸術館として多くの建築写真が展示されている
満洲時代の建築物が紹介されており一見の価値あり
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■ソフィスカヤ寺院
そして今日はそこから兆麟街にあるソフィスカヤ寺院に歩いて向かう。
迷わずに辿り着いた。今まで三度ハルピンに来て最初のハルピン訪問時はこの寺院隣の曼哈頓商務酒店(Man ha dun shangwu jiudian)に宿泊した。ソフィスカヤ寺院は今では寺院としてではなく建築芸術館として開放されているのだが内部に入ったことがなかった。しかし昔の写真が多く展示されていることを最近になって知り、是非見てみたいと思い今日やって来た。門票¥20元
内部は写真が所狭しと周囲に展示されており興味深い物ばかりだった。それに写真撮影もOKで、ありがたい。1900年以前の写真もありこれぞ写真で見る満洲史だった。何で最初の時に入らなかったのか、今更悔やんでも仕方が無いが、中央寺院の写真も、旧ハルピン站の写真も、その他、東清鉄道の松花江に架ける鉄橋工事の写真もあり、石光真清がハルピンで暮らした時代の様子がまざまざと甦るようだった。
中で50分くらい写真を撮ったり、何度も写真を見たりとあっという間の時間を過ごしていた。石光真清の満洲時代のハルピンがこのソフィスカヤの内部展示に詰まっています。当時と今との違いを見比べたいなら是非入場を、旧ハルピン站と紅軍街、そして中央寺院を中心とした街並みの模型が素晴らしいです。
そして9時50分過ぎに、この寺院の前で◎「関東軍作戦参謀の証言」その?を撮影す。 -
9:02:18
なかなか荘厳な雰囲気がある
もっと以前に入っていれば
今に残る昔の建物が身近になっていたのに
残念なり
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「関東軍作戦参謀の証言」草地貞吾(著)
429頁より
終戦後「玉砕」という言葉が、馬鹿の権化のように宣伝されたことがあるが、この人生から玉砕的精神を除いて果たして何が残るであろうか。懸命も真剣も玉砕も同義語であるのに玉砕だけが禁句となった。若し玉砕敢闘の精神を無くしたならば戦わずして負けるか、ジリ貧で破れるかの何れかに決まっている。
それは退化であり萎縮である。個人はもとよりのこと、自己の属する組織、団体、社会、国家の生命を自ら否定するものである。何もすき好んで無茶無謀な玉砕をやる必要はないが、決死争奪の精神というものは、常住不断に把持するところがなければならぬ。
戦場では不思議なことに全部の人間が生命を大事にし過ぎると全部が死に、全部の人間が生命を捨ててかかると大部が死なないというような反対現象を生起することが少なくない。それは個人の勝負でも同じことで、屁っぴり腰の逃げ支度では大抵負け、勇猛果敢な捨身突撃が多く成功するようなものである。
生の論理の必然性からジリ貧を見越して大東亜戦争に奮起した日本国民が、武運に恵まれず敗退したからとて、性根まで玉砕してしまい終戦と共に完全なジリ貧気分になり終わったとしたならばこれ以上の不幸があるであろうか。
中略
私は帰国して日本の新憲法なるものの全文を読んだが、それは全く日本生命のジリ貧憲法である。よくもまあ、これほどの骨抜憲法が出来たものだ。それは当然で占領国が食べ易いように包丁を入れたものだから、この判り切った論理を棚上げして、まだイキのよい鯛ぐらいに錯覚したり、或いは反対にもうこれ位が当たり前だと諦めている。
当初から日本にいた人にはスッカリ慣れてしまって臭気は判るまいが、シベリアの飢渇(きかつ)から日本内地に辿り着いた私共には占領の臭気がふんぷんとしている。それでも今までは何とか従前の日本歴史の御蔭で持てていたが、漸(ようや)く占領憲法の毒素が出回り始めた。明白に死に通じるジリ貧はまだ命脈ある間に回転しなければならぬ。国民全部の気が向いた時に憲法改正しようとしたら、その時は既に国民全部が死んでいるだろう。
玉砕精神の昂揚とジリ貧気分の一掃とは、宇宙の生命原理であり、日本現下の最大要務である。
・・・と、このように書かれています。私もジリ貧日本国が、2010年:平成22年現在、最早「恥を知る」という日本人にとって「命より大切なはずの心」を失ってしまったのでは・・・と、暗澹たる気持ちです。その精神を取り戻すには占領下の憲法を即刻廃棄し、「自らの国は自らが守る」ことを当然としてこそ「恥を知る心」が日本人の中に甦ると思っています。
http://www.youtube.com/watch?v=moO83XYjQFI&feature=player_embedded -
9:42:10
紅博広場の中央寺院からハルピン駅方向を望む
今の紅軍街・・・か
石光真清もこの風景の中を歩いていたのだろう
http://www.youtube.com/watch?v=ECqiYWlXBk0&feature=player_embedded -
9:46:10
内部の状況はこんな風に
賑わってます
ここは見る価値十二分にありますよ! -
三棵树客运站へ向かう
10:38:54
ハルピン駅からハルピン東駅までの道中はタクシーが嫌がる
それは常時渋滞の区間らしい、逆方向は渋滞がないけど -
11:25:02
三棵树客运站
ここにははじめて来た -
11:25:14
三棵树客运站からハルピン東駅を写す
駅のすぐ横に三棵树客运站はある
駅前は工事中だった -
11:45:46
相変わらず長途バスの乗り場は賑わう
移動する人多し
各地へのバスがひっきりなしに出ている -
11:50:04
出発10分前からバスへの乗車が始まる
今回はどこでも座席指定が徹底しており
席取りに気兼ねなく楽だった
12時発:方正に向かう -
方正への道中にて
12:26:54
満洲をバスで走る
この辺りは左右一面玉蜀忝(とうもろこし)畑が広がっていた
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■バスで方正へ
最初の頃の車窓の風景は玉蜀忝(とうもろこし)畑が広がっていたが、方正に近づく頃にはすでに黄金色にたわわに実った水田が一面に広がっていた。
この方正は、1945年8月9日ソ連侵攻後に三江省の第134師団が爾後の戦略に基づき佳木斯より転進してきた所であり、この地で主力は8月25日に武装解除になった。方正には武器弾薬食糧を備蓄する兵站基地があり、師団の転進場所となり、ここに近傍の在留邦人も集まってきた。
そして方正に辿り着いた在留邦人の収容所生活は悲惨を極め多くの方がこの地で亡くなり、この方正には中国唯一の日本人公墓がある。
その方正では、戦後岩手県の米作り日本一になった藤原長作さんが昭和57年ごろから米作りの指導を行い、それが中国全土に普及しその後の中国農業に多大な貢献をしている。私もこの旅の前に「米に生きた男:日中水稲王:藤原長作」及川和男(著)を購入し読んだ。
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藤原長作「日中友好水稲王」
水稲王 藤原長作さんと中国方正県
http://uketugukaiiwate.jimdo.com/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4/%E6%B0%B4%E7%A8%B2%E7%8E%8B-%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E4%BD%9C%E3%81%95%E3%82%93-%E5%B2%A9%E6%89%8B/
「米に生きた男:日中水稲王:藤原長作」及川和男(著)の要約
藤原長作「日中友好水稲王」
岩手県の貧農小作の二男として生まれた長作は、村でも群を抜く働き者で、若い頃から頑健な体と精神で、炭焼きで金を貯め田畑も手に入れた。二男でありながら家族の支えとなってもいた。そして自らも好きな人と所帯を持ち娘にも恵まれたが、その妻に先立たれる。その後再婚し、炭焼き・米作りだけではなく養豚をし、その販売店を持つなど事業家としても成功した。
日本で米作り日本一になった藤原さんだが、日本ではやがて米が余りだし、減反政策を強いられるようになった。そんな農業政策に失望して米作りの意欲を失った。そして再婚した妻にも先立たれる不幸に見舞われる。長男も米作りや養豚から見切りをつけ、造園業へと進んでしまう。
そんな藤原さんが1981年:昭和57年、68歳の高齢でありながら自分の米作りの知識を中国で役立てたいと思い、方正で指導を始めた。途中、最愛の長男を亡くす不幸にもめげず、1989年:平成元年、77歳まで毎年のように中国を訪れ、方正・黒龍江省・だけではなく中国全土に渡って優れた藤原式稲作を広め、多大な増産に貢献した。1990年には中国の国慶節に招かれています。
1998 年 8 月 藤原長作氏逝去(満 85 歳)
200年 7 月故人となられた藤原・有馬両氏の遺志に沿って日本人公墓に分骨のため、関係者 10 人によって訪 中団を編成。
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14:16:08
ハルピンを出て2時間
周辺は水田一色、黄金色の稲が実っていた
もう刈り入れも真近なのだろう -
方正
14:21:52
方正市内に入りバスは停まる
終点は方正の客運站のようだが・・・。
ホテルを運転手に聞くと
「ここで降りて真っ直ぐ歩け」と教えてくれた
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■方正賓館に到着す
予定では2時間くらいと聞いていたが、午後2時20分頃に方正市内でバスは停車した。また、前々回の阿城でのことが頭によぎり、運転手に「方正賓館に行きたいが?」と言うと運転手は「ここで降りて真っ直ぐこの道を行け」と教えてくれたので降車した。最後は方正客運站が終点なのだろうけど、阿城の時は市内を通り過ぎ次の街まで行ってしまったから。
後で知ったことだがバスは市内に入って方正西客運站付近に停まったようである。そしてその道、中央大街を私はリュックを担ぎ初めての方正を東方向に向かって歩いた。日本でネット映像で見た風景がそのまま自分の目に入って来た。その一番が三輪タクシーである。そして日曜日だから道路沿いの商店でイベントを開いていたり、メーンストリートのこの道は賑やかだった。
バスから降りて左右の風景を見ながらゆっくり歩いて15分くらいで、写真で見ていた「方正賓館」を交差点角に見つけた。ここには日本から何度か電話している。予約も日本で中国語老師に電話で予約をしてもらい、後で自分で再度電話し宿泊日の変更もしてもらった。そして電話での応対も親切だったホテルである。ホテルの玄関をリュックを担いで一歩は入った時からフロントの小姐は私のことを分かってくれているように感じた。
そして「我已经订好了:ウオイージンディンハオラ:私はもう予約済みです」というと、すぐに分かってくれた。名前も、そしてパスポートを見せ料金も日本で聞いた通り一泊百元(¥1250円)で、ここは何故か押金も不要だった。二日間お宿泊費用¥200元を支払った。この方正には、良いホテルはなくこの方正賓館が方正での代表的なホテルのようだ。でも詳しくは知らない。部屋は3階の309号室、エレベーターはなく階段を上がる。
そして部屋の鍵は、フロアーに待機する服務員が開け閉めしてくれる。その点面倒臭いが、何といっても仕方がない。政府系のホテルとか聞いたが、若者の雇用の場であるのか?沢山の若い男女が服務員として働いていた。そして、さっきフロントで対応してくれた小姐は、間違いなく電話で話した時の彼女だと思う。やはり親切丁寧で、ここから佳木斯に行くバスの便や、站の場所、そして両替が中国工商銀行で出来ることや場所も丁寧に教えてくれた。
こんな女性がリーダー的立場でフロントに一人居てくれるだけで、このホテルの雰囲気は随分違うし、何より旅行者にとってこんな嬉しいことはない。退房まで終始彼女は親切だった。この彼女が老師との電話で富錦から方正に来るのは不便で、ハルピンから来る方が良いと教えてくれたので私も順路を変えることにし、方正を先に訪れることにした。 -
14:25:16
日本にいる時にWeb頁などで見た風景のままだった
日曜日だから?結構賑やかだ
我、方正に来る -
14:27:54
日曜日のイベント
恒例の風船アーチか
盛り上がっているけど・・・。 -
14:30:564
方正にはこの手の三輪タクシーが多かった
市内を4元くらいで走る -
14:35:58
方正賓館
ここのフロントの小姐は優しかった
日本から電話した時も、こっちで会ってからも
給料倍渡しても損はない -
14:45:34
一日百元(¥1250円)安いけど部屋は広い
湯は出なかった。冬はこれじゃあだめだろうけど
まあ私には十分だった。 -
14:59:54
3階の309号室
エレベーターはない。
鍵も開け閉め頼まないといけないけど
それも旅 -
15:00:00
確か一番奥か、それとも二番目の部屋だった
他に客もいた
若い男女の服務員が結構働いている
2階はレストランになっていた。
朝食も2階で食べる -
15:04:02
三輪タクシーで客運站へ
子供の頃日本には、三輪のダイハツ・ミゼットがあったけど
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■方正の散策
部屋を出て、早速客運站に三輪タクシーで向かった。明後日の佳木斯行きのバスの時刻を知ることとと、もし購入できたら切符を買っておこうと思い。客运站(長距離バス乗り場)は、街外れの北方向の新市街のような場所にあった。歩いても行けない距離ではないとは思うが、方正賓館から歩いて30分は掛かると思う。
そして切符売り場の窓口に行き、切符は前日しか買えないことが分かったが、方正→佳木斯行きのバスの便は一時間に一本のペースであった。ホテルの小姐から一日一便しかないと聞いて、早く買っておきたいと思っていたが、窓口で便数の多いことを知って一安心。
その後、又一旦ホテルに戻ってきたら、ちょうどホテル前にタクシーが停まっており、見た目人の良さそうな運転手だった。この日は方正市内の散策だけの予定で、明日包車して行こうと思っていたので、この運転手と交渉した。
まず最初に①客運站に佳木斯行きの切符を買いに行き、②通河、③伊漢通、④日本人公墓に行きたい。
それぞれの場所で一時間くらいゆっくり観光して、四ヶ所、計6時間くらい、昼食は私のおごりで一緒に食べる。「これで包車(Bao che:バオチャー:貸切)費用幾ら?」と聞いた。
「200元」というので交渉成立。明日の朝、9時このホテル前を出発の約束となった。この運転手は伊漢通の男性だった。200元というのは、今までの経験上、こんな物で、高くなく安くもなくと思う。明日の予定も決まり、今度は市内散策、いつも足が棒になる。
そして夕方に「天外天包子」という店に入って夕食。メニューを見ても分からないので「随便:スイビエン」。何でも良いから旨い物をと小姐に頼んだ。頼まれた方はこんな難儀な注文はないだろう。小姐は困っていたが、厨房の“おっさん”が適当におかずを皿に盛ってくれた。そして包子は豚肉の饅頭が、後から出て来た。私は最初に皿に盛られたおかずを食い終わり、すでに腹が一杯になっていた。
確か饅頭を頼んだはずだけど来ないので、“これだけかも”と思って立ち上がったら、「まだ有るから帰ってはダメだ」と言われて、みんなが私の方を見た。そして振り返れば、オープンになっている調理場で私の饅頭が蒸かし終えて出来上がろうとしていた。やっぱし「豚饅があったんや」と坐り直した。
私のテーブルに運ばれた蒸し饅頭は案の定デカクて数も8個。もうすでにお腹は一杯、食える訳がない。それでも無理して二個食べて、後は持ち帰りにしてもらった。持ち帰りは「バオダイ」と言っていたような気がする。
私には日本の豚饅の方が余程旨い。途中、申し訳ないし、もったいないけどゴミ箱に捨てた。持ち帰っても食う気がしない味だし、腹が減るまで置いておいて食べる気もせず。その後、市場で果物を仕入れてホテルの部屋に戻った。時間は午後5時過ぎ、その後は明日に備えて部屋で休んだ。 -
15:13:28
三輪タクシーで10分ほどで到着
ちょっと新市街のような場所に客運站があった
佳木斯行きは一時間に一本くらいあった
前日から切符は購入可能 -
15:34:44
トウモロコシを買って食う
一本一元(13円)
蒸したのもあるけど、ここでは焼きトウモロコシが多かった
時々買って食った
http://www.youtube.com/watch?v=U9Tkm0HDA4Y&feature=player_embedded -
15:56:22
下水なのか配管工事
これが今の方正市内の光景 -
16:12:56
この店で方正最初の飯を食う
豚饅頭とあとは随便(スイビエン:適当に何でも)と言って頼んだ -
16:16:48
適当に選んでくれたおかずだけで満腹になった
写真で見るより俄然量は多いけど、何で量はリアルに写らないのか?
それにデカイ豚饅8個はとても食えない。 -
16:33:58
豚饅八個、2個食った
それ以上は腹一杯で食えない
一応ナイロン袋に残りを入れてくれた -
17:01:36
街をぶらぶらしながら市場に行った
今回、私もベジタリアンになっての旅だったが
満洲に来て、とりあえず果物は良く食べた
そして満洲には果物屋が多いのと
果物は豊富だということに気付いた -
17:12:48
果物は腹が減っている飯の前に食べる
消化がいいから先に食べないと胃に滞留してしまう
満洲に来てからも果物は飯の前に食っていた
食えるものを食いながらの旅だったが、旨いものは見つけれなかった
もう何度も中国旅行をしているのに、食い物のことも何とかしないと
旨い物もあるはずだから
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