2009/11/25 - 2009/11/25
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晴れ男。さん
龍馬通りを下り、シーボルト記念館へ。途中、シーボルト通りという通りがあって長崎は偉大な人には通り名がつくのか!と思いつつ・・、歩いていると何やらまた緩い坂、とほほ・・。そうこうしている間に着きました!、シーボルト記念館。見学料は100円ですがいろいろあったんです、シーボルトには。
- 同行者
- 一人旅
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- 高速・路線バス JALグループ ANAグループ JR特急 徒歩
-
「シーボルト記念館」です。
手前にはシーボルト宅跡があり、かつてここには「鳴滝塾」がありました。
「鳴滝塾」は1824年、シーボルトによって開設された私塾で、医学や博物学が教えられました。
この「シーボルト記念館」は、1989年に開館したレンガづくりの洋館で、オランダのライデン市にあるシーボルト旧宅に似せてつくられました。
館内にはシーボルトが使った望遠鏡や薬箱などが展示されています。
この建物はJR「ハウステンボス駅」にとても似ています。 -
日本が鎖国を続けていた1823(文政5)年、長崎の出島にオランダ商館医として来日したドイツ人シーボルトは、遊女「其扇(そのぎ)」(本名・楠本たき)と結婚し一女をもうけた。
28年に「シーボルト事件」が発覚し、翌年には国外追放に。30年後にふたりは再会するが・・。 -
国外追放になったシーボルトがしばらく居を構えたのがライデンの街。
長崎で生き別れた妻・楠本たきや娘・いねの面影を慕って、静かに暮したのだろうか。
1830年の暮れ、ライデンからの恋文・・
毎日、私は、お前といねの名を、しばしば呼んでいる
いつになれば、お前やいねを、もっと愛する者が現れよう?
以下のような内容でしょうか。
永遠に愛してる。だれもお前に近づくな。愛したりするな・・。
会いたい。もう一度・・。 -
ある日、たきからの便り。
1831年の正月、いねを連れて年下の男性と再婚しました・・。
それを見たシーボルトはいかに感じたか、便りを出さなくなった。
そのシーボルトも1845年にはドイツ人の令嬢ヘレーネと再婚。
時が流れ、年齢を重ねるにつれ、もう一度会ってみたいと思う異性はいるものだ。これは人間共通の思い・・。 -
シーボルト、1859年に再来日。
たきとも30年ぶりに再会を果たす。
喜びもつかの間、たきは再婚した男性と死別し、三度目の結婚もまた、死別に終わったことを知った。
どうして、そう何度も、平気で結婚を繰り返すのか。なじるような思いのまま、彼は三年後に日本を去ったという。
そんな再会のころ、たきからシーボルトにあてた手紙がある。
過去には千回夢を見れば、幾夜かは逢瀬があったことをお察しくださいませ。
以下のような内容です。
別の男性に嫁いだ身ですので、あなたとは夢で会っておりました・・。
たきのシーボルトに対する大胆な告白。 -
死を迎えた長崎の病床で、たきはいちごをねだったという。出島での若き日々、シーボルトと食べた甘美な思いでにすがったのだろう。
そのころ「阿蘭陀苺」(おらんだいちご)と呼ばれていた。
お・ら・ん・だ・い・ち・ご・・・・・・・。
遠い異国にも、あのころにだって、たきはすぐに飛んでいけた。 -
シーボルト、死に際しても
「私は美しき国、平和の国に行く」と、日本へのあこがれを語ったという。 -
ここまで見ていただきありがとうございます。
今回はシーボルトとたきの恋愛を中心に見てみました。お互い何があっても途切れることがなかった二人の想い。それも異国人どうしでありながら。たきは遊女でシーボルトは医師。どうしても結びつかないような気がしますが。運命の赤い糸で結ばれたのでしょうか。娘のいねは日本で初めての女医になったそうです。さまざまな困難のなかで立派だと思いました。そんな二人を見守っているような長崎の青空でした。
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