2010/09/11 - 2010/09/21
185位(同エリア198件中)
明石DSさん
佳木斯の朝
6:19:00
3階307号室の窓から外を写す
やはり駅前賓館なので汽笛が夜半までやかましかった
ボォー、ボォー、と鳴り響く
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2010.平成22年9月15日(水)
■佳木斯の朝
朝から快晴の中、朝一番に行ことう思っていたのは佳木斯西の松花江に掛かる鉄橋であった。この鉄橋は、8月9日のソ連侵攻後、爾後の作戦により第134師団は、逐次方正に転進し、その後を佳木斯遊撃隊が最後に残り、松花江鉄橋を爆破した。
◎「三江省内在留邦人の概況」を佳木斯駅前で撮影する。
-
6:45:20
この階段を上り下り
エレベーターなどは没有 -
6:48:14
佳木斯駅の乗客出口
ここでいろんな客引きが待ち構えている
列車が停まれば一挙に賑やかになる
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三江省内在留邦人の概況
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)によると
三江省はソ連国境に直接隣接して、交通網未発達等により、隣接東安省と共に辺境開拓団の被害がきわめて大きかった所です。開戦直後に攻撃を受けたハバロスクフに近い撫遠の日本人は大損害を受け、僅かな脱出者も避難行の間に土匪等の襲撃で殆ど全滅しています。
富錦では9日朝、陸軍病院を優先乗船させ、第一船便をハルピンに向け出発させ、その他在留邦人も船、自動車、徒歩により佳木斯に向かい避難を開始させました。ソ連軍機が午前10時頃から対岸の綏東(すいとう)埠頭、次に午前11時頃から富錦上空にも約30機が現れて埠頭の船、集積砲弾・ガソリン等を爆撃し黒煙天に沖する状況となりました。10日夕方、同江県の邦人避難民が富錦陣地に宿泊を申し込みましたが、守備隊長は引き続き後方に避難させました。
佳木斯においては10日からまず南方の千振(ちふり)へ邦人疎開を開始させましたが、林口方面で図佳(とか)線が普通となったため再び反転、佳木斯市民及び流入邦人等は10日〜14日に綏佳(すいか)線を利用し、途中南叉(なんさ)その他で一時下車を余儀なくされながら、綏化(すいか)に避難しました。
ソ連軍進出のため綏佳線を利用できなくなった佳木斯市民及び流入邦人、千振方面から反転しなかった者及び同地区周辺の多数の開拓団員等は主として徒歩で依蘭、方正方面に向かい避難しました。結局最も幸運であった者は船により直接ハルピンに避難し、次に幸運だった者は綏佳線により綏化に避難した人たちです。
綏化避難組みは洪水による鉄道不通で近傍邦人を含め約3万人(別に朝鮮人2万人)が約一ヶ月綏化に滞留した後、逐次新京方面に南下しました。最も悲惨を極めた徒歩南下組は、ソ連軍の攻撃、度重なる土匪の襲撃に大きな被害を出しつつ、8,000余名が方正に終結し同地で越冬しています。
徒歩避難を余儀なくされた開拓団の中には土匪の襲撃等による死傷と、それに伴う自決等により全滅的被害を受けた開拓団もあり、半数前後の死亡、不明者を出した開拓団が多いです。また方正の収容所は全満洲でも惨状の殊に甚だしかったものの一つと言われ、『満洲開拓史』によれば翌年5月末は次のように記録されています。
収容総人員8,640名、ソ連兵に拉致された者460名、自決・病死した者2,360名、自ら脱走した者1,200名、満人の妻等になった者2,300名、現地に残った者、1,120名、ハルピンに移動した者1,200名・・・と、なっています。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=A6HFZ981Hdk -
6:58:28
所変われば品変わる
このオートバイタクシーには乗らなかった
別に理由はなし、たまたま。 -
松花江鉄橋跡地へ
7:13:42
これが新しい今の鉄橋
運転手が行き過ぎようとするので
慌てて止めてもらい車を降りた
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松花江鉄橋を見に行く
「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)によれば
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ソ連軍接近前に、日本軍部隊はすべて佳木斯を離れています。佳木斯特務機関において臨時編成された松花部隊も10日〜12日頃方正又は綏化方面に向かったとあります。その後の佳木斯は佳木斯特務機関によって工兵隊の一部と日系市民有志をもって編成した佳木斯遊撃隊だけが佳木斯周辺の警備に残り、最後に佳木斯西側の松花鉄橋を爆破した。
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Web頁によれば遊撃隊ではなく松花部隊が爆破したと書かれているのもあるが、大鉄橋を爆破するのは工兵隊の一部と日系市民有志の編成による佳木斯遊撃隊の行ったことと見るのが妥当だと思う。その鉄橋が今現在どうなっているのか?無論、鉄橋は今も架かっており列車が通過しているのは言うまでも無い。ならば一体爆破跡なる痕跡が残っているのか?その歴史的事実を示す記念の碑でもあるのかと想像していた。
そして朝7時前頃、ホテルのフロントの小姐に、「今から佳木斯西の鉄橋を見に行く。遠いのか?」と聞いたら、私が佳木斯西:鉄橋と書いているメモに、彼女がそこに「松花江大橋」と書き添えてくれた。そして歩いては無理だというのでタクシーに乗った。その時は、私も鉄橋の名前が「松花江大橋」というのかと思ってしまい運転手にそのメモを見せ頼んだ。
しかしタクシーに乗ってその場に行ったら運転手があっけなく鉄橋のところを走り抜けようとしてやっと私も気が付いた。「松花江大橋」というのは、車の通る橋の名前であり鉄橋ではない。小姐も佳木斯西の鉄橋など見る場所だとは思ってもいずに松花江大橋と書いたのだ。でも幸いだったのは方向が同じで鉄橋の所に行ったことだ。当然運転手は行き過ぎようとするので、私が慌てて「ここで停めて。鉄橋を見に来た」と何度か言って、ちょっと行き過ぎたが停めてもらった。
その時、若い運転手だったが、「こっちが中国が作った鉄橋、あっちが日本が作った」と教えてくれた。そこで初めて私もその意味が分かった。遊撃隊が爆破した鉄橋は、基礎が未だに残っているが、それが遺跡?として現存し、あまり整備はされていないが遊歩道のようになっている。散歩したり運動したりしている人が居た。その百メートルほど西側に新しい鉄橋がある。
そこで運動していた中国人に「これが満洲時代の鉄橋か?」と、聞いたら「そうだ。この先に建物も残っている」と指を差して教えてくれた。今はレールはないが河にせり出して続く鉄橋の基礎部分を歩いて突端まで行った。そこには河を前にして左手に建物が廃墟と化しながらも建っていた。当時の鉄橋の監視哨なのだろう。今も新しい鉄橋には監視哨があり人民解放軍の兵士が24時間体制で鉄橋を守っている。
何の説明もなくただ廃墟と化して残っている。遺跡として残すならもう少し整備するか、何らかの説明が書いたプレートでも嵌め込んでおけば良いと思うが、建物が残っていた。まあそれだけでも有りがたい。当時を偲ぶことが出来る。船からの艦砲射撃かによって破壊された大きな穴が戦争の遺跡であることを物語る。佳木斯では師団主力が転進した後、ソ連侵攻と対峙しながら少数でここに残り、その最後の任務にこの鉄橋を爆破したのだろう。
こうやってその遺跡でもある鉄橋の基礎が残っていたことに、ここまで旅してきた喜びを感じる。65年前確かにこの場所で彼らは、ソ連侵攻を阻むために鉄橋に爆薬を仕掛け、命懸けで作戦を遂行した。ソ連軍資料によれば8月15日も佳木斯での日本軍側の抵抗は盛んだったようだ。 -
7:14:40
道路を挟んで、川とは反対方向の鉄橋跡地
レールは撤去されているが、こうして土台の基礎が残っている -
7:15:30
川側の鉄橋跡地は
何か分からないけど5人の像が立っていた
公園化している -
7:17:04
これが鉄橋跡に立つモニュメント
なんじゃあこりゃあ
これは具体的な戦士の像ではなく
未来永遠に侵略されないようにとの象徴のようです
こんな物をわざとらしくこの場に作る前に
新疆ウィグル・チベット・内蒙古を即刻解放しろ! -
7:17:42
松花江に向かって伸びる鉄橋跡地
レールはないが当時を偲べる
佳木斯遊撃隊良くぞ爆破せり -
7:25:18
今に残る鉄橋の監視哨跡? -
7:25:24
松花江に突き出した鉄橋跡地
その左側に新しい鉄橋が架けられている
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http://www.youtube.com/watch?v=EDvxDLs3tyg&feature=player_embedded -
7:31:46
松花江鉄橋を渡る列車
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三江省での戦い
今回訪れる佳木斯・同江・富錦・方正は、満洲時代の三江省。この松花江流域でのソ連軍侵攻からの状況を自分なりに整理しここに簡単にまとめておく。これは「ソ連軍侵攻と日本軍」中山隆志(著)を参考としている。他の著書、例えば「遙かなる黒竜江」小林静雄(著)の内容もこの本からの抜粋のようだ。
この地域は第134師団が担当していた。8月9日ソ連の侵攻当日、撫遠は抵抗したが何分少人数で壊滅状態になり兵士を含めて在留撫遠の日本人190名の内帰国できたのは7名とのこと。同江は命令によりソ連軍との戦いを回避し富錦を経て、方正に向かう途中若干の戦死者を出しながら方正に到着、9月11日方正において武装解除している。
富錦では歩兵第367連隊第二大隊:木村義巳大尉以下約2000名が、この三江省ではソ連軍との間で最も激しい攻防を繰り広げた。歩兵第367連隊は師団司令部より「方正に転進せよ」との指示を受け木村隊長は「転進は困難だから死守させて欲しい」との旨を申し述べたが、師団より爾後の作戦方針があるとの強い指示で転進を受け入れ、包囲を突破し転進に成功、最後、主力は9月11日方正で武装解除している。木村大尉も無事帰国を果たしている。
鶴崗(かくこう)にあった各部隊残留者は8月9日に方正に転進を開始、8月19日に方正で主力と合流している。その他各所の監視隊も転進し、鶴崗の甲陣地に集結した第二大隊主力(堀井大尉以下約600名)は各地でソ連軍と戦い約20名が戦死、14日甲陣地を脱出し南進したが、湯原でソ連軍と戦闘、その後もソ連軍と戦闘を重ね、又渡河時に不明、水死者を出しながら、最後は9月28日南叉(なんさ)において武装解除をした。
師団司令部のあった佳木斯では、8月9日ソ連侵攻当日:井関師団長は液河に出張中だったが報せを受け午後8時頃帰着、在留邦人の避難を指導し、8月13日船により方正に向かった。佳木斯特務機関において臨時編成された松花部隊も10日〜12日頃方正又は綏化方面に向かった。
そしてソ連軍接近前に日本軍部隊はすべて佳木斯を離れた。それによって師団主力は当初の作戦目的を達しほぼ無傷で方正に転進を終える。その後の佳木斯は佳木斯特務機関によって工兵隊の一部と日系市民有志をもって編成した佳木斯遊撃隊だけが佳木斯周辺の警備に残り、最後に佳木斯西側の松花鉄橋を爆破した。
その他、佳木斯には満州国軍第7軍管区があり、満州国軍の希望により佳木斯に残ったがその後の行動は不明である。
第134師団はソ連の侵攻を受け、方正に転進する作戦を実行し、その目的達成に向けて各隊は動いた。そして富錦の第367連隊などの敢闘によって、ソ連軍の佳木斯侵攻を遅らせて綏化線を確保し、佳木斯付近の邦人の脱出に貢献し、師団主力は方正に無傷(1万数千名)で転進を果たし、当初の作戦は成功した。
しかし、早期の後退により在留邦人に、より多くの犠牲者が出た可能性は否定できない。方正での在留邦人などの死者が4千〜5千名と書かれている文章が多いが、「満洲開拓史」の記述によれば、昭和21年5月までの状況は以下の通り。
収容総人員8,640名
ソ連兵に拉致された者460名
自決・病死した者2,360名
自ら脱走した者1,200名
満人の妻等になった者2,300名
現地に残った者、1,120名
ハルピンに移動した者1,200名
・・・と、なっている。
これによれば昭和20年8月〜昭和21年5月末までに方正で亡くなったのは、2,360名です。
http://www.youtube.com/watch?v=kWAtlsDF6o0&feature=player_embedded -
7:44:48
隣の新しい鉄橋の監視哨 -
7:57:28
この道路を歩きながらタクシーを拾いました
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佳木斯:沿江公園へ行く
午前7時15分から30分ほど、この鉄橋跡地に居た。そのあと、川沿いの道路を街の中心方向である東に向かってボチボチ歩きながら、途中でタクシーを停め、沿江公園に行った。
もう今日も朝から暑かった。日陰を探して休憩しながら今日の一日を考えていた。佳木斯での戦跡の心当たりもなく、そして、この場所に懐かしい名前?の江天賓館があった。日本で佳木斯のホテルを探している時にネットで予約出来るホテルとして、料金は高い(¥328元)が唯一このホテルがあった。
松花江の傍のホテルで宿泊しようと思ったが、ネットで調べた時は佳木斯から同江行きのバスが朝の午前5時半と6時の二本しかなく、客運站の傍の站前賓館を選んだ。
このホテルの傍で休憩している時、広場の南側に青春旅行社という看板が目に入り、まだ決まっていない次の同江と富錦のホテルの予約を聞いてみることにした。8時半も過ぎて旅行社のドアも開き社員と思われる人が入って行ったので訪ねていった。扉を開けると誰の姿もなかったが二階で人の気配がしたので、「開いているか?」と声を掛けた。
そしたら一人の社員らしき女性が降りてきたので事情を話した。「明日の16日、そして17日の同江のホテルと、18日の富錦のホテルがまだ予約できていないので手配して欲しい」と頼んだ。
そこに、もう一人の男性社員も降りて来た。私の事情を分かってくれたようで女性が2階に上がって調べてくれた。そして、すぐに降りて来て「同江は圣彼得堡饭店:sheng bi de bao fandian」富錦は「金桥滨馆」とを紹介してくれた。
そして、旅行社の名前と自分の名前と携帯番号をホテルの名前と一緒に私のメモ用紙に書いてくれた。「そこに当日行けば泊まれる。値段は一泊120元〜140元ぐらい。もし問題があれば、こっちに電話をしてくれれば良いから・・・」と、言ってくれた。「謝謝!紹介料は幾らですか?」と聞いたら「不要」である。手配をしたのではなく紹介だけで、自分でそこまで行けば泊まれるということである。
それだけでも大いに助かった。これで探さずに済むし、気懸かりもなくなった。旅先での親切は本当にありがたい。その後、同江・富錦でこの紹介してもらったホテルに問題なく宿泊できた。料金は50元と80元、それでも私には十分快適なホテルだった。 -
8:03:34
佳木斯沿江公園に立つ記念塔 -
8:06:44
佳木斯:江天賓館
旅行前、このホテルに宿泊して
窓から松花江を眺めてたいと思っていましたが・・・。 -
8:32:58
青春旅行社
ここで同江と富錦のホテルを紹介してもらいました
旅先の親切に感動と感謝です
帰国後お礼の便りでもと思いながら、まだです。
その内、必ず -
8:34:28
佳木斯青春旅行社は江天賓館の西隣
右手:沿江公園の記念塔の道を挟んで真向かいにあります
正面の緑の扉が「青春旅行社」です -
8:37:18
佳木斯の松花江
依蘭方向を写す
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柳樹島へ渡る
そして、次に松花江を船で渡って、松花江に浮かぶ大きな島、柳樹島(柳树岛:liu shu dao)に行った。渡船の料金は往復4元。ここに渡る時も、現地では島に渡るという意識はなく対岸に行くと言う意識だった。満洲時代の戦跡のことを調べていたが、観光については無頓着で、私がいかに予備知識なく行ったかが分かる。
そこは「聚源遊楽園」という名前の遊園地であった。
テーマパーク?に入場である。入園料無料。とりあえず、キョロキョロ周囲を見ながら歩いた。途中、ラクダがいたので60年の人生で初めてラクダの背に乗って歩いた。料金は10元。手綱を持つ“おっちゃん”に「らくだに初めて乗る」と言ったら「大概誰しも初めてやろ」と言われて納得。
その後、10元で馬車に乗った。この時の馭者のおっちゃんが私が日本人であることを知った上で、しきりに私に話し掛けてきた。何を言っているのかさっぱり分からない。馬車を停めてメモ用紙に書いてくれと頼んだが、字があまり書けない様で、“日本”“名”と書いて指で方向を示す。何か日本の物がそこにあるのか?日本に関係ある地名なのか?気になったが何も分からなかった。歳を聞けば57歳、この島に住んでいるそうだ。
その馬車で桟橋まで戻って渡河船に乗り、{午前8時50分〜10時20分}1時間半くらいの遊園地遊びは終了して沿江公園に戻った。面白かった。 -
8:41:12
渡り船乗り場
往復4元(50円) -
8:44:12
渡り船の船内
日本人は私一人のようですが、誰もわかりません -
8:49:08
桟橋を離れイザ行かん
松花江を渡河します -
8:49:14
目指すは対岸の柳樹島
水量は豊富です
まだ凍っていませんから船で渡ります -
8:52:10
もうすぐ到着
一体ここは何処?どんなとこ?
全く知らずに渡りました
島だとは露知らず
帰国後分かりました
グーグルアースを見て
「ほんまデカイ島やなあ〜」って
グーグルアースは鬼に金棒です、無料で見れます! -
8:53:06
対岸の桟橋に5分ほどで到着。
橋は作らんのか?
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柳樹島に渡る
http://www.youtube.com/watch?v=eaVVgwDMm4Y&feature=player_embedded -
8:55:10
「聚源遊楽園」
なんじゃこりゃあ〜状態で散策始める
まあ、あの、その遊園地のようですが -
8:58:04
馬車がお出迎え
10元で散歩してくれます -
9:00:56
佳木斯とラクダ・・・か
別に不思議でもないけど、冬は寒かろう
http://www.youtube.com/watch?v=BHcOdHLnHq8&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=us_drea19kg&feature=player_embedded -
9:31:14
お休み中の馬
用心深さはないんかい
食われて死ぬぞ!
えっ、何に?食われるの
ほんなら頭、踏みつけたろか -
9:32:56
将来を案じ物思いに耽る子馬
お互い心配のタネは尽きず・・かもなあ
まだ子供やなのにちょっと元気なそうに見えるで -
9:34:44
10元の馬車に乗る
この馭者のおっちゃんが私を日本人と知って
笑顔でしきりに話し掛けて来たが
字が不得意のようで
筆談もままならず、何が言いたいのか分からなかった
残念なり -
9:38:50
遊園地から外れると
柳樹島はこんな景色に様変わり -
9:48:02
馬車に一人腰掛船着場に戻って来た
大名様のお通りです -
9:50:50
対岸の佳木斯に戻る -
9:52:52
ここでも川で洗濯を
見てても結構重労働です -
10:15:00
サラバ柳樹島
もう再び来ることはないだろうけど -
10:18:58
無事に渡河成功です
8時49分から10時18分
1時間半くらいの柳樹島観光は終わった -
ホテルで休憩
10:41:18
いつも駅前賓館横のこの果物屋で買っていた
最後はおばちゃんも現物支給でまけてくれた -
10:55:22
こんなん食ったの初めてですが
何か分かりませんが、食えます -
13:00:54
2時間ほど部屋で休憩後、昼食を食う
豚肉とピーマン炒め
まあ旨いけど量が多すぎる
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ホテルで休憩後
そして一旦ホテルに戻り、横の果物店で果物を買い部屋で休息。
部屋で2時間ほど休憩し午後1時前に出て行き、まず近くの小吃店で豚肉の野菜炒めとご飯を食べる。旨かったが量が多すぎるので食べたのは三分の一くらい。
そして佳木斯第11中学校を目指して歩いた。Web頁で以下のような情報があったから、そこを訪ねて行った。佳木斯駅から北西方向に10分くらいのところにその中学校はあった。西林公園と道を隔てて面している。
この西林公園は1940年満洲時代に。「満蒙開拓移民の父」と呼ばれる東宮鉄男(とうみやかねお)大佐の戦死を悼み造られた。 -
13:15:38
客運站まえの物売り
新疆ウィグル族の人がこれを売ってます
食い物です -
13:23:08
中国人民解放軍
佳木斯警備司令部・・・か
若しかしたら第134師団司令部も
この辺りにあったのかも? -
-
13:25:28
今日も快晴!
午後1時25分の佳木斯の空 -
13:27:16
佳木斯の高層マンション群
この満洲各地の建設ラッシュには驚く
いつ不動産バブルは崩壊するのか?
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西林公園で歌を聞く
http://www.youtube.com/watch?v=L4ouQX94GXU&feature=player_embedded -
13:30:04
左の塀が佳木斯第11中学校
ここが満洲時代の朝日校かも
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佳木斯小学校の沿革
http://www.eonet.ne.jp/~s-mouri/rs-24.htm
によれば
佳木斯は、現在中国黒竜江省佳木斯市で、現地では、JIAMUSIと、表記されている。地図上のカタカナ表記では、ジャムス、チャムス、チャムースといろいろある。昭和初期、旧ソ連の国境近くの佳木斯は日本の国策遂行上の最重要都市(軍事上・開拓地の中心)で、満州国帝政実施の翌年1935(昭和10)年4月に日本人の佳木斯小学校として開校(職員数1名、児童数7名)
1937(昭和12)年初め満鉄佳木斯駅が営業開始しそれ以降日本人の増加に伴い学童数が急増、多い時には在校生2,000人近くになった。国民学校令施行で、1941(昭和16)年4月佳木斯在満国民学校となり、その11月に朝日校と大和校に分離した。校舎は増築の連続で1941(昭和16)年頃にはレンガ造りで、廊下には公衆電話が並び近代的な建物であった。
旧ソ連軍参戦の1945(昭和20)年8月9日の翌日に解散し、10年間の幕を下ろす。
(同窓生が後日佳木斯を旅行して確認した話として、佳木斯朝日校の校舎は現在、中国の佳木斯市11中学校として使用されているとのこと) -
13:34:16
佳木斯第11中学校
駅から北西方向15分くらいのところにある -
13:38:16
佳木斯第11中学校
校舎上部は新しいが
建物下部は旧校舎をそのまま使っているようだ
西林公園と対面して建っている -
14:10:40
上部と下部の建築は明らかに違う
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「佳木斯小学校の沿革」
http://www.youtube.com/watch?v=LgAwxBRP_QE&feature=player_embedded -
14:27:20
第11中学校付近の路上にて
この辺りは路上の本屋とかが多い
その一角に毛沢東がいた
いまだに毛沢東の像はアチコチで見かける -
14:30:10
佳木斯駅近くの馬車
まだまだ現役バリバリで頑張ってます
街に溶け込み違和感なし -
客運站の前で
14:48:54
駅前の客運站戻って来た
新疆ウィグル出稼ぎ
居並ぶ手押し車販売
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駅前に戻って
第11中学校からぶらぶらと駅まで戻って来て駅前の客運站前で人の行き来をただぼーっと眺めていた。客運站前の歩道にウィグル族の人たちが手押し車に何かを載せて並んで客待ちをしていた。ずっと見ていたが、誰も買わないし、多分食い物だと思うけど確証なく誰かが買うのを持っていた。でも誰も買わないので、おもむろに声を掛けてみた。
そしたら横から叔母ちゃんが、何やかんや喚きながら言って来る。「好吃!ハオチ」と言っているので、やはり食い物で旨いということは分かった。でも幾らなのか?量はどうなのか?全く分からず、大か?小か?ナイフで切ろうとする量をゼスチャーで示すので、小さい量を頼んだ。
それはホンノ一切れだった。そしてそれを計りで量る。値段はホンノ一切れが12元、高い。なるほど旨いけど高いからみんな買わないのだ。
手にして食って見て、初めてそれが何であるのか分かった。いろんなピーナッツ類を練り固めている代物だ。その上にゼリーが付いている。味は旨いし、きっと保存食なのだろう。だから一日ビニールをかぶせて手押し車の台の上に載せたまま、いつ買いに来るか分からない客を待っておれるのだ。今日売れなくてもそのまま又明日も来るのだろう。結局長い間見ていたが私が買った以外他の誰かが買うのを見ることはなかった。
新疆ウィグルからの出稼ぎが串に刺した羊肉を屋台で売っている光景はどこでも見るが、この食い物を売っている光景は佳木斯のこの場所以外まだ見たことはない。無論他にもあるのだろうけど・・・私は、初の遭遇だった。同江に行ってからこの写真を見せて、この食い物の名前を聞いたが分からなかった。ここで聞いておけば良かったけど。
3時頃ホテルに戻って又休憩、2時間くらいして5時頃にまたうろうろ出て行った。そしてラーメンを食って、街を少し散策、又部屋に戻って佳木斯の一日は暮れた。熱との格闘の毎日であった。 -
14:58:36
幾ら眺めていても誰も買わないので
自ら買ってみた
ホンノ一切れ、12元
成るほど高いから誰も買わないのか -
15:04:32
部屋に戻って食う
旨い、ピーナッツ類を練り込んでいる
ずしっと重みがある
おやつでもあり、保存食でもありそうだ -
夕飯と散策
17:08:22
午後5時頃の駅前
左側の建物が駅前賓館
背中が客運站 -
17:16:52
まだ客運站まえに一人残っていた
その塊を見れば売れていないのが一目瞭然
ホンマ我慢強い商売だ -
17:48:30
この店で拉麺食いました -
17:53:00
味は旨いとは思わないけど食えます -
18:10:46
午後6時過ぎ
もう空は暗いです
毎日こうやってアチコチで踊っています
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