2009/10/18 - 2009/10/18
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kawabekentarouさん
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10月18日
日記
昨日オーストリアウィーンからイタリアローマに向かっている。寝台車でアル中のおっちゃん同じ部屋になった。かなりベロベロに酔っ払っていて、絡んでくるから俺はぶちきれ胸倉をつかんだ。そしたらおとなしくなった。小柄なおっちゃんだからできたけど、もし巨人だったら死んでたな。。相手が酔ってるとはいえ、俺もぶちきれてしまい、大人気なく恥ずかしく思った。だから、朝一番でおっちゃんに謝った。そしたらおっちゃんも謝ってきて、3ユーロもするのにビールをおごってくれた。朝からビールって、、、と思ったけど、おっちゃんも懲りずに飲んでるし、素直に頂き、仲直りした。
ローマ、テルミニ駅に着いた。宿を探すために、まずは荷物をと思い、コインロッカーを探した。けど、まったくない、あっても使えない状態だ。多分危険物の関係で、荷物預かり所があるんだ。パスポートをコピーされ、セキュリティーチェックを受け、やっとのことで荷物を預けることができた。しかも高いよ。。。
迷いつつも寝床を見つけ、駅に荷物を取りに戻った。ホステルのお姉さん、めっちゃ良い人だったな〜、セクシーだし。うん、イタリアに来たって感じがしました。スケベですな、俺は。。。
とりあえず、地下鉄でバチカン市国を目指した。サンピエトロ大聖堂にも入れて大満足でした。しかしまたもチャイニーズに気分を害されました。凄く込んでいて入場するのに並ばないといけないのにファッキンチャイニーズは何食わぬ顔で並ばず前の方へ横入り。西欧人に注意されてもとぼけた感じ。。腹立たしかった。西洋人から見れば俺もチャイニーズに勘違いされる場合もある、悲しい。チャイニーズはスティンジーだ。日本にいる中国人は良い人が多いから凄く残念である。
サンタロジェ城も素晴らしかった。今の状態で荷物がかなり重いのに、ローマでまたしても買い物大暴走してしまった。ほしかった。。。トレヴィの泉やスペイン広場とかにも行った。スペイン広場は日差しが気持ちよく寝てしまった。。イタリアで嬉しいのは気候が暖かい!!場所によってはシャツでも過ごせる!!夕暮れ間じかにコロッセオにも行った。夕日とのコントラストが最高で、ずっと眺めていた。ちょうど、有名なマリア様遺体を輸送なのか?警察総動員で、牧師や修道士がたくさんの列をつくり、マリア様を運んでいた。遺体というか、ミイラだけど、なんのために?気になるところだよ。
ホステルに戻ったら7人部屋に男俺一人で、皆女性だった〜
わおぉ〜と思いつつも、正直いずらい。でも、皆気を使ってくれたし、その中でも、ブラジル人(見た目タイ人)のルシェンはやさしく、俺がいずらいのをさっし、ロビーで飲もうと誘ってくれたり、フェイスブックのサイトやアドレスも交換してくれた。
明日はいよいよ思いが入ったフィレンツェだ〜!!この旅で一番行きたい地である。楽しみではあるが、自分の中では複雑である。8年間、ずっと思いこがれていた。明日は何を思い、フィレンツェのドーモのクーポラに登るんだろう。。。?
それより宿の心配をしろ!!
概要
当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり当市の内側で国境に接しており、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを用いた「ローマは一日にして成らず」という諺もある。
2007年現在の人口は約270万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。
歴史
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。 考古学的には、この地に人々が居住したのはもっとはやく、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられているが、恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしい。紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。
ローマ帝国
フォロ・ロマーノ都市国家ローマから王政ローマを経て、共和政ローマ・ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。皇帝ディオクレティアヌスがニコメディアに遷都するまで、世界帝国の中心として君臨し続けた。
395年にローマ帝国が東西に分かれた後は、西ローマ帝国に属したが、西ローマ帝国は首都をラヴェンナに置いたためその政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人やヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、西ローマ帝国も476年に滅亡した。その後は西ローマを滅ぼしたオドアケル、次いで東ゴート王国の支配下に入った。
文化の中心地
6世紀以降は東ゴートを滅ぼした東ローマ帝国やランゴバルド王国などのいくつかのゲルマン人の王国の支配を経てフランク王国のカール1世が征服。『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリーチェ水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニやボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。
統一イタリアの首都
ローマ共和国を守るジュゼッペ・ガリバルディウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年にイタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。
その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。
現在
第二次世界大戦後には、航空機の発達により、日本をはじめとするアジアやアメリカなどのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。現在はパリやマドリードなどと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治や経済、文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。
行政
カンピドリオとローマ市庁舎ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。
行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーニは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアン壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。
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サンタンジェロ城
ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語訳によっては、聖天使城、カステル・サンタンジェロとも呼ばれる。 正面にはサンタンジェロ橋があり、わずかに離れた場所にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれている。
135年、皇帝ハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始しアントニヌス・ピウス治世の139年に完成した。 霊廟はきれいな円形で、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置された。暫くすると軍事施設として使用されはじめ、403年にはアウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられ、14世紀からは教皇達により要塞として強化され、またその頃から牢獄や避難所として使用された。 クレメンス7世はローマが恐ろしい略奪を受けている間、カール5世率いるドイツ人傭兵の包囲に抵抗するためこの機能を使用した。
城としての名称の由来は590年にローマでペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世は、剣を鞘に収める大天使ミカエルを城の頂上に見て、これをペスト流行の終焉を意味するとした。
その出来事を記念して、16世紀にラファエッロ・ダ・モンテルーポ(Raffaello da Montelupo)による大理石製の天使の像を城の頂上に設置した。1753年からはPierre van Verschaffeltによる青銅製の像が設置してある。 -
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サン・ピエトロ大聖堂
バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。
カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m²。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。 -
サン・ピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築である。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものである。高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737m²。教会堂の前部には長径200m、短径165mの広場(サン・ピエトロ広場)が存在する。北側にはバチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接する。ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わった。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。
本来は、コンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されたものである。14世紀まで、ローマ司教(現在のローマ教皇)の司教座聖堂は、コンスタンティヌスのバシリカ(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)であった。アヴィニョン捕囚によってラテラーノ宮殿が荒廃したため、1377年にローマに戻った教皇によって、ローマ教皇の座所となる。最初の教会堂が大聖堂ではなく、聖ペテロの墓地の巡礼を目的として設計されたため、本来は東側に向けて構築されるはずのアプスは西に向けられ、東側には入り口が設けられている。 -
バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者はローマ教皇である。ローマ教皇庁の責任者は国務長官通常は枢機卿)、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長 通常は枢機卿)が務めている。2007年8月時点で教皇はドイツ出身のベネディクト16世、国務長官はイタリア人のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はイタリア出身のジョヴァンニ・ラヨロ大司教が務めている。
バチカンという名称は、この地のもともとの名前であった「ヴァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となったもともとの理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。
公用語はラテン語であり、公式文書に用いられる。ただし通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。また警護に当たるスイス人衛兵達の共通語はドイツ語である。 -
政府
サン・ピエトロ大聖堂法的にはバチカン市国の政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳以下の枢機卿たちの選挙(コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は男性のカトリック信徒であるということだけであるが、実質上は枢機卿たちの互選になっている。
「バチカン市国」と「ローマ教皇庁」は同義のようだが微妙に同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governor of Vatican City) が存在するが、ローマ教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。委員会のメンバーの任期は5年となっている。 -
歴史
バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。326年にコンスタンティヌス帝によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。1860年にイタリア王国が成立すると教皇領は接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶し、教皇は「バチカンの囚人」と称してバチカンに引きこもった。
このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。
条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が信教の自由を考慮して修正された。 -
概要
バチカン市国の成立した1929年以降、国際法上の主権国家となったことにあわせてローマ教皇庁の外交使節がバチカン市国の外交使節として各国に派遣され、同時に各国の外交使節を受け入れるようになった(以前から教皇使節が主要諸国に滞在してはいた)。現在、バチカンは174カ国の独立国家と、国際連合およびマルタ騎士団の特命全権大使を受けて入れており、179カ国の国と地域に大使あるいは外交使節を派遣している。
東京にあるバチカンの大使館の名称は「ローマ法王庁大使館(イタリア語名:Nunzio apostolico in Giappone)」であり、在バチカンの日本国大使館は「在バチカン日本国大使館」である。ただし日本国大使館は実際はバチカン国内ではなく、バチカンに隣接するイタリアのローマ市内にある。かつて中国大陸東北部に存在した満州国とは、同国の建国以降崩壊までの間を通じて「反共主義」という共通姿勢を拠り所として国交を保ち続けていた。
宗教活動の自由がない事実上の一党独裁国家である中華人民共和国とは国交を持っておらず、バチカンは中華人民共和国と国交を持っていないヨーロッパで唯一の国家である。その代りにバチカンは、中華人民共和国と対立関係にあり宗教活動の自由が保障されている中華民国と国交を持っている。中華民国とバチカンの外交関係の歴史は古く、中華民国が中国大陸を支配していた第二次世界大戦中の1942年に確立されている。
国際連合においては長らく「恒久的オブザーバー」というかたちで代表を派遣していたが、2004年7月に投票以外のすべての権利を持った代表となった。投票権を行使しないのは政治的に中立であるためであり、国連におけるバチカン代表のミリオーレ大司教も「投票権をもたないことは私たち自身の選択です」と語っている。 -
国土
バチカンの領域バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿ってしかれている。面積は約0.44km²と、国際的な承認を受ける独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド (約0.52km²) よりも小さい。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。
またラテラノ条約の取り決めに従って、バチカン市国外のいくつかの区域(カステル・ガンドルフォの教皇別荘、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などの大バジリカ、教皇庁事務所など)でもバチカンの主権が認められている。
これらの中にはバチカン放送の建物も含まれているが、短波ラジオの送信所は国外のローマ市郊外にあり、その敷地内にはバチカンの治外法権が認められている。 -
サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称は、ヴァティカーノ丘陵であるが、この教会堂をバシリカと呼ぶのは、ローマ建築から初期キリスト教建築に連なる伝統的なバシリカだから、というわけではない。現在のカトリック教会は、重要な教会堂や大聖堂にバシリカの語を充てているが、本来は、ローマ教皇によって宗教的特権を与えられた七つの教会堂を示すもので、サン・ピエトロ大聖堂はそのひとつであることを意味する。実際に、現在の聖堂は伝統的なバシリカ式の教会堂建築ではない。特権を与えられた7つのバシリカは、サン・ピエトロ大聖堂のほか、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・セバスティアーノ大聖堂、そしてサンタ・クローチェ・イン・ジェルザレンメ大聖堂で、かつては聖年に巡礼を行うと、贖宥されるとされた教会堂であった
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聖堂の創建
旧サン・ピエトロ大聖堂平面図とネロのキクルス、および現聖堂の平面初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂である。アウレリアヌス城壁の外、ヴァティカヌス丘陵に2世紀になって整備された異教徒用墓地区域にある、聖ペテロの埋葬地を覆うように計画された。 歴史学的には、ペテロがローマで殉教したとする確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペテロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。ローマ教皇庁が1950年に行った声明に先立つ発掘では、大聖堂地下において墓碑と遺骨が発見されているが、これがペテロのものであるという確証はない。また、しばしばペテロ殉教の地とされることもあるが、15世紀には、ペテロが逆さ十字に架けられたのは「黄金のヤニクルム」、つまりジャニコロの丘のモントリオ(サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のある場所)であるとされ、現在は、そこにドナト・ブラマンテの設計したテンピエットが建設されている
最初の大聖堂の形態は、313年頃に建設されたバシリカ・サルウァトロス、すなわち救世主大聖堂(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を原型とするもので、324年以前(恐らく319年から322年の間)に着工され、身廊は360年頃、アトリウムは390年頃、内部装飾は5世紀中期までには完成した。一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは、アプスを含めた最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達する巨大なもので、当時すでにヨーロッパ最大の教会堂であった[4]。 ただし、この初代サン・ピエトロ大聖堂は主教座教会堂ではなく、アプス中央にあるペトロの墓所を聖地として多くの巡礼者を集めた殉教者記念教会堂、および巡礼教会堂であり、古代・中世の教皇の住まいは「首都と世界の本山にして首席教会堂」と称された救世主大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であった。896年に、救世主大聖堂は聖ヨハネに献堂され、「首席教会堂」の尊称はサン・ピエトロ大聖堂に遷されることになった。
現在、この創建当時のサン・ピエトロ大聖堂は失われてしまったが、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、旧サン・ピエトロ大聖堂とファサードや平面がよく似ており、当時の教会堂を偲ぶのに適している。 -
大聖堂の装飾
ミケランジェロのピエタサン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンスからバロックの時期にかけての巨匠たちが主任建築家を引き継いで建設したものである。また、単なる宗教施設という規模を超えて宗教芸術の宝庫にもなっている。その一方で、この大聖堂の建設費用を調達するためとして贖宥状(いわゆる免罪符)が発行され、マルティン・ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。
外部
コロネード中央部の『オベリスク』
コロネード楕円中心部の噴水 – 右側:カルノ・マデルノ(1613年)、左側:カルロ・フォンターナ(1677年)
ナルテクス
中央入り口のモザイク『小舟』 – ジョット
『死の扉』 – ジャコモ・マンズー
『善と悪の扉』
『中央扉』 – アントニオ・フィラレーテ(1445年8月14日旧大聖堂に設置、1620年に現在の聖堂に設置)
『秘蹟の扉』
『聖なる扉』
身廊部分
身廊壁龕の像(向かって右側)『聖ペテロ』『アビラの聖テレサ』『パウルの聖ヴィンセント』『聖フィリッポ・ネリ』
身廊壁龕の像(向かって左側)『アレクサンドリアの聖ペテロ』『聖カミッロ』『聖イグナティオ』『パオラの聖フランチェスコ』
主角柱壁龕の像『聖ロンギヌス』(像の下部に聖槍を所蔵)『聖ヘレナ(エイレーネー)』『エルサレムの聖ヴェロニカ』『使徒アンデレ』(像の下部にアンデレの頭部を所蔵)– ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
内陣および至聖所部分
ペンデンティヴのモザイク『福音記者マタイ』『福音記者マルコ』『福音記者ヨハネ』『福音記者ルカ』
『大天蓋(バルダッキーノ)』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
『主祭壇』 – カルロ・マデルノ
『聖ペテロの司教座』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
『教皇ウルバヌス8世の墓碑』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
『教皇パウルス3世の墓碑』 – グリエルモ・デッラ・ポルタ
身廊の各礼拝堂
ピエタの礼拝堂の『ピエタ』 – ミケランジェロ・ブオナローティ(1499年制作)
洗礼堂『洗礼盤』 – カルロ・フォンターナ
洗礼堂の祭壇画『キリストの洗礼』 – カルロ・マラッタ
『スウェーデン女王クリスティーナの墓碑』 – カルロ・フォンターナ
『教皇レオ12世の墓碑』
『マリア・クレメンティナ・ソビエスカの墓碑』 – ピエトロ・ブラッチ
『スチュワート朝最後の王たちの墓碑』 – アントニオ・カノーヴァ
聖セバスティアヌスの礼拝堂のモザイク『聖セバスティアヌスの殉教』 – ドメニキーノ
聖セバスティアヌスの礼拝堂『教皇ピウス11世の墓碑』 – ピエトロ・カノニカ(1949年制作)
聖セバスティアヌス礼拝堂『教皇ピウス12世の墓碑』
奉献の礼拝堂の祭壇画『マリアの神殿への奉献』 – ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ
奉献の礼拝堂『教皇ベネディクトス15世のモニュメント』 – ピエトロ・カノニカ
奉献の礼拝堂のレリーフ『教皇ヨハネス23世の囚人訪問』 – エミリオ・グレコ
『マティルデ・ディ・カノッサ伯爵夫人の墓碑』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニおよびアンドレア・ボルジ
『教皇ピウス10世のモニュメント』 – フロレスターノ・ディ・ファウスト
『教皇インノケンティウス8世のモニュメント』
聖なる秘跡の礼拝堂– ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
聖なる秘跡の礼拝堂『三位一体』– ピエトロ・ダ・コルトーナ
聖なる秘跡の礼拝堂モザイク『聖フランチェスコの法悦』– ドメニキーノ
聖なる秘跡の礼拝堂の柵– フランチェスコ・ボッロミーニ
内陣席の礼拝堂– ジャコモ・デッラ・ポルタ
内陣席の礼拝堂祭壇画『無原罪のお宿り』– ピエトロ・ビアンキ
『教皇グレゴリウス13世のモニュメント』
『教皇グレゴリウス14世のモニュメント』
『教皇レオ1世のモニュメント』– アレッサンドロ・アルガルディ
『教皇インノケンティウス11世のモニュメント』– ピエトロ・ステファノ・モンノ
内陣周辺の各礼拝堂
グレゴリアーナの礼拝堂『救いの聖母の祭壇』(コンスタンティノポリス総主教ナジアンゾスのグレゴリオスの遺体を安置)
グレゴリアーナの礼拝堂『教皇グレゴリウス16世のモニュメント』
クレメンティーナ礼拝堂– ジャコモ・デッラ・ポルタ
クレメンティーナ礼拝堂のモザイク『布の奇跡』– アンドレア・サッキ
クレメンティーナ礼拝堂『教皇ピウス7世のモニュメント』– アルベルト・トロバウゼン
モザイク『聖ヒエロムニスの聖体拝領』– ドメニキーノ
『キリストの変容』– ラファエロ・サンティ
『聖バシレイオスの祭壇』
『教皇ベネディクトス14世のモニュメント』
『教皇ピウス8世のモニュメント』
『ブジーアの祭壇』
聖ベンチェスラオの祭壇の祭壇画 – アンジェロ・カロセッリ
聖プロチェッソとマルティアーノの祭壇のモザイク『聖プロチェッソとマルティアーノの殉教』 – ジャンボローニャ
聖エラスムスの祭壇のモザイク『聖エラスムスの殉教』 – ニコラ・プーサン
聖トマスの祭壇モザイク『聖トマスの不信』 – ビンチェンツォ・カムッチーニ
聖シモンとユダの祭壇のモザイク『聖ヨセフ』 – アキッレ・フーニ
聖ペテロの祭壇の祭壇画『聖ペテロの磔刑』 – グイード・レーニ
『教皇クレメンス13世のモニュメント』 – アントニオ・カノーヴァ
小舟の祭壇
『アレクサンデル7世墓碑』 – ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
『聖なる心の祭壇』
聖ミカエルの礼拝堂の祭壇画『聖ミカエル』 – グィード・レーニ
コロンナの礼拝堂『聖母像』
コロンナの礼拝堂『教皇レオ1世とアッティラの出会い』 – アレッサンドロ・アルガルディ -
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ナヴォーナ広場
イタリア・ローマにある広場。紀元1世紀、ドミティアヌス帝が造らせた競技場が元になっている。広場中央には、4つの大河(ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川)を擬人化した彫像の噴水がある。これらの彫像は、バロック時代ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって造られたものである。 -
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トレヴィの泉
ローマにある最も巨大なバロック時代の泉で、ローマでも有数の観光名所として賑わっている。「トレビの泉」とも。
ポーリ宮殿の壁と一体となったデザインで、中央に水を司るネプトゥヌス(ポセイドーン)が立ち、左に豊饒の女神ケレス(デメテル)、右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されている。これらはサルヴィの原案でブラッチが制作した。 -
歴史
元々は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが作らせたもので、ヴェルジネ水道(ウィルゴ水道、乙女の水道の意)の終端施設としての泉が場所を替えた後、今の位置になった。その後、泉はローマの建築家ニッコロ・サルヴィの設計で改造、彼の没後の1762年に完成した。
言い伝え
後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶うという言い伝えがあり、投げるコインの枚数によって願いが異なる。コイン1枚だと再びローマに来ることができ、2枚では大切な人と永遠に一緒にいることができ、3枚になると恋人や夫・妻と別れることができる。3枚の願いはキリスト教が離婚を禁止していたという歴史の名残りである。このコインは半分がカトリック系チャリティ団体に寄付される。 -
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スペイン広場
イタリア・ローマにある有名な広場。間近にあるスペイン大使館からこの名で呼ばれている。スパーニャ広場とも。広場の中央には、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「バルカッチャの噴水」がある。東には後述の大階段がある。西側はコルソ通りに向けてコンドッティ通りがある。 -
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大階段
スペイン広場には、トリニタ・デイ・モンティ教会へと続くトリニタ・デイ・モンティ階段、通称「スペイン階段」が接する。 設計はフランチェスコ・ディ・サンクティスによるもので、1725年に完成した。波を打つような形態はバロック的な効果をあげている。
映画「ローマの休日」で、オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所である。当初、フランスの外交官の寄付によって造られたものの、スペイン広場にあるためこの名で呼ばれている。
現在はスペイン広場付近の地下鉄入り口付近に階段を上らずに上にいけるエレベーターが設置されている。また、保護のため広場での飲食は禁じられており、ローマの休日のシーンのようにジェラートを食べる事はできない。 -
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コロッセオ
古代ローマ時代の建造物。ローマ帝政期に造られた円形闘技場で現在ではローマを代表する観光地になっている。
概要と歴史
コロッセオはネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設された。人工池は水を抜けばすでに掘り下げられていたので基礎工事をいくらか省略することができた。工事はウェスパシアヌス治世の75年に始まり、ティトゥス治世の80年から使用されるようになった。使用開始に当たっては、100日間に渡りイベントが続けられ、数百人の剣闘士が闘い命を落としている。なお、完成したのはドミティアヌスの治世中である。
コロッセオの横には噴水が作られ、それは「メタ・スダンス(汗をかく標識)」と云われ、闘いを終えた剣闘士もここで体を洗ったと伝えられている。
ライトアップしたコロッセオフラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス闘技場」が本来の名前である。しかし、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたためコロッセウムと呼ばれるようになったといわれている。1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市となってしまったがコロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけている。
長径188m短径156mの楕円形で高さは48mで45,000人を収容出来た。また、天井部分は開放されているが、日除け用に布を張る設備があった。皇帝席には一日中直射日光が当たらないように設計されており、また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないように工夫がなされていた。 -
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コロッセオ内部。現在では地下にあった施設がむき出しになっている。初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演することさえ可能だった。が、後には「迫」のような複雑な舞台装置を設置したためにそのような水を使った大規模演出は不可能となった。また、人力エレベーターの存在もありこれは剣闘の選手の入場のために用意されていた。現在ではその巻き上げを行った柱の跡が残っている。
中世を通じてコロッセオに使用されている建材は他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたわけである。その大理石はサン・ピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていた為、一種の聖地となっていたからである。しかし、キリスト教徒が迫害されたという明確な根拠はない。ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになった。現在外周は半分程度が残っている。
かつて多くの殺人(公開処刑を含む)が行われた場所であることから、現在では死刑廃止のイベントのために使用されている。例えば、11月30日の「死刑に反対する都市(Cities for Life)」の日、あるいは、新たに死刑を廃止した国が出たときには、その記念としてコロッセオがライトアップされる。2007年1月には、イラクのサッダーム・フセイン元大統領の処刑に抗議するために点灯された。 -
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フォロ・ロマーノ
歴史
フォロ・ロマーノがいつごろからローマ市の中心となったのかは、はっきりしない。伝承では、ロムルスとレムス兄弟に率いられたラテン人がローマを建設したのは紀元前753年頃とされる。フォロ・ロマーノの整備は紀元前6世紀頃に始まるが、それ以前は周囲の丘から流れ込む小川が合流し、増水したテヴェレ川の流水で水没することもある沼沢地で、一部は墓地として利用されていた[1]。このような土地がローマの中心となったのは、それぞれの丘にあった村落が徐々に連合を形成するにつれ、会合や会談の場として中立な原野が選ばれたことによるらしい。まさにその中心に位置する原野がフォロ・ロマーノのある場所であった
紀元前6世紀のタルクィヌス王の時代に、ウェラブルムの小川を造成して水を抜くための大下水溝(クロアカ・マキシマ)が造営され、湿地であった土地に排水機構が整備された。この排水溝は紀元前2世紀頃まで露天であったが、後にヴォールトによって閉じられ、完全な下水溝となった。共和制時代の記録では、フォロ・ロマーノには東西南北に、それぞれ「妹の梁の門」、「呪われた門」、「ローマ門」、「ヤヌス門」と呼ばれる古い四つの門があったとされ、これが都市としてのローマの最初の輪郭であったと考えられる[3]。この門が設置された時期には、東西大通り(デクマヌス)と南北大通り(カルド)が明確な、整然とした形の都市があったが、共和制時代にこのプランは失われ、東西の大通りのみが、かなり方向が変わっているものの、「聖なる道(ウィア・サクラ)」として生き残った。
フォロ・ロマーノでは、定期的に民会(コミティウム)が開催されており、そのための広場は宗教的な儀式によって聖別されていた。民会は、クリア・ユリアとセプティミウス・セウェルスの記念門に挟まれた場所にあり、紀元前3世紀前半から紀元前1世紀前半までは、ロストラ(演壇)を備えた直径約30mの露天の円形広場であった。民会議場に隣接して北側に元老院議事堂(クリア・オスティリア)も設置されていた。神殿も建立され、サトゥルヌス神殿は紀元前498年、カストルとポルックス神殿は紀元前484年、コンコルディア神殿は紀元前366年の創建とされる。しかし、これらの建物の形式は明確でない。フォロ・ロマーノにおいて、唯一、その初期の姿が分かっているのはレギアのみである。レギアは大神官の公邸として機能したもので、鉄器時代の木造建築物の遺跡の上に、紀元前5世紀のものと思われる炉を中心とした広間と、それに付随する二つの前室、そして中庭を備えた邸宅の遺跡が重なっている。また、ウィトルウィウスによると、共和制末期まで、剣闘士による闘競はフォロ・ロマーノで行われていた。
フォロ・ロマーノが現在の輪郭になったのは、ガイウス・ユリウス・カエサルによる西側の大改装の結果である。すでにそれ以前から、フォロ・ロマーノを整然と計画されたものにする努力は行われており、カエサルの計画は、いわはその集大成であった。その計画は彼の暗殺によって、初代ローマ皇帝アウグストゥスへと引き継がれる。現在の遺跡はほとんどがその計画の後に建設されたものとなっている。
西ローマ帝国が滅びた後、中世の時代になると、フォロ・ロマーノは完全に忘れ去られ、カンポ・ヴェッキオと呼ばれる放牧場となった。土の下に埋もれた遺跡はほとんど傷むことがなかったと思われるが、ルネサンス時代に古典建築が復興されると、フォロ・ロマーノは逆に破壊の危機に曝されることになった。ローマ教皇ユリウス2世はローマ市街の再建を計画し、古代建築の装飾をはぎ取って建築資材に充てた。ピッロ・リゴーリオは、これによってローマの古代遺跡が急速に消失していく様を記録している -
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フォロ・ロマーノには大小様々な遺跡が残っている。ウィア・サクラ(聖なる道)に沿って、西から東に向けて以下の順に並ぶ。
タブラリウム
国家公文書館。紀元前78年に、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラによって建立された。フォルムの西端に位置する建築物で、フォルムのいわば舞台背景の役割を果たし、同時にカピトリーノの丘にあったユノ・モネタ神殿(造幣局として機能)とユピテル・オプティムス・マキシムス神殿を接続した。
コンコルディア神殿
初代皇帝アウグストゥスが起工し、次代のティベリウスが10年に完成させた神殿。現在は基礎部分しか残っていない。
ウェスパシアヌス神殿
皇帝ドミティアヌスによって建設された神殿。現在は3本のコリント式の柱のみが残る。
セプティミウス・セウェルスの凱旋門
フォルムの西端に建つ記念門。皇帝セプティミウス・セウェルスのパルティア遠征の戦勝記念として建設され、203年に完成した。高さ23m、幅25m。白大理石の豪華な彫刻によって装飾されている。
ロストラ
演説をするために凝灰岩で造られた高さ3m、長さ12mの演壇。ロストラとは船首を意味する言葉で、台の周囲に敵船の船首をはめ込んでいたことに由来する。演壇の脇には「ローマの臍」と、主要都市までの距離を金文字で刻んだ里程票が設置されていた。
サトゥルヌス神殿
アエラリウムとも呼ばれ、共和制から帝政時代にかけて国家宝物庫として機能した神殿である。ムナティウス・プランクスによって紀元前30年頃にも再建されているが、現在の神殿は497年に再度建設されたものである。
クリア・ユリア
元老院議事堂。ガイウス・ユリウス・カエサルによって起工され、アウグストゥスが紀元前29年に完成させたものを、皇帝ディオクレティアヌが再建した。現在の建物は、さらにそれを今世紀に復元したものである。共和制時代から帝政前期にかけて、ローマの政治的中枢として機能した、いわば国会議事堂である。
フォカスの記念柱
東ローマ帝国の皇帝フォカスによって、608年に建設された記念柱。造営当時は柱の上に皇帝の像が設置されていた。すでに西ローマ帝国は滅びており、フォロ・ロマーノに建設されたローマ帝国による最後の建築物である。
バシリカ・ユリア
火災によって消失したバシリカ・センプロニアの跡に造営されたバシリカ。ガイウス・ユリウス・カエサルによって起工された(皇帝アウグストゥスが12年に完成)ため、バシリカ・ユリア(ユリウスのバシリカ)と呼ばれる。5廊式の巨大建築物で、4つの民事法廷が開設されていた。
ウェヌス・クロアキナ祠
かつてフォロ・ロマーノの中心に流れていたウェラブルムの小川の女神を祭った祠。この小川はクロアカ・マキシマとして整備され、現在もフォロ・ロマーノの地下を流れる。祠跡はほとんど残っていない。
バシリカ・アエミリア
マルクス・アエミリウス・レピドゥスによって建設されたバシリカ。バシリカ・ユリアとともに重要な裁判が行われた。正面には商店が並び、商取引にも使われた。現在は基礎部分以外、ほとんど消失している。
カストルとポルックス神殿
紀元前6年に皇帝アウグストゥスが造営を開始し、皇帝ティベリウスによって6年に完成した神殿。古代ローマの金融の中心地で、度量衡の管理事務所が備えられていた。神殿の基壇の高さは6.7mに達し、ヴォールト天井の倉庫が設けられている。
サンタ・マリア・アンティクァ聖堂
ローマ最古の教会堂のひとつ。皇帝宮殿の図書館を改装して利用されたが、9世紀に地震によって倒壊した。今世紀になって発見され、修復されている。
ディウウス・カエサル神殿
アウグストゥスによって紀元前29年に建てられた神殿。ディウウス・カエサルとは神君カエサルの意で、紀元前49年にユリウス・カエサルが神格化されたことを受けたものである。現在は神殿の基礎構造のみが残る。
アウグストゥスの凱旋門
ディウウス・カエサル神殿とカストル・ポルックス神殿の間に建設された、戦勝を記念して造られた記念門。現在はほぼすべて失われている。
レギア
ヌマ・ポンピリウス王によって建てられた王宮と伝えられる建築物。紀元前36年にクナエウス・ドミティウス・カルウィヌスによって再建された。この再建において、ルーニ(現カッラーラ)の石切り場の大理石がローマで初めて用いられた。
ウェスタ神殿
ローマのすべての竃の火を象徴する神殿。現在の遺構は、205年にセプティミウス・セウェルスによって建造されたもので、フォロ・ロマーノで唯一の円形神殿である。中に祭られる火は絶えず燃やし続けられ、これを管理する女性神官はウェスタの巫女と呼ばれた。
巫女たちの家
ウェスタ神殿の巫女たちの住居。
アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿
皇帝アントニヌス・ピウスが、141年に没した皇后ファウスティナのために捧げた神殿。後にアントニヌス・ピウスもここに葬られた。11世紀になると、神殿跡にサン・ロレンツォ・イン・ミランダ聖堂が建設されたが、1602年に神殿の一部を再建するかたちで教会堂が設計しなおされ、現在のような状態になっている。
ロムルス神殿
皇帝マクセンティウスが、夭折した息子ウァレリウス・ロムルスのために建設した神殿。しかし、彼がミルヴィオ橋の戦いで戦死したため、未完となった。
マクセンティウスとコンスタンティヌスのバシリカ
マクセンティウスが308年に起工し、コンスタンティヌス1世が312年に完成させた。このため、マクセンティウスのバシリカ、あるいはコンスタンティヌスのバシリカとも呼ばれる。それまでの伝統的なバシリカとは全く異なるスタイルの建築物で、皇帝浴場の形態から着想したものと考えられる。現在は北側の側廊のみが残る。
ウェヌスとローマ神殿
女神ウェヌスと女神ローマの神殿。皇帝ハドリアヌスが意図的にギリシア建築に倣った形式で設計したもので、わざわざ小アジアから職人を招集して建設された。巨大な国家記念建築物である。現在は一部の遺構のみが残る。
ティトゥスの凱旋門
現存するローマ市最古の記念門。ユダヤ戦争の戦勝記念として81年に建立されたものである。高さ15.4m、幅13.5m。 -
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フォロ・ロマーノ
ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。
紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。
フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである -
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よく見るとマリアのミイラ見たいのを運んでます
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ブラジルの子
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