2003/06/26 - 2003/07/13
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1533年、インカ帝国はスペインのピサロによって滅ぼされました。
驚くべき技術力を持ったアンデス文明の遺跡群と、スペインによる収奪のありさまをご紹介します。
↓ブログでも紹介しています。
http://search-ethnic.com/category/travel/south-america/peru
2003年6月、ペルーを旅しました。
マイアミから飛行機でリマに到着。
バスで、ナスカ、アレキパと進み、アレキパからアンデス高原にあるクスコへと向かいました。
クスコからオリャンタイタンボやマチュピチュを訪れ、ティティカカ湖畔のプーノへ。そこからボリビアへと抜けました。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船
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6月26日(木)
マイアミを発ったアエロ・コンチネンテ(450$)は、午前3時にリマのホルヘ・チャベス空港に到着した。
リマは治安が悪いことで有名だ。
空港の案内所で宿の予約を勧められ、ミラ・フローレス地区にあるInternationalYH(ドミトリー12.5$)を予約し、シャトルバス(8$)に乗って向かった。
朝、ユースの食堂で出会ったオハイオ在住のペルー人のおばさんと共に、ラルコ・マールという海岸沿いのビューポイントや彼女たちの実家のあるチリーロスという町へと行った。
夕方は、天野美術館を見学。
案内の係の人の説明はとても興味深かった。
↓ブログの記事です。
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イチオシ
6月27日(金)
朝、コレクティーボという乗り合いバスに乗り、セントロへと向かった(1sol 1$=3.39sol)。
セントロはリマでも最も危険だといわれている地域である。私は荷物をしっかりと握り締め、セントロの中心、アルマス広場へと歩いていった。
しばらく歩いていくと広い空間が見えてきた。
パームツリーが建ち並ぶ中庭、綺麗に整備された花壇には赤や黄色の花が飾られており、その周りに豪華なコロニアル建築群が建ち並んでいる。
ここが、1553年に造られたコンキスタ(征服)の中心、リマのアルマス広場だ。
↓ブログの記事です。
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広場に面した「カテドラル」や、サント・ドミンゴ教会を見学し、歩行者天国となっているラ・ユニオン通りをぶらついた後、コレクティーボで「国立考古学博物館」(10sol)へ。その後、歩いて「ラファエル・ラルコ・エルラ・ミュージアム」(10sol)へ。
特におびただしい土器が展示されていた「ラファエル〜」は面白かった。
【写真は、セントロの界隈】
↓ブログの記事です。
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6月28日(土)
朝、セントロへ行き、再びカテドラルに入った。
ちょうどミサが行われていたので参加した。
「ハレルヤ ハレルヤ」と皆と一緒に唱和する。
「カテドラル」の入ってすぐ右手の部屋には、ガラスケースに収められたミイラが安置されている。
インカ帝国を滅ぼしたスペイン人の征服者、フランシスコ・ピサロの遺体である。
このカテドラルの礎石は彼自身の手によって置かれたといわれている
ピサロは、たった200人の軍勢でインカ帝国を滅ぼした。
そして、キリストという神の名のもと、インカの神像や神殿を壊し、黄金を略奪した。
そして、人々にキリスト教の信仰を強制したのだ。
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カテドラルでミサを終えた後、近くの「サン・フランシスコ教会」を訪れ、その前にある雰囲気のいいカフェで朝食を済ませる(コンチネンタルブレックファスト 4.5sol)。
朝食後は、国立博物館(6sol)へと向かった。
国立博物館には、土器などの展示物が豊富なほか、模型が多用されているのでわかりやすい。
古代アンデス文明は、紀元前2000年頃からその輪郭を現し始めたといわれている。
「コスタ」と呼ばれる海岸砂漠地帯、4000メートルを越すアンデスの山岳地帯「シエラ」、アマゾン川流域のジャングル地帯「セルバ」……。
変化に富むそれぞれの地域で文明が生まれ、様々な作物が作られ、そして、交易が行われた。
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旧大陸と隔絶されたこの地域では、16世紀にスペイン人がやって来るまで他の文明との接触がほとんどなかった。
そのため、旧大陸とは全く異なる、独自の文化が形成されていったのである。
古代アンデス文明は、大まかに区分すると、北部、中部、南部の3つの地域に分けられる。
北部には「モチェ」や「シカン」「チムー」、中部には「リマ」や「チャンカイ」、南部には「パラカス」「ナスカ」「ティワナク」などの文化がそれぞれ盛衰していった。
そして、15世紀の後半、それらの部族や国家を統一し、一大帝国を築き上げたのが「インカ」なのである。
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6月29日(日)
朝、同室のアメリカ人とチョリーロスに行く。
チョリーロスでは地元のフェスティバルが行われていた。
写真は、チョリーロス付近の海岸に居たペリカン。
夕方、アメリカ人と共にセントロのバスターミナルへ。
ナスカ行きのバス(25sol)に乗り込んだ。
バスは夜の砂漠を走り、午前2:00にナスカ着。
Hotel Alegria(ダブル15sol)にチェックイン。明日のナスカ・フライト(40$)の予約をした。 -
6月30日(月)
ピックアップトラックで空港へ。
セスナ機には、陽気なパイロットと助手、アメリカ人デビッドと私の4人。
天気は最高。
機体は簡単に空に舞い上がった。
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眼下には広大なナスカ・フマナ平原のパノラマが広がっていた。
天気がよいため揺れがほとんどない。
しばらく行くと、
「宇宙人」「イヌ」「サル」「コンドル」「ハチドリ」「クモ」「ペリカン」「手」「木」
など、様々な図像が地表に現れてきた。
パイロットは、そんな美しい絵の上空にさしかかると、それぞれの絵のところで逐一ぐるっと旋回してくれた。
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地上絵を象徴する、それらの具象的な絵も素晴らしいものだが、ナスカで最も驚かされたのは、荒地に縦横無尽に引かれた「線」だった。
300本を越えるともいわれるその線は、複雑な幾何学模様を描き、広大なナスカの荒地を埋め尽くしている。
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この地上絵の存在は、飛行機が発明されるまで誰も知らなかったという。
インカ帝国の人々もそれを侵略したスペイン人たちも誰もその存在に気が付かなかったのだ。
私はこれを最初に発見したパイロットのことを思うと羨ましくなる。
興奮したことであろう。
何しろ、広大な荒地を見下ろすと、無数の美しい絵が描かれていたのだから……。
パイロットは着陸するや否や、仲間たちにこの絵のことを口角泡を飛ばし、話して聞かせたに違いない。
たぶん、最初は誰も信じなかっただろう。
しかし、絵の存在は次第に人々に知れ渡り、その驚くべき姿が明らかにされてゆくことになるのだ。
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ナスカの街へ戻った私とデビッドは昼飯を食べた後、地上絵を地上から見るため観測所、「ミラドール」へと向かった。
市内からタクシーで約20キロ。
雄大な荒地の風景の中、パンアメリカンハイウェイの只中にミラドールは立っていた。
ミラドールの高さは約20m。
鉄骨の階段をカンカンカンカンと登ってゆくと、塔の上からは「手」そして、「木」の一部が見える。
ミラドールの近くには、「ミラドール・ナチュラル」と呼ばれる小高い丘がある。
私たちはここにも登ってみた。
丘の上からは、地平線に向かって幾何学的な線描がいくつも伸びていた。
どこまでも広漠とした風景、空はあくまでも広く青い。
その後、アントニニ博物館(10sol)を見学する。
この博物館では、地上絵と同じ絵が描かれた土器がいくつも展示されていて興味深かった。
夕食を済ませ、午後11時発のバス(41sol)でアレキパへと向かった。
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7月1日(火)
目を覚ますと、車窓に雄大な山脈が見えた。
峰々の頂には真っ白な雪が覆いかぶさっており、それが朝日を浴びてキラキラと輝いて見える。
あれは、6000m級のアンデスの高峰、ミスティ山やチャチャニ山の雄姿である。
ナスカを発ったボロバスは、夜中じゅうパン・アメリカンハイウェイをぶっ飛ばし、約9時間かけてアレキパの町に到着した。
アレキパの町の標高は2335m。ナスカは620mであるため、その標高差はおよそ1700mにもなる。
私はこの後、アンデス山脈の中腹にある、かつてのインカの都クスコへと向かう。
クスコへは4000mもの峠を越える難儀な道のり。
そのため、ここで少しでも高地に順応しておく必要があった。
投宿したのは、ホテルレヒス(トイレシャワー共同シングル5ドル)。この町には2泊した。
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イチオシ
アレキパの別名は「Ciudad Blanca(白い町)」
町の中心であるセントロの建物が近郊で採れる白い火山岩からできていることから、そう呼ばれている。
アレキパは、料理がおいしいということでも有名だ。
他の地方にはない、バラエティーに富んだ料理を楽しむことができる。
この日は、アルマス広場を歩き、カテドラルを見学した後、夜は宿の近くにあるぺーニャ「ラス・ケーナス」でフォルクローレを聴いた。
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7月2日(水)
標高2335mの白い町アレキパ。
その中心となっているのが「アルマス広場」である。
広場はいつでも人々が集う市民の憩いの場だ。
アレキパという町は地震が多いことでも知られている。
特に2001年6月23日に起こった地震はこの地方に大きな被害をもたらした。
死者100名以上、5万人近い被災者が発生したそうだ。
アルマス広場や市場をぶらついた以外は、のんびりと高地順応に努めた。
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7月3日(木)
朝7時半、私を乗せたクスコ行きのバスはアレキパのバスターミナルをのろのろと出発した。
バスの乗客には地元のペルー人ばかり。
バスはアレキパを出るとすぐに高度を上げていった。
私は深呼吸を繰り返し、飴をなめながら高山病に備える。
冬のアンデス。雄大な山々に黄金色の枯れ草が一面に生え、そこをリャマやアルパカがのんびりと歩いているのが見える。
木はほとんど生えていない。
荒涼とした山は高山病への恐怖と相まって、なんだか薄ら寒いように見えた。
ボロバスは唸りをあげ山道を登ってゆく。
3500、3700、4000……。
高度計の数字が徐々に上がっていく。
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イチオシ
7月4日(金)
クスコへの道中は、高山病との戦いだった。
アルマス広場近くの宿「Hotel Suecia?」(6$)に宿泊し、一晩休んでだいぶ落ち着いたが油断は禁物だ。
この日はのんびりとクスコ市街を散策することにした。
クスコの中心であるアルマス広場。
ここは、かつてインカ帝国の都があった町である。
しかし、回廊とカテドラルが取り囲む広場は、典型的なスペイン風。
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広場の正面には巨大なカテドラルが建っていた。
1550年創建のこの聖堂は、インカから強奪した財宝で彩られた、この上なく豪華な建物である。
私はカテドラルの内部に入っていった。
至る所に散りばめられた金銀、数多くある祭壇も凝りに凝っている。
あまりの豪華さに目が眩むようだ。
特に圧倒されたのが主祭壇。
銀300トンを使ったその祭壇は、銀を貼り付けたのではなく祭壇そのものが銀で出来ているのだという。
私は、スペインの栄華を誇示するその祭壇を眺めながら、どれほど多くのインカの彫像がこの祭壇を造るために使われたのだろうかと思った。
カテドラルの東、そして、そこから広場を少し出た並びにもラ・コンパーニャ・デ・へスス教会やラ・メルセー教会などといった豪奢な建物が並んでいる。
それらを見るとスペイン人がいかに多くの富を手に入れそれを独占したかがわかる。
インカから強奪した大量の黄金はスペインを繁栄の絶頂に押し上げ、ヨーロッパの金相場を暴落させたという。
450年前のインカ時代、それほどの黄金がここにはあったのである。
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クスコの街はスペイン人の侵略以降、ほぼ全体がスペイン風に変わってしまった。
しかし、街を歩くとインカ時代を偲ばせる遺構を所々に見ることが出来る。
アルマス広場の周辺にはインカ時代に造られた石組みがいくつか残っていた。
「アトゥン・ルミヨク通り」には、有名な「12角の石」を含む見事な石組みがある。
複雑な形を持つ多角形の石がパズルのように綺麗に隙間なく接合されている。
「12角の石」はその中でも最も複雑な形を持つものだ。
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太陽の神殿「コリカンチャ」は、インカ人にとって最も神聖で重要な場所であったと言われている。
かつて、この神殿は黄金の神像や装飾で内部が埋め尽くされていたのだという。
スペイン人たちはそれらを全て奪い取り、建物も土台を残して破壊し、現在ある「サント・ドミンゴ教会」を建造した。
面白いのは、インカの見事な石組みに比べ、スペイン人の造った石組みがひどくちゃちに見えることだ。
話によればかつてこの地方が大地震に見舞われたとき、上に建っていたサント・ドミンゴ教会は崩れ落ちたのだが、土台の石組みはびくともしなかったらしい。
このエピソードだけでも、インカの技術がいかに優れていたかということがわかる。
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7月5日(土)
アルマス広場のカフェで朝食を済ませた私は、朝の眩い光の中、丘の上にある遺跡、サクサイワマンまで坂道をゆっくりゆっくりと登っていった。
200メートルの坂道を登りきると、広大な広場の中に三重に積み上げられた巨大で精巧な石組みが現れた。
これがサクサイワマンの遺跡である。
古代アンデスでは、現代よりも高度な建築技術、細密な織物の技術や地上絵を描いた正確な測量技術があったという。
また、脳外科手術も行われていた証拠も残っている。
けれども、その一方で古代アンデス人たちは文字を持たず、鉄の存在も知らなかったそうだ。
車輪の存在も知らなかった。
ちなみにサクサイワマンのこの石組みは、何のために使われたのかはわかっていないそうである。
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7月6日(日)
この日は「聖なる谷ツアー」に参加した。
クスコの北西には、インカ時代から「聖なる谷」とも呼ばれてきたウルバンバ渓谷がある。
ここにはいくつものインカの遺跡、そして、当時と何ら変わらぬ佇まいを残す村や市場、人々の姿がある。
けれども、この谷を個人で巡るのはなかなか大変だ。見所が各地に点在しているからだ。
そのためたいていの旅行者は「聖なる谷巡りツアー」というものに参加することになる。
もちろん、私もそのひとり。
ツアーバスのシートに座り、エネルギッシュに喋り捲る小柄なガイドの声を聴きながら、市場や遺跡を巡っていった。
ツアーバスはまず「チンチェーロ」へと向かった。
バスを降りると藁葺き屋根のバラックがいくつも並んでいるのが見えた。
その下には様々な野菜や果物などの食材、毛糸や洋服などの日用品が並べられている。
コカの葉がある、何かよくわからない薬草がある、いろいろある。
露天の芝の上では大勢のインディヘナたちが民芸品や布、絵などを売っていた。
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ウルバンバ渓谷の中ほどにある巨大な要塞「オリャンタイタンボ」。
ツアーバスはチンチェーロの次にここを訪れた。
オリャンタイタンボはクスコからは約90キロの距離。
この遺跡はペルー第二の遺跡と言われている。
インカ帝国は交通インフラが発達していたことが知られており、帝国全土に「インカ道」という街道が網の目のように張り巡らされていた。
「タンボ」とは、ケチュア語で旅籠という意味だそうで、この「オリャンタイタンボ」もそんな「インカ道」の中継地にある旅籠だったのだ。
ちなみに「オリャンタイ」とは、インカの将軍の名前。
オリャンタイ将軍は皇帝の娘に恋をしたということでも知られている。
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広場の中心には6つの巨石を並べた謎の建造物がある。
高さ4メートル、幅10メートルのこの巨石は、いったい何のために使われたのかが未だにわかっていないそうだ。
表面にはひし形の紋様が刻まれている。
これはボリビアのティワナク遺跡にもある紋様である。
この巨石、実は、遺跡の対岸の山にある石切り場から運ばれてきたものである。
いったいここまでどうやって運んできたのか、謎だという。
しかも、アンデス文明には車輪というものがなかったのだ。
オリャンタイタンボを見学した後、私はマチュピチュの麓のアグアスカリエンテスへと列車で向かった。
到着したのは夜。
明日の朝一でマチュピチュへと向かう。
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7月7日(月)
早朝、麓の町「アグアス・カリエンテス」からバスに乗車。
つづら折の山道「ハイラム・ビンガム・ロード」をぐねぐねぐねぐねと400メートルも登っていき、しばらくすると標高2,280メートルの山の頂上にそれは見えてくる。
マチュピチュ!
「失われた都市」と呼ばれる古代インカの都市遺跡だ!
入り口で入場料10ドルを払い、私は遺跡の中に入っていった。
遺跡の中を歩く……。
住居や神殿らしき跡、用水路や水汲み場が狭い土地を上手く利用して造られている。
遺跡の周囲は全て段々畑に覆われていた。断崖絶壁に造られたその畑は谷の底の方まで続いており、大勢の食料を賄うことができたことを物語っている。
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マチュピチュは1911年、アメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見された。
彼は古い記録を調べ、それを頼りにこの断崖絶壁をよじ登ったのである。
山の上に広がる壮大な遺跡を発見したときの感動は、言葉では言い表せないものであっただろう。
羨ましい……。
インカ人はスペインの侵略を逃れこの地に隠れ住んだ。
ここには750人ほどの人々が生活していたらしい。しかし、いつの日か彼らはこの「マチュピチュ」を捨て、更に奥地へと向かっていったのだという。
その証拠に、ここからはインカ人が持っていたであろう「黄金」がほとんど発見されていないそうだ。
彼らは知られざる秘密の都市「ビルカバンバ」へと旅立っていったのだ。
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マチュピチュ遺跡は、標高2940mの「マチュピチュ山」と標高2690mの「ワイナピチュ山」を結ぶ尾根に造られた遺跡である。
遺跡の標高は約2400m。麓の町とは約400mの高低差があり、周りは断崖絶壁だ。
総面積は約5平方km。
建造は15〜16世紀と言われており、現在のところ、インカ帝国第9代皇帝パチャクティの離宮として造られたという説が有力視されている。
マチュピチュには、朝から夕方まで丸一日滞在した。
遺跡の端にのんびりと腰かけ、ただ眺める。
それだけで幸せだった。
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7月8日(火)
アグアスカリエンテスから5:45分発の列車に乗り、オリャンタイタンボへ。
ここからバスに乗り換え、1時間ほどでクスコに到着した。
標高の低いマチュピチュから1500mほど高度が上がったことにより、頭痛がする。
この日は、市場をうろついたり、インカ博物館やサン・ブラス寺院を見学したり、夜はセントロ・コスコでフォルクローレダンス(10sol)を観賞した。
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7月9日(水)
この日は体調が優れなかったので、宿やカフェなどでのんびりと過ごす。
また、バスターミナルで明日のプーノ行きのチケットも購入した(6$)。
クスコには、「金太郎」という日本料理屋がある。
夕食はここで和雑炊(14sol)を食べた。
体調が悪い時に日本食が食べられるというのは大きい。
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7月10日(木)
バスは標高4000メートルを超える峠を越え、一路南へと進む。
辺りは荒涼とした大地、所々にアルパカやリャマの姿がちらほらと見える。
そのうち、バスの窓から深い、あまりにも深い蒼色をした湖の姿が見えてくる。
チチカカ湖である!
紺碧の湖と、雲ひとつない真っ青な空。
その間には赤茶色の山々が見え、山々の合間には、小さな建物が寄せ合うようにへばり付いているのが見えた。
プーノの町だ。
私はプーノに到着してバスを降りると、アルマス広場に程近い宿「オスタル・ロス・ウロス」、シャワートイレ付きシングル(21sol)にチェックインした。
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7月11日(金)
朝7時半、私は港へと行き、ウロス島とタキーレ島を回るローカルボート(25sol)に乗ることにした。
ローカルボートは、数人の外国人と民族衣装を着た大勢のインディヘナを乗せプーノの港を出港した。
そのうち湖の中に、葦で造られた住居が建ち並んでいるのが見えてきた。
葦で出来た浮き島「ウロス島」である。
ウロス島は「トトラ」と呼ばれるこの葦を積み重ねて出来ており、この辺りには大小40ほどの浮島が浮かんでいるのだそうだ。
大きな島には学校や教会もあるのだというが、私の降りた島は30メートル四方ほどの小さな島だった。
島にはボートが横付けされていた。これももちろんトトラ製だ。
この舟の名は「バルサ」というらしい。
バルサは、トトラの束をヒモで縛っただけの船。
乗っかってみると、意外としっかりしていた。
このウロス島に住んでいるのは「ウル族」と呼ばれる人々。
ウル族はチチカカ湖畔において、最も古い民族だとも言われている。
残念ながら純血のウル族は既に途絶え、現在住んでいるのはケチュア族やアイマラ族との混血であるそうだ。
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イチオシ
ウロス島から更に3時間。
船はタキーレ島に到着する。
タキーレ島はケチュア族の島。
いまだに電気も水道も引かれていない、昔のままの生活が残っている素朴な島である。
タキーレ島の人口はおよそ1600人ほど。
人々は織物などの手工芸品や農業などにより生計を立てている。
島は段々畑で覆われており、ジャガイモや豆、キヌアといった農作物が採れる。
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島の中心には広場があり、広場の周りには、ささやかな雑貨店やレストラン、織物を売る店が数軒あった。
私はここでトゥルーチャ(マス)を焼いただけのシンプルなランチを摂った(8sol)。
タキーレ島は織物が有名である。
古代アンデスそのままの純粋なケチュア人が住むというこの島では、繊細な模様とカラフルな色彩を持つ美しい織物が人々によって織られている。
アンデス文明の織物技術はかなり高度なものであったそうで、遺跡からは現代の技術を以てしても作るのが難しいという織物も見つかっているのだそうだ。
私も強烈に惹かれてしまい、臙脂色を基調とする、様々な模様の織られた綺麗なベルトを1つ購入した(25sol)。
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7月12日(土)
この日はインターネットでメールしたり、読書をしたりしてのんびりと過ごした。
明日のラパス行きのバスチケットも購入した(30sol)。
昼飯は、セビッチェとスープ(16sol)、夜は中華料理を食べた。
こんな所にも中国人が居て、中華料理屋がきちんと営業していることにびっくりとさせられる。
7月13日(日)
朝、バスに乗りボリビアへ向けて出発する。
昼頃、コパカバーナの町へ到着。国境を越える。
ティティカカ湖を渡り、高地をひた走り、ボリビアの首都ラパスには夕方に到着した。
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