1996/08/14 - 1996/09/01
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イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの接点、キリスト教文明とイスラム文明との接点にある、この世に二つとない魅力的な街「イスタンブール」
そこから、パムッカレやカッパドキア、トラブゾンやドゥバヤズットなどアナトリアの見所を訪れます。
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トルコの旅
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1996年、トルコを旅しました。
エジプトから空路で入り、アナトリアからイランへと抜けました。
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《SUNSET》世界の夕日と夕焼け写真まとめ【アジア・アフリカ・アメリカ】
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- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー
-
8月14日(水)
エジプトのカイロから1時間ほどのフライトでイスタンブールに到着した。
飛行機が着陸に成功すると、乗客から拍手が沸き起こったのが印象的だった。
既に夕方だったが、スルタンアフメット地区にあるトロイホテル(8$)の部屋を見つける。
イスタンブールはカイロに比べると、車がきちんと車線を守って走っているし、建物も乗りものも全てにおいて小綺麗で近代的に見えた。
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アジアとヨーロッパを繋ぐ文明交差点「イスタンブール」(トルコ)
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8月15日(木)
この日は旧市街の歴史的地区を歩き回った。
まず、最初に訪れたのがアヤ・ソフィア。
東ローマ帝国随一の聖堂として知られ、その後オスマン・トルコ時代にはモスクに改修され、現在では、博物館として一般に公開されている。
イスタンブールの重層的な歴史を象徴するような建物だ。
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イスタンブールのローマ遺跡巡り|ここはかつてローマ帝国の首都だった
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紀元360年、ローマ皇帝コンスタンティウス2世によって建造されたのがはじまりとされているが、その後2度消失。現在の建物は、ユスティニアヌス帝の命により、537年に再建されたものだそうだ。
当時、アヤ・ソフィアは、コンスタンティノポリス大主教座の所在地として正教会第一の格式を誇る聖堂であった。またここは、東ローマ帝国歴代皇帝の霊廟としても用いられていたという。 -
1453年、コンスタンティノープルを占拠したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、アヤ・ソフィアをモスクに改造することを宣言。
聖堂内部は金地のモザイクで埋め尽くされていたが、オスマン時代に全て漆喰で塗り固められてしまった。
しかし、オスマン帝国は漆喰を破壊することなく上から塗り固めただけだったため、19世紀以降、漆喰を剥がした本格的な調査が行われ、現在ではそのいくつかを見ることができる。 -
次に向かいにあるブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャミイ)を訪れる。
形がアヤ・ソフィアに似ている。
アヤ・ソフィアは、集中式とバシリカ式を融合した建築物で、東ローマ時代、これに類した建物は建造されることはなかった。
オスマン時代、トルコ人は比類なき建造物としてこのアヤ・ソフィアを畏敬し、後のブルー・モスクやシュレイマニエ・ジャミイの手本としたのである。
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イスタンブールでジャーミィ(モスク)巡り!(ブルーモスク・スレイマニエモスク.etc)
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次に訪れたのがトプカプ宮殿。
オスマン帝国の秘宝を集めた博物館が見もの。
スプーンのダイヤモンドと言われる世界5位のダイヤや、エメラルドをちりばめた刀剣など見応えがあった。
宮殿のテラスからは、ボスポラス海峡とアジアサイドの街並みが見渡せた。 -
ガラタ塔から見たガラタ橋と旧市街の街並み。
イスタンブールは、海によってアジアサイドとヨーロッパサイドに分かれ、ヨーロッパサイドは新市街と旧市街に分けられている。
ガラタ橋は、新市街と旧市街をつなぐ橋だ。
ガラタ橋のたもとでは、サバサンドを売るボートがたくさん並んでおり、よく食べた。
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アジアとヨーロッパを繋ぐ文明交差点「イスタンブール」(トルコ)
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イチオシ
ガラタ塔から夕陽を眺めた。
暮れかかるイスタンブールの街並み。
そのうち、アザーンの呼びかけが方々のミナレットから聴こえ始める。
何千というミナレットから重層的に響き渡るこぶしの効いたアザーンの声。
これぞ、イスタンブールだ。 -
8月16日(金)
この日も旧市街をぶらぶらと歩いた。
これは、「イェレバタン・サルヌジュ」。通称「地下宮殿」と呼ばれる東ローマ時代の貯水槽である。
ユスティニアヌス帝によって建造されたもので、長さ138m、幅65mの空間に、高さ9mの336本の大理石円柱が立っている。
78,000?の水を貯えることができたそうだ。
円柱は寄せ集めの流用品で、土台にはメデューサの顔が彫られた石材なども使われている。
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イスタンブールのローマ遺跡巡り|ここはかつてローマ帝国の首都だった
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地下宮殿を見た後、シュレイマニエ・ジャミイやエジプシャン・バザールをうろつき、エミノニュからハレム・ガラジ行きの船に乗ってハイダルパシャ駅へと向かった。
アジアの終着駅ハイダルパシャは、その肩書きにふさわしい重厚な造りだった。
ここでデニズリ行きの列車の予約をしようとしたのだが、トルコ語しか話せない係員になかなか意図が伝わらず四苦八苦した。
それでも、なんとかチケットはゲットできた。 -
8月17日(土)
午前中にトプカプ宮殿のハレムを見学する。
ハレム内の美しいモザイクタイルや幾何学文様のステンドグラスなどを鑑賞した。
その後は、昼休みがてらにギュルハネ公園へ行って、軽食を食べながらボスポラス海峡を眺めたり、ボスポラス大橋のたもとまで1時間くらいかけてのこのこ歩いていってみたりした。
夜は、ハマムに行った。
ハマムはトルコ式の浴場。湯船はなくサウナのような感じだ。
汗をだらだら流しながら大理石のテーブルに座っていると、しばらくして髭の男がやってきてマッサージを始めた。まず泡を体に塗り、足や胸、手、背中(背骨をごりごりされて痛い)をマッサージする。
その後、別室に行って首、顔、手、足など垢すり手袋で垢すりをされた。
そして、頭を洗われ(念入りに)、水をぶっかけられて終わった。
頭を乾かしながらエルマチャイを飲む。
ハマムはなかなか面白いところだった。
帰りは夜風が気持ちよかった。
写真は、エミノニュのチェリージュース売り -
8月18日(日)
この日は、黒海が見える「アナドル・カヴァウ」へと船で行った。
エミノニュからボスポラス海峡を北上する。
両岸には、ドルマバフチェ宮殿やボスポラス大橋、ルメリ・ヒサール要塞などが見えた。
1時間半ほどでアナドル・カヴァウに到着。
石畳の坂道を登っていくと崩れかけた城塞がある。
そこからは黒海が見えた。はるかロシアからやってきた巨大なタンカーも見えた。 -
8月19日(月)
この日はパキスタンのビザを取るために日本領事館にレターをもらいに行った。
しかし、行くとスイスホテルに移転したとの貼り紙があり。
スイスホテルの場所を聞いて、そこまで坂道を登り降りしながらたどり着く。
レターを申請し、30分ほどでゲット。
パキスタン領事館へはバスが見つからず歩いて行ったのだが、途中道に迷い、人に聞きながらようやく到着した。
ビザ申請書類の記入にも手間取った。
係員に教えてもらってなんとか提出。
翌12:00の受け取りだとのこと。
帰りは新市街のタキシムやイスティクラール通りをぶらぶらしながら帰る。
この界隈は現代的な場所で、ブティックやファーストフード店やレストランなどが並んでいた。
女性もスカーフを被っていない人が多かった。
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イスタンブールをぶらぶら散歩 ? 旧市街から新市街、アジアサイドまで
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8月20日(火)
朝、エミノニュからバスに乗ってシシリへ。
パキスタンビザをもらう。
宿に戻る途中、トルコ人の客引きに話しかけられ、しばらく彼とチャイを飲みながらくだらない話を話した。
午後、宿をチェックアウト。
エミノニュからハイダルパシャ行きの船に乗り、海を眺めながらイスタンブールに別れを告げた。
パムッカレ行きの列車、パムッカレ・エキスプレスは18:10分発。
寝台車を予約したはずなのだが、座席車だった。
あまり快適とは言えない車内で、窮屈な格好で座りながら、鉄路の揺れに身を任せ眠りについた。 -
8月21日(水)
朝8:30分頃、列車はパムッカレの玄関口であるデニズリに到着した。
駅からミニバス(30,000TL)で15分。
パムッカレ村に着く。
泊ったのは、ムスタファ・モーテル。
ツインルームでシャワー・トイレ付(5$)
破格の値段だ。
パムッカレは世界遺産に登録されている石灰棚が有名なところ。
丘の上から湧き出る温泉が、大地を流れ落ちる際に石灰分を沈殿させ、棚田のような景観を形作っている。
とりあえず、石灰棚に行く前に腹ごしらえをしておくことにしたのだが、食べたドネルケバブ(250,000TL)の中にむちゃくちゃ辛い青唐辛子が入っていたため、観光する前にのたうちまわる羽目になった。
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パムッカレ(世界遺産)|真っ白な石灰棚の丘とローマ遺跡が沈んだ温泉
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石灰棚の頂上まで登っていく。
水が上から流れてくる。白い石灰棚には水がたまっており、その中で人々が遊んでいた。
なお、1996年当時は写真のようにこの石灰棚の中で遊ぶことができたが、現在では立ち入りは禁止されているようである。
また、流れ落ちる温水の量も枯渇してきているようで、オフシーズンや夜は湯が止められるという話も聞いた。 -
丘の上にはローマ時代の遺跡、ヒエラポリスがある。
紀元前2世紀、ペルガモン王国によって造られたこの町はローマ時代に最盛期を迎え、公共浴場や劇場、競技場などが建設され大いに賑わったのだという。
写真は劇場跡。
また、丘の上にあるホテルのプールは、水の中にたくさんの遺跡が沈んでいるという点で有名である。
神殿の円柱などがプールの中にゴロゴロと転がっていた。
プールはエメラルドグリーンの温水で小さな泡がぶくぶく浮かぶスパークリングプールだった。 -
パムッカレは夕暮れ時が一番美しい。
石灰棚の上からは、アナトリアの大地が遠くまで見渡せる。
その広大な大地に太陽が沈む頃、白い石灰棚の水面は朱色に染まり、そして、日没の進行に伴って朱から深紅へ、深紅から紫へ、紫から濃紺へと色合いを変えていくのである。
白い石灰棚そのものは、青白く輝き始める。
幻想的な光景だった。 -
しかし、真っ暗になった石灰棚を降りて行くのは難儀だった。
滑らないように、足を踏み外さないように、ゆっくりと慎重に下山した。
明日は、バスでカッパドキアのあるネブシェヒールへと向かう。
13:30分発のバスのチケットをゲットした(1,000,000TL)。 -
8月22日(木)
パムッカレからデニズリのオトガルへ。
カッパドキアのあるネブシェヒール行きのバスに乗る。
ネブシェヒールまでは9時間半の行程。
ベンツのボロバスでアナトリアをひた走った。
景色は灌木が疎らに生えた大地やはげ山の目立つ荒涼とした風景。
羊の群れや小さなモスクが所々に見えた。
夕食はバスの同乗者のトルコ人おじさんがご馳走してくれた。
車内では様々なトルコ人たちに話しかけられ、トルコや日本のことを話した。
ネブシェヒールに到着したのは午後11:30分頃。
ネブシェヒールからギョレメまでタクシーをつかまえて向かった。
宿はGumus Motel&Pension
ドミトリーで350,000TL -
8月23日(金)
カッパドキアのメインの見所、ギョレメ屋外博物館へと歩いて向かう。
ギョレメの町も奇岩がいくつか見られ、朝外に出た時はびっくりした。
昨日は夜に到着したので周りの奇岩が見えなかったのだ。
奇岩には無数の窓や入り口が見える。
中にはキリスト教の修道士たちが描いたと言われるフレスコ画が遺されている。
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カッパドキア(世界遺産)|キノコ岩の並ぶ奇岩風景と地下都市・洞窟ホテル
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カッパドキアは、イスラムの迫害に追われたキリスト教徒が隠れ住んだ場所だと言われているが、太古の昔からこの辺りの人々は岩に住居を造り、生活していたのだそうだ。
ちなみに、キリスト教の修道僧というのも、このカッパドキアに隠れ住んだキリスト教徒が起源のひとつだという。
その後、アヴァノスという陶器の街に立ち寄った後、ゼルヴェの屋外博物館を見学した。
ここもたくさんの奇岩が林立する不思議な景観の場所。 -
イチオシ
ゼルヴェからギョレメまでは歩いて帰った。
かなりの距離だったが、途中おじさんが馬車に乗せてくれたり、子供たちのサッカーに飛び入り参加させてもらったり、なかなか楽しい道中だった。
ギョレメでは、日本人旅行者たちと夕食を食べ、ビールを飲んで旅の話に花を咲かせた。 -
8月24日(土)
朝、地下都市デリンクユへと向かう。
ここもギョレメやゼルヴェの奇岩と同様、キリスト教徒たちが隠れ住んだと言われるアリの巣状の洞窟だ。
洞窟はアドヴェンチャー気分満点で、インディージョーンズになった気分だ。
デリンクユを出た所にあるビザンツ教会を見学していると、トルコ人の2人組に話しかけられた。
彼らに誘われ、一緒にチャイを飲みながら話をした。
彼らはトルコについて色んな事を教えてくれた。
特に興味深かったのは、キプロスの話。
彼らによると北キプロスはトルコ人が多く、独立を求めているがギリシャ人がそれを許さないのだという。数年前、ギリシャ人により2000人のトルコ人が虐殺されたと彼らは言う。
ギリシャに対して、彼らは敵意を剥き出しにしていた。 -
宿をチェックアウトし、バスでギョレメからカイセリの町まで向かった。
カイセリはこの辺りでは一番大きな町。
ここで次の目的地であるトラブゾンまでのバスチケットを購入した。
出発は夜の12:00
6時間ほど時間があったので、町をぶらついた。
街を歩いている時、アフガニスタン人の学生に声を掛けられた。
彼の名はベシール・ノリ。
ンカラの大学に通っており、経営学を専攻しているとのこと。
彼はアフガニスタンのことについていろいろと話してくれた。
当時アフガンは2つの勢力が争っており、国旗も2つあったのだとのこと。
彼は、アフガンは戦争なので国にはいられない。アフガンには100年後に帰るよと笑って言っていた。
カイセリのオトガルでは、トルコ人たちが集団で踊っているのが見えた。
近くにいた人に聞くと、彼らは2年の兵役に向かう友人たちを見送っているのだとのこと。
ベシールの友人も危険なトルコ南東部に行くのだと言っていた。 -
8月25日(日)
12:00カイセリ発のバスだが、1:00になってようやくオトガルに到着した。
Metroのバスはデラックスなバスで、今まで乗ったどのバスよりも設備・サービスとも充実していた。
バスガイドがコロンヤを振りかけ、チャイをくれる。お菓子も配られた(しかし、夜中の3時半にチャイと菓子を配るのがどういう了見からなのか検討もつかない)。
朝、7時半頃目が覚め、外を見ると海が見えた。
黒海だ!
風景はアナトリア中部と違って緑が多い。
海は曇っているせいか鉛色で、まるで日本海のような雰囲気だった。 -
トラブゾンに到着して、宿にチェックイン。
宿はOTEL ERUZURUM(600,000TL)
宿に荷を置いた後、街をぶらぶらと歩いた。
トラブゾンは旧ソ連諸国への玄関口となっている。
オトガルでは、バクーやエレバンなど、グルジアやアゼルバイジャン方面へのバスも発着していた。
街中にはロシア人女性の姿も見かける。
鉛色の海を眺めながら、日本海的なうら寂しさを味わう。
そのうち雨が降ってきた。
海岸沿いには小さな遊園地があり、そのネオンが雨で滲んでいた。
夕食は、大衆食堂でビーフとトマト、ポテトとパンを食べた。
宿は妙にしめった感じの部屋で居心地はあまりよくなかった。
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トルコ東部、黒海沿いの町「トラブゾン」と高地にある町「エルズルム」
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8月26日(月)
トラブゾンに来たのは、ここでイランビザがもらえると聞いたからだ。
しかし、領事館に行くと、領事は今イランに戻っていていないので、エルズルムの領事館へ行けと言われる。
ビザが取得出来なかった私は、ミニバスでスメラ僧院へと向かうことにした。
スメラ僧院へは1時間ほど。出発は10時だった。
ミニバスは緑深い山の中を走って行った。
道の脇には渓流が流れ、切り立った岩壁や流れ落ちる白い滝が見える。
バスを降り、スメラ僧院まで傾斜のきつい坂道をジグザグに登って行った。
スメラ僧院は麓から300mの高さにある。
黙々と登っていると、頭上に突然、岩壁にへばりついた巨大な僧院が姿を現した。
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トルコ東部、黒海沿いの町「トラブゾン」と高地にある町「エルズルム」
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スメラ僧院の創建は4世紀頃。
現在の建物はおよそ13世紀頃に造られたものだという。
内部にはたくさんのフレスコ画が遺されている。
これは、この地にかつて居住していたギリシャ正教系のポントス人が描いたもの。
13世紀、東ローマの亡命政権であるトレビゾンド帝国が打ち立てられるが、15世紀にはこの地はオスマントルコの支配下となる。
以後、イスラム支配下で民族運動を続けていたポントス人だが、20世紀になって、トルコとギリシャの戦争後の住民交換協定により、彼らはギリシャへと移住させられることとなった。
そのため、現在ではポントス人はトルコにはいない。
フレスコ画は落書きによってかなり傷んでいた。
現在修復が進められており、修復完了後は世界遺産に登録される見込みである。 -
トラブゾンに戻った私は、明日のエルズルム行きのバスを予約し、トラブゾンの街を一望できる丘、ボズ・テペへと向かった。
ボズ・テペからはトラブゾンの街並みと広大な黒海が見えた。
丘から降りてバザールに立ち寄る。
果物や野菜、肉やスパイス、チーズなど、様々なものが売られていて活気があった。
その後、雨が降ってくる。
トラブゾンでは毎日雨だった。 -
8月27日(火)
トラブゾンからエルズルムまでは9時間の予定。
しかし、この道中は私にとって苦痛なものとなった。
昨晩、湿った部屋で不快な一夜を過ごしたせいか、朝目覚めると頭が痛く、寒気もする。腹の調子も悪い。
ガンガン痛む頭と、凄まじい腹痛にうめきながら、バスでの道中を過ごした。
バスは予想に反して5時間でエルズルムに到着。しかも、泊る予定だった中級ホテル、Hotel Sefer(700,000TL)の目の前に到着したのだ。
すぐにホテルにチェックインし、トイレに駆け込み、ベッドに横になった。
その後、30分置きのトイレ、猛烈な腹痛。うめきそうなほどの頭痛、38.9分の熱に翌朝まで苦しんだ。
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トルコ東部、黒海沿いの町「トラブゾン」と高地にある町「エルズルム」
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8月28日(水)
この日もホテルで横になり、トイレとベッドの往復を繰り返していたが、昨日に比べて随分と回復してきているようだった。
熱も下がり、トイレの回数も減ってきた。
食事はバナナを食べていたが、夕食にはケバブなどを食べれるようになった。
一日中ホテルに居たので、トルコのテレビをいろいろ見た。
カラテのドラマとか、日本製のアニメとかがやっていた。
トルコ版のMTVも面白かった。 -
8月29日(木)
朝起きると体の調子はほとんどよくなっていた。
この日はイランビザを取得した。
宿の主人にイラン領事館の場所を聞き、朝9時に訪問。
しかし、10時に開くとのことで、近くにあったチャイハネでMTVを見ながら時間を潰す。
10時に領事館へ行き、書類を書いて提出。
ツーリストビザは出ず、トランジットビザのみだと言われる。
しかも、写真2枚と銀行振り込み50$の証明が必要だそうだ。
領事館の人は手続きについて、トルコ語で書かれたメモを渡してきた。
宿に戻り主人にメモを見せると、一緒にトルコジラートバンクに行き、US50$の振り込み、証明書取得をしてくれた。
さらに、写真屋に連れて行ってくれ、写真代の交渉までしてくれた(200,000TL)。
本当に有難かった。
その後、イラン領事館に行くと、3時までクローズと言われる。
しかし、1時過ぎに領事館前に2台のベンツが到着。
ベンツから出てきた人が私の姿を見て、「日本人か?」と聞いてきた。
そうだと言い、パスポートを渡すとすぐにビザをくれた。
ちなみに一緒に待っていたアメリカ人の女性はもらえなかった。
彼女は10日もこの町でビザを待っているのだという。
写真は、エルズルム最大の見所、ヤクティエ・メドレセ(神学校)。 -
8月30日(金)
体の具合もよくなり、12時発のバスでドゥバヤズットまで向かった。
ドゥバヤズット行きのバスでは、日本人の女性と出会い、一緒にイランに入国することになった。
ドゥバヤズットまでの道中の景色は素晴らしかった。
広大な草原に羊の群れ、遠くに見えるアララト山。
宿はホテル・エルズルム(シングル 200,000TL)。 -
8月31日(土)
ドゥバヤズットの観光の目玉は、近郊にあるイサク・パシャ宮殿。
17世紀、この地域を治めたクルド人の知事イサク・パシャによって建造された宮殿である。
私は町から5キロあるここへ歩いて行ったのだが、途中、宮殿の方へと向かう車が私を乗せてくれた。
彼らは自らをクルド人であると語った。
自らの国家を持たない世界最大の民族と言われるクルド人。
トルコ、イラン、イラク、シリアを中心に2500万?3000万の人口を持つクルド人は、民族的にはインド・ヨーロッパ語族であり、独自の言語、クルド語を話す。
古くからオスマントルコやペルシャといった大国に翻弄されてきたクルド人だが、20世紀初頭のオスマン帝国崩壊後も独立国を持つことは叶わなかった。
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クルド人の住むトルコの最果て「ドゥバヤジット」の町とトルコ・イラン国境越え
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イサク・パシャの近くではクルド人の家族がピクニックをしていた。
左の可愛らしい子供もあと20年も経てば右の髭オヤジになってしまう。
彼らは私にスイカとマスカットをご馳走してくれた。
もちろん彼らも生粋のクルド人だそうだ。 -
羊飼いの少年。
クルド人の多くは牧畜を生業としている。
彼らは本来遊牧民であり、定住し始めたのは最近のことなのだそうだ。 -
イチオシ
9月1日(日)
朝、同行の日本人女性と共に宿を発つ。
イラン入国のため、彼女は黒いチャドルを纏った。
ドルムシュで20分、国境検問所のあるギュルブラックに到着。
国境では巨大なトレーラーが列を作って並んでいた。
出国前にイランリアルへ両替をする。
出国スタンプを押し、国境へ。
国境の部屋には、トルコ側にはケマル・アタチュルクの肖像、イラン側にはアヤトラ・ホメイニの肖像が架けられていた。
入国スタンプを押し、イランに入った。
荷物検査はほとんどノーチェック、外貨の申告だけを行う。
銀行へ行き、ドルのチェックをしてスタンプを押す。
その後、国境の街バザルガンへと向かう。
途中、トラックのおじさんが乗せてくれた。
バザルガンで再度パスポートチェック後、マクーの街へとタクシーで向かう。
マクーのバスターミナルに到着し、タブリーズ行きのバスチケットをゲット。
タブリーズへと向かう。
夕方、タブリーズに到着。
ホテル・マルヴァリッドに投宿。
イランの旅が始まった。
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