2010/07/17 - 2010/07/17
660位(同エリア4104件中)
みにくまさん
祇園祭に行ってきました。
祇園祭は日本3大祭の一つで、八坂神社をはじめ氏子区域一帯で、7月1日の「吉符入」から31日の「疫神社夏越祭」までの1ヶ月間、様々な神事や行事が執り行われます。
そのハイライトである「山鉾巡行(17日)」は、絢爛豪華な懸装品をまとった「動く美術館」と称される32基の山鉾が、祇園囃子を奏でながら、大勢の観衆の待つ都大路を進みます。
尚、今年は”ユネスコ無形文化遺産”に登録されて初となる巡行となりました。
この旅行記では、巡行順の1から9までを掲載。
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
2:孟宗山(もうそうやま)
3:木賊山(とくさやま)
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
5:函谷鉾(かんこぼこ)
6:霰天神山(あられてんじんやま)
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
8:太子山(たいしやま)
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
◎ 駒形提灯が映える山鉾に、宵山気分は最高潮! 「祇園祭・宵山」
2010/07/16
http://4travel.jp/traveler/minikuma/album/10479971/
おまけ↓↓↓
http://yaplog.jp/awamoko/archive/213
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三条大橋
◎ 山鉾巡行概要
京都・八坂神社の祭礼である祇園祭でおこなわれる行事で、一連の祭のうち最大の見どころの一つ。
山鉾巡行は、7月17日夕刻に行なわれる八坂神社の神幸祭(神輿渡御)に先立って、中京・下京の町衆が各町に伝わる山や鉾を曳行する行事であり、同日の午前中に市街中心部である四条通〜河原町通を巡行する。
巡行の途中では、四条堺町の関所で巡行順を定めた籤(くじ)を京都市長があらためる「鬮(くじ)改めの儀」や、四条通麩屋町に建てられた斎竹に張られた注連縄を長刀鉾の稚児が太刀で切り落とす「注連縄切り」などの儀礼がある。また、四条河原町・河原町御池の交差点などでおこなわれる「辻回し」も、巡行中の大きな見せ場となっている。 -
河原町御池の交差点手前
◎ 巡行のスケジュールと通過予想時間
9:00 四条烏丸 出発
四条堺町 くじ改めの儀
四条麩屋町 注連縄切り
9:45 四条河原町 辻廻し
10:30 河原町御池 辻廻し
11:35 御池新町 辻廻し
私たちが河原町御池の交差点に到着したのは9:50くらい。本当は交差点の角のところに陣取るのが一番良かったのですが、そこは一番人気の特等席なので、私たちが行った時にはすでにたくさんの人垣ができており、あきらめました。
それで、交差点から30mくらい手前のところで待つことにしました。 -
祇園祭・山鉾巡行
私たちの位置から山鉾が見え始めたのは、9:50くらい。
ゆーっくり進んできているので、目の前にくるにはまだ時間がかかりそう。 -
祇園祭山鉾連合会
全ての山鉾を先導する旗手の方。
後ろの進行具合を測りながら、ゆっくり進んでいます。
◎ 山鉾は”やまぼこ”か”やまほこ”か?
2008年に京都市がユネスコへの無形文化遺産登録の申請書をまとめる際、「鉾をhoko、山鉾をyamabokoと2種類の読み方を示すと、外国人が混乱する」として、連合会の了承を得た上、ローマ字表記を「hoko」に一本化。長刀鉾も「naginatahoko」とした。
連合会も従来は「NAGINATABOKO」などとパンフレットに記してきたが、09年にすべて「HOKO」に改めた。
これにより、国際的には”やまほこ”で統一されたわけだが、単独の「鉾」は「ほこ」と読んでも「山鉾」という2文字は「ぼこ」と濁りやすいのが日本語の特性だ。広辞苑も「やまぼこ」と表記。各山鉾町の町衆の多くも「やまぼこ」「なぎなたぼこ」と呼ぶ。
結論からすると、「どちらでも好きに使えば良い」ということになっているようだ。
なので私は、単独なら”ほこ”、○○鉾なら”ぼこ”と記載することにしました。 -
祇園祭・山鉾巡行
前方向かい側に舞妓さんを発見。 -
祇園祭・山鉾巡行
10:06
まだまだ山鉾がこちらに来る気配がありません。
この日はとってもいい天気に恵まれました。
とはいっても正確には猛烈な暑さで、汗だくになりながらの観覧だったわけですが(+_+)
雲がけっこう多かったので、太陽が隠れると少し涼しくなるのですが、雲から出ると、燃えるような暑さになりました。 -
祇園祭・山鉾巡行
10:10くらいになって、山鉾が動き始めたようです。 -
1(番号は2010年の巡行順、以下同):長刀鉾(なぎなたぼこ)
「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。
命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀による。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用。しかし何かと不思議が起こり、返納したという。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。
創建は、嘉吉元年(1441)説がある。真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾である。
※ この旗のふりがなは”なぎなたほこ”になっていますが、他の旗の中には”ぼこ”と書かれているものもあり、やはりまだ統一されていない模様。
私は当初の予定通り、”ぼこ”でそろえようと思います。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
来ました来ました。
やっぱり大きいですねー。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
◎ 鉾の構造
重量:8.5〜12トン
高さ(鉾頭迄):17〜25m
高さ(屋根迄):8m
車輪:直径2m前後
屋根の長さ:4.5m
屋根の幅:3m前後
床面積:4.5畳〜6畳
胴長さ:約3.5m
胴幅:約3m
石持長さ:約6m
曳く人(曳子):30〜40人
音頭取:4人
屋根方:4人
囃子方:交替員を含めて約40人 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
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1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
太い縄を持って、8〜12トンという巨大な鉾を曳きます。
人数は約40人で、彼らのことを曳子と呼ぶそうです。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
昨日の宵山の時は、夜間だったことであまりハッキリと見えませんでしたが、こうして近くで見ると、キラキラの装飾が素晴らしいですね。
山鉾からは祇園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞こえてきて、いやがうえにも祭の雰囲気を盛り上げます。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
◎ 音頭取
「よーい よ〜い、え〜んやらや〜」の掛け声にあわせて、曳子が綱を引っ張ります。
この車の運転手のような重要な役割を担っています。
音頭取は、4人で行うのが普通だそうですが、あとの2人はどこにいらっしゃるのでしょうか。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
生稚児(いきちご)と言われるお人形さんのようなお子様を中心に、街衆がたくさん乗りこんでいます。
昔は他の鉾も生稚児が乗っていたそうですが、今は長刀鉾だけになり、他の鉾には人形が乗っています。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
◎ 稚児(ちご)
かつては船鉾を除く鉾に10歳前後の少年が稚児として乗っていた。
2000万円とも言われる費用がかかる為(自費なのか!?)、京都市内の資産家等の家庭から禿(かむろ)と呼ばれる家来役の少年2名と共に選ばれ、祭りの年の6月頃に発表される。
7月1日の「お千度」(おせんど)を皮切りに数多くの行事に舞台化粧と同様の厚化粧で登場、13日午前中の「稚児社参」では狩衣に金の烏帽子で登場、「正五位少将」(大名と同等)の位を授かり、これ以降は女子の手を一切借りない。
17日の山鉾巡行では金襴の振袖に紋織りの袴、鳳凰の天冠で登場、禿を両脇に従え、鉾の中央で稚児舞を披露する。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
鉾頭(天辺の刃の部分)まで見ようと思うと、かなり上を見上げなければなりません。
全体像を撮るのは、近距離ではほぼ不可能。かなり離れないと全体は撮れません。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
上からぶら下がっているロープは命綱で、屋根方が持っているのだと思われます。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
破風
屋根の装飾も煌びやかですごいです。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
鉾の後方には必ずこのような車が従っていました。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
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1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
◎ 辻廻し
十数トンもある鉾を直角に方向転換させます。割竹を車輪の前に敷き、水をかけ、音頭取りの扇子さばきに合わせて曳き手がかけ声とともに一斉に滑らせて廻す様子は迫力満点。
鉾は曲がるための機構を持ちませんので、方向を大きく変える際は綱を真横に引いて半ば無理やり方向を変えます。
もう少し向こう側から見物したなら、この辻廻しの様子も見られたのですが、今回は近づくこともできず諦めました。 -
1:長刀鉾(なぎなたぼこ)
この辻廻しが、思いの他大変なようで、少しずつ引っ張って角度を調整し、直角に向きを変えるまで、かなりの時間を要していました。 -
2:孟宗山(もうそうやま)
中国24孝の1人孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわったが、寒の季節で1本もない。疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出、母親は元気を回復した話からきている。
町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来する。
白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆。極彩 色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を放っている。 -
2:孟宗山(もうそうやま)
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2:孟宗山(もうそうやま)
町衆の方々。 -
2:孟宗山(もうそうやま)
◎ 山の構造
重量:0.5〜1トン
昇手14〜24人
飾り金具・人形の大きさなどで大きく異なる。 -
2:孟宗山(もうそうやま)
中国24孝の1人孟宗の像。
孟 宗(もう そう、?〜271年)は、中国三国時代の呉の人。字は恭武。江夏の人。呉の大臣。「二十四孝」の一人に数えられると共に、モウソウチクの名前の由来になっている。 -
2:孟宗山(もうそうやま)
朱大傘 -
2:孟宗山(もうそうやま)
◎ 胴懸(どうかけ)
★「孟宗山」の胴懸が約200年ぶりに新調 平山郁夫氏が原画制作
京都・祇園祭で巡行する32基の山鉾の一つ、「孟宗山」の装飾が、昨年死去した日本画家、平山郁夫氏が描いた原画によって約200年ぶりに新調され、京都市中京区の画廊で12日、報道陣に公開された。
新調されたのは、山鉾の側面を飾る胴懸(どうかけ)「砂漠らくだ行」(縦1・2メートル、横1・6メートル)2枚。左胴懸は太陽の下を、右胴懸は月明かりが照らす中を、それぞれらくだに乗った隊商が砂漠を旅する光景を描いている。
原画を基に、川島織物セルコン(京都市左京区)が制作。絹製の綴(つづれ)織(おり)で、らくだにあたる太陽や月の光が金糸やプラチナ糸で繊細に表現されている。
平山氏は月の胴懸を制作中に死去。親交の深かった孟宗山保存会の佐藤征(まさ)司(じ)代表は「完成品を見てもらえず残念だが、先生の世界平和と人類の繁栄を願いを、この懸装品と祭りを通じて世間に広めていきたい」と話した。
(2010年6月12日 産経ニュースより) -
2:孟宗山(もうそうやま)
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祇園祭・山鉾巡行
目の前を2基目の孟宗山が通り過ぎて行きましたが、その前方ではまだ長刀鉾が方向転換をしている途中で、やっと45度くらい曲がったところでした。
写真左の孟宗山の見送りは、全山中唯一の墨書きだそうです。 -
3:木賊山(とくさやま)
京都市下京区仏光寺通西洞院西入ル木賊山町の山。
世阿弥の謡曲「木賊」から着想され、木賊刈りの老翁が別れた愛児を思いながら舞う場面を表現している。等身大の老翁像は足台に元禄5年(1692)の墨書があり、右手にかま、左手に木賊を持つ。 -
3:木賊山(とくさやま)
山や鉾の露払い的な役割として、旗持ちの後ろに錫杖を持つ人たちがつづく、それをジャラジャラと引きずりながら歩いています。山や鉾によって「チャリン棒」「チリン棒」と呼び名が微妙に異るようです。
どの山鉾にもこの杖の方が2名いて、それぞれ鉄製の杖だったり竹製だったりして、面白いです。 -
3:木賊山(とくさやま)
木賊って何のことでしょう?
トクサ(砥草、木賊、学名:Equisetum hyemale L.)とは、シダ植物門のトクサ科トクサ属の植物。
これかな? -
3:木賊山(とくさやま)
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3:木賊山(とくさやま)
この像が左手に木賊を持っているとのことでしたが、写真には写っていませんでした。 -
3:木賊山(とくさやま)
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3:木賊山(とくさやま)
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3:木賊山(とくさやま)
◎ 見送り 牡丹双鳳文金絲繍(ぼたんそうおうもんきんしぬい)の綴錦
山鉾の後方に掛けられた刺繍や絵などを”見送り”と呼ぶようです。 -
祇園祭・山鉾巡行
目の前を木賊山が通り過ぎて行きましたが、前の方ではまだ長刀鉾が悪戦苦闘しています。
その間、後ろの山鉾は、一旦待機して休憩するなりしています。 -
祇園祭・山鉾巡行
長刀鉾の屋根の上の屋根方。
そろそろ完全に方向転換して、進んでいきそうな気配です。 -
祇園祭・山鉾巡行
後ろを見ると、何基かの山鉾が待っているのが分かります。
こんな感じで、ちょっと進んで、休んでを繰り返しながらゆっくり巡行していくのでしょう。 -
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
町名(風早町)の由来であるお公家さん・風早家の屋敷があり、この屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったという言い伝えがある。
山は、立派な朱塗りの鳥居が特徴だ。
天神さんと関係深いのが梅の花。松と一緒に立てられた紅梅が、華やかな雰囲気をかもしだす。
見送りの毛綴(けつづれ)が名高いが、山所在地近くで生まれた故梅原龍三郎画伯の富士山の絵をもとにした綴になっている。 -
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
◎ 露払い
先ほどは鉄製でしたが、今度は竹製。
こちらは「ばらん竹」と呼ばれています。
これを引いて歩く役割を”露払い”というようです。 -
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
旗持ち〜露払いの後を歩く方は、町の名士さんなのだそうです。 -
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
立派な朱塗りの鳥居が特徴で、金箔置の社殿に天神(菅原道真公)を安置している。天神像は、寛永7年(1630)制作の大変古いものです。 -
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
◎ 前懸 雲竜文の繻子地(しゅすじ)錦
山の前方にかけられている飾りが、前懸(まえかけ)です。まとめると↓
全面 前懸(まえかけ)
側面 胴懸(どうかけ)
後方 見送り -
4:油天神山(あぶらてんじんやま)
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4:油天神山(あぶらてんじんやま)
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5:函谷鉾(かんこぼこ)
向うの方に次の大きな鉾がやってきました。
これくらい離れていないと、全体を撮影することができません。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
遠くの鉾頭を望遠で撮影したので、かなりブレています。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
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5:函谷鉾(かんこぼこ)
中国古代史話、孟嘗君の故事に基づく。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。
真木は22メートル。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられる。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
旗持ち
旗には”かんこくぼこ”と書かれていましたが、他の資料を見るとほとんどが”かんこぼこ”となっているので、こちらを使うことにしました。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
曳子(曳方)
大きな鉾は、40人くらいの曳子が力を合わせて動かすのですが、少しでも息が乱れるとうまく動かないそうで、全員が一致団結することが重要なのだとか。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
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5:函谷鉾(かんこぼこ)
屋根方 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
音頭取
前懸は旧約聖書創世記の場面を描いた十六世紀の毛綴で、重要文化財です。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
稚児(ちご)は人形です。
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の兄実良卿をモデルにした「嘉多丸(かたまる)」という稚児人形を用いています。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
曳子(曳方) -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
車方 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
鉾の真下には、割竹が収納されていました。
これは辻廻しの時に必要なもので、間もなく河原町御池の交差点にさしかかるので、その手前で準備をしているようです。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
胴懸 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
◎ 胴懸
梅に虎を織り出した李朝製の朝鮮緞通、花文のコーカサス緞通、玉取獅子文中国緞通の三枚継ぎ。 -
5:函谷鉾(かんこぼこ)
後方の破風とその周辺装飾。 -
祇園祭・山鉾巡行
私たちが陣取っていた場所より少し手前で、浴衣を着た女性が、山鉾を運んでいる方たちに飲み物を運んでいました。 -
祇園祭・山鉾巡行
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6:霰天神山(あられてんじんやま)
永正年間、京都が大火にあった際、急に霰が降り、たちまち猛火は鎮火したが、霰とともに小さな天神像が降りてきた。そんな由来から、火よけの神様として祀られたのがおこり。
霊験はあらたかで、多くの山鉾が焼けた天明、元治の大火にもこの山だけは残り、町の誇りになっている。
「雷(らい)よけ火よけのお守は、これより出す…」。宵山に子供たちが歌いながらお守授与の受け付けをする。檜皮葺きの立派な社殿が山に乗る。 -
6:霰天神山(あられてんじんやま)
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6:霰天神山(あられてんじんやま)
◎ 露払い
「ばらん竹」バージョン。 -
6:霰天神山(あられてんじんやま)
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6:霰天神山(あられてんじんやま)
天神さまなので、朱塗りの鳥居、社殿、梅の花に、松のセット。 -
6:霰天神山(あられてんじんやま)
横から見たところ。
欄縁に沿った朱塗り極彩色の回廊をめぐらした山には、唐破風春日造の檜皮葺きの社殿が乗り、塀内には12本の若松が立つ。 -
6:霰天神山(あられてんじんやま)
後ろから見たところ。 -
6:霰天神山(あられてんじんやま)
◎ 見送り 雲龍文綴錦(つづれにしき) -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
1987年、実に117年ぶりに巡行に復帰した。
元治の兵火のあとも巡行に加わっていたが、明治5年以降、消滅同然となり道具類も散逸していた。
綾傘同様、壬生六斎の棒振り、囃子での協力が復活に力となった。祇園唐草模様の大傘に錦の垂(さがり)で飾った花傘は応仁いらいの傘鉾の原形を伝える。赤熊(しゃぐま)鬼面 の棒振り、踊り手、囃し方が歩くさまは地味だが、素朴な味わいがある。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
◎ 露払い
鉄製のものは、錫杖(しゃくじょう)です。
錫杖は、遊行僧が携帯する道具(比丘十八物)の一つである杖。梵語ではカッカラ (Khakkhara)といい、有声杖、鳴杖、智杖、徳杖、金錫ともいう。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
ここからでは分かりにくいですが、向うの方で子供たちが踊っているようです。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
音は微かにしか聞こえませんが、望遠レンズで何とか対応しましょう。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
この踊り、調べたら分かりました。
踊りとはやしは室町時代に京都から広まった風流踊りで、今も滋賀県の滝樹神社に伝わる「ケントウ踊り」を参考に復元したものである。
その構成は、棒ふり2人と鉦(かね)・太鼓・ササラ各2人の計8人の子供で、大人のかげばやしに合わせて踊る。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
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7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
太鼓を持った子、鉄っぽいもの(鉦か?)を持った子、後ろには棒を持った子が踊っています。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
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祇園祭・山鉾巡行
最初の長刀鉾もでしたが、次の函谷鉾も方向転換にてこずっているので、後ろの山鉾が動きを止め待っています。 -
祇園祭・山鉾巡行
後ろの方を見るとこんな感じに、見えるだけで5基ほどが待機しています。
ただ、椅子などに優雅に腰かけ、お茶などを飲みながら待っているあたり、余裕が感じられ、さすがは京都のお祭りだと感心します。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
この2人の棒を持った子は、もしかしたら露払い役なのかもしれません。 -
7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
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7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
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7:四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
四条傘鉾は、応仁の乱以前に起源をもち、山鉾の非常に古い形態の一つである傘鉾の姿を現在に伝えているものです。 -
8:太子山(たいしやま)
山鉾の真木は松が通例だが、この山のみ杉を立てる。
聖徳太子が四天王寺を建立するさい、自らが良材を求め山に入り、老人に大杉の霊木を教えられ、六角堂をたてたことに由来する。太子は、日本の仏教の基を築いたことで知られ、宗派をこえての「太子信仰」が民衆の間に広くあった。
山に飾る太子像は、江戸時代の作。トレードマークの鬟(みずら)に髪を結び、ふっくらした顔だち、白二重小袖姿で、高貴な印象をたたえる。 -
8:太子山(たいしやま)
◎ 露払い -
8:太子山(たいしやま)
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8:太子山(たいしやま)
◎ 前懸
「緋羅紗地(ひらしゃじ)に阿房宮(あぼうきゅう)」1999年
秦の始皇帝を描いたものです。 -
8:太子山(たいしやま)
聖徳太子像 -
8:太子山(たいしやま)
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8:太子山(たいしやま)
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9:菊水鉾(きくすいぼこ)
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9:菊水鉾(きくすいぼこ)
謡曲「菊慈童」から着想された鉾。
魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会う。聞けば、少年は700年前に、王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われた。以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長生したという。慈童は、この薬水を勅使に献じた。
昭和28年に復興。
鉾頭には天に向いた16菊。この鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつく。 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
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9:菊水鉾(きくすいぼこ)
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9:菊水鉾(きくすいぼこ)
★ トップ写真 ★
前回の旅行記”祇園祭・宵山”に引き続き、菊水鉾がまたトップになりました。 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
前懸は「飛鶴図」 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
榊の部分に「菊水」と書かれた額が掲げられているが、これは山鉾の中で菊水鉾だけ。 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
さらに上を見てみると、ところどころに菊の装飾。
一番上には、天向きの金色の透かし彫十六菊。 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
ちょうど真横に来たところで止まってくれました。
ここからなら、一番天辺までなんとか撮ることができます。 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
胴懸は、唐獅子図となっているが、これはどう見ても鹿の絵だと思うのだが。
元々菊水鉾には胴懸が2枚あり、それを使い分けているそうなので、これはもう一つの方なのだろう。
どれだけ探しても、それらしい名前が見つからなかった。 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
◎ 音頭取 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
◎ 屋根方 -
9:菊水鉾(きくすいぼこ)
◎ 見送りは「孔雀の図」、昭和30年に完成、皆川月華作
尚、前懸・胴懸・見送りは複数用意されており、毎年いろいろなパターンで飾られているのだそうです。
◎ 第一部 終わり
「祇園祭・山鉾巡行 ②」
http://4travel.jp/traveler/minikuma/album/10480851/
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この旅行記へのコメント (6)
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- 義臣さん 2010/07/20 07:16:21
- 6年
- 6年経つとメンバーも変わってきたようです
祇園さん大好きな坊やも今回は見られません
お稚児さんにはもう無理な年齢に成ったでしょう。
親切なお父さんも役員さんでしたから何処かに。
来年こそ久しぶりに祇園さんへ行きたくなるました。
私の歩き方は 四条烏丸で出発を見
旧丸善さん前でもう一度全山鉾を見送り、、
急ぎ 新町筋で来るのを待つ、、
河原町通りでは一般の人向けにお茶の接待もありましたが
現在は? 腰痛その他でいけなかったのが口惜しい
写真楽しませて頂きました 有難うございます。
義臣
- みにくまさん からの返信 2010/07/20 23:34:41
- RE: 6年
義臣さん、こんばんは〜。
ちょっと調べたら、来年は巡行が日曜日なので、私もまた見に行けそうです。
再来年は火曜日なので、無理でした。
四条烏丸で見て、先回りしてもう一度見るというのは良いかもしれませんね。
私は来年は辻廻しが見たいので、四条御池の交差点に陣取って、終わったら新町筋へ先回りするのが良いかな〜と思いました。
一般の人向けのお茶の接待は、無かったと思います。
巡行参加者には、行進が止まった時にふるまっていたようです。
では〜(^O^)/
-
- 義臣さん 2010/07/20 07:03:59
- 雨に降られた
- 雨に降られた時もありました。
特に 山 鉾を引くのでなく
雨の中踊る子供たちの姿は忘れられません。
義臣
- みにくまさん からの返信 2010/07/20 23:26:44
- RE: 雨に降られた
義臣さん、こんばんは〜。
雨が降ったら、踊り子たちはちょっと可哀そうですね。
まぁ、猛暑の中を踊るのも、過酷なことには変わりないかな?
山鉾巡行って、17日と決まっているので、休日に当たるとは限らないですよね。
さらに天気が晴れとは限らないことを考えると、快晴の休日に見られたことって、とても運が良かったのかも。
-
- 義臣さん 2010/07/19 16:49:26
- ユネスコ文化遺産に
- ユネスコの文化遺産に登録されたので
うれしですね
私は出発点で 全 山 ほこを見送ってから
今は無い 丸善さんのお向いから また 全 山 鉾を見送っていました
特に 贔屓は地味な太子山さんで、、
写真ありましたら見せてください
行かなくなってからもう六年経ちました
沢山の写真有難うございます
義臣
- みにくまさん からの返信 2010/07/19 22:42:29
- RE: ユネスコ文化遺産に
義臣さん、こんばんは〜。
今回が初めての祇園祭・山鉾巡行、全32基の山鉾を見てきました。
もちろん太子山もあります。
写真枚数がとても多いので、とりあえず巡行順の9番までで第一部としましたが、太子山は8番目なので、しっかり掲載してあります(*^_^*)
今回もの凄い暑さの中、かなり長い時間アスファルトの上で撮影を続けていたので、巡行が終わった時にはぐったりしてしまい、それ以降の街中巡行や、神幸祭には行けませんでした。
これは来年の楽しみにしておきます。
では〜ちょっと写真枚数多くて重いですが、
また良かったら見て下さい。
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