フィレンツェ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
寝坊した。。。目覚めたら女性たちが着替えている。。しかも下着姿やバスタオルを巻いている子もいる。なんてオープンなんだ。俺の方が恥ずかしくなり、ジャージを着たまま、飛び出るように朝食を食べに行った。寝坊したため、無料の列車は使わず、リッチにユーロスターを使った。追加で11ユーロ払ったけど、快適だ〜!!イタリアンサラリーマンしかいない。みんなスーツ姿、似合ってますな。サングラスをかけている人もいて、超似合っている。このちょい悪親父たちめ〜、かっこいいな〜。凄い!お菓子とシャンパンも出てきた!!シャンパンがメッチャうまい!おかわりしちゃった!ほろ酔いしながら、気分良くフィレンツェに到着した。<br />駅近くでお洒落なホステルを発見!外観はともかく、中は素晴らしい!ペインティングや様々なモニュメント、さすがルネッサンス!!驚いたことに朝食と夕食、インターネットが無料である!!こんな待遇初めてだ!しかも日本語の読み書きができる!<br />荷物を預け、早速散策。とりあえず気分が良いのでワインを飲んだ。そ〜いえばイタリアに入ってからレッドブルを飲んでないな〜。イタリアに来る前はほぼ毎日飲んでたのに。。イタリアにはいってからかなり元気になってる!!一目ぼれしたストーンの腕輪も買っちゃった!!イタリアに来て、まだパスタも食べていなかったので、奮発してお洒落なレストランに入った。さすが本場、めっちゃ美味い!!<br />ついに来ました、俺が想い憧れていたサンタマリア デルフィオーレのドーモ。映画「冷静と情熱のい」を見て以来、憧れを抱き、自分の中の複雑な思い入れもあり、自分の中の交差点でもあった。この旅で一番来たかった地でもあり、自分の気持ちを確かめたかった。500段ある階段を登り、クーポラまでたどり着いた。ここから眺める景色は最高で、時が過去にタイムスリップしたようだった。フィレンツェ町全体が見渡すことができ、オレンジ色の屋根が良い!俺は詩を書いたり、いろいろな想いを抱きながら、クーポラで4時間くらいぼーとしていた。この街ではルネサンス時代の絵画を元に修復する、修復士がいる。でも、人間は過去を修復できない。「過去を甦らすのでなく、未来に期待するのでもなく、今をどう輝かせるか」。それが俺の4時間の結論。詩で過去にこだわって書いてしまったが、今日、過去を解き放ち、自分の中で過去に後戻りしないことを誓った。<br />ヴェッキオ橋や映画で撮影された場所なども訪れた。ホステルで食事中の日本人のひとみちゃんとえみちゃんと知り合った。一緒に切符を買いに行ったり、ロビーで飲みながらいろいろと話した。えみちゃんは沖縄出身で、けっこう飲めますな〜。パソコンもひとみちゃんのを使いながらいろいろ調べた。マジでパソコン、持って来るべきだったよ。。。ヨーロッパはパソコンが必須!!マジで!!<br /><br /><br /><br /><br />☆書いてみた詩☆<br /><br />気持ち悪いので、流してください。。。。<br />でも、俺が感じてことをそのまま詩にしてみたよ<br /><br /><br /><br />・様々な思いを抱きかかえて、過去に思いを抱いていた俺は階段を登っていた。<br />クーポラから見渡す赤レンガ屋根の海は、昔ながらの街並みと一緒に俺を過去に呼び戻した。<br />あの時、人生の交差点で、君を抱きしめていたなら。。。。<br />優しい思い出に人は又立ち止まる。溢れる思い出に今でも動けない。<br />記憶のかなたでまた君と会えるなら、今までの足跡を軽く笑い飛ばせるだろう。<br />・あの時、もしもあんな事を言わなければ、運命は変わっていた。<br />何が嘘で何が本当か?誰か俺に教えてくれ。俺は又、追憶の中で迷う。<br />将来なりたい自分が何かも、忘れてしまうくらい俺は、流れていく時間にあの時の思いを残して。。。。<br />優しい思い出に人は又立ち止まる。溢れる涙は今でも消せない。<br />人生の旅路のどこかで又君に会えたなら、生きていく輝きに火を灯していけるから。<br /><br />         2009年10月19日    健太郎<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />俺の憧れの地、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ<br />巨大なドームが特徴的な大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。<br /><br />建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ。(キリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)<br />鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。<br />三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されている<br />現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。最初の教会堂は4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて再建された。現在、このロマネスク様式の大聖堂は、その内観の一部が公開されており、側廊を持ち、後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。<br />14世紀に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎることのなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ大聖堂の建設を開始した。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。<br />1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、パラッツォ・ヴェッキオと第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。<br />1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにタレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。<br />大聖堂の天蓋14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、クーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。<br />ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。<br />天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は彫刻家ヴェロッキオが製作した。当時、ヴェロッキオの弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われたフィリッポの機械に魅了され、スケッチに取って絶賛した。<br />また、レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している。<br />大聖堂のファサード大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコ1世が構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />概要<br />フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設され、ローマ殖民都市がおかれた。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。1300年、教皇派内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の2つにわかれ、内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属していたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。<br />その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。<br />1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。<br />ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のサンドロ・ボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフロリン金貨は、全ヨーロッパの貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。<br />ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年にイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。<br />1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。<br />第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ポンテ・ベッキオをのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。

登った、クーポラ イタリア フィレンツェ

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2009/10/19 - 2009/10/19

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kawabekentarou

kawabekentarouさん

寝坊した。。。目覚めたら女性たちが着替えている。。しかも下着姿やバスタオルを巻いている子もいる。なんてオープンなんだ。俺の方が恥ずかしくなり、ジャージを着たまま、飛び出るように朝食を食べに行った。寝坊したため、無料の列車は使わず、リッチにユーロスターを使った。追加で11ユーロ払ったけど、快適だ〜!!イタリアンサラリーマンしかいない。みんなスーツ姿、似合ってますな。サングラスをかけている人もいて、超似合っている。このちょい悪親父たちめ〜、かっこいいな〜。凄い!お菓子とシャンパンも出てきた!!シャンパンがメッチャうまい!おかわりしちゃった!ほろ酔いしながら、気分良くフィレンツェに到着した。
駅近くでお洒落なホステルを発見!外観はともかく、中は素晴らしい!ペインティングや様々なモニュメント、さすがルネッサンス!!驚いたことに朝食と夕食、インターネットが無料である!!こんな待遇初めてだ!しかも日本語の読み書きができる!
荷物を預け、早速散策。とりあえず気分が良いのでワインを飲んだ。そ〜いえばイタリアに入ってからレッドブルを飲んでないな〜。イタリアに来る前はほぼ毎日飲んでたのに。。イタリアにはいってからかなり元気になってる!!一目ぼれしたストーンの腕輪も買っちゃった!!イタリアに来て、まだパスタも食べていなかったので、奮発してお洒落なレストランに入った。さすが本場、めっちゃ美味い!!
ついに来ました、俺が想い憧れていたサンタマリア デルフィオーレのドーモ。映画「冷静と情熱のい」を見て以来、憧れを抱き、自分の中の複雑な思い入れもあり、自分の中の交差点でもあった。この旅で一番来たかった地でもあり、自分の気持ちを確かめたかった。500段ある階段を登り、クーポラまでたどり着いた。ここから眺める景色は最高で、時が過去にタイムスリップしたようだった。フィレンツェ町全体が見渡すことができ、オレンジ色の屋根が良い!俺は詩を書いたり、いろいろな想いを抱きながら、クーポラで4時間くらいぼーとしていた。この街ではルネサンス時代の絵画を元に修復する、修復士がいる。でも、人間は過去を修復できない。「過去を甦らすのでなく、未来に期待するのでもなく、今をどう輝かせるか」。それが俺の4時間の結論。詩で過去にこだわって書いてしまったが、今日、過去を解き放ち、自分の中で過去に後戻りしないことを誓った。
ヴェッキオ橋や映画で撮影された場所なども訪れた。ホステルで食事中の日本人のひとみちゃんとえみちゃんと知り合った。一緒に切符を買いに行ったり、ロビーで飲みながらいろいろと話した。えみちゃんは沖縄出身で、けっこう飲めますな〜。パソコンもひとみちゃんのを使いながらいろいろ調べた。マジでパソコン、持って来るべきだったよ。。。ヨーロッパはパソコンが必須!!マジで!!




☆書いてみた詩☆

気持ち悪いので、流してください。。。。
でも、俺が感じてことをそのまま詩にしてみたよ



・様々な思いを抱きかかえて、過去に思いを抱いていた俺は階段を登っていた。
クーポラから見渡す赤レンガ屋根の海は、昔ながらの街並みと一緒に俺を過去に呼び戻した。
あの時、人生の交差点で、君を抱きしめていたなら。。。。
優しい思い出に人は又立ち止まる。溢れる思い出に今でも動けない。
記憶のかなたでまた君と会えるなら、今までの足跡を軽く笑い飛ばせるだろう。
・あの時、もしもあんな事を言わなければ、運命は変わっていた。
何が嘘で何が本当か?誰か俺に教えてくれ。俺は又、追憶の中で迷う。
将来なりたい自分が何かも、忘れてしまうくらい俺は、流れていく時間にあの時の思いを残して。。。。
優しい思い出に人は又立ち止まる。溢れる涙は今でも消せない。
人生の旅路のどこかで又君に会えたなら、生きていく輝きに火を灯していけるから。

         2009年10月19日    健太郎








俺の憧れの地、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ
巨大なドームが特徴的な大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。

建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ。(キリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)
鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。
三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されている
現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。最初の教会堂は4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて再建された。現在、このロマネスク様式の大聖堂は、その内観の一部が公開されており、側廊を持ち、後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。
14世紀に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎることのなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ大聖堂の建設を開始した。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。
1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、パラッツォ・ヴェッキオと第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。
1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにタレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。
大聖堂の天蓋14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、クーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。
天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は彫刻家ヴェロッキオが製作した。当時、ヴェロッキオの弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われたフィリッポの機械に魅了され、スケッチに取って絶賛した。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している。
大聖堂のファサード大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコ1世が構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。






概要
フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設され、ローマ殖民都市がおかれた。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。1300年、教皇派内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の2つにわかれ、内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属していたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。
その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。
1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。
ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のサンドロ・ボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフロリン金貨は、全ヨーロッパの貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。
ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年にイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。
1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。
第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ポンテ・ベッキオをのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。

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  • 落書きというより、アートやね

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  • 芸術と日常のコラボ

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  • ドゥオモが見えてきたよ〜大興奮!!

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  • その前に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂

    その前に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂

  • ついに来ましたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂<br /><br />イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意。<br />

    ついに来ましたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

    イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意。

  • 巨大なドームが特徴的な大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。<br /><br />建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ。(キリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)<br /><br />鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。<br /><br />三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されている。<br />

    巨大なドームが特徴的な大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。

    建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ。(キリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)

    鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。

    三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されている。

  • 中に入っちゃいます<br /><br /> サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 <br />1296年から140年以上をかけて建設された。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック様式に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、そして19世紀に完成したファサード(正面)はネオ・ゴシックによる混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m。八角形の大クーポラの内径は43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい。<br /><br />

    中に入っちゃいます

    サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
    1296年から140年以上をかけて建設された。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック様式に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、そして19世紀に完成したファサード(正面)はネオ・ゴシックによる混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m。八角形の大クーポラの内径は43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい。

  • 歴史 <br /> <br />旧聖堂・大聖堂計画・現大聖堂の平面 <br />大聖堂の内部空間現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。最初の教会堂は4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて再建された。現在、このロマネスク様式の大聖堂は、その内観の一部が公開されており、側廊を持ち、後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。<br />14世紀に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎることのなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ大聖堂の建設を開始した。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。<br />1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した[1]。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、パラッツォ・ヴェッキオと第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。<br />1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにタレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。<br />大聖堂の天蓋14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、クーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。<br />ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。<br />天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は彫刻家ヴェロッキオが製作した。当時、ヴェロッキオの弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われたフィリッポの機械に魅了され、スケッチに取って絶賛した。<br />また、レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している。 <br />大聖堂のファサード大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコ1世が構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。<br /><br />

    歴史

    旧聖堂・大聖堂計画・現大聖堂の平面
    大聖堂の内部空間現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。最初の教会堂は4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて再建された。現在、このロマネスク様式の大聖堂は、その内観の一部が公開されており、側廊を持ち、後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。
    14世紀に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎることのなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ大聖堂の建設を開始した。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。
    1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した[1]。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、パラッツォ・ヴェッキオと第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。
    1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにタレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。
    大聖堂の天蓋14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、クーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
    ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。
    天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は彫刻家ヴェロッキオが製作した。当時、ヴェロッキオの弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われたフィリッポの機械に魅了され、スケッチに取って絶賛した。
    また、レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している。
    大聖堂のファサード大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコ1世が構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。

  • 火を灯してるね

    火を灯してるね

  • 地下もあります

    地下もあります

  • ショップあり

    ショップあり

  • 天井はこうなってます

    天井はこうなってます

  • ズームイン!!

    ズームイン!!

  • クーポラ内フレスコ『最後の審判』ジョルジョ・ヴァザーリおよびフェデリコ・ツッカリ

    クーポラ内フレスコ『最後の審判』ジョルジョ・ヴァザーリおよびフェデリコ・ツッカリ

  • クーポラの入り口は外にあります

    クーポラの入り口は外にあります

  • ついに登ります<br /><br />どきどき。。。。。

    ついに登ります

    どきどき。。。。。

  • 暗く狭いよ〜

    暗く狭いよ〜

  • 途中こんなのもあります

    途中こんなのもあります

  • 上がるにつれ狭く急斜面

    上がるにつれ狭く急斜面

  • 途中、最後の審判を近くで見れます<br /><br />ちなみに入場料6ユーロ

    途中、最後の審判を近くで見れます

    ちなみに入場料6ユーロ

  • 近くでみて、改めて凄いと思った

    近くでみて、改めて凄いと思った

  • 結構登ったな〜

    結構登ったな〜

  • 人が小さい

    人が小さい

  • 大聖堂へはいつでも無料で中に入ることができる。地下部分にはサンタ・レパラータ聖堂の遺構への入り口がある。高さ90mのクーポラ頂上までは日曜日以外ならば、一人6ユーロで上れる。階段464段である。<br /><br />大聖堂のミサはほぼ2時間置きに行われる。日曜朝11時のミサは身廊中央の大祭壇で司式される。そのほかのミサは左脇の礼拝堂で行われている<br />

    大聖堂へはいつでも無料で中に入ることができる。地下部分にはサンタ・レパラータ聖堂の遺構への入り口がある。高さ90mのクーポラ頂上までは日曜日以外ならば、一人6ユーロで上れる。階段464段である。

    大聖堂のミサはほぼ2時間置きに行われる。日曜朝11時のミサは身廊中央の大祭壇で司式される。そのほかのミサは左脇の礼拝堂で行われている

  • まだ登ります

    まだ登ります

  • まだ〜????

    まだ〜????

  • うわ、めっちゃ急やん

    うわ、めっちゃ急やん

  • 降りてくる人を待ったりもします

    降りてくる人を待ったりもします

  • だ〜!!!<br />着いた!!絶対に来たかった!!<br />しかも快晴、最高だぜ!!

    だ〜!!!
    着いた!!絶対に来たかった!!
    しかも快晴、最高だぜ!!

  • 感無量

    感無量

  • 街全体が見渡せる

    街全体が見渡せる

  • 俺も好きだった人と登りたかった

    俺も好きだった人と登りたかった

  • 日差しも気持ちいい

    日差しも気持ちいい

  • 時が止まってるようで、俺を過去に呼び戻した

    時が止まってるようで、俺を過去に呼び戻した

  • 見てください、この驚いた顔!!<br />マジで絶景だよ!!

    見てください、この驚いた顔!!
    マジで絶景だよ!!

  • ジョットの鐘楼 <br /> <br />ジョットの鐘楼ジョットの鐘楼 (Campanile di Giotto) は、大聖堂の脇に建設されている高さ約84m、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られているゴシック様式の鐘楼である。<br /><br /> 歴史 <br />大聖堂の建設にあたって、1334年に工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンビオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐにその建築を開始した。しかし、ジョットは基底部分の建築が済んだ時点(1337年)で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継いでいる。聖堂よりも100年も早い1387年に塔は完成したが、当初計画された塔頂部の尖塔は造られなかった。<br /><br /> 鐘楼の装飾 <br />象眼や彫刻で飾られた基底部分はジョットの構想によるもので、56枚のレリーフと16体の彫刻(オリジナルはドゥオーモ付属博物館に収められている)で飾られ、どことなくアルノルフォ・ディ・カンビオによる装飾を想起させる。2階部分はピサーノ、さらに上の3つの階はタレンティの指揮によるもので、上部に行くに従って各層の大きさが増大するようになっている。タレンティの指揮した層には、装飾的な意味しかもたない破風とねじれ柱を備えたランセット窓(槍の穂先に似たアーチを持つ窓)が取り付けられている。これらは明らかにその様式が異なるが、全体としての調和は損なわれていない。<br />鐘楼外壁の装飾はほとんどレプリカである。オリジナルは大聖堂付属美術館に収蔵されている。<br /><br /> 拝観 <br />1月1日、復活祭の日曜日、12月24・25日以外であれば、6ユーロで塔の屋根部分まで登ることができる。階段は414段あり、入り口には「心臓に障害のある方は上らないように」といった注意書きがある。<br /><br />

    ジョットの鐘楼

    ジョットの鐘楼ジョットの鐘楼 (Campanile di Giotto) は、大聖堂の脇に建設されている高さ約84m、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られているゴシック様式の鐘楼である。

    歴史
    大聖堂の建設にあたって、1334年に工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンビオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐにその建築を開始した。しかし、ジョットは基底部分の建築が済んだ時点(1337年)で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継いでいる。聖堂よりも100年も早い1387年に塔は完成したが、当初計画された塔頂部の尖塔は造られなかった。

    鐘楼の装飾
    象眼や彫刻で飾られた基底部分はジョットの構想によるもので、56枚のレリーフと16体の彫刻(オリジナルはドゥオーモ付属博物館に収められている)で飾られ、どことなくアルノルフォ・ディ・カンビオによる装飾を想起させる。2階部分はピサーノ、さらに上の3つの階はタレンティの指揮によるもので、上部に行くに従って各層の大きさが増大するようになっている。タレンティの指揮した層には、装飾的な意味しかもたない破風とねじれ柱を備えたランセット窓(槍の穂先に似たアーチを持つ窓)が取り付けられている。これらは明らかにその様式が異なるが、全体としての調和は損なわれていない。
    鐘楼外壁の装飾はほとんどレプリカである。オリジナルは大聖堂付属美術館に収蔵されている。

    拝観
    1月1日、復活祭の日曜日、12月24・25日以外であれば、6ユーロで塔の屋根部分まで登ることができる。階段は414段あり、入り口には「心臓に障害のある方は上らないように」といった注意書きがある。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 <br /> <br />背面からみた洗礼堂:奥は大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。大聖堂の正面玄関に向き合って立っている八角形の建築物で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつである。アーヘンの宮廷礼拝堂を想起させるが、祭室と壁内通路以外には付室を持たない非常に単純な形式の八角堂である。<br /> 歴史 <br />この洗礼堂の起原は4世紀から5世紀にさかのぼる。現在の建物は、三つの建築物の中では最も古いロマネスク建築で、11世紀に起工されたものである。長い間、軍神マルスを祭ったローマ神殿であり、それが洗礼者聖ヨハネのために奉納しなおされたものであると信じられていた(初期ルネサンスの建築家たちもそう信じていた)。<br /><br />屋根部分全体は1128年に、頂頭部のランターンは1150年に、司教座のある内陣は1202年に完成した。サンタ・レパラータ教会が見劣りするためと考えられるが、こちらが礼拝堂として用いられていた。しかし、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建立にともなって、1355年から1375年まで改修を行い、礼拝堂に入る前に洗礼を施す洗礼堂として使われるようになった。この洗礼堂で洗礼を受けたダンテ・アリギエーリは、『神曲』地獄篇で「わが美しき聖ジョヴァンニ」とこの洗礼堂に言及している。<br /><br /> 洗礼堂の装飾 <br />洗礼堂内部は、床は一面のモザイク模様、壁面は外装と同じく大理石による幾何学模様が施されている。天井は13世紀のモザイク画『最後の審判』の他、聖書にまつわる多くの場面のモザイク画で飾られている。<br />『天国への門』この洗礼堂はロレンツォ・ギベルティによる東側の扉が特に有名であり、後にミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したことから主にこの名で呼ばれる。現在の扉はレプリカで、本物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されている。<br />1401年、北側の扉の製作者公募が公告された。これはコンクール形式で製作者が選ばれる最初の例といわれており、7人の技師、芸術家がこれに応募した。最後にロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキが選に残り、ギベルティが選ばれたとも、ギベルティとの共同制作をブルネレスキが辞退したとも伝えられている。ブルネレスキはコンクールを境にローマへ赴いて建築を学び、後に建築家として大聖堂のクーポラの設計を行った。このコンクールはルネサンス美術の幕開けのひとつとしてよく語られている。<br /><br />

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂

    背面からみた洗礼堂:奥は大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。大聖堂の正面玄関に向き合って立っている八角形の建築物で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつである。アーヘンの宮廷礼拝堂を想起させるが、祭室と壁内通路以外には付室を持たない非常に単純な形式の八角堂である。
    歴史
    この洗礼堂の起原は4世紀から5世紀にさかのぼる。現在の建物は、三つの建築物の中では最も古いロマネスク建築で、11世紀に起工されたものである。長い間、軍神マルスを祭ったローマ神殿であり、それが洗礼者聖ヨハネのために奉納しなおされたものであると信じられていた(初期ルネサンスの建築家たちもそう信じていた)。

    屋根部分全体は1128年に、頂頭部のランターンは1150年に、司教座のある内陣は1202年に完成した。サンタ・レパラータ教会が見劣りするためと考えられるが、こちらが礼拝堂として用いられていた。しかし、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建立にともなって、1355年から1375年まで改修を行い、礼拝堂に入る前に洗礼を施す洗礼堂として使われるようになった。この洗礼堂で洗礼を受けたダンテ・アリギエーリは、『神曲』地獄篇で「わが美しき聖ジョヴァンニ」とこの洗礼堂に言及している。

    洗礼堂の装飾
    洗礼堂内部は、床は一面のモザイク模様、壁面は外装と同じく大理石による幾何学模様が施されている。天井は13世紀のモザイク画『最後の審判』の他、聖書にまつわる多くの場面のモザイク画で飾られている。
    『天国への門』この洗礼堂はロレンツォ・ギベルティによる東側の扉が特に有名であり、後にミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したことから主にこの名で呼ばれる。現在の扉はレプリカで、本物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されている。
    1401年、北側の扉の製作者公募が公告された。これはコンクール形式で製作者が選ばれる最初の例といわれており、7人の技師、芸術家がこれに応募した。最後にロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキが選に残り、ギベルティが選ばれたとも、ギベルティとの共同制作をブルネレスキが辞退したとも伝えられている。ブルネレスキはコンクールを境にローマへ赴いて建築を学び、後に建築家として大聖堂のクーポラの設計を行った。このコンクールはルネサンス美術の幕開けのひとつとしてよく語られている。

  • 確か シンヨーリア広場だったと思うよ

    確か シンヨーリア広場だったと思うよ

  • ヴェッキオ宮殿<br /><br />1299年から1314年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、初めは、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。1550年から1565年の間に、ジョルジョ・ヴァザーリによって部分的に改築された。現在でも、フィレンツェ市庁舎として使われている。内部は、「フランチェスコ1世の仕事部屋」「500人大広間」「レオ10世の間」「ゆりの間」などの部屋に分かれている。<br />500人大広間2007年5月、イタリア文化庁は、レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の壁画「アンギアーリの戦い」が500人大広間にあるヴァザーリの壁画の裏側に隠されていると発表した。

    ヴェッキオ宮殿

    1299年から1314年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、初めは、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。1550年から1565年の間に、ジョルジョ・ヴァザーリによって部分的に改築された。現在でも、フィレンツェ市庁舎として使われている。内部は、「フランチェスコ1世の仕事部屋」「500人大広間」「レオ10世の間」「ゆりの間」などの部屋に分かれている。
    500人大広間2007年5月、イタリア文化庁は、レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の壁画「アンギアーリの戦い」が500人大広間にあるヴァザーリの壁画の裏側に隠されていると発表した。

  • コピー品だけどね

    コピー品だけどね

  • ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。また、Uffiziは英単語officeの語源でもある。<br /><br />メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。展示物は2,500点にのぼり、古代ギリシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画を中心に、それ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されている。<br /><br />

    ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。また、Uffiziは英単語officeの語源でもある。

    メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。展示物は2,500点にのぼり、古代ギリシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画を中心に、それ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されている。

  • 甘そう。。。。。<br />虫歯が痛くなってきた。。。。

    甘そう。。。。。
    虫歯が痛くなってきた。。。。

  • きたよ!!!!<br />ヴェッキオ橋!!!

    きたよ!!!!
    ヴェッキオ橋!!!

  • イタリアのフィレンツェを流れるアルノ川に架かる橋。イタリア語で「古い橋」の名が示すとおり、フィレンツェ最古の橋。河川の氾濫などで何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたもの。橋の上に宝飾店が建ち並んでいることで知られる。<br />

    イタリアのフィレンツェを流れるアルノ川に架かる橋。イタリア語で「古い橋」の名が示すとおり、フィレンツェ最古の橋。河川の氾濫などで何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたもの。橋の上に宝飾店が建ち並んでいることで知られる。

  • 貴金属、宝石が並んでます

    貴金属、宝石が並んでます

  • 金銀細工の店が軒を並べています

    金銀細工の店が軒を並べています

  • にゃんとにゃく

    にゃんとにゃく

  • かつては肉屋などが並んでいた

    かつては肉屋などが並んでいた

  • 橋周辺

    橋周辺

  • 旅日記書くの疲れてきたよ。。。。

    旅日記書くの疲れてきたよ。。。。

  • メディチ家のマーク????<br /><br />ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。

    メディチ家のマーク????

    ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。

  • 夜もパスタでしょ!!???

    夜もパスタでしょ!!???

  • 泊まったホステル<br />Ostello Archi Rossi<br /><br /><br />http://www.hostelsclub.com/hostel-jp-4200.html

    泊まったホステル
    Ostello Archi Rossi


    http://www.hostelsclub.com/hostel-jp-4200.html

  • 寂しい外装だが、内装は素晴らしい!!

    寂しい外装だが、内装は素晴らしい!!

  • えみちゃん ひとみちゃん 俺

    えみちゃん ひとみちゃん 俺

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