2010/03/27 - 2010/03/27
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ぶんたさん
おっ坂本竜馬! 良い男だねぇ〜
(よく知ってますね)
まあ タイトルに あったからな でっ何をした人?
(えっ 知らないんですか? って わたしも詳しくないです)
※坂本 龍馬(さかもと りょうま 1836年1月3日-1867年12月10日 満31歳没)
日本の近世末期に活動した武士。土佐郷士に生まれ、脱藩したのち、倒幕および明治維新に影響を与えた幕末の志士である。
- 交通手段
- 私鉄
-
っで ここはドコやねん
(土佐神社)
それは高知県高知市にある神社やろ
(もちろんそうですよ まあ坂本龍馬も来たので京都の土佐神社ってとこですね)
※岬神社・土佐稲荷
京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前島町317-2
蛸薬師通り河原町と木屋町の中ほどにある岬神社は元は土佐藩邸(史跡めぐり18番)の中に鎮座し坂本龍馬ら土佐藩の志士達もよく参拝したといいます。「土佐稲荷神社」とも呼ばれ赤いのぼりがはためく境内には、小さい龍馬像・肖像画もあります。 -
ほう そうかいな わかった
(小さいけど なかなか見応えのある神社ですね)
小さいは よけいじゃ -
三条小橋?
(このあたりは幕末維新の志士の寓居跡など多くの史跡が残るですよ)
ふーん ちょっとだけ おもしろそうやな
(っで 寓居跡ってなんやぁ)
はい あとで調べておきます
※三条小橋(さんじょうこばし)
三条通の高瀬川にかかる橋 高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以によって、物流用に開削された川 鴨川にかかる三条大橋とともに、東海道の起点であり、宿屋や土産物屋の街として栄えた
【三条小橋へのアクセス】
京阪電車 三条駅 徒歩約3分
市バス 三条京阪前 徒歩約3分 -
さっそく寓居跡やて
(調べましたぁ 一時的に身を寄せること。また、その住まい。仮住まい。仮寓。 自分の家をへりくだっていう語。だそうです)
そうか 本人が住んでたり 隠れ家があったところやな
(そんな感じですね)
っで 武市瑞山先生って
※武市瑞山(武市半平太(月形半平太)1829〜65 満36歳没)
土佐藩郷士で江戸に学び尊王攘夷を志し,土佐勤王党を結成した。藩内の主流であった公武合体派を退け藩論を尊王攘夷に導いた。文久2(1862)年山内容堂(1827〜72)に従って上洛し,この地に住んで応接役として各藩士と交わった。翌年京都留守居役となるが,8月18日の政変以後,尊王攘夷派は弾圧され,9月に土佐で投獄され,慶応元(1865)年切腹を命じられた。 -
あれっ 寓居跡などの史跡は?
(はい そう思って歩いていたら原付バイクが行儀よく並んでいたんですよ)
ふーん なんで並んでるの -
わぁー 駐車場に並んでいたんやぁ
(しかも原付満車って)
さすが行儀の良い京都やなぁ -
おぉー いきなり 桂小五郎かいな
(知ってるんですか)
知ってるよ桂小太郎やろ 銀時がいっつも「ズラ」って言ってからかってるやん
(それってもしかして 銀魂ですやん)
みんなー いま映画やってるよー 銀魂新訳紅桜篇
※桂小五郎(木戸 孝允 きど たかよし、1833年8月11日 - 1877年5月26日)
長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末期には、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。剣豪桂小五郎一説には、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされる、また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたという逸話がある。 -
あれー? 木の店やのに 酢屋って
(そこっ!)
そうや おかしいやろ
(ココ酢屋は1721に創業し「木」一筋に280年なんですよ)
それにしてもややこしい
(もともと酢屋嘉兵衛さんのお店なんです)
はい わかりましたぁ っで ここに何しに来たん? -
酢屋は坂本龍馬寓居跡かいなぁ
(そうなんです海援隊屯所跡でもあるんです)
※坂本龍馬が近江屋で襲撃される直前まで身を寄せ、海援隊の京都本部が置かれていた
酢屋嘉兵衛宅です。龍馬は、酢屋2階の出格子から高瀬川の川面に向かって自慢のピストルの試し撃ちをしていたと伝えられています。酢屋の前の通りは「龍馬通」と名づけられ今なお、人々に親しまれています。 -
今すぐ二階の窓から龍馬にピストルで撃ってほしいなぁー
(あぶないわぁ) -
遭難之地って
(遭難(そうなん)とは、生死に関わる危険に遭遇することで、広義には暗殺事件などを含むが、他に山、海での遭難も言う)
えっ だったら このコンビニで遭難したんか
(もともとは京都の由緒ある醤油屋でした)
そうなん しょうゆうことでしたか
※近江屋事件(おうみやじけん)京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町
河原町通蛸薬師の醤油屋の近江屋で、薩長同盟と大政奉還の立役者だった土佐藩の坂本龍馬と盟友 中岡慎太郎が、京都見廻組の襲撃を受け、両名とも殉死した事件
近江屋では、坂本龍馬のために、土蔵を改造して隠れ家にした。万が一の時には、土蔵から梯子を使って、裏の稱名寺に逃げられるようになっていたといわれる。事件のときには、中岡慎太郎が訪ねてきて、母屋の2階奥の八畳間で話し合っていた。 -
ここに書いてある通りなんか
(いろいろと説はありますが 風邪で隠れ家から出てきていた坂本龍馬と相談で来ていた中岡慎太郎とが何者かに暗殺された場所です 犯人の特定は未だされていません 薩長同盟を主導し倒幕と日本の近代化を願う二人は幕府派にとってみれば最も邪魔な二人だったのです 龍馬は当日に慎太郎も2日後には息を引き取りますが奇しくも襲撃のあった11月15日は龍馬の33回目の誕生日でした) -
これは?
(見たとおりですよ)
坂本龍馬って結婚してたんやぁ
※坂本龍馬お龍「結婚式場」跡
所在地 東山区三条通白川橋東入南側(東山ユースホステル前)
元治元年(1864)8月初旬、坂本龍馬と妻お龍は「内祝言」すなわち内々の結婚式をしました。龍馬とお龍の出会いや「内祝言」の具体については、(明治32年)ごろに」 聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍は1906年まで生きていました。 この地が選ばれたのは、お龍の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったそうです。 -
おおおぉー 奥さん綺麗じゃのおー
(今回一番 大きい声ですね)
っで だれ?
(調べましたぁ↓見て下さい っで今回は お龍さんで お終了)チャンチャン
※坂本 龍(さかもと りょう1841年−明治39年 享年66)
1841年、医師・楢崎将作の長女として京都に生まれる。1866年、寺田屋襲撃の際に龍馬に急を知らせたる。その後結婚。二人で行った鹿児島への旅が、日本で最初の新婚旅行といわれている。1867年、龍馬の死後は一時坂本家に世話になっていた。土佐を出る際は、龍馬からの書簡を燃やし処分している。のちに西村松兵衛と再婚。1906年、横須賀で死去(66歳)。墓は神奈川県横須賀市の信楽寺にある。
【お龍に関する龍馬書簡】
・慶応元年9月9日、乙女・おやべ宛の龍馬書簡・・・「まことにおもしろき女」「今の名ハ龍と申、私しニにており候」
・慶応2年12月4日、乙女宛の龍馬書簡・・・「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も此龍女おればこそ、龍馬の命ハたすかりたり」
・慶応3年5月28日、お龍宛の龍馬書簡・・・この1通だけ残っており、龍馬が暗殺された近江屋の「井口家文書」から発見され、京都国立博物館に寄贈されている
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