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最近まで全く歴史に興味の無かった私が、龍馬ブームに取りつかれ、龍馬の足跡をたどり彼方此方と!<br /><br />たまたまやって来た友人が、京都の壬生と伏見に行ってみたいの!と言ったのが土曜日の昼の事、おお!ええの!<br /><br />行きたいの!行こうや!との一言で仲良しの友人夫妻を誘って5人で、龍馬の足跡を辿りました。<br /><br />京都は2週間目の訪問です。<br /><br /><br />その晩の事、大河ドラマ「龍馬伝」!・・・・・<br /><br />驚く事に今日行った、龍馬の常宿「伏見の寺田屋」・「壬生の新撰組の屯所」が出てくるではありませんか。

龍馬も通った幕末の激動の地へ!

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2010/08/28 - 2010/08/29

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風遊

風遊さん

最近まで全く歴史に興味の無かった私が、龍馬ブームに取りつかれ、龍馬の足跡をたどり彼方此方と!

たまたまやって来た友人が、京都の壬生と伏見に行ってみたいの!と言ったのが土曜日の昼の事、おお!ええの!

行きたいの!行こうや!との一言で仲良しの友人夫妻を誘って5人で、龍馬の足跡を辿りました。

京都は2週間目の訪問です。


その晩の事、大河ドラマ「龍馬伝」!・・・・・

驚く事に今日行った、龍馬の常宿「伏見の寺田屋」・「壬生の新撰組の屯所」が出てくるではありませんか。

同行者
友人
交通手段
自家用車
  • 1864年(元治元年)6月、新撰組[しんせんぐみ]が京都の旅館池田屋[いけだや]に集まっていた長州藩の尊王攘夷派の志士たちを襲った事件です。この事件で多くの志士たちが死んだり、傷を負ったりしました。<br />

    1864年(元治元年)6月、新撰組[しんせんぐみ]が京都の旅館池田屋[いけだや]に集まっていた長州藩の尊王攘夷派の志士たちを襲った事件です。この事件で多くの志士たちが死んだり、傷を負ったりしました。

  • 南座の近くに駐車して。

    南座の近くに駐車して。

  • 四条大橋を渡り

    四条大橋を渡り

  • 高瀬川付近を散策です。

    高瀬川付近を散策です。

  • まず最初に発見したのは、土佐藩邸跡。<br /><br />脱藩した龍馬は出入りが出来たのかな?

    まず最初に発見したのは、土佐藩邸跡。

    脱藩した龍馬は出入りが出来たのかな?

  • 土佐藩邸跡

    土佐藩邸跡

  • 四条通りから三条通りに出てきました。

    四条通りから三条通りに出てきました。

  • 佐久間象山の五月塾で学んだ著名な門下生<br />    吉田寅次郎(松陰)・小林虎三郎・勝麟太郎(海舟)・坂本竜馬・橋本左内<br />    武田斐三郎・河井継之助・山本覚馬・加藤弘之<br />  五月塾への来訪者 西郷隆盛<br />  高義亭への来訪者 中岡新太郎<br />弟子の吉田松陰の松下村塾で学んだ著名な門下生<br />    伊藤博文・高杉晋作・山縣(半蔵)有朋・久坂玄瑞<br /><br />幕末の動乱期から明治維新にかけて、各層各界で活躍した人たちです。<br />HPで検索してみてください。色々な情報が得られます。<br /><br />

    佐久間象山の五月塾で学んだ著名な門下生
        吉田寅次郎(松陰)・小林虎三郎・勝麟太郎(海舟)・坂本竜馬・橋本左内
        武田斐三郎・河井継之助・山本覚馬・加藤弘之
      五月塾への来訪者 西郷隆盛
      高義亭への来訪者 中岡新太郎
    弟子の吉田松陰の松下村塾で学んだ著名な門下生
        伊藤博文・高杉晋作・山縣(半蔵)有朋・久坂玄瑞

    幕末の動乱期から明治維新にかけて、各層各界で活躍した人たちです。
    HPで検索してみてください。色々な情報が得られます。

  • 武市半平太(瑞山)寓居跡<br />住所 京都市中京区木屋町姉小路下ル<br /><br /> 武市半平太(瑞山)が京都での活動拠点として寓居していた場所です。当初は佐藩邸を利用していたが、後にこの地に移りました。

    武市半平太(瑞山)寓居跡
    住所 京都市中京区木屋町姉小路下ル

    武市半平太(瑞山)が京都での活動拠点として寓居していた場所です。当初は佐藩邸を利用していたが、後にこの地に移りました。

  • 吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)<br /><br />幕末の土佐藩士。尊皇攘夷派。天誅組の一人。諱は重郷。出身地は高知県高岡郡津野町。 <br /><br />土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。<br />12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元年須崎浦下分庄屋。6年檮原村番人庄屋に転じ、それぞれの任地で冶績を挙げた。<br />その間高知城下に出て、楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め、武市半平太(瑞山)の門に出入りした。 <br /><br />文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、翌年武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞と会見する。 <br />(資料参照)

    吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)

    幕末の土佐藩士。尊皇攘夷派。天誅組の一人。諱は重郷。出身地は高知県高岡郡津野町。

    土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。
    12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元年須崎浦下分庄屋。6年檮原村番人庄屋に転じ、それぞれの任地で冶績を挙げた。
    その間高知城下に出て、楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め、武市半平太(瑞山)の門に出入りした。

    文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、翌年武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞と会見する。
    (資料参照)

  • 京都府庁

    京都府庁

  • 本題からは離れて、本能寺!

    本題からは離れて、本能寺!

  • 1582年(天正10)織田信長宿泊中に明智光秀(あけちみつひで)の襲撃にあって焼失、再建の途中、豊臣(とよとみ)秀吉の区画整理にあい、89年に現在地に移転した。1864年(元治1)の蛤御門(はまぐりごもん)の変でまた全焼したため仮本堂を建立、1928年(昭和3)に現本堂を落慶。境内に信長公本廟(ほんびょう)がある。

    1582年(天正10)織田信長宿泊中に明智光秀(あけちみつひで)の襲撃にあって焼失、再建の途中、豊臣(とよとみ)秀吉の区画整理にあい、89年に現在地に移転した。1864年(元治1)の蛤御門(はまぐりごもん)の変でまた全焼したため仮本堂を建立、1928年(昭和3)に現本堂を落慶。境内に信長公本廟(ほんびょう)がある。

  • 坂本龍馬・中岡新太郎、終焉の地(近江屋)<br />今はコンビニに成っています。

    坂本龍馬・中岡新太郎、終焉の地(近江屋)
    今はコンビニに成っています。

  • 坂本竜馬と中岡慎太郎は河原町にあった近江屋で暗殺される

    坂本竜馬と中岡慎太郎は河原町にあった近江屋で暗殺される

  • 四条大橋からの桟敷風景

    四条大橋からの桟敷風景

  • 歌舞伎の創始者といわれる安土桃山時代の女性芸能者。<br /><br />伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている。<br />

    歌舞伎の創始者といわれる安土桃山時代の女性芸能者。

    伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている。

  • 壬生寺<br />江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行こなわれたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。

    壬生寺
    江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行こなわれたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。

  • 本堂

    本堂

  • 新撰組の墓

    新撰組の墓

  • 新撰組屯所・八木家

    新撰組屯所・八木家

  • 京都の壬生村は、新撰組の発祥の地です。 当時の新撰組の屯所であった八木邸や旧前川邸が、今でも残っています。 当時、壬生村は水菜を栽培する農村地帯だったそうです。ここで採れる水菜が、有名な壬生菜です。<br /> <br />新撰組<br /> 徳川第14代将軍家茂の上洛の警護のために、京に上った浪士隊のうち芹沢鴨、近藤勇ら13名は、 壬生村の郷士八木家の邸を宿所とし、ここで文久3年(1863)3月に新撰組を結成しました。<br />幕末の京の治安を守るために、新撰組は活動を始めますが、急造した組織であり、考え方も違うことから、 なかなか全体の結束が固まらなかったようです。 このため、近藤勇や土方歳三らは、下に示すような「局中法度」を作り、結束を図りました。 しかし、初代局長でもあった芹沢 鴨はこの規則を守らず、文久3年(1863)9月18日、 土方、山南、沖田、原田らによって、暗殺されることになったのです。 この後、近藤勇が芹沢 鴨に代わって新撰組局長となり、全体を統率していくことになります。<br />当時は幕末の動乱期です。討幕を期す勤皇派と佐幕派の対立が激化し、 池田屋事件(注1)、近江屋事件(注2)、 寺田屋事件(注3)など、幾多の事件が起こりました。 新撰組が活躍した期間は、わずか5年くらいの間でしたが、大変な激動の時期だったわけです。 <br />(資料参照)

    京都の壬生村は、新撰組の発祥の地です。 当時の新撰組の屯所であった八木邸や旧前川邸が、今でも残っています。 当時、壬生村は水菜を栽培する農村地帯だったそうです。ここで採れる水菜が、有名な壬生菜です。

    新撰組
    徳川第14代将軍家茂の上洛の警護のために、京に上った浪士隊のうち芹沢鴨、近藤勇ら13名は、 壬生村の郷士八木家の邸を宿所とし、ここで文久3年(1863)3月に新撰組を結成しました。
    幕末の京の治安を守るために、新撰組は活動を始めますが、急造した組織であり、考え方も違うことから、 なかなか全体の結束が固まらなかったようです。 このため、近藤勇や土方歳三らは、下に示すような「局中法度」を作り、結束を図りました。 しかし、初代局長でもあった芹沢 鴨はこの規則を守らず、文久3年(1863)9月18日、 土方、山南、沖田、原田らによって、暗殺されることになったのです。 この後、近藤勇が芹沢 鴨に代わって新撰組局長となり、全体を統率していくことになります。
    当時は幕末の動乱期です。討幕を期す勤皇派と佐幕派の対立が激化し、 池田屋事件(注1)、近江屋事件(注2)、 寺田屋事件(注3)など、幾多の事件が起こりました。 新撰組が活躍した期間は、わずか5年くらいの間でしたが、大変な激動の時期だったわけです。
    (資料参照)

  • 8月29日放送の大河ドラマ「龍馬伝」で岩崎弥太郎が龍馬と間違えられて拷問を受けた壬生の新鮮組屯所。

    8月29日放送の大河ドラマ「龍馬伝」で岩崎弥太郎が龍馬と間違えられて拷問を受けた壬生の新鮮組屯所。

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