2010/05/09 - 2010/05/09
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tabioyaji2さん
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承徳の避暑山荘は、第5代康熙帝が1701年の秋、熱河のこの地を訪ねて、この景勝が気に入り、ここに行営を建設するように直隷総督に命じた。それがこの避暑山荘のはじまりだ。完成は乾隆帝の時代である。おおよそ90年の歳月をかけて完成された。離宮と庭園とで構成されていて、庭園内には数々の建造物・寺院等がある。清朝の最盛期の離宮である。
離宮は、皇帝が北京から7日の旅を経て、この離宮で半年の間政務を摂ったといわれる。
ただ駆け足の見学だから、詳細を知るところではない。ただ戦前に日本の学者がこの地を調査していて、現在でもその本が、唯一のとは言わないまでも、有力な文献になっている。
ここは、熱河作戦と呼ばれる、昭和8年に、日本軍が金山嶺長城まで国民軍を追い出して満州国の領土とした経緯が有る。その後日本は中国との長い戦争を開始することになる。
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避暑山荘の入り口、麗正門。この門のから両サイドに城壁が築かれており、その広さは庭園の中に山を取り込んでいる。城壁の長さは10kmに及ぶ。
康煕帝が、初代皇帝ヌルハチ時代の金の首都奉天(現在の瀋陽)に行幸する折、この承徳に立ち寄ることが多く、その風景を委託気に入って離宮を建設することを決めた、1703年のこと。乾隆帝治世1741年から大規模な改修仮名されて1790年に完成する。
この正門も歴史遺産の一部なんだろうが、壁に「世界遺産」プレートがはめ込まれていて、門にも手を加えているのは気になりましね。 -
正門前の立派な石像の獅子。いわば狛犬であるけれど立派です。今では触れないように柵が設けられている。
避暑山荘など観光に来る人は少ないのではないかと思ったが、とても中国人の国内観光客が多く、合わせて白人観光客も多いのに驚かされた。日本人はわれわれのツアー16人だけであった。現地ガイドのリーさん、48歳の少し強いおばさんが、達者な日本語で説明してくれます。
ここは、承徳の町外れで、武烈河が街の東を流れている。承徳大橋が街の中心にいく橋出、その北上した所に松鶴橋という大きな新しい橋を渡り、山荘東路に入って、麗正門大街という商店や飲食店の並ぶ通りに面して、この山荘がある。 -
麗正門の山門の額でいいのかな。満州文字(現在は使われていない)、モンゴル語、漢字、チベット語、ウイグル語で書かれている。
清朝が多民族国家であることを示した表示なのだ。これをして清朝の時代から、チベットは中国の領土であるという共産党の言い分は通るわけではない。
ガイドは、政治の話をしてはいけないと、されている。清朝時代は多民族をまとめようとしていたという説明であった。 -
麗正門を通り、山荘正殿の午門に至る。ここに康熙帝が書いた「避暑山荘」の額が掲げられている。
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正宮午門の扁額。
この「避暑」の避は、つくりが立つに十ではなく、一本横棒が多い。これは康熙帝が、自らの権威をあらわすために、一本増やしたのだという。
この避暑山荘の建造物は、ごてごてした色彩がなく、日本人の感覚からすると好ましいといえるだろう。 -
「避暑山荘」の扁額のある内午門を通り、この正殿のある四合院式の建築物がある。正宮は楠木殿といわれる。それは楠で建築されていて、楠で建築されているからだ。そして楠は夏になると木の匂いがでて、虫を寄せ付けないのだという。それで建設以来、そのままの建造物として保たれているという。ガイドのリーさんが大きな声で説明してくれた。この中に、紫禁城の大和殿にあるような皇帝の玉座が有る。ビデオで撮って、写真は撮り忘れたみたい。
この山荘についての解説は「人民中国」のネット版の観光の項の世界遺産の中の説明が、一般的な案内としては、今のところ詳しいのではないかと思う。 -
正殿は皇帝が日常の政務をつかさどるところであった。この建物群は、北京の紫禁城の権威を見せびらかすような趣向がなく、金の瑠璃瓦も、大理石の欄干やベンガラ色の壁もなく、黒いレンガ屋根と楠の色合いといい、実に上品な風情だ。
キンキラ金にしなくても皇帝の権威は保てるというのに。
この殿堂は康熙50年(1711)に建築されたけれど乾隆19年(1754)に楠木で改築されたのだ。 -
楠木の色合い、でざいんなどとてもシックである。
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シンプルだけど美しい。
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伝道は康熙帝が記した「澹泊敬誠」の扁額がかけられている。その外の軒には乾隆帝の詩の扁額がある。
皇帝といえど、紫禁城のような権威を見せびらかす建物より、このような簡素ではあるが、落ち着ける離宮を好んだのではないかとも思える。
西欧の宮殿と比べると、この離宮はシンプルであるし、皇帝と言えど、これだけの建物があれば十分に暮らせるということに、どこか人間くささを感じる。大きければいいと言うものではないのだ。 -
乾隆帝の詩の扁額
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注意してみると、それぞれ木彫のすばらしい物であることがわかる。
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乾隆帝の騎馬絵と連れの人。この絵は当時宣教師として中国に着たが、その後長く皇帝に仕えたイタリア人ジョゼッペ・カスティリオーネが描いた有名なものである。もちろんポスターですが、「澹泊敬誠」から「煙波致爽」の館に移るところにあった。
そうですね、宮殿の配置図やパンフレットがないのが問題ですね。まだ化財に対する意識は低いように思える。どう見ても文化財を守ると言うよりは、観光資源として金儲けの対象としている感じがする。
売店などあるけれどみやげ物店のようでしかない。 -
皇帝の寝室のある「煙波致爽」の建物。中央は皇帝が、皇后や后や妃の拝謁を受ける部屋で、左の部屋が寝室。
寝室の置く左手に小さな出入り口があり、その出入り口から夜になると、夜伽の女性が素肌のまま布団にくるまれて、二人の宦官に担がれて運ばれたという。暗殺を恐れて裸のままに入れたのだと言う。
そして、寝室の前には宦官が、夜伽の間見張り役としていて、時間になると、窓の枠をノックして、「皇帝様時間ですよ」と知らせるのだと、ガイドが説明してくれた。
東寺はガラスはないので紙の障子窓であったと言う。今はガラスがはめられている。
寝室は8畳ほどの広さで、おくの壁際に寝台がすえつけられてあった。みんなして皇帝様の寝所を覗き込む。考えてみるとどこかおおらかな。 -
寝所のある館から後宮の建物に続く廊下。
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後宮の建物の「松鶴斎」。この建物は建物の内部には階段がなく、右の岩のところが会談二なっていて、そこから上がる造になって入。乾隆帝の母親「皇太后」のために建てたという。
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先ほどの廊下から西太合の中庭に出る通路から見えた建物の一部。手入れがなされていない状態がわかる。
批判するわけではないのだけれど、やはりまだ文化財に対するイッパンの人たちの関心が薄いのだと思うのと、その価値を理解していないのではないかと思える節がある。文化財のなかでタバコを吸う人を見たこともあった。
信金上では草ぼうぼうと洗濯物があった場所があって、覗きに言ったら扉を閉めてしまった。
見えるところだけ体裁がよければ主義的なところがあって、とても気になった。
文化大革命の後遺症のような気がする。観光に力を入れているけれど、まだまだ努力が必要だと思える。 -
西太合の館と中庭。この建物は、右の部屋で西太合が日々暮らす部屋で、中央が拝謁の間である。とても小さくて一部屋8畳ほどの広さしかないように見えた。
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中庭といっても何もなくここに売店があって、お土産品を置いていて、ここのパンフレットとか解説書のようなものはなかった。
まだ文化財を文化財として維持することより、食うために利用するという発想のほうが強いのだと思う。
中国人の団体や、ドイツ人の観光客などが来ていて、ここが世界的にも知れ渡っていることのほうが驚きだった。 -
西太合の館(左)、真ん中の空間が、廊下から来た通路。あの空間の左側に手入れのされていない部分があった。
ごみが落ちていないだけでも、きれいに維持していると思える。
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この旅行記へのコメント (3)
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- Humanrights4allさん 2010/06/09 23:10:05
- 石濱先生が講演でおっしゃっていたことを思い出しました+
- 抜粋:白雪姫と七人人の小坊主達 石濱 裕美子氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
’(NHKでの番組に対して)扁額は満洲・モンゴル・チベット・漢字で記されており、その四つの字体が同じ大きさであるように乾隆帝はすべての民族の文化を尊重していた、ときて、三月のチベット蜂起の映像をだして、今の中国政府がチベット文化を抑圧しているがゆえに、こんな問題がおきている’
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-300.html
’清朝皇帝は自らがマイノリティであったため、多種多様な文化を尊重し共生させるすべにたけていたのである。’と石濱氏講演のときに、おっしゃってました。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-441.html
- tabioyaji2さん からの返信 2010/06/23 08:24:51
- RE: 石濱先生が講演でおっしゃっていたことを思い出しました+
- > 抜粋:白雪姫と七人人の小坊主達 石濱 裕美子氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
> ’(NHKでの番組に対して)扁額は満洲・モンゴル・チベット・漢字で記されており、その四つの字体が同じ大きさであるように乾隆帝はすべての民族の文化を尊重していた、ときて、三月のチベット蜂起の映像をだして、今の中国政府がチベット文化を抑圧しているがゆえに、こんな問題がおきている’
> http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-300.html
>
> ’清朝皇帝は自らがマイノリティであったため、多種多様な文化を尊重し共生させるすべにたけていたのである。’と石濱氏講演のときに、おっしゃってました。
> http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-441.html
- tabioyaji2さん からの返信 2010/06/23 08:42:50
- RE: RE: 石濱先生が講演でおっしゃっていたことを思い出しました+
- ご指摘ありがとうございます。
石浜先生の著作を今回のたびの前に読んでいきました。生きのいいきれいな先生ですね。私もファンですよ。
今は漢民族が支配してるという意識ですからね。明朝と同じ、永楽帝のような天子でも現れないと無理でしょうね。今回中国にいってふと思ったのですが、人民解放軍て国軍ではなくて、共産党の軍隊なんですよね。すごい国が隣人なんですよね、じつは。
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