2009/11/21 - 2009/11/23
1370位(同エリア3730件中)
風遊さん
妙心寺は今年二度目です。春は当寺で大きな法要があり、法堂天井龍雲図を見ることがが出来なく再度の訪寺です。
<妙心寺>
臨済宗妙心寺派の大本山です。広大な敷地には46の塔頭寺院が立ち並び「雲竜図・日本最古の名梵鐘・明智風呂」など、多数の見所があります。又境内も広大で京都御所に次いでの広さだそうです。(ちなみに石庭で有名な竜安寺も境外塔頭の一つです)
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車
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妙心寺北門
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妙心寺境内略図
広大な敷地です、京都御所に次いでの広さだそうです。 -
妙心寺境内に塔頭が38か所もあり、この寺の名前が?
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法堂天井龍雲図
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法堂
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明智風呂
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京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」(そうりん)、後者を「林下」(りんか)といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。
平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾(剃髪して仏門に入ること)して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄(かんざんえげん、1277-1360)を推挙した。その頃、美濃(岐阜県)の山奥で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。
関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)のほかほとんど残されていない。
妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収し、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。
妙心寺は応仁の乱(1467-1477年)で伽藍を焼失したが、中興の祖である雪江宗深(せっこうそうしん、1408-1486)の尽力により復興。細川家や豊臣家などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。
(資料参照) -
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庫裡
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これから嵯峨野方面へ向かいます。
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