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**********************<br />2010/07/05月 ヴイリニュス(リトアニアの首都)観光&午後:トゥラカイ城ツアー<br />**********************<br />・国立博物館前広場からカテドゥロス(大聖堂)広場を散策<br />・大聖堂見学<br />・ゲディミナスの塔と丘の上の城博物館見学<br />・ピリエス通り散策&琥珀ジュエリー・ショッピング<br />・聖ヨハネ教会(入れず)<br />・聖ミカエル教会(入れず)<br />・聖アンナ教会(入れず)&ベルナルディン教会見学<br />・Amber Gallery Museumでショッピング&地下のミュージーアム見学<br />午後:トゥラカイ城ツアー参加<br />・トゥラカイ城と城内博物館見学<br />・レストランKibinieで名物のキビナイを食べる<br />ヴィリニュスに戻り<br />・市庁舎広場から聖カジミエル教会(入れず)、夜明けの門通りを散策<br />・聖三位一体教会(中は改装中で何もなかった)<br />【ヴィリュニス泊:ホテル・パノラマ(Panorama)】<br />**********************<br /><br />バルト3国旅行の実質初日です。<br />明け方、朝がまだ来ないかと、何度も目が覚めてしまいました。<br />まるで試験当日のような緊張感!<br />でも、あまり心地よい緊張感ではなかったので、起きてもすぐには、「いまバルト3国を旅行中なんだぞ!」というウキウキした気分にはなれませんでした。<br />これから始まる2週間半近くの旅行で、何をするかしないか決めるのは自分次第、そして旅の成功も、不可抗力や現地の都合を除き、すべて私自身にかかっているため、良い旅行にしたいという思いがちょっぴりプレッシャーになったせいかもしれません。<br /><br />滞在ホテル・パノラマは朝食が7時からなので、ぴったり7時に朝食をとりに行き、8時20分には町に繰り出すことができました。<br />その前に、昨日の夜のチェックイン時にホテルのレセプションで見つけたトゥラカイ城の現地ツアー案内のリーフレットを検討し、ホテルを通じて本日の午後のツアーを早速申し込んでしまいました。<br />というのも、出発前にネットで調べた天気予報によると、明日の天気はぱっとしないはずだからです。<br />トゥラカイ城では、湖上に浮かぶ姿を写真に撮るのを1番楽しみにしているので、天気が良くないとその楽しみは半減してしまいます。<br />ただ、ツアーに合流する場所を市庁舎前広場にしようと思っていたのですが───そうすれば午前中は市庁舎広場をめざしながら旧市街散策ができるので───ホテルから申し込んだため、ツアーガイドがホテルまで迎えに来てくれることになってしまいました。<br />つまり、ツアー開始の15時前には、旧市街の外にあるホテルにいったん戻らなくてはなりません。<br />というわけで、午前中の旧市街散策はあくまで片道にすべく、まずは、旧市街でもホテルから一番遠い国立博物館前広場までトロリーバスを使って行ってしまい、ホテルに戻りながら旧市街見学をすることにしました。<br /><br />ヴィリニュスでの初トロリーバス体験はこちらの旅行記にて。<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその1:移動と市内交通編<リトアニア>」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10483384/<br />利用したトロリーバスの写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720155/<br />下りた停留所の写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720156/<br /><br />ヴィリニュスの旧市街は市壁跡などはっきりした境界がないものの、その境界といえる大通りはあります。<br />トロリーバスは旧市街をなぞるようにその大通り(ピーリモ通り)走りました。<br />その車窓から眺める限り、壁に落書きがひどい一角もあったりして、ヴィリニュスの町は決してきれいとは言い切れませんでした。<br />でも、旧市街のエリア内はとてもきれいでした。<br />バロックやクラシック様式、時にゴシック様式のおしゃれな建物がたくさんあるだけでなく、それらの建物の大半がそれだけ年季を経ているとは思えないくらいきれいで、塗装にひびが入っていたり落書きがあったりということは、私が見た限りではありませんでした。<br />建物がその様式のわりには新品みたいにきれいなのは、きっと、リトアニアがソ連から独立した後にきれいに整備されたからだと思います。<br />また、観光ポイントもよく整備されていて、英語も併記された説明看板があるところも多かったです。<br /><br />トロリーバスを下りて国立博物館前の広場から観光を開始しましたが、国立博物館は、本日月曜日は休館なので見学は明日のお楽しみ@<br />実は、翌日は中世リトアニア大公国のヴィータウタス大公戴冠記念日の祝日だったのですが、国立博物館は幸い祝日でも休館ではありませんでした。<br /><br />国立博物館前からそのまま大聖堂まで写真を撮りながら散策しました。<br />空にはきれいな青空が広がり、晴天でしたが、7月の上旬のこの頃は翌週に比べるとまだまだ涼しく、気持ちの良い散策となりました。<br />まだ朝早いせいか観光客の姿も現地の人の姿もあまりありませんでした。<br />不思議なことに、人の姿があまりないと、自分が現地の人にとって異質な外国人観光客であることを強く意識するようです。自分が舞台の上の人間で、無数の眼に見られているような、そんな錯覚がするんです。<br />でも、その異質感を肌で感じることも、国内旅行や団体旅行では味わえない、海外一人旅の醍醐味の一つのような気がします。<br /><br />大聖堂付属の塔からヴィリニュスの眺望を楽しむつもりでしたが、10時にならないと開かないので、先に大聖堂を見学することにしました。<br />でも、ここのところ私は東欧の正教会圏ばかり旅行してきて、壁画でぎっしりで色彩豊かな絢爛豪華な正教会内部の魅力にすっかりハマってしまっています。<br />それに比べると、カトリックの大聖堂は、三次元の彫刻や浮彫群がたくさんあって壮大でとても豪華には違いないのに、正教会と比べるとずっとシンプルに見えてしまって、いまひとつ萌えません。恐れていたとおりです。<br />とはいえ、教会の中は芸術品の宝庫。<br />絵になる一角がたくさんある上、正教会と違ってカトリック教会はたいてい撮影OKなので(少なくとも今回のバルト3国旅行ではそうでした)、好きなだけシャッターを切っているうちに、だんだんとテンションが上がってきました。<br />最近の私は写真を撮りに旅行に出かけているようなものですから、撮影がはずむとおのずと楽しくなってきます。<br />我ながら現金なものです@<br /><br />大聖堂を見学しても、まだ塔が開く時間にならなかったので、近くの別の眺望ポイントであるゲディミナスの丘に行くことにしました。<br />ゲディミナスの丘は、城跡は廃墟で塔くらいしかないので、行かなくてもいいかなぁと思っていたのですが、いま自分がいる地点の近くにある限られた観光スポットですし、こんなに青空が町全体を美しくお化粧しているので、行ける眺望ポイントを逃すのはもったいなくなりました。<br /><br />つづく。<br /><br />2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。<br />簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/<br />詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」<br />http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html<br />

2010年バルト3国旅行第2日目(1)ヴィリニュス:旧市街散策(1)国立博物館前広場~大聖堂

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2010/07/05 - 2010/07/05

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まみ

まみさん

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2010/07/05月 ヴイリニュス(リトアニアの首都)観光&午後:トゥラカイ城ツアー
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・国立博物館前広場からカテドゥロス(大聖堂)広場を散策
・大聖堂見学
・ゲディミナスの塔と丘の上の城博物館見学
・ピリエス通り散策&琥珀ジュエリー・ショッピング
・聖ヨハネ教会(入れず)
・聖ミカエル教会(入れず)
・聖アンナ教会(入れず)&ベルナルディン教会見学
・Amber Gallery Museumでショッピング&地下のミュージーアム見学
午後:トゥラカイ城ツアー参加
・トゥラカイ城と城内博物館見学
・レストランKibinieで名物のキビナイを食べる
ヴィリニュスに戻り
・市庁舎広場から聖カジミエル教会(入れず)、夜明けの門通りを散策
・聖三位一体教会(中は改装中で何もなかった)
【ヴィリュニス泊:ホテル・パノラマ(Panorama)】
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バルト3国旅行の実質初日です。
明け方、朝がまだ来ないかと、何度も目が覚めてしまいました。
まるで試験当日のような緊張感!
でも、あまり心地よい緊張感ではなかったので、起きてもすぐには、「いまバルト3国を旅行中なんだぞ!」というウキウキした気分にはなれませんでした。
これから始まる2週間半近くの旅行で、何をするかしないか決めるのは自分次第、そして旅の成功も、不可抗力や現地の都合を除き、すべて私自身にかかっているため、良い旅行にしたいという思いがちょっぴりプレッシャーになったせいかもしれません。

滞在ホテル・パノラマは朝食が7時からなので、ぴったり7時に朝食をとりに行き、8時20分には町に繰り出すことができました。
その前に、昨日の夜のチェックイン時にホテルのレセプションで見つけたトゥラカイ城の現地ツアー案内のリーフレットを検討し、ホテルを通じて本日の午後のツアーを早速申し込んでしまいました。
というのも、出発前にネットで調べた天気予報によると、明日の天気はぱっとしないはずだからです。
トゥラカイ城では、湖上に浮かぶ姿を写真に撮るのを1番楽しみにしているので、天気が良くないとその楽しみは半減してしまいます。
ただ、ツアーに合流する場所を市庁舎前広場にしようと思っていたのですが───そうすれば午前中は市庁舎広場をめざしながら旧市街散策ができるので───ホテルから申し込んだため、ツアーガイドがホテルまで迎えに来てくれることになってしまいました。
つまり、ツアー開始の15時前には、旧市街の外にあるホテルにいったん戻らなくてはなりません。
というわけで、午前中の旧市街散策はあくまで片道にすべく、まずは、旧市街でもホテルから一番遠い国立博物館前広場までトロリーバスを使って行ってしまい、ホテルに戻りながら旧市街見学をすることにしました。

ヴィリニュスでの初トロリーバス体験はこちらの旅行記にて。
「2010年バルト3国旅行ハイライトその1:移動と市内交通編<リトアニア>」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10483384/
利用したトロリーバスの写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720155/
下りた停留所の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720156/

ヴィリニュスの旧市街は市壁跡などはっきりした境界がないものの、その境界といえる大通りはあります。
トロリーバスは旧市街をなぞるようにその大通り(ピーリモ通り)走りました。
その車窓から眺める限り、壁に落書きがひどい一角もあったりして、ヴィリニュスの町は決してきれいとは言い切れませんでした。
でも、旧市街のエリア内はとてもきれいでした。
バロックやクラシック様式、時にゴシック様式のおしゃれな建物がたくさんあるだけでなく、それらの建物の大半がそれだけ年季を経ているとは思えないくらいきれいで、塗装にひびが入っていたり落書きがあったりということは、私が見た限りではありませんでした。
建物がその様式のわりには新品みたいにきれいなのは、きっと、リトアニアがソ連から独立した後にきれいに整備されたからだと思います。
また、観光ポイントもよく整備されていて、英語も併記された説明看板があるところも多かったです。

トロリーバスを下りて国立博物館前の広場から観光を開始しましたが、国立博物館は、本日月曜日は休館なので見学は明日のお楽しみ@
実は、翌日は中世リトアニア大公国のヴィータウタス大公戴冠記念日の祝日だったのですが、国立博物館は幸い祝日でも休館ではありませんでした。

国立博物館前からそのまま大聖堂まで写真を撮りながら散策しました。
空にはきれいな青空が広がり、晴天でしたが、7月の上旬のこの頃は翌週に比べるとまだまだ涼しく、気持ちの良い散策となりました。
まだ朝早いせいか観光客の姿も現地の人の姿もあまりありませんでした。
不思議なことに、人の姿があまりないと、自分が現地の人にとって異質な外国人観光客であることを強く意識するようです。自分が舞台の上の人間で、無数の眼に見られているような、そんな錯覚がするんです。
でも、その異質感を肌で感じることも、国内旅行や団体旅行では味わえない、海外一人旅の醍醐味の一つのような気がします。

大聖堂付属の塔からヴィリニュスの眺望を楽しむつもりでしたが、10時にならないと開かないので、先に大聖堂を見学することにしました。
でも、ここのところ私は東欧の正教会圏ばかり旅行してきて、壁画でぎっしりで色彩豊かな絢爛豪華な正教会内部の魅力にすっかりハマってしまっています。
それに比べると、カトリックの大聖堂は、三次元の彫刻や浮彫群がたくさんあって壮大でとても豪華には違いないのに、正教会と比べるとずっとシンプルに見えてしまって、いまひとつ萌えません。恐れていたとおりです。
とはいえ、教会の中は芸術品の宝庫。
絵になる一角がたくさんある上、正教会と違ってカトリック教会はたいてい撮影OKなので(少なくとも今回のバルト3国旅行ではそうでした)、好きなだけシャッターを切っているうちに、だんだんとテンションが上がってきました。
最近の私は写真を撮りに旅行に出かけているようなものですから、撮影がはずむとおのずと楽しくなってきます。
我ながら現金なものです@

大聖堂を見学しても、まだ塔が開く時間にならなかったので、近くの別の眺望ポイントであるゲディミナスの丘に行くことにしました。
ゲディミナスの丘は、城跡は廃墟で塔くらいしかないので、行かなくてもいいかなぁと思っていたのですが、いま自分がいる地点の近くにある限られた観光スポットですし、こんなに青空が町全体を美しくお化粧しているので、行ける眺望ポイントを逃すのはもったいなくなりました。

つづく。

2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/
詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html

同行者
一人旅
旅行の手配内容
個別手配
  • 国立博物館とミンダウガス大公の像<br /><br />天気はよいのですが、この向きは残念ながら逆光なので空が白飛びしてしまっています。<br /><br />ホテルからこの国立博物館前まで徒歩圏内ですが、往復するのでなく片道散策にしたかったのでトロリーバスを使いました。<br />その詳細はこちらの旅行記の写真にて。<br /><br />関連の写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720154/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720155/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720156/<br />関連の旅行記<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその1:移動と市内交通編<リトアニア>」<br /><br />国立博物館見学は楽しみにしていますが、本日は月曜日なので休館日です。<br />だから明日もここに来ます。<br />なので、まずは大聖堂に向かうことにします。<br />

    国立博物館とミンダウガス大公の像

    天気はよいのですが、この向きは残念ながら逆光なので空が白飛びしてしまっています。

    ホテルからこの国立博物館前まで徒歩圏内ですが、往復するのでなく片道散策にしたかったのでトロリーバスを使いました。
    その詳細はこちらの旅行記の写真にて。

    関連の写真
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720154/
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720155/
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19720156/
    関連の旅行記
    「2010年バルト3国旅行ハイライトその1:移動と市内交通編<リトアニア>」

    国立博物館見学は楽しみにしていますが、本日は月曜日なので休館日です。
    だから明日もここに来ます。
    なので、まずは大聖堂に向かうことにします。

  • やさしい顔立ちのミンダウガス大公の像<br /><br />ミンダウガスは、初代のリトアニア大公(在位1236〜1263年)です。<br />ヴィリニュス創設の狼の夢伝説のあるゲディミナス公より1世紀近く前の人物です。<br /><br />「当時のリトアニアはドイツ騎士団の侵攻に苦しめられていたが、ミンダウカスは諸部族をまとめてリトアニアを統一し、1246年に大公として即位した。即位後はドイツ騎士団と対抗するためにモンゴル帝国の騎馬戦術を取り入れるなど、軍備増強に励んだ。戦争を避けるために寛容策も採り、キリスト教に改宗する条件で、ドイツ人のリトアニアへの植民を許した。しかしこれは、当時多神教国家であったリトアニア国民の怒りを買い、ドイツ騎士団との和解は成立しなかった。1260年、ドイツ騎士団と戦って大勝している。<br /> ミンダウカスは智勇に優れた名君であったが、猜疑心が強い一面があり、その反動から一族や重臣を粛清することも少なくなかった。その恨みにより1263年、暗殺された。」<br />(ウィキペディアフリー百科事典より引用)<br />

    やさしい顔立ちのミンダウガス大公の像

    ミンダウガスは、初代のリトアニア大公(在位1236〜1263年)です。
    ヴィリニュス創設の狼の夢伝説のあるゲディミナス公より1世紀近く前の人物です。

    「当時のリトアニアはドイツ騎士団の侵攻に苦しめられていたが、ミンダウカスは諸部族をまとめてリトアニアを統一し、1246年に大公として即位した。即位後はドイツ騎士団と対抗するためにモンゴル帝国の騎馬戦術を取り入れるなど、軍備増強に励んだ。戦争を避けるために寛容策も採り、キリスト教に改宗する条件で、ドイツ人のリトアニアへの植民を許した。しかしこれは、当時多神教国家であったリトアニア国民の怒りを買い、ドイツ騎士団との和解は成立しなかった。1260年、ドイツ騎士団と戦って大勝している。
     ミンダウカスは智勇に優れた名君であったが、猜疑心が強い一面があり、その反動から一族や重臣を粛清することも少なくなかった。その恨みにより1263年、暗殺された。」
    (ウィキペディアフリー百科事典より引用)

  • 国立博物館と観光案内情報板<br /><br />この看板が示す建物と一緒にカメラに収めるのには苦労しました@<br /><br />「新武器庫<br /> 新しい武器庫内の国立博物館は、リトアニアの歴史および文化に関する豊富な資料を収容した、リトアニアの最も古く最も規模の大きい博物館の一つです。建物そのものも、さまざまな時代や様式が複合されたものであり、興味深いです。ややカーブした正面ファサードは130メートルの長さがあります。この建物のファサードは14世紀の城壁に添っており、建物自体が城壁上に建っていました。18世紀に貯蔵庫の一部が武器庫となりました。一番最近の重要な再建は1965年に完成しました。博物館の前の広場には、リトアニア大公国の創建者であるミンダウガス公のモニュメント(2003年作。彫刻家R. Midvikis)があります。<br />(看板の英語版の説明の私訳)<br />

    国立博物館と観光案内情報板

    この看板が示す建物と一緒にカメラに収めるのには苦労しました@

    「新武器庫
     新しい武器庫内の国立博物館は、リトアニアの歴史および文化に関する豊富な資料を収容した、リトアニアの最も古く最も規模の大きい博物館の一つです。建物そのものも、さまざまな時代や様式が複合されたものであり、興味深いです。ややカーブした正面ファサードは130メートルの長さがあります。この建物のファサードは14世紀の城壁に添っており、建物自体が城壁上に建っていました。18世紀に貯蔵庫の一部が武器庫となりました。一番最近の重要な再建は1965年に完成しました。博物館の前の広場には、リトアニア大公国の創建者であるミンダウガス公のモニュメント(2003年作。彫刻家R. Midvikis)があります。
    (看板の英語版の説明の私訳)

  • 工事中エリアの脇を通る@<br /><br />リトアニア語で書かれているっていうだけで、なんだか絵になる光景に見えてくるから不思議です。<br />

    工事中エリアの脇を通る@

    リトアニア語で書かれているっていうだけで、なんだか絵になる光景に見えてくるから不思議です。

  • 大聖堂に向かう途中で見かけた土着信仰の神々の木の像<br /><br />リトアニアにキリスト教が浸透する前の土着信仰の神々の像だろうと思います。<br />大聖堂周辺はもともと雷神ペルクーナスをまつる自然信仰の聖地だったそうです。<br /><br />とすると、これはペルクーナスの像でしょうか。<br />でもなんで3体あるのかな。<br />

    大聖堂に向かう途中で見かけた土着信仰の神々の木の像

    リトアニアにキリスト教が浸透する前の土着信仰の神々の像だろうと思います。
    大聖堂周辺はもともと雷神ペルクーナスをまつる自然信仰の聖地だったそうです。

    とすると、これはペルクーナスの像でしょうか。
    でもなんで3体あるのかな。

  • 大聖堂広場に面したおしゃれな建物<br /><br />入口に国旗があるので公官庁の建物かもしれません。<br />

    大聖堂広場に面したおしゃれな建物

    入口に国旗があるので公官庁の建物かもしれません。

  • 大聖堂の鐘楼、高さ53メートル<br /><br />うっすら白い雲まじりの青い空が気持ちがよいです。鐘楼より空の方が撮りたかったくらい@<br />この鐘楼に上ってヴィリニュス市内を見下ろしたかったのですが、10時にならないと開かないので、先に大聖堂を見学することにしました。<br />

    大聖堂の鐘楼、高さ53メートル

    うっすら白い雲まじりの青い空が気持ちがよいです。鐘楼より空の方が撮りたかったくらい@
    この鐘楼に上ってヴィリニュス市内を見下ろしたかったのですが、10時にならないと開かないので、先に大聖堂を見学することにしました。

  • 鐘楼と大聖堂<br /><br />この2つがもう少し近ければ写真の構図も取りやすかったのですが。<br />鐘楼がこんなに大聖堂から離れているなんて、珍しくないかしら。<br /><br />原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)によると、この大聖堂広場は1989年8月23日の独ソ不可侵条約締結50周年記念日に独立を求めた「人間の鎖」の起点となったところだそうです。<br />200万人が大聖堂広場とタリンの間の600キロの道を手をつないで抗議しましたという「人間の鎖」のことは、このバルト3国旅行を計画してから、その下調べのときに初めて知りました。<br />

    鐘楼と大聖堂

    この2つがもう少し近ければ写真の構図も取りやすかったのですが。
    鐘楼がこんなに大聖堂から離れているなんて、珍しくないかしら。

    原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)によると、この大聖堂広場は1989年8月23日の独ソ不可侵条約締結50周年記念日に独立を求めた「人間の鎖」の起点となったところだそうです。
    200万人が大聖堂広場とタリンの間の600キロの道を手をつないで抗議しましたという「人間の鎖」のことは、このバルト3国旅行を計画してから、その下調べのときに初めて知りました。

  • 大聖堂正面<br /><br />あいにく逆光なので露出をうんとオーバーにしました。<br /><br />「大聖堂(アルキカテドゥラ)<br /> ヴィリニュスの中心に建ち、ヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会。それだけにさまざまな歴史の変遷を経て今日にいたっている。<br /> もともとこの場所には雷(ペルクーナス)を祀る神殿があったといわれている。最初の教会は、13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためキリスト教を受け入れたミンダウガス王によって建てられた。だが後に彼は暗殺されてしまい、この場所も自然崇拝の聖地に戻されてしまった。しかし1387年にヨガイラ公によってリトアニアは再びキリスト教化され、教会がまた建て直された。その後も増改築が行われ、現在のクラシック様式の建築は18世紀の大改築によるものだ。1996年冬にはソ連時代に撤去された三聖人の像が、大聖堂正面の屋根の上に再び据え付けられた。(後略)」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    大聖堂正面

    あいにく逆光なので露出をうんとオーバーにしました。

    「大聖堂(アルキカテドゥラ)
     ヴィリニュスの中心に建ち、ヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会。それだけにさまざまな歴史の変遷を経て今日にいたっている。
     もともとこの場所には雷(ペルクーナス)を祀る神殿があったといわれている。最初の教会は、13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためキリスト教を受け入れたミンダウガス王によって建てられた。だが後に彼は暗殺されてしまい、この場所も自然崇拝の聖地に戻されてしまった。しかし1387年にヨガイラ公によってリトアニアは再びキリスト教化され、教会がまた建て直された。その後も増改築が行われ、現在のクラシック様式の建築は18世紀の大改築によるものだ。1996年冬にはソ連時代に撤去された三聖人の像が、大聖堂正面の屋根の上に再び据え付けられた。(後略)」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • 大聖堂正面のレリーフの1つ、マリアの被昇天の図

    大聖堂正面のレリーフの1つ、マリアの被昇天の図

  • 大聖堂に入ってすぐ、主廊から祭壇まで見渡したところ<br /><br />さすがに大聖堂、壮大です。<br />いままでの旅行先の正教会に比べると内装はさっぱりしすぎているように見えてしまうけど(苦笑)。<br />

    大聖堂に入ってすぐ、主廊から祭壇まで見渡したところ

    さすがに大聖堂、壮大です。
    いままでの旅行先の正教会に比べると内装はさっぱりしすぎているように見えてしまうけど(苦笑)。

  • 大聖堂の側廊<br /><br />柱の一つ一つに絵が飾られています。さすがカトリック教会!<br />

    大聖堂の側廊

    柱の一つ一つに絵が飾られています。さすがカトリック教会!

  • 側廊の礼拝堂の1つ

    側廊の礼拝堂の1つ

  • 側廊の礼拝堂の天井<br /><br />白漆喰装飾がステキです。<br />

    側廊の礼拝堂の天井

    白漆喰装飾がステキです。

  • 側廊の礼拝堂の祭壇の銀のレリーフの天使

    側廊の礼拝堂の祭壇の銀のレリーフの天使

  • 主祭壇<br /><br />こうして撮ってしまうとこぢんまりして見えますね(苦笑)。<br />

    主祭壇

    こうして撮ってしまうとこぢんまりして見えますね(苦笑)。

  • 主祭壇とその周り

    主祭壇とその周り

  • パイプオルガン<br /><br />私が見学中、パイプオルガン奏者が練習していました。<br />すてきなBGMとなりました。<br />

    パイプオルガン

    私が見学中、パイプオルガン奏者が練習していました。
    すてきなBGMとなりました。

  • すてきなテラスの説教台と、大聖堂内にたくさん飾られていた宗教絵画の一部

    すてきなテラスの説教台と、大聖堂内にたくさん飾られていた宗教絵画の一部

  • 見逃してはならない、聖カジミエル礼拝堂へ<br /><br />入口からしてカラフルな大理石で豪華です。<br /><br />「大聖堂(アルキカテドゥラ)<br />(前略)<br /> 最大の見どころは、リトアニアの守護聖人であるカジミエラス王子(1458〜1484)が安置された、17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所。大理石と砂岩で造られ、壁面は8つの王の像、漆喰彫刻、フレスコ画などで飾られている。正面に置かれた聖カジミエルの聖画には手が3つあるが、3つ目の手は画家が何度消しても再び現れてきたので残されたと伝えられている。また側面の絵画のひとつは、120年後に棺を開けた際にも遺体に変化がなかったという聖カジミエルの奇蹟を描いたもの。20世紀になって調査が行われ、絶世の美女といわれたバルボラ・ラドヴィライテ妃(1522〜1551)をはじめリトアニアの支配者たちの棺がこの下で発見された。(後略)」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    見逃してはならない、聖カジミエル礼拝堂へ

    入口からしてカラフルな大理石で豪華です。

    「大聖堂(アルキカテドゥラ)
    (前略)
     最大の見どころは、リトアニアの守護聖人であるカジミエラス王子(1458〜1484)が安置された、17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所。大理石と砂岩で造られ、壁面は8つの王の像、漆喰彫刻、フレスコ画などで飾られている。正面に置かれた聖カジミエルの聖画には手が3つあるが、3つ目の手は画家が何度消しても再び現れてきたので残されたと伝えられている。また側面の絵画のひとつは、120年後に棺を開けた際にも遺体に変化がなかったという聖カジミエルの奇蹟を描いたもの。20世紀になって調査が行われ、絶世の美女といわれたバルボラ・ラドヴィライテ妃(1522〜1551)をはじめリトアニアの支配者たちの棺がこの下で発見された。(後略)」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • カジミエラ王子の礼拝堂<br /><br />色大理石の壁がなかなか豪華です。<br /><br />聖カジミエラあるいはカジミエラスとは?<br />「(前略)ヨガイラの孫で1484年3月4日の夜明けのグロドノの城で、ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国アルベルト2世の娘である母親のエリザベータに抱かれながら、25歳の若さで結核で死んだ公子カジミエラス(後略)。<br /> カジミエラスは信心深く、貧者の救済に力を注いだ人である。彼がなした奇跡は多く、正気に戻った女性、50年も苦しんだ癲癇が治癒した男、事故で失った視野を回復した青年、生き返った少女などの様々な話が残っている。特に、祖国をロシアの攻撃から守った聖人として有名で、1518年にポロツクのリトアニア軍がモスクワ軍に包囲されたとき、白馬に跨った鎧の騎士が現れてモスクワ軍に突進し、これに従ったリトアニア軍がロシア軍を総崩れにさせた伝説などは有名である。騎士として出現する聖カジミエラスはモスクワに対するリトアニア人の抵抗のシンボルだったのだ。<br /> 彼はクラクフの宮殿に住んでいたが、1479年の秋から2年間をヴィリニュスやトゥラカイですごしている。この頃のリトアニア領内の住民の90%はロシア正教を信仰するルテニア人だったから、カトリック信仰の篤いカジミエラスは宗教的な危機を感じ、ポーランド王である父親カジミェシュにロシア正教の教会建立を厳しく規制するよう働きかけている。16世紀に宗教改革がリトアニアに波及したとき、その流れを変えて反宗教改革に成功したのも聖カジミエラスの存在があったからだといわれている。(後略)」<br />(「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(原翔・著/彩流社)より引用)<br />

    カジミエラ王子の礼拝堂

    色大理石の壁がなかなか豪華です。

    聖カジミエラあるいはカジミエラスとは?
    「(前略)ヨガイラの孫で1484年3月4日の夜明けのグロドノの城で、ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国アルベルト2世の娘である母親のエリザベータに抱かれながら、25歳の若さで結核で死んだ公子カジミエラス(後略)。
     カジミエラスは信心深く、貧者の救済に力を注いだ人である。彼がなした奇跡は多く、正気に戻った女性、50年も苦しんだ癲癇が治癒した男、事故で失った視野を回復した青年、生き返った少女などの様々な話が残っている。特に、祖国をロシアの攻撃から守った聖人として有名で、1518年にポロツクのリトアニア軍がモスクワ軍に包囲されたとき、白馬に跨った鎧の騎士が現れてモスクワ軍に突進し、これに従ったリトアニア軍がロシア軍を総崩れにさせた伝説などは有名である。騎士として出現する聖カジミエラスはモスクワに対するリトアニア人の抵抗のシンボルだったのだ。
     彼はクラクフの宮殿に住んでいたが、1479年の秋から2年間をヴィリニュスやトゥラカイですごしている。この頃のリトアニア領内の住民の90%はロシア正教を信仰するルテニア人だったから、カトリック信仰の篤いカジミエラスは宗教的な危機を感じ、ポーランド王である父親カジミェシュにロシア正教の教会建立を厳しく規制するよう働きかけている。16世紀に宗教改革がリトアニアに波及したとき、その流れを変えて反宗教改革に成功したのも聖カジミエラスの存在があったからだといわれている。(後略)」
    (「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(原翔・著/彩流社)より引用)

  • 聖カジミエラ礼拝堂の向かって右

    聖カジミエラ礼拝堂の向かって右

  • 聖カジミエラ礼拝堂の向かって左

    聖カジミエラ礼拝堂の向かって左

  • 手が3つあるカジミエラ王子の絵<br /><br />手が3つもあるのは、「地球の歩き方」によると、画家が何度消しても再び現れてきたので残されたからだそうです。<br />

    手が3つあるカジミエラ王子の絵

    手が3つもあるのは、「地球の歩き方」によると、画家が何度消しても再び現れてきたので残されたからだそうです。

  • 100年たっても遺体が傷んでいなかった奇跡を描いた絵<br /><br />向かって左にあった絵です。<br />「地球の歩き方」の解説がなかったら、ただ単に亡くなったことを嘆き悲しんでいる絵かと思ってしまうところでした。<br />それにしては大袈裟な身振りの登場人物がいますけどネ。<br />

    100年たっても遺体が傷んでいなかった奇跡を描いた絵

    向かって左にあった絵です。
    「地球の歩き方」の解説がなかったら、ただ単に亡くなったことを嘆き悲しんでいる絵かと思ってしまうところでした。
    それにしては大袈裟な身振りの登場人物がいますけどネ。

  • 主祭壇脇の金銀レリーフのマリア像<br /><br />マリア像をこれだけ銀で固めるのって、どこかスペインチック?<br />あるいはロシアチック?<br />

    主祭壇脇の金銀レリーフのマリア像

    マリア像をこれだけ銀で固めるのって、どこかスペインチック?
    あるいはロシアチック?

  • 金銀レリーフのマリア像の周辺と主祭壇<br /><br />大聖堂をゆっくり見学を終えた後でもまだまだ10時にはならないので、大聖堂の鐘楼からヴィリニュスを見下ろすのをあきらめ、代わりにゲディミナスの丘から見下ろすことにしました。<br />ゲディミナスの丘へは、上りはリフトを利用しました。<br />下りは坂道を徒歩で下りたら、大聖堂の裏に出ました。<br /><br />ゲディミナスの丘に上るために乗ったリフトとゲディミナスの丘での写真は次の旅行記にて。<br />「2010年バルト3国旅行第2日目(2)ヴィリニュス:旧市街散策(2)ゲディミナスの丘」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10502262<br />

    金銀レリーフのマリア像の周辺と主祭壇

    大聖堂をゆっくり見学を終えた後でもまだまだ10時にはならないので、大聖堂の鐘楼からヴィリニュスを見下ろすのをあきらめ、代わりにゲディミナスの丘から見下ろすことにしました。
    ゲディミナスの丘へは、上りはリフトを利用しました。
    下りは坂道を徒歩で下りたら、大聖堂の裏に出ました。

    ゲディミナスの丘に上るために乗ったリフトとゲディミナスの丘での写真は次の旅行記にて。
    「2010年バルト3国旅行第2日目(2)ヴィリニュス:旧市街散策(2)ゲディミナスの丘」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10502262

  • 裏からみた大聖堂の塔<br /><br />ゲディミナスの丘から下りる途中です。<br />もうほとんど大聖堂広場へ出る坂道の終わり地点でした。<br />

    裏からみた大聖堂の塔

    ゲディミナスの丘から下りる途中です。
    もうほとんど大聖堂広場へ出る坂道の終わり地点でした。

  • 後ろからみた大聖堂広場のゲディミナス大公像

    後ろからみた大聖堂広場のゲディミナス大公像

  • ヨコから見た大聖堂広場のゲディミナス大公像<br /><br />台座にゲディミナスが夢で見たという伝説の狼が吠えています。<br />また、台座にはリトアニア大公国の重要な4人の大公のレリーフがありました。<br /><br />原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)によると、ソ連時代にはここにレーニンの銅像があったらしく、この像が設置されたのは1996年9月とのこと。<br />この銅像の作者はエストニア人らしいです。<br /><br />ちなみにこの像を正面から見た全体図の写真はこちらです。<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19967115/<br />関連の旅行記<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその13:フェスティバルとセレモニー編<ヴィリニュスのヴィータウタス大公戴冠記念日>」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488159/<br /><br />「ゲディミナス(Gediminas, 1275年─1341年)は、中世リトアニア大公国の君主、リトアニア大公(在位:1316年 - 1341年)。これは主にリトアニア人とルーシの君主を意味していた。帝国としてのリトアニア大公国の真の創始者である。キリスト教化に抵抗した熱心な異教徒との評価があるが、実際はより複雑であった。<br />(中略)<br /> ゲディミナスの国内統治は賢君として留めている。正教の修道士と同じくカトリックの修道士を保護し、リトアニアの軍隊の水準を効果的且つ達成的にまで上げ、防壁の輪で国土を守り、首都となるヴィリュニスを含む都市に多くの城を建てている。最初は首都は新しく建てたトラカイだったが、1323年に永遠の首都となるヴィリュニスを再建した。<br /> ゲディミナスは1341年に死去した(暗殺されたと推測されている)。3回結婚して7人の息子と6人の娘をもうけた。2人の息子は戦争で不慮の死を遂げた。ヴィリュニスを統治したヤヴーヌティスが父の死後にリトアニア大公になったが、兄であるアルギルダスとケーストゥティスに廃位された。」<br />(ウィキペディアフリー百科事典より引用)<br />

    ヨコから見た大聖堂広場のゲディミナス大公像

    台座にゲディミナスが夢で見たという伝説の狼が吠えています。
    また、台座にはリトアニア大公国の重要な4人の大公のレリーフがありました。

    原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)によると、ソ連時代にはここにレーニンの銅像があったらしく、この像が設置されたのは1996年9月とのこと。
    この銅像の作者はエストニア人らしいです。

    ちなみにこの像を正面から見た全体図の写真はこちらです。
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19967115/
    関連の旅行記
    「2010年バルト3国旅行ハイライトその13:フェスティバルとセレモニー編<ヴィリニュスのヴィータウタス大公戴冠記念日>」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488159/

    「ゲディミナス(Gediminas, 1275年─1341年)は、中世リトアニア大公国の君主、リトアニア大公(在位:1316年 - 1341年)。これは主にリトアニア人とルーシの君主を意味していた。帝国としてのリトアニア大公国の真の創始者である。キリスト教化に抵抗した熱心な異教徒との評価があるが、実際はより複雑であった。
    (中略)
     ゲディミナスの国内統治は賢君として留めている。正教の修道士と同じくカトリックの修道士を保護し、リトアニアの軍隊の水準を効果的且つ達成的にまで上げ、防壁の輪で国土を守り、首都となるヴィリュニスを含む都市に多くの城を建てている。最初は首都は新しく建てたトラカイだったが、1323年に永遠の首都となるヴィリュニスを再建した。
     ゲディミナスは1341年に死去した(暗殺されたと推測されている)。3回結婚して7人の息子と6人の娘をもうけた。2人の息子は戦争で不慮の死を遂げた。ヴィリュニスを統治したヤヴーヌティスが父の死後にリトアニア大公になったが、兄であるアルギルダスとケーストゥティスに廃位された。」
    (ウィキペディアフリー百科事典より引用)

  • ゲディミナス大公像の台座のレリーフのアルギルダスとヨガイラ<br /><br />アルギルダス(Algirdas/在位1345-1377)<br />ヨガイラ(Jogaila/在位1377-1392)<br /><br />以下は原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)からかいつまんだ説明です。<br />アルギルダスはゲディミナスの7人の息子の一人です。<br />ゲディミナスは原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」によると、リトアニアの小冊子で「リトアニアを東欧で最強の国にした。武力だけでなく外交面でも長けていて、ロシアの広大な地を剣でなく子供たちによってリトアニアに結びつけた。国の繁栄のために商人、職人、農民を誘致した」とうたわれている人物です。<br />ところが、ゲディミナスの死後は7人の息子たちの間で後継者争いが発生し、領土はそのうち4人の息子たちの間で分割されてしまいます。<br />でも、息子のアルギルダスの時代にリトアニアは再び西ロシア一帯を支配する大国となります。<br />ちなみにその中世リトアニア公国の領土をさらに広げて強国としたのは、彼の甥のヴィータウタスです。<br /><br />ヨガイラはアルギルダスの息子で、アルギルダスの後にリトアニア大公となります。彼はヤギェウォ朝のポーランド王国の王女と結婚してポーランド王も兼任します。<br />従兄弟同士のヨガイラとヴィータウタスはリトアニアをめぐる覇権争いでずっとライバルでした。おおざっぱにいうとヴィータウタスがヨガイラをポーランド王と認める代わりに、ヴィータウタスはリトアニアの支配者となります。<br />ヨガイラから、ポーランド王朝はヤギェウォ朝となります。ヨガイラのポーランド王としての名前はヴワディスワフ2世。<br />そして、ポーランド王となったヨガイラはポーランド貴族を優遇します。<br />ヨガイラとポーランドの結びつきは後のポーランド・リトアニア連合国の成立の第一歩といえますが、そのせいでリトアニアは、リトアニアの方が大国なのにポーランドに従属していくことになります。<br />また、リトアニアがカトリック国となるのもポーランドとの結びつきが大きいようです。それまでのリトアニアの支配者は、むしろモスクワ公国をはじめとする正教会圏寄りでした。<br />

    ゲディミナス大公像の台座のレリーフのアルギルダスとヨガイラ

    アルギルダス(Algirdas/在位1345-1377)
    ヨガイラ(Jogaila/在位1377-1392)

    以下は原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)からかいつまんだ説明です。
    アルギルダスはゲディミナスの7人の息子の一人です。
    ゲディミナスは原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」によると、リトアニアの小冊子で「リトアニアを東欧で最強の国にした。武力だけでなく外交面でも長けていて、ロシアの広大な地を剣でなく子供たちによってリトアニアに結びつけた。国の繁栄のために商人、職人、農民を誘致した」とうたわれている人物です。
    ところが、ゲディミナスの死後は7人の息子たちの間で後継者争いが発生し、領土はそのうち4人の息子たちの間で分割されてしまいます。
    でも、息子のアルギルダスの時代にリトアニアは再び西ロシア一帯を支配する大国となります。
    ちなみにその中世リトアニア公国の領土をさらに広げて強国としたのは、彼の甥のヴィータウタスです。

    ヨガイラはアルギルダスの息子で、アルギルダスの後にリトアニア大公となります。彼はヤギェウォ朝のポーランド王国の王女と結婚してポーランド王も兼任します。
    従兄弟同士のヨガイラとヴィータウタスはリトアニアをめぐる覇権争いでずっとライバルでした。おおざっぱにいうとヴィータウタスがヨガイラをポーランド王と認める代わりに、ヴィータウタスはリトアニアの支配者となります。
    ヨガイラから、ポーランド王朝はヤギェウォ朝となります。ヨガイラのポーランド王としての名前はヴワディスワフ2世。
    そして、ポーランド王となったヨガイラはポーランド貴族を優遇します。
    ヨガイラとポーランドの結びつきは後のポーランド・リトアニア連合国の成立の第一歩といえますが、そのせいでリトアニアは、リトアニアの方が大国なのにポーランドに従属していくことになります。
    また、リトアニアがカトリック国となるのもポーランドとの結びつきが大きいようです。それまでのリトアニアの支配者は、むしろモスクワ公国をはじめとする正教会圏寄りでした。

  • ゲディミナス大公像の台座のレリーフのヴィータウタスとケーストゥティス<br /><br />ケーストゥティス(Kestutis/在位1345-1382)<br />ヴィータウタス(Vytautas/在位1392-1430)<br /><br />以下も原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)からかいつまんだ説明です。<br /><br />ケーストゥティスは、ゲディミナスの7人の息子の一人です。<br />兄アルギルダスはリトアニアの支配者となりますが、ケーストゥティスはトゥラカイ城のトゥラカイ公におさまります。<br />ヴィータウタスはケーストゥティスの息子です。<br /><br />アルギルダスとケーストゥティスは仲の良い兄弟でリトアニアを共同統治しましたが、2人の息子で従兄弟同士のヨガイラとヴィータウタスは長いこと対立します。<br />というのも、アルギルダスとケーストゥティスの間では、先に死んだ方の息子がリトアニアの公位を継ぐ、という約束があったのですが、それに従ってヨガイラがリトアニア公位を継いだら、ケーストゥティスは甥を認めず、自らが大公であると主張してヨガイラを追放してしまうからです。<br /><br />ヨガイラはリトアニアの歴史の中ではむしろずっと敵だったといえるチュートン騎士団(ドイツ騎士団のこと)と手を結んで、和平協定を持ちかけるふりをしてケーストゥティスを謀殺し、ヴィータウタスを捉えてしまいます。<br />ヴィータウタスはからくも脱出しますが、チュートン騎士団は、今度はヴィータウタスと手を組んでしまいます。<br />するとヨガイラは、チュートン騎士団に支配された土地を取り返したいポーランドと手を組み、跡継ぎの男子がいないヤギェウォ朝の王女と婚約してポーランドの助力を得ようとします。<br />ヴィータウタスとチュートン騎士団に圧倒されたヨガイラは、今度はロシア公国と手を組もうとしたり、チュートン騎士団との戦いを避けるためリトアニアの領土の割譲を申し出たりします。<br />リトアニアが小さくなるのを避けたかったヴィータウタスはヨガイラと妥協します。<br />その後のポーランドをはさんだヴィータウタスとヨガイラの対立はややこしくてはしょりますが、彼らの時代の1410年に中世最大の戦闘と呼ばれる「タンネンベルクの戦い」(チュートン騎士団のドイツでの呼び方)あるいは「グリュンヴァルトの戦い」(ポーランドでの呼び方)あるいは「ジャルギリスの戦い」(リトアニアでの呼び方)が起こり、ポーランドとリトアニアの連合軍がチュートン騎士団に決定的な打撃を与えてチュートン騎士団をポーランドの地から追い出ます。<br />ヴィータウタスはこれ以降、リトアニアの支配者として勢力を強めていきます。<br /><br />原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」の中で引用している、リトアニアの小冊子によるヨガイラとヴィータウタスの評価をここで引用したいと思います。<br /><br />ヨガイラ<br />「ポーランド王としてポーランド貴族の政策を推進した人。彼の政策はリトアニアを整理するというもの。功績はタンネンベルクの戦場にポーランド軍を連れていったこと」<br /><br />ヴィータウタス<br />「リトアニアの自立のために戦った人。ジェマイティヤ(現在のリトアニアの北西部。クライペダ県やシャウレイ県やカウナス県の一部も含まれる。)をリトアニアに統合した人。黒海の沿岸まで進軍してリトアニアの国土を拡げて強国とした人」<br /><br />原翔さんも「バルト三国歴史紀行 リトアニア」の中で書いているように、ヨーロッパ史をひもとくとヨガイラの方が登場することが多いです。<br />私自身も2005年のポーランド旅行というきっかけがあったためですが、ポーランド史からヨガイラのことは前から知っていましたが、ヴィータウタスの名前は今回バルト3国を旅行しようと調べ始めるまで全く知りませんでした。<br />また、ポーランド旅行のためにポーランド史をにわか勉強したときは、中世のリトアニア大公国については、そんな国があるんだなぁ、程度の感想しか抱かず、ポーランド史から見たリトアニアは被支配国なので、私自身の感情もニュートラルでした。<br />今回はリトアニア史からポーランドを眺めているため、リトアニアの支配階級がポーランドの貴族に同化して、リトアニアの庶民階級がポーランドに蹂躙されたという視点に共感してしまっているため、ポーランド史を見る目がガラッと変わりました。<br />これぞ、東欧旅行をきっかけに東欧史をひもとく面白さだなぁとしみじみ思っています。<br />もちろん、西欧史も、どちらの立場から歴史を眺めるか次第でガラッと見る目が変わるものですが、なにぶん西欧史は日本でよく扱われていてなじみがあります。<br />東欧史とでは、目からとれるウロコの分厚さが全く違ってきます。<br /><br />「2010年バルト3国旅行第2日目(2)ヴィリニュス:旧市街散策(2)ゲディミナスの丘」へとつづく。<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10502262<br />

    ゲディミナス大公像の台座のレリーフのヴィータウタスとケーストゥティス

    ケーストゥティス(Kestutis/在位1345-1382)
    ヴィータウタス(Vytautas/在位1392-1430)

    以下も原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」(彩流社)からかいつまんだ説明です。

    ケーストゥティスは、ゲディミナスの7人の息子の一人です。
    兄アルギルダスはリトアニアの支配者となりますが、ケーストゥティスはトゥラカイ城のトゥラカイ公におさまります。
    ヴィータウタスはケーストゥティスの息子です。

    アルギルダスとケーストゥティスは仲の良い兄弟でリトアニアを共同統治しましたが、2人の息子で従兄弟同士のヨガイラとヴィータウタスは長いこと対立します。
    というのも、アルギルダスとケーストゥティスの間では、先に死んだ方の息子がリトアニアの公位を継ぐ、という約束があったのですが、それに従ってヨガイラがリトアニア公位を継いだら、ケーストゥティスは甥を認めず、自らが大公であると主張してヨガイラを追放してしまうからです。

    ヨガイラはリトアニアの歴史の中ではむしろずっと敵だったといえるチュートン騎士団(ドイツ騎士団のこと)と手を結んで、和平協定を持ちかけるふりをしてケーストゥティスを謀殺し、ヴィータウタスを捉えてしまいます。
    ヴィータウタスはからくも脱出しますが、チュートン騎士団は、今度はヴィータウタスと手を組んでしまいます。
    するとヨガイラは、チュートン騎士団に支配された土地を取り返したいポーランドと手を組み、跡継ぎの男子がいないヤギェウォ朝の王女と婚約してポーランドの助力を得ようとします。
    ヴィータウタスとチュートン騎士団に圧倒されたヨガイラは、今度はロシア公国と手を組もうとしたり、チュートン騎士団との戦いを避けるためリトアニアの領土の割譲を申し出たりします。
    リトアニアが小さくなるのを避けたかったヴィータウタスはヨガイラと妥協します。
    その後のポーランドをはさんだヴィータウタスとヨガイラの対立はややこしくてはしょりますが、彼らの時代の1410年に中世最大の戦闘と呼ばれる「タンネンベルクの戦い」(チュートン騎士団のドイツでの呼び方)あるいは「グリュンヴァルトの戦い」(ポーランドでの呼び方)あるいは「ジャルギリスの戦い」(リトアニアでの呼び方)が起こり、ポーランドとリトアニアの連合軍がチュートン騎士団に決定的な打撃を与えてチュートン騎士団をポーランドの地から追い出ます。
    ヴィータウタスはこれ以降、リトアニアの支配者として勢力を強めていきます。

    原翔さんの「バルト三国歴史紀行 リトアニア」の中で引用している、リトアニアの小冊子によるヨガイラとヴィータウタスの評価をここで引用したいと思います。

    ヨガイラ
    「ポーランド王としてポーランド貴族の政策を推進した人。彼の政策はリトアニアを整理するというもの。功績はタンネンベルクの戦場にポーランド軍を連れていったこと」

    ヴィータウタス
    「リトアニアの自立のために戦った人。ジェマイティヤ(現在のリトアニアの北西部。クライペダ県やシャウレイ県やカウナス県の一部も含まれる。)をリトアニアに統合した人。黒海の沿岸まで進軍してリトアニアの国土を拡げて強国とした人」

    原翔さんも「バルト三国歴史紀行 リトアニア」の中で書いているように、ヨーロッパ史をひもとくとヨガイラの方が登場することが多いです。
    私自身も2005年のポーランド旅行というきっかけがあったためですが、ポーランド史からヨガイラのことは前から知っていましたが、ヴィータウタスの名前は今回バルト3国を旅行しようと調べ始めるまで全く知りませんでした。
    また、ポーランド旅行のためにポーランド史をにわか勉強したときは、中世のリトアニア大公国については、そんな国があるんだなぁ、程度の感想しか抱かず、ポーランド史から見たリトアニアは被支配国なので、私自身の感情もニュートラルでした。
    今回はリトアニア史からポーランドを眺めているため、リトアニアの支配階級がポーランドの貴族に同化して、リトアニアの庶民階級がポーランドに蹂躙されたという視点に共感してしまっているため、ポーランド史を見る目がガラッと変わりました。
    これぞ、東欧旅行をきっかけに東欧史をひもとく面白さだなぁとしみじみ思っています。
    もちろん、西欧史も、どちらの立場から歴史を眺めるか次第でガラッと見る目が変わるものですが、なにぶん西欧史は日本でよく扱われていてなじみがあります。
    東欧史とでは、目からとれるウロコの分厚さが全く違ってきます。

    「2010年バルト3国旅行第2日目(2)ヴィリニュス:旧市街散策(2)ゲディミナスの丘」へとつづく。
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10502262

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