2010/09/11 - 2010/09/21
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明石DSさん
2010年9月18日、14:26:32.撮影
富錦から東南東約11キロにある五頂山
日本軍の要塞陣地が築城されていた
はじめに
これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。
思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。
公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。
目 次
(0) 旅たち前:佳木斯・同江・富錦の戦跡を訪ねて
(1) 9月11日(土)関空〜哈爾濱へ到着
(2) 9月12日(日)哈爾濱〜方正へ
(3) 9月13日(月)方正での一日
(4) 9月14日(火)方正〜佳木斯へ
(5) 9月15日(水)佳木斯での一日
(6) 9月16日(木)佳木斯〜同江へ
(7) 9月17日(金)同江での一日
(8) 9月18日(土)同江〜富錦へ
(9) 9月19日(日)富錦〜哈爾濱へ:夜行列車
(10) 9月20日(月)哈爾濱での一日
(11) 9月21日(火)哈爾濱〜関空:帰国
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2010年9月18日、13:13:18.撮影
富錦市内から車で30分くらいで行ける。東南東11キロくらいのところに位置する
1945年8月9日以降、ソ連の侵攻を受けて富錦の関東軍は奮戦敢闘した
2010年の今年から65年前のことだ。この山に陣地を築城していたので
各所から転進してきた部隊の集合場所にもなった
その後、転進命令によりソ連軍の包囲をを突破して
各隊は方正方面に向かった。この山の山頂に今も当時の痕跡がある
日本軍兵士かく戦えり。我ら子孫が誇りとするところである。
英霊の皆様方に心より感謝し、哀悼の意を表します。
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満洲への旅で思うこと
日本が大東亜戦争に敗北を期するまで地球世界は、白人列強を中心に覇権主義全盛の時代を歩んでいた。まさに当時の世界は強い国がどこまでも勢力を拡張し、植民地からの収奪を当然としながら覇権を競いあっていた。覇権国家すなわち文明国が弱小国家を非文明国と定め、それらの弱小国を植民地化し、非文明国を発展させてゆくという、強者の論理が当然の如くまかり通っていた時代だった。
当時の地球の人口の内訳は白人種4割:有色人種六割、そんな世界で日本は有色人種唯一の覇権国家として白人列強と並び存在していた。そんな中、日本は白人列強の植民地化とまるで異なる“併合”という形で台湾・朝鮮・サイパン・パラオなどを統治した。それこそ非文明国を文明国にと発展させる日本独特の統治であった。
今にして思えば行き過ぎた同化政策はあっただろうが、当時の白人列強やその傘下の植民地国は、日本の台湾・朝鮮統治をどのように思っていたのか想像が出来る。併合した国に自国民から徴収した多額の税金を投入し、ありとあらゆる社会資本整備を進め、短期間に見違える国にした。その事実は誰にも否定できる物ではないはずだ。
そして満洲。
ロシアの進出を日本は日露戦争で食い止め、その後も満洲の大地を巡って群雄割拠の時代が続いていた。そんな満洲に資源なき日本は新天地を求め、「五族協和」「王道楽土」の大儀を掲げ満州国を建国した。
白人列強が世界を制するのを食い止めるには日本が強国にならざるを得ず、何をおいても日本の独立自尊・皇室を戴く国体護持が最優先されたことは、今思い返しても先人たちの英断と行動を賞賛する。ただ一点支那事変の拡大だけは疑問に思うが、悔やんでもせん無きこともあるのが歴史の常だ。
そして昭和16年12月8日:白人列強相手に火蓋を切った。これは「黄禍論」に示されるように人種差別という人類の宿命が招いた戦いであり、戦争に至った経緯に関しては、覇権を争う時代での歴史の必然と私はそう確信している。
そして戦いに結果は付き物である。しかし、世に敗戦と言う結果はあれど、私の戦争の定義は、共に大儀を持っての戦いならば「戦争に敗者はない。」私の敗者の定義は「戦うべき時に戦わない者、戦えない者」が真の敗者だ。
その気になれば今の日本の力で現実に十分可能な「拉致被害者奪還」「竹島の奪還」「尖閣諸島の実効支配を強化すること」・・・それが出来ない戦後の今の日本と日本人こそ恥ずべき「真の敗者」だと、私は、そう思っている。
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■ソ連との密約問題
関東軍とソ連軍との間に交わされた関東軍兵士の労働使役に関する密約、世に言う「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」は、1993年:平成5年7月、ロシア国防省公文書館により公開されたものだ。
この報告書を探し出し、世間に関東軍憎むべしを画策したのが、シベリア抑留の補償を日本政府に求める裁判を起こした故・斎藤六郎:全国抑留者補償協議会会長と共同通信社である。その真実は、斉藤が裁判を有利にするために、この資料を関東軍をこき下ろすための材料として、その文言を悪意を持って解釈している。それは草地貞吾参謀が、武装解除後に、関東軍兵士や在留邦人を救うために元帥へ陳情した文章だ。
その文章を読めば日本人なら誰しも分かることであり、それを関東軍参謀を密約の悪者に作りあげんがために作為的に吹聴した。そして抑留されたことを、あろうことか暴虐非道なるソ連への怒りではなく、敗戦ゆえの武装解除に陥り、何の効果的な対策を取り得ない関東軍にこれでもかと責任を押し付け、日本政府に保障を求める。
「シベリア抑留1450日」の著者:山下静夫氏によれば
《日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。》
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↑こういった記述があります。 そしてこれがスターリン共産党の実態であり真実だ。戦争で亡くなった人の総数よりも、戦争とは無関係に戦後、ソ連・中国の共産党独裁政権下で粛清や飢餓で死んだ人間の方が圧倒的に多いのは周知の事実だ。そんなスターリンに感謝状を贈ったのは、紛れもなく関東軍を罵り日本政府を糾弾する日本人の抑留者だけだ。
これらの顛末を産経新聞記者がブログに記している。これを読めば所謂「密約」なる物の真相が良く分かる。
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■ドイツの戦後処理と日本の戦後
シベリア抑留の代償を日本政府へ求める裁判の原告である元シベリア抑留者が、Web頁「老いたる蟷螂の言い分」で、ドイツの戦後処理を賛美しています。
そこにはドイツ賛美が次のように書かれていました。
5、見習うべきドイツの抑留者対策
私は抑留地でドイツの捕虜を知ったが、民族のプライドの高さ、簡単にはソ連に屈しない毅然たる日常には感心させられた。捕虜の資格や国際法も知らず、ひたすらソ連に引き回された当方に比べまことに立派な集団であった。偉いのは抑留中だけのことではなく、戦後処理の見事さは雲泥の差で、比較にもならない。
シベリアでの強制労働はもともと国の担うべき賠償を肩代りしてくれた愛国的苦役として彼らは英雄とされ、さまざまな優遇を受けている。彼らには国際法も労働証明書も裁判も不要で、国は「帰還捕虜に対する援助に関する法律」など一連の手厚い補償で労苦に酬いている。
アデナウアー首相をはじめ与野党国民が一丸となって占領弁務官やソ連と渡り合い、国の誇りと公正を保ちながら見事に戦後処理を終えているが、われわれが格段に見劣りするのは抑留中だけのことではなかったのである。
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↑以上のような文章がありました。「格段に見劣りがするのは抑留中だけのことではない」という文言に全てが含まれている。それは敗戦を期に今に続く日本人の無様さが顕著に現れたのが「シベリア民主運動」であり、「スターリンへの感謝状」だ。
こんな連中が戦後の日本で大手を振って生き抜き、敵はソ連ではなく、当時の日本軍の中枢及び幹部を敵として、自らを戦争の被害者とする卑怯者たちだ。厚顔無恥とはシベリアで民主運動を行い同胞である日本人抑留者を苦しめた民主運動の指導者たちだ。
ハイラル・シベリア戦友会の方々はシベリア抑留中も民主運動なるものに染まらず同胞同士の骨肉の争いとは無縁だったようだ。そういった関東軍抑留部隊も現にいる。
そしてドイツが戦後、帰還兵たちを優遇したのは、理の当然だ。その理由は、ドイツという国とドイツ人は戦争には敗れたが、アウシュビッツの責任はナチに押し付け、戦後のドイツもドイツ人も元兵士も戦争自体を何ら自虐することなどしていない。
敗戦後も自国の憲法を自ら制定し、軍隊を持った真の独立国への道を選択した。引き換え戦後の日本は、まんまと占領政策にのり、戦後、国民も帰還した元兵士も戦いを遂行した日本帝国や先人たち、そして満洲建国・大東亜戦争・帝国陸海軍、その全てを“悪”であるかのように声高に否定し、自分を被害者の立場に置いてきた。
もし、敗戦となっても堂々と戦ったことを誇りとし、先人たちの名誉を傷つけることなく、昭和26年のサンフランシスコ平和条約締結後、占領の頚木から脱した時に、占領憲法を即刻廃棄し、軍隊を持つ真の独立国への道を選択したならば、戦後の日本国も日本国民もドイツ同様、先の戦争で辛酸を舐めた元兵士の方々への十二分の配慮を行ったに違いない。
その上、東京裁判などと言う勝者による一方的な復讐裁判を肯定し、絞首刑にされた方々を未だに戦犯扱いしたがる日本人の醜さと情けなさは言語に絶する。そして、その延長にシベリア抑留の代償をソ連ではなく、何処までも日本政府に要求する情けなさには哀れとしか言いようがない。自ら先の戦争を自虐し否定し、挙句にソ連の暴挙の前に「スターリンに感謝状」を贈り、今になってまで日本政府に文句を言う。そんなつまらぬ日本人に同情する気持ちはない。
ドイツを褒め羨む前に、自らの無様な姿を省みろ。戦後の日本を腐らせた原因の一つが、シベリア民主運動に見る戦後日本人の卑怯極まりない姿だ。無論、シベリアでの民主運動には同情すべき点は多々ある。しかし復員後、今に至るまでの抑留者たちの心根と、この裁判に見られる日本国への恨みのような意識が、何処までも救われない日本人の資質の堕落を感じる。
ただ、こういったシベリアの運動に関東軍の将官や高級将校の参加は、上記のWeb頁によれば長谷川宇一大佐一人を除き、他にないというのが、せめてもの救いだ。
立派な日本人は戦場で亡くなった。或いは敗戦の責任と散華した戦友への想いから自決した。或いは戦後生き延びても大儀を掲げて戦った大東亜戦争の兵士であったことを誇りに思い、戦場で散っていった戦友の名誉を聊かも裏切ることなく、戦後の反戦反軍の風潮に媚びず、黙して語らず、または堂々と聖戦を語り、草地貞吾参謀のように生き抜いた。私が尊敬する真の日本人は本当に数少ない。
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■我、反日日本人を嫌悪する
毎回同じことを繰り返し書くが、私は満洲からの引揚者やシベリア抑留者が語る、反戦反軍・反日本帝国を根底とした能書きは聞くに堪えない。まして中国や中国人を美化し、謝罪の行脚を繰り返す日本人には嫌悪と哀れみしか感じない。
未だに誘拐や人身売買が横行し、チベット・新疆ウィグル・内蒙古を軍事力で抑圧し、漢族入植による侵略をしているのが中国であり中国人だ。伝統文化は今も昔も変わらない。だからこそ伝統であり、文化となる。
関東軍の満洲建国統治の失敗の一つは、建国後、いち早く国境を画定し人の移動を厳重に管理すべきだった。満洲国の安定と発展が、漢族の止め処もない流入を加速し、漢族の為の満洲にしてしまった。それが敗戦後の日本人への虐待になり、満洲を戦後中共政府の支配下に置いてしまった要因でもある。圧倒的多数の異民族の中で、今までの統治者、権力側が敗者になれば、一挙に態勢は翻り殺戮されるも已む無しが中国、いや大陸の歴史でもある。
不毛とも言われていた大地に工業化を図り、鉄道沿線の都市を急速発展させた。新京は当時から市街地は下水が完備された素晴らしい都市だった。お人よしな日本人の満洲建国であり、統治行政である。今に思えば漢族のために日本本土から莫大な投資を行い、当時の世界が驚く国を作り、戦後、独裁者:毛沢東に感謝される始末に及んだ。
その日本人自身が、戦後、一転して満洲建国を呪い、先人を罵倒する。そして戦争放棄などと言う非現実的な憲法を護持し、敵国米国の庇護の下に八方美人の如く、或いは太鼓もちの如く、平身低頭しながら小銭を稼ぎ国家の誇りと名誉には関心もない。そりゃあ自分の国を自分で守る気概も憲法も軍隊も持たず、強者に従属する人間に誇りは不要であり名誉はあり得ない・・・が。
必ずやそんな国と国民には、いずれ罰が当たると信じる。因果応報とは自分だけではなく子々孫々になって罰が当たる。でないと日本の独立を守るために散っていった英霊や戦後に不当に嘲笑された真の日本人及びその家族末裔が浮かばれない。何度でも同じことを書く、それだけ私は反日日本人への嫌悪の思いが強いからだ。 -
2010年9月18日、14:51:02
五頂山より富錦市を遠望する
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2009.平成22年6月3日(金)
■同江に行く
今年は五月に二男の結婚式があったので、目標の年二回の海外戦跡巡りは2月早々にサイパン・テニアンへ行ってきた。
そして秋にはやはり満洲に行きたくなった。最近、ノモンハン・東寧・虎頭・黒河・孫呉などの日本軍陣地跡・要塞跡を訪ねる旅をして来た。主に「遙かなる黒龍江」小林静雄(著)を参考にして・・・。
そして今年の秋に同江に行くことに決めた。戦跡もそうだが私から見れば「辺境の地」「満ソ国境」に目が向いてしまう。同江は黒龍江と牡丹江が合流し対岸はロシアの街、レニンスコエ。
私の満洲の旅は国境巡りの旅とも言える。そしてこの地域でのソ連軍との交戦は、まだこれから調べるところだが大規模な戦いは今のところ知らない。そしてまだこの地域のことをほとんど把握できていない。
何が何処にあったのか?どんな順番で行くのが効率的で、より多くの戦跡を訪ねることが出来るのか?いつものように欲張り過ぎる自分にため息が出る。佳木斯と富錦と同江だけで良いではないか。もし行く時間があれば、それに加えて鳳翔・鶴崗に行けたらなんて次々に増えて行く。
とりあえずその地域での戦いの様子を調べたい。それから行く場所を絞っていこう。
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2009.平成22年7月2日(金)
■資料用の本
「関東軍参謀」小松茂朗(著)「関東軍作戦参謀の証言」:草地貞吾(著)
「満洲昨日今日」
「ソ連軍侵攻と日本軍」:中山隆志(著)
「二つの祖国」北澤博史(著)
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2009.平成22年7月11日(金)
■そうか、それだ・・・。
「満洲昨日今日」という本を読み、日本国政府及び関東軍の満洲経営の誤算に気付いた。日本人のお人しよしさと言えるだろう。日本人は元より他国を併合したり、満洲を建国しても結果は、日本の大損ばかりであることが良く分かる。私は、満洲の場合は、その最大の原因は以下に記すことだと思う。
日本が満洲帝国を築くまで満洲の地を支配していた王朝は、「高句麗・渤海・遼・金・元・清」のように次々と変遷し権力者の民族も多様だ。この地域は歴史的にみても安定した国があったといえないような動乱地帯だ。
ロシアが進出し、日露戦争後日本が進出する前の満洲の地は、所有者のいない「無主の地」「蛮民」「野民」が駆け回っている、一時期のアメリカ西部の広野と同じようにイメージされていた。そんな地であった満洲を日本が満州国を建国し本格的に統治を始めてから、そこには初めて安定した国家といえる満州国が出来たのだ。
その為に彼の地で何が起こったのか・・・。
人口の増大だ。それは日本人の開拓民が満洲に入植した人数よりも圧倒的に多数の漢族の移入が起こった。
資料には
満州の人口
明治時代初期 : 100万人から500万人
日露戦争後日本が本格的に投資を開始した頃 : 2000万人
(南満州鉄道を設立し、沿線の治安が確立し、多くの中国人が流入開始)
満州事変の頃 : 3000万人
1945年頃 :4000万人
このうち、在留邦人の数が150万人くらいと言われている。日露戦争後に日本が満洲に係わりだしてから、満洲建国をして人口は急増しているがその大部分は漢族の満洲への流入だった。
「五族(日本・漢・満州・蒙古・朝鮮)協和」の旗印の下、日本が莫大な投資をし関東軍が満洲の安全保障を担って急速に発展したが、満洲国はそれがために漢族の地となってしまった。全体としては、ますます漢化が進むことになった。
4000万人の内の日本人は150万にしか過ぎない満洲帝国だったということを改めて思い知った。関東軍70万人を足しても220万、全人口のたった5%にしか過ぎない。確かに満洲に夢を追い、莫大な投資とともに資源を満洲に頼ったことは事実だろうが、結局その投資のほとんどを回収できぬまま満洲に移住した漢族、略奪したソ連邦、そして終戦後に誕生した中国共産党に、日本の莫大な資金と技術によってインフラを整備し大工業地帯とした満洲を、ただで提供したということになった。
結果を見ればホンマお笑いのような話だが、これが日本人なのだろう。今も巨大な人口を持つ漢族の戦略は一貫して軍事力を背景にしての人口侵略である。すでに内蒙古・チベット・新疆ウィグルが侵略され、世界がその脅威に晒されている。そして日本はあまりにも能天気に、とうとうわが日本の国内にまで漢族をとめどもなく流入させている。ホンマ考えるのも嫌だ。
敗戦後の在留邦人の悲惨な逃避行も、この人口分布の状況ではやむ得ぬ帰結なのだと分かる。日本の統治によって満洲を漢族国家に仕立てたようなものだ。満洲に漢族を入れすぎたのが最大の失敗だと確信する。人口の5%しか占めない統治者である日本人が敗れれば、人口で圧倒的多数を占めたものが優位になるのは理の当然だろう。 -
2010年9月17日、11:13:26 撮影
同江にも8月10日にソ連軍が侵入してきたが
転進命令により、同江の在留邦人及び部隊は
ソ連軍同江侵攻前の8月9日午後4時後退し
8月11日に富錦、五頂山に無事に辿り着いている
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2010.平成22年7月13日(火)
■「関東軍作戦参謀の証言」:草地貞吾(著)
65頁
『大東亜戦争を愚にもつかぬ戦争などと、得々として放言している人間を見ることがあるが、その人間が、果たして大東亜戦争遂行中に、そういう言辞を弄したであろうか。大東亜戦争は、当時も今も聖戦である。
日本が犠牲になって、大東亜十億の民衆を解放した善戦である。大東亜の真の歴史は、日本が犠牲になった大東亜戦争から発端しているともいえる。この自覚を忘れ、日本を否定し大東亜戦争を否定する人間は、永久に白人の奴隷となろう』
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私もこの言葉に全く同感だ。今、私は大東亜戦争を心底賛美している。西村真悟氏も書いていたが、「戦争を賛美して何が悪い」である。大儀を掲げ軍民一丸となって命懸けで臨んだ戦争を子孫が賛美せずして何を賛美する。
「賛美する」を迷いなく言えるようになるまで、私は、大東亜戦争や特攻隊について「修飾せず自虐せず事実を淡々と列挙すれば良い」・・・とか言っていたが、今は堂々と賛美する。もちろん誇張するつもりはないが。
ただ私の気持ちを素直に言えば「われ大東亜戦争を賛美する」であり「神風特別攻撃隊を賛美する」だ。それはノーベル賞受賞や金メダル、その他、経済大国とうとう、どんな日本の歴史的快挙も戦争賛美の足元にも及ばない。誰にも同意など求めないから、一切の文句は無用だ。お前はお前、俺は俺だから。
■満洲建国を省みて
満洲は時の日本が莫大な投資をして急速な発展を遂げた。確かに白人列強の覇権国家が世界を植民地化しようとする時代に、アジアの有色人種国家であり、資源小国の日本が独立を保ち白人列強国に飲み込まれないためには、満洲建国は当然と言える選択だったのだろう。
しかし、日本の満洲統治はイギリスとインド、或いはオランダとインドネシア、フランスとインドシナとの関係とは全く違い、差別は当然のようにあるにしろ、白人列強の侵略や植民地などの過酷な搾取ありきではなく、台湾・朝鮮半島と似たり寄ったりの共存共栄の統治を何の疑問もなく行っていた。
だからこそ満洲全土に渡ってインフラ整備を行い、鉄道は整備され都市という都市は急速に発展した。それと同時並行して治安も安定した。そこで水が高きから低きに流れるが如く、その高低差があればあるほど流れは急速になり、怒涛のような漢民族流入を招いた。
私はそれがどうも間違いのような気がする。もちろん、急速な発展に労働者は無尽蔵に必要なのだろうが・・・。関東軍によって満州国という国を建国したのであるなら、やはり、最低限、支那との国境を軍事力を持ってしても一方的にでも定め出入国をコントロールすべきだった。
せっかく漢族が少なかった満洲に、雪崩のように漢族が無尽蔵に増殖すれば将来は火を見るより明らかだ。その後の内モンゴル・新疆ウィグル・そして今のチベットの惨状が満洲を彷彿させる。ホンマ日本は漢民族支配の現中国共産党のために満洲を作り、大損をした。そして、又、その教訓を生かすことなく日本国内に漢族を増やそうとしている。
人口侵略ほど恐い物はない。それでなくても東南アジアは全人口に比較しても少ない人数の華僑・漢族に国籍を与え挙句に国を則られているのと同じ状態になっている。華僑・漢族は国籍など無関係に、彼らにあるのは同族意識と中華思想だけだ。国籍の国への愛国心も運命を共にする覚悟など更々なく、一族の損得だけだ。
こんな連中と狭い島国日本で日本人は共生をしようと言うのか・・・。今はまだしも将来を考えれば誰しも分かるはずだ。
そんな危険を冒して、なぜ?日本は欧米に倣うかのように外国人の流入を許すのか?
それは「軍隊なく」=「道義なく」、「自ら手にした憲法なく」=「固有の伝統文化なく」、今の日本にあるのは一事が万事、性根を失った目先の損得であり経済的価値での判断だけだ。
軍隊もなく、借り物憲法を後生大事にしている間は、日本の再生はあり得ない。再生のためには、多数の日本人が今のままではダメだと気付くことからスタートする。ならば「お金より大事なもの」を失くすことの恐さに気付くには、いったいどれほどの恐怖が必要なのか?
物理的に他国から攻撃を受けるか、国内で大規模なテロが起きるか?身近に国民が命の危険を感じなければ、「お金より大事なこと」があるのは気付かない。若しくは、大思想家・大政治家が出現して、国民の心を引き付け感動させなければ「お金より大事なこと」があるのは気付かない。
それまでは当然のごとく、経済価値を優先する政策が優先され、日本はグローバルの名の下に外国人が増殖し共生国家への道を歩む。私には悪夢だが・・・。それが必然だ。
そんな時代をどう割り切って生きて行けば良いのか、私が暮らす周辺にも明石重工があることもあって、ここに住み始めた30年前に比較して在日外国人が本当に増えた。南米系、そして中国人、中国人は一人で歩いていれば分かり難いが数人でいるとすぐ分かる。
もはや日本人だけの日本という訳にはいかないのだろうか?みんなが働き生活を支える会社が、国籍をなくし国境をなくせば、そこで働く従業員も自分の意思とは関係なく、選択の余地はない。だが外国人の増えるのは生理的・感情的に嫌であり、それは「本能は全て善」との私の思いからもダメなことは明確であり、そこに理由をつけて我慢や妥協などすればきっと将来禍根を残す結果になるのは明々白々だ。
じゃあどうすれば・・・。
今思う策は、未来に続く日本の国のあるべき形を、はっきりさせた法律を作り定めることだ。受け入れ人数の外国人枠を作る。区別(差)をはっきりと設ける。犯罪者は即刻強制送還とする。帰化条件を厳しくする。良き外国人をいれ悪しき外国人を早々に送還する。などなど。多民族共生で混乱する諸外国がそんな日本を“ねたみ”如何に反発しても毅然と。
未来へ通じての、しっかりとしたけじめを付け、その法律を遵守すれば、互いを尊重しあうことになる。そこに甘えや妥協が入ってはならない。冷徹な一線を画していれば、それは、来る者も覚悟に繋がり入国後の不満の発生も少ない。外国人との共生の核心は、日本人が納得できる区別の頑なな遵守だ。それに関して議論の余地なく理の当然だ。
それは日本人の日本国だからだ。それ以上でも以下でもない。
甘い妥協や中途半端は双方に不満を生じさ、互いを不幸にする。 -
浅原たちが発行していた日本新聞
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2010.平成22年7月14日(水)
■シベリア抑留者の「スターリンへの感謝文」に思う
ご先祖に子孫に、いや世界に日本人の恥を晒したのが、このシベリア抑留者の民主運動家たちが為した「スターリンへの感謝文」だ。その民主運動の主メンバーは、自らが冥土に行った後も未来永劫、日本の歴史に汚点を残し、自らの名を残し、子孫はその重荷を背負わされる。
地位も名誉も立場もない私のような庶民の一人であっても、それ以外の責任ある立場にいる人間も、皆等しくどんな些細な言動も「歴史に評価され得る」言動を心がけねばならない。自分の人生は自分だけのものではなく、遙か彼方におられるご先祖から未来へと続く子孫まで、縦軸の中で繋がっている。
自分の非は、ご先祖の非にもなり子孫をも辱める。その時の世相に順じて、世論に迎合して、或いは今の窮地から逃れるために「恥ずかしきこと」「してはならないこと」を断じてせぬような人間でありたい。シベリアでの過酷な状況の中にいる自分を想起すれば、自信はないが心したい。
草地貞吾は立派な人だ。あの板垣征四郎の次男である保守派の重鎮:板垣正氏もシベリア抑留時代、この民主運動に飲み込まれ帰国後共産党に一時期入党したそうだ。それを見てもシベリアでの民主運動なるものの苛烈を思う。草地はいつも「白樺のこやしになれ」などと、彼ら曰く「反動分子の首魁」として脅かされ命を狙われ、バットで襲われたりもした。
しかし一貫して自らの信念を貫き、ソ連に迎合せず民主運動とは毅然と対峙し、11年にも及ぶ抑留生活を生き延びた。
日本人の民主運動はあまりに恥じ入る行為であるが、それが今の恥を恥とも思わない、売国メディア朝日を頂点とした醜い戦後日本人の原点であるように感じる。不法に抑留され同胞を殺されながら、その同胞殺害の張本人であるスターリンに感謝文とは、日本人としてこれ以上情けないことはない。
そんな当時の民主運動家と、今の民主党政権に蔓延る左翼政治家こそ同じレベルだと痛感する。小沢・輿石・仙石・菅・岡田・千葉、等々、醜い顔が全てを内含し世に晒している。支那朝鮮、在日に媚、日本を売る。まるでシベリアの民主運動家たちと同じだ。
当時、シベリアで同胞を吊るし上げ、スターリンに恭しく感謝状を奉呈し世界に恥を晒した民主運動家の指導者とは。その首魁は、浅原正基・高山秀夫、その他、袴田睦奥夫、小針延次郎、井上清、相川春喜、吉良金之助などが首魁だった。その名は日本史の汚点として永遠に残る。
草地の書いた本の中にも、浅原や高山との出会いが書かれている。ソ連にしろ中国にしろ、共産主義・社会主義に染まる人間にも国家にも、共通した品格のなさ、道理道義のなさ、捏造・誤魔化しが全て、などなどの醜さが共通している。
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2010.平成22年7月16日(金)
■玉砕
「関東軍作戦参謀の証言」:草地貞吾(著)より一部抜粋↓
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終戦後「玉砕」という言葉が、馬鹿の権化のように宣伝されたことがあるが、この人生から玉砕的精神を除いて果たして何が残るであろうか。懸命も真剣も玉砕も同義語であるのに玉砕だけが禁句となった。若し玉砕敢闘の精神を無くしたならば戦わずして負けるか、ジリ貧で破れるかの何れかに決まっている。
それは退化であり萎縮である。個人はもとよりのこと、自己の属する組織、団体、社会、国家の生命を自ら否定するものである。何もすき好んで無茶無謀な玉砕をやる必要はないが、決死争奪の精神というものは、常住不断に把持するところがなければならぬ。
戦場では不思議なことに全部の人間が生命を大事にし過ぎると全部が死に、全部の人間が生命を捨ててかかると大部が死なないというような反対現象を生起することが少なくない。それは個人の勝負でも同じことで、屁っぴり腰の逃げ支度では大抵負け、勇猛果敢な捨身突撃が多く成功するようなものである。
生の論理の必然性からジリ貧を見越して大東亜戦争に奮起した日本国民が、武運に恵まれず敗退したからとて、性根まで玉砕してしまい終戦と共に完全なジリ貧気分になり終わったとしたならばこれ以上の不幸があるであろうか。
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選挙速報の後の深夜、サッカーW杯決勝を見るために起きていたら、テレビ朝日で最悪・田原が司会者として政治家を集めて選挙結果についての討論会をしていた。
日米安保・普天間などに関連して日本の安全保障についての話題になった時、田原は轟然と「日本は自分の国を自分で守ったらダメだ!」とはき捨てるように言った。それに対して、そこに居並んだ与党野党の現職議員のだれも反論せず、押し黙ったままだった。
自民党の塩崎・山本一太・他、民主党は原口・東・他、公明・みんな・共産・社民と10名ほどいたが、田原の暴言を暴言とも言えず押し黙る。こんな奴らが日本の政治家であり識者と目されているのだ。
「自分の国を自分で守ってはダメ」・・・愚にも付かぬことを言う「田原総一朗」が、司会として使われ政治家が翻弄される。メディアや政治家の白痴化に嘆く。
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2010.平成22年7月18日(日)
■9月11日(土)出発
中国南方航空の経営難?
今回の同江・富錦・佳木斯・哈爾濱の旅は、9月11日(土)〜20日(火)までの10泊11日と決めた。まだ旅の日程とか旅先の情報はほとんどない。これから調べたいと思うが、この地域での関東軍の戦いについての戦記本も見当たらず、今の所「遙かなる黒龍江」を頼るしかない。
出発日:9月11日(土) 関空→(瀋陽経由)→哈爾濱 CZ632 14:20 - 17:30
帰国日:9月21日(火) 哈爾濱→(瀋陽経由)→関空 CZ631 08:10 - 13:20
中国南方航空で去年の10月の関空⇔哈爾濱の往復料金は、マイルを使って「2000ポイント」だったのに、今年は一挙に倍以上の「5000ポイント」が必要になった。通達があったのか否か?分からないが、一挙に運賃が倍以上になったも同然だ。
中国南方航空の経営状態が悪いということは、なんとなく聞いていたが、このサービスの低下がその実情を物語っているのだろう。ポイントを楽しみにする、航空会社にとっては大事なお得意さんである常連客を無視するかのような値上げを平気で出来るところが中国らしさだ。
去年、ハルピンからの帰路に、関空まで直行便だったはずが瀋陽経由に変更なった。その時、同じ便に乗り合わせた出張で来ている“おっちゃん”が、中国事情を得々と説明してくれたのを思い出した。彼曰く「一応株式会社にはなっているが、幹部はみんな天下りの素人で、危機感もなく経営しているから・・・」とのことだった。
きっと内情はJALどころの騒ぎではないのかも知れない。10年前から中国に行きだして、開発地区なるとこはみんな同じような景色で新しいビル群が乱立していても、入居していないような住居やオフィスビルも多くある。
そんな風景は日本のバブル崩壊時とも桁違いという感じだが、何故か?危機が噂されながら、いつまでたっても中国バブルが弾けず、成金がどんどん日本にも押しかけて金に糸目をつけず買い物しまくっている。
どうにもおかしい?一体なんでや?
私の推測では、世界の道理とは全く異質で異常なことが行われているのではないのか・・・と、いう危惧だ。それは、無原則に「人民元をとめどなく刷っている」のでは?というのが私の想像だ。
経済のことは良く分からないが、専門家でも意見が全く分かれるくらいだから、経済は誰でも予測は難しいのだろう。無原則に幾らでも人民元を刷り続けていたら、この先どうなるのか?とにかく独裁国家のやることは、とどのつまり世界の大迷惑になることになるだろう。
人民元がアジアで、世界で流通する貨幣になれば、最悪な世の中になるのは間違いない。最高紙幣が100元、今の円高の日本円で1300円ほど、こんなつまらん毛沢東紙幣が大手を振るのだけはやめてくれ!
■哈爾濱・佳木斯・同江・富錦・方正
同江・富錦・方正はガイドブックにも紹介はなく、又、牡丹江の旅行社にホテルの予約を頼もうと思っていたが、Web頁で紹介されていたので、電話を掛けたらすぐに繋がった。
ホンマ不思議だが繋がる。あっという間にロシアとの国境の辺境の地?同江のホテル:同江賓館。私のつたない中国でも一泊の値段は分かった。168元だった。「又再度電話するから」と言ったら、「あんた何処の国の人?」と聞かれた。やっぱしなあ・・・「日本人だ」と言っておいたけど。
でも、先に日本人と言ったら値段を吹っかけられることがあるから面白くない。日本人の旅行記で誰かが書いていた方正の方正賓館は一泊「100元」だった。やはり東北:満洲は未だ開発から取り残され貧しい地域が多いのだ。
Web頁も年々進化していることが分かる。ホテルの紹介も少しはましになっている。でもこういった地域のホテルは、地域としてのホテル紹介ページはあるが、それぞれのホテルのホームページは未だにないのが殆どだ。
そして、少しづつだが、この辺の関東軍の戦いの様子が分かってきた。富錦鎮近くの五頂山に要塞陣地がある。そこでやはり関東軍は奮戦している。
しかし佳木斯にあった134師団の井関仭師団長(中将)は、戦略的に国境地帯の部隊を逐次後退させて、結局、本隊はほとんど戦うことなく武装解除したようだ。これは、作戦上のことで別に逃げたのではない。その時点で、終戦が15日だとは誰も考えもしなかったから・・・。
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2010.平成22年7月21日(水)
■舞鶴引揚げ記念館に行く。
満洲に興味を抱き、いろんな本を読んでいるのでここ舞鶴の引揚げ桟橋に行きたいと思っていたが、猛暑の今日、ついでだが訪ねることが出来た。
平日の日にも係わらず大勢の来館者がいた、年配の観光ツアーの人たちが多いようであったが。中に「語り部の会」のボランティアの年配男性がいたので、問いかけた。
「シベリア抑留を体験されたのですか?」「いや私はしてませんよ、私はそんな歳ではないんです、まだ若いんですよ」「あっ、すんません失礼しました」
そして、この語り部さんに長々といろんな質問をしたが、丁寧に答えてくれた。世間で流布されている瀬島参謀などによる「敗戦後に関東軍とソ連との捕虜使役に関しての密約があったのか否か?」を聞いたら・・・。
「それは、ありました。瀬島さんも含めてその件に関しての交渉は三件あります。しかし満洲内での労働使役と日本側は思っていました。数年前にソ連の公文書が公開されて出て来ています」
その辺は、私も詳しく知らないし、語り部さんの教えてくれた上記の内容が真実か否かも今の私には分からない。しかし語り部さんも言っていたが、「国体護持が全てに優先された結果です」という。その言葉に私はなるほどそうだったのかと納得した。
敗戦という結果に関東軍も大本営も、日本政府も良識ある日本人全ても、ポツダム宣言受け入れでも最後まで苦悩したように、いかに天皇陛下を守るか、この国の形を守るかに賭けていた。それが卑怯卑劣なソ連に対して、尚更国体護持を最優先にしての苦しい交渉だったのだ。
そして語り部さんは、「ソ連はドイツ兵捕虜を300万人以上とも言われるほど大量にシベリアに送り、100万人以上が死んでいます。だからそんな密約など関係なく、ソ連は戦略的にシベリア開発に捕虜兵士を使うことをは、元より規定のこととしていたと思います。後になってその事実を隠蔽し、或いは反論材料のためにも日本側の言辞が必要だったのでしょう」と語ってくれた。
この「語り部さん」は、私にとって救いの語り部さんだった。こんな所でボランティアをする人間は大抵は反戦反軍を得意げに語る嫌な奴が多いから。しょうもないことを言ったら“ふざけたことを言うな”と言い返してやろうと思っていたが(笑)。ありがたい語り部さんだった。
岸壁の母でおなじみの“端野いせ”さんが岸壁で待ち続けてた息子は、磨刀石で戦った甲種幹部候補生:端野新二候補生だが、彼は今も?中国で生存しているという情報がある。しかしこの記念館では彼は戦死の扱いとのことだった。
頭くらくらするくらい暑かった。でも有意義だった。 -
2010年9月15日、8:25:24:撮影
佳木斯にあった第134師団は、爾後の作戦により方正に転進
その後、佳木斯は佳木斯遊撃隊が最後まで残り
ソ連侵攻を阻むために佳木斯鉄橋を爆破した
ここが今も残るその鉄橋の跡地だ
左が現在の松花江に架かる鉄橋
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2010.平成22年8月2日(月)
■中国のホテル
9月の旅行に備え、今回はホテルの予約だけだから旅行社に頼まずネットで調べて自分で予約をしようと試みたが、壁は厚い。
「エクスブロア中国」というサイトで哈爾濱や佳木斯の手ごろな金額のホテルも予約が取れそうだったので、ネット予約したが、すぐに「まだ来月の価格が決まっていないからネット予約は不可」という返信が来た。日本の事務所に電話したら、「中国のホテルはお客さんが増えそうだとすぐに値段を調整しますので・・・」という日本人女性の恐縮した返答だった。
でも哈爾濱のほうはさすがに沢山ホテルがあるので、その後予約できるホテルを紹介してもらい予約が完了した。哈爾濱駅から1キロ、ロシアが建てた満洲時代からある秋林(Qiu ling:チューリン)百貨店《1900年に白系ロシア人商人のチューリンが創業した老舗のデパート》の近くの一泊208元(¥2700円)のビジネスホテル。ここなら道も分かっているし歩いて行ける。
そして、この前に電話して料金を聞いた同江と富錦のホテルに電話して予約しようとしたら「訂不了:ディンブリャオ:予約できない」と言われた。はっきり聞き取れないが電話で来月の予約は出来ないようだ。一ヶ月も前から電話だけでの、信用予約はあり得ないようだ。
それぞれのホテルのホームページもなく、今は予約の方法が分からない。中国語会話の実戦練習になるし、もう少し自分で努力して、ダメなら最後の手段は、中国語の老師に私の携帯で予約してもらう。携帯から海外に電話を掛ける時は、「001010-国番号(中国:86)−市街局番(頭の0は不要)−電話番号」で掛かる。試したらすぐに繋がった。料金は1分間¥74円。
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2010.平成22年8月3日(火)
■シベリア抑留の密約なるもの・・・。
今回の満洲戦跡巡りは、あまり大きな戦闘がなかったようで戦記本もなく、「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著){防衛大学卒・防衛大学校教授}が、日本とソ連の戦史に基づいて詳しく書かれているのを参考にしている。この本は、部隊名も含めて詳細であり、記録ではあるが物語とはならず。
そんなことから、戦跡のことより、満洲やシベリア抑留のことなどを「本」や「Web頁」で調べている。その中で、ソ連への抑留が、関東軍とソ連との間の「密約説」が、規定の事実かのように定着しているが、その実態が分かった。これも一口で言えば反日日本人の作り出した捏造だった。
その、つまらぬ日本人というのは、(故)斎藤六郎・全国抑留者補償協議会会長だ。世に言う《「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」は、1993年7月、ロシア国国防省公文書館により公開されたもの。》を、この斉藤が探し出し、《共同通信にリークします。共同は「ソ連軍に捕虜使役を申し出」「関東軍司令部の疑惑裏付け」「シベリア抑留で新事実」という見出しで記事を配信しました。》
成るほどそうだったのか・・・。これも、ホンマ戦後に腐った日本人のなせることだった。
戦後の斉藤のような反日日本人は、こういった資料を時の関東軍をこき下ろすための材料として利用した。その文言を素直に読まず、武装解除後も自らの命も省みず、国体護持、そして兵士や在留邦人のために乾坤一擲の交渉をした関東軍参謀を密約の悪者に作り上げんがために作為的に解釈し吹聴した。
そして抑留されたことを、あろうことか暴虐非道なるソ連へに向かってではなく、武装解除に陥り何の効果的な対策を取り得ない関東軍首脳にこれでもかと責任を押し付け、日本政府を加害者、自らを被害者としてソ連ではなく自国政府に保障を求める。愚かしいにも程がある。
密約の真実は、「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」を読めば分かる。一つ気懸かりだったことが払拭し気分もスッキリした。
草地貞吾参謀も瀬島龍三参謀も立派な関東軍参謀であり、紛れもない真の日本人だった。ホントに反日日本人には憤りを越えて憎悪を感じる。
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2010.平成22年8月20日(金)
■Uチューブ動画の為のシナリオ?
哈爾濱・佳木斯・同江・富錦・方正への旅で、デジカメ動画を映しながら満洲の思いを語る。気持ちは短編映画を作るっていう気分、ハハハ。動画が世界に無料で発信できるなんて一昔前には夢にも思わなかったが・・・。凄い世の中になってきたものだ。
撫遠・同江・富錦の攻防を「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)に書かれたものを書き写し、動画撮影しながら読む。それが一応完成した。基本は出来るだけ要点を短くだけど、この地での戦いの様子を一人でも知らない日本人に知ってもらいたい。
大東亜戦争の戦域はあまりに広く、幾ら頑張っても万分の一も知り得ることは難しいが、日本を守るために誰がどこでどんな戦いをし死んでいったのか?後に続く同胞が知るのは責務であると思う。三江省を守備する第134師団の戦いは他に比べれば少ないが、それでも多くの関東軍兵士が奮闘し戦い死んだ。
今回の旅は、当地の情報も少なく行く目的地も少なく、気持ちの上でのんびりとした旅が出来るかも・・・。でも、もう出発まで一ヶ月を切ったが、ホテルはハルピンが決まっているだけで、その他は未定のままだ。
同江は、昔、“拉哈蘇蘇”(ラハスス)”石光真清も1900年:明治33年9月8日に、数時間だが立ち寄っているのが分かった。ハバロフスクから哈爾濱に向かう途中「曠野の花」(第二巻)によれば、又これで楽しみも増えた。それから恰度110年後の同じ9月、私も当地に滞在する。そこは一体どんなところなのだろう?
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2010.平成22年9月2日(木)
■三江省での戦い
今回訪れる佳木斯・同江・富錦・方正は、満洲時代の三江省。この松花江流域でのソ連軍侵攻からの状況を自分なりに整理しここに簡単にまとめておく。これは「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)を参考としている。他の著書、例えば「遙かなる黒竜江」小林静雄(著)の内容もこの本からの抜粋のようだ。
この地域は第134師団が担当していた。8月9日ソ連の侵攻当日、撫遠は抵抗したが何分少人数で壊滅状態になり兵士を含めて在留撫遠の日本人190名の内帰国できたのは7名とのこと。同江は命令によりソ連軍との戦いを回避し富錦を経て、方正に向かう途中若干の戦死者を出しながら方正に到着、9月11日方正において武装解除している。
富錦では歩兵第367連隊第二大隊:木村義巳大尉以下約2000名が、この三江省ではソ連軍との間で最も激しい攻防を繰り広げた。歩兵第367連隊は師団司令部より「方正に転進せよ」との指示を受け木村隊長は「転進は困難だから死守させて欲しい」との旨を申し述べたが、師団より爾後の作戦方針があるとの強い指示で転進を受け入れ、包囲を突破し転進に成功、最後、主力は9月11日方正で武装解除している。木村大尉も無事帰国を果たしている。
鶴崗(かくこう)にあった各部隊残留者は8月9日に方正に転進を開始、8月19日に方正で主力と合流している。その他各所の監視隊も転進し、鶴崗の甲陣地に集結した第二大隊主力(堀井大尉以下約600名)は各地でソ連軍と戦い約20名が戦死、14日甲陣地を脱出し南進したが、湯原でソ連軍と戦闘、その後もソ連軍と戦闘を重ね、又渡河時に不明、水死者を出しながら、最後は9月28日南叉(なんさ)において武装解除をした。
師団司令部のあった佳木斯では、8月9日ソ連侵攻当日:井関師団長は液河に出張中だったが報せを受け午後8時頃帰着、在留邦人の避難を指導し、8月13日船により方正に向かった。佳木斯特務機関において臨時編成された松花部隊も10日〜12日頃方正又は綏化方面に向かった。
そしてソ連軍接近前に日本軍部隊はすべて佳木斯を離れた。それによって師団主力は当初の作戦目的を達しほぼ無傷で方正に転進を終える。その後の佳木斯は佳木斯特務機関によって工兵隊の一部と日系市民有志をもって編成した佳木斯遊撃隊だけが佳木斯周辺の警備に残り、最後に佳木斯西側の松花鉄橋を爆破した。
その他、佳木斯には満州国軍第7軍管区があり、満州国軍の希望により佳木斯に残ったがその後の行動は不明である。
第134師団はソ連の侵攻を受け、方正に転進する作戦を実行し、その目的達成に向けて各隊は動いた。そして富錦の第367連隊などの敢闘によって、ソ連軍の佳木斯侵攻を遅らせて綏化線を確保し、佳木斯付近の邦人の脱出に貢献し、師団主力は方正に無傷(1万数千名)で転進を果たし、当初の作戦は成功した。
しかし、早期の後退により在留邦人に、より多くの犠牲者が出た可能性は否定できない。方正での在留邦人などの死者が4千〜5千名と書かれている文章が多いが、「満洲開拓史」の記述によれば、昭和21年5月までの状況は以下の通り。
収容総人員8,640名
ソ連兵に拉致された者460名
自決・病死した者2,360名
自ら脱走した者1,200名
満人の妻等になった者2,300名
現地に残った者、1,120名
ハルピンに移動した者1,200名
・・・と、なっている。
これによれば昭和20年8月〜昭和21年5月末までに方正で亡くなったのは、2,360名です。
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2010.平成22年9月11日(土)
■旅立ちの朝
現在時午前6時20分。いつものように興奮気味で早く眼が覚める。今日のハルピンの天気は晴れ、最低気温14℃、最高気温28℃。明後日の方正も予報では晴れ。晴れが続いて欲しいけど。
今回の旅は、ホテルの予約を旅行社に頼らなかったので、今もって同江・富錦のホテルは決まっていない。ハルピン(¥208元)・方正(¥100元)・佳木斯(148元)のホテルはネットと日本からの電話で予約が完了している。
満洲東北部への旅の拠点はハルピンなので、ハルピンを訪れるのは4回目になる。一度でも行っていれば様子が分かって不安はないが、そこから行くところがいつも初めての場所となり、その為にいつも同じように不安と緊張の旅立ちとなる。慣れても不思議ではないのに慣れない。
今回は訪れる戦跡は富錦の五頂山の要塞跡くらいで、鶴崗・鳳翔には行かないが、方正・佳木斯・同江では戦跡らしきものが事前の調べでは見つけられなかった。だからのんびりとした旅をしたいと思っているが、毎回毎回欲張りすぎる私なのでどんな旅になるのだろう。
旅の安全と天気に恵まれるように、仏壇に手を合わせ般若心経を唱え、ご先祖様に旅の安全無事をお願いして出掛ける。
リュックの重さは8kg。イザ行かん。
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