2010/05/27 - 2010/05/27
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ベームさん
5月27日、3日目。
今日はギュスターヴ・モロー美術館を見てパリの北にあるサン・ドニ大聖堂に行き、パリに戻りオペラ座、オランジュリー美術館などを見る予定だったがついてない1日だった。
ギュスターヴ・モロー美術館、サン・ドニ大聖堂、オランジュリー美術館が職員の(多分突然の)ストライキで休館になっていたのだ。日本では考えられないことで、もしこんなことをすれば世論に袋叩きにされること間違いなし。しかしフランスではこんなこと日常茶飯事らしい。
写真はオペラ座/かって舞台を飾ったエトワールを描いた絵でしょう。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス
- 航空会社
- ANA
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5月27日。
サン・トリニテ(三位一体)教会。
ホテルの近くのスタバでクロワッサンとコーヒーの朝食を済ませサン・ラザール通りを少し東に、エチエンヌ・ドルヴ広場に聳えるサン・トリニテ教会。 -
サン・トリニテ教会。
日本語では聖三位一体教会。 -
サン・トリニテ教会。
一寸寄っていきます。 -
サン・トリニテ教会。
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サン・トリニテ教会。
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ギュスターヴ・モロー美術館。
ロシュフーコー通りに在ることになっているが何回か道を尋ねてようやくたどり着くと扉になにやら張り紙。急にストライキをするので休館、とある。エッ! ほかにも何人か観光客がぼやいている。仕方が無い、とぼとぼサン・ラザール駅に引き返す。もう足が疲れた気分。 -
メトロサン・ラザール駅。
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サン・ドニ大聖堂。
サン・ラザール駅からメトロ13号線で北へ20分弱、パリ市ではなくサン・ドニ市である。
ここにも張り紙。エッ、エッ!! なんとここもストライキで肝心の王家の墓所には入れない。がっくり。
正面だけ写真に撮りパリに引き返す。ここは今回の旅行の主な目的の一つ。明日また来るぞ!。 -
サン・ラザールに戻り駅前のレストランで昼食。無難なスパゲティにした。ビールはクローネンブルク1664、アルザス地方の産で、地ビールと言うものかどうかは分からない。この銘柄はパリのあちこちで見かけた。
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贖罪聖堂。
サン・ラザールに戻り昼食後近くの贖罪聖堂へ。
幸いここは開いていた。扉を開けて中に入ると職員がいて1時からだと言う。開館までしばらく待つうちに雨が降りだす。
フランス革命時ルイ16世、マリー・アントワネットほかコンコルド広場で処刑された多くの遺体が葬られたマドレーヌ寺院の墓地、その墓地の上に建てられたのが贖罪聖堂。ルイ16世とマリー・アントワネット(と思われる)の遺体は1815年王政復古時にルイ18世によりフランス王家の墓所サン・ドニ大聖堂に移葬された。 -
贖罪聖堂。
聖堂前のエントランスの両側に並ぶ墓。1792年8月10日のパリ市民、義勇兵のチュイリュリー宮襲撃の際ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを守って死んだ600名のスイス人傭兵を祭ったもの。
この結果国王一家はタンプル塔に幽閉され、革命議会は王権を停止しブルボン王朝は終焉を迎える。
写真は外の道路側から撮ったもの。上の写真の両側に並ぶのがそれ。 -
贖罪聖堂。
贖罪とは何に対しての贖罪なのだろう。フランス革命の恐怖政治の時流された多くの血に対してだろうか。ロラン夫人がギロチンで処刑される時の言葉、「自由の名においてなんと多くの罪が犯されることでしょう」。 -
贖罪聖堂。
チャペル。私以外誰もいなくひっそり。 -
贖罪聖堂。
ルイ16世。 -
贖罪聖堂。
マリー・アントワネット。 -
贖罪聖堂。
処刑の前日マリー・アントワネットが義妹、ルイ16世の妹エリザベスに宛てた告別の手紙。アントワネット像の下の大理石板に彫られている。
分かるところだけ訳してみると:
さようなら、私のやさしい愛情深い妹よ、この手紙が届きますように。毎日私のことを思ってください。私の可哀想ないとしい子供たちと同じようにあなたにも心からのキスを送ります。神様! 永遠にいとしい人たちのもとを去るのはなんと胸が引き裂かれることでしょう。さようなら! さようなら!
最後にマリー・アントワネットの署名
私はマリー・アントワネットフアンでもベルバラフアンでもありませんが”アディユー!、アディユー!”の言葉にいささか粛然とさせられました。しかしついにこの手紙はエリザベスには届かなかったらしい。
エリザベスも翌年ギロチンの露と消えた。 -
贖罪聖堂。
ルイ16世の遺体が発掘された場所に設けられた祭壇。 -
贖罪聖堂。
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贖罪聖堂。
ルイ16世。 -
贖罪聖堂。
マリー・アントワネット。シャンティイ城やヴェルサイユ宮殿で見られる絶頂期の肖像画にくらべなんとやつれていることか。 -
ちなみにシャンティイ城、コンデ美術館にあるマリー・アントワネットの肖像画。
まだ十代だったアントワネットと比べるのは酷です。 -
ヴェルサイユ宮殿にあるアントワネットの絵。
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贖罪聖堂。
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いささか暗い気持ちで贖罪聖堂を後にする。贖罪聖堂から歩いてオペラ座へ行く途中のギャルリー・ラファイエット。
オ・プランタンと並んでいる。 -
オペラ座。
1875年ナポレオン3世の第2帝政時代に完成。歌劇の殿堂となったが、1989年オペラ・バスティーユが出来てから設計者の名をとってオペラ・ガルニエと呼ばれ、もっぱらバレエが上演されている。しかしオペラと言うと今でもこのガルニエのことを思う。 -
オペラ座。
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オペラ座の裏側、ディアギレフ広場。
この右にオ・プランタン、左にギャルリー・ラファイエットがある。 -
オペラ座。
内部見学。9ユーロ払えば自由に見て周れる。大理石の中央階段。この日はリハーサル中とかで観客席には入れなかった。シャガールの天井画が見たかった。 -
オペラ座。
中央階段。 -
オペラ座。
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オペラ座。
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オペラ座。
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オペラ座。
大広間。その絢爛たる装飾はヴェルサイユ宮殿の鏡の間をしのぐ。 -
オペラ座。
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オペラ座。
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オペラ座。
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オペラ座。
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オペラ座。
オルケストゥルと扉に書かれている。オーケストラボックスの入口ではなさそうなので1階の椅子席のことか。 -
オペラ座。
プリマドンナの肖像画。 -
オペラ座。
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オペラ座のバルコニーからオペラ通り。
パリ大改造のオスマンの傑作。突き当たりはルーヴル。外は雨になっていた。 -
オペラ座。
別の時に撮った夜景。 -
オペラ座からヴァンドーム広場、マドレーヌ寺院は歩いてすぐ。
ヴァンドーム広場。
1720年ルイ14世の記念のため造られその騎馬像があったが革命時壊され、ナポレオンが自分の記念柱を建てた。1870年のパリ・コミューンの際この記念柱は倒され今のは1873年に再建されたもの。
この広場の周りにはホテルリッツやブルガリなど有名店が軒を連ねる。 -
ヴァンドーム広場。
ショパンの没した住居跡、現宝飾店ショーメ。 -
ショーメの壁に掲げられているショパンのプレート。
”1810年2月22日ポーランドに生まれたフレデリック・フランソワ・ショパンは1849年10月17日この住まいで死す”
ショパンは今ペール・ラシェーズ墓地に眠っている。 -
マドレーヌ寺院。
1764年着工し完成したのは1862年。
ショパンの葬儀、フォーレのレクイエムの初演がここで行われた。 -
マドレーヌ寺院。
周りを取り囲むコリント様式の円柱は52本。 -
マドレーヌ寺院。
ルメートル作「最後の審判」の彫刻。 -
マドレーヌ寺院。
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中央祭壇。
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中央祭壇。
この寺院の名の謂れの聖女マグダラのマリア。なんという神々しさ。 -
マドレーヌ寺院。
丁度聖歌隊のの練習が始まった。 -
マドレーヌ寺院。
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マドレーヌ寺院。
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マドレーヌ寺院からロワイヤル通り、コンコルド広場、ブルボン宮方面。
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コンコルド広場。
1772年ルイ15世広場として造られたが、1792年革命広場、1795年和解(コンコルド)広場と名を変える。
フランス革命時ここにギロチンが据えられ、ルイ16世、マリー・アントワネット、ダントン、ロベスピエール、ロラン夫人(ジロンド派のヒロイン)、デュ・バリー夫人(ルイ15世の愛妾)、シャルロット・コルディ(マラーを暗殺した)など1343人の処刑が行われた。
王族の一員でルイ16世の従兄弟でありながらルイの死刑に賛成票を投じたオルレアン公フィリップものち反革命の罪によりここで処刑されている。その息子が1830年の2月革命で”フランス人民の王”として国王になったルイ・フィリップ。
正面左の建物はホテルクリヨン、右が海軍省。 -
コンコルド広場。
1829年にエジプトから贈られたルクソール神殿の柱オベリスク。紀元前13世紀、ラムセス2世の時代のもの。 -
コンコルド広場。
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コンコルド広場:マルセイユ市の像。
広場の四隅にはフランスの8大都市を表す女性像が建っている。
東北の隅から時計回りにリール・ストラスブール、リヨン・マルセーユ、ボルドー・ナント、ブレスト・ルーアン。実際の地理上の順番通りになっている。 -
コンコルド広場。
噴水。
この後広場の隣、チュイルリー公園にあるオランジュリー美術館に行く。入口に張り紙が。悪い予感。”急なストライキにより午後から休館”。エッ、エッ、エッ!!!。フランス人はかくもかくなることに寛大なのか!。どっと疲れが出て建物の写真を撮り忘れた。泣く子とストライキには勝てぬ。
ここでフランス人の国民性を呪っても始まらない、気を取り直して次へ。 -
コンコルド橋を渡った所がブルボン宮。
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ブルボン宮。
1722年ブルボン公爵。現国民議会上院。 -
セーヌ川に掛かるコンコルド橋。
コンコルド広場とブルボン宮を結んでいる。1791年。 -
アレクサンドル3世橋。
コンコルド橋の一つ下流、セーヌ川に掛かるもっとも華麗な橋。
1894年の露仏同盟記念として1900年パリ万博時完成。 -
アレクサンドル3世橋。
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アレクサンドル3世橋。
アンヴァリッドの前庭よりグラン・パレ方面。 -
アレクサンドル3世橋。
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アレクサンドル3世橋。
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セーヌ河岸。
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グランパレ。
1900年パリ万博のメイン会場。現大型展示場、科学博物館。 -
グラン・パレ。
アレクサンドル3世橋と地下鉄シャンゼリゼ・クレマンソー駅の中間にある。 -
グラン・パレと向き合うプチ・パレ。
グランパレと同じく1900年第5回パリ万博時に建てられた。現美術館。 -
プチパレ。
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アンヴァリッド。
ルイ14世が造った国立廃兵院。ここのドーム教会には1840年セント・ヘレナから無言の帰還をはたしたナポレオンの遺骸が眠る。
1789年7月14日のフランス革命で市民はここの武器を奪ってバスティーユを襲撃したという。 -
アンヴァリッド。
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アンヴァリッド付属ドーム教会。
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アンヴァリッド:ドーム教会の天井。
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アンヴァリッド・ドーム教会のナポレオンの棺。
1840年セント・ヘレナから帰還したナポレオンの棺は凱旋門を潜りここに納められた。 -
アンヴァリッド・ドーム教会。
セント・ヘレナでナポレオンが着用していた服と帽子。 -
アンヴァリッド:サン・ルイ教会。
ドーム教会と背中合わせになっている。 -
アンヴァリッドよりアレクサンドル3世橋、グラン・パレ方面。
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メトロ1号線でシャンゼリゼ・クレマンソー駅からルーヴル・リヴォリへ。
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
14〜16世紀にかけ建設された王家の教会。1572年サン・バルテルミーの新教徒虐殺はこの教会の鐘の合図で始まった。ルーヴル美術館の東にある。 -
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サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
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サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
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サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
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サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
16世紀のステンドグラスが美しい。 -
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
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サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
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サン・ジェルマン・ロクセロワ教会。
今日はこれで終わり。ストライキに祟られた1日だった。ピラミッドの虎屋でうどんとビールの夕食を済ましバスでサン・ラザールのホテルまで帰る。
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この旅行記へのコメント (2)
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- イロコさん 2010/07/22 23:06:24
- 11年前に贖罪教会に行きました
- フランス旅行最後の日に贖罪教会に行きました。
訪れる人もなく私と友人の二人でした。
教会の中のマリー・アントワネットの像を見ました。
当時は肖像画は無かったような気がします。
あの頃はデジカメを持っていなかったので、写真も撮りませんでした。
ですから記憶も定かではありません。
地下のステンドグラスの一部が割れていましたが、今はなおっている
ようですね。
地下にルイ16世とマリー・アントワネットが埋葬されていたせいか、
日本に帰るとしばらくは暗闇から出られない夢をしょっちゅう見ました。
フランス最後の日に訪れたので余計に思いがこもったのかもしれません。
今度フランスに行くとしたら、もう一度贖罪教会を訪ねてみたいですね。
それとサン・ドニ教会も。
しかし、あのストはどうにかならないものですかね。
私もルーブル美術館でストがあり1日目は見られず、フランス最後の日に3時間位で大急ぎで見て回りました。
- ベームさん からの返信 2010/07/23 08:52:04
- RE: 11年前に贖罪教会に行きました
- イロコ様
私の旅行記お目にとまり嬉しいです。
私が訪れた日も他に誰もいなくシーンとした雰囲気でした。
マリー・アントワネットフアンでもベル薔薇フアンでもありませんが、一 人の高貴な女性の運命を考えると粛然とした気持ちになりました。
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