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パドウ゛ァに行っちゃえ〜。勿論ガイドブックもなく、不安だったけど、インホメーションセンターを見つけ、地図をゲットした!受け付けのお姉さんは綺麗で良い人でいろいろ丁寧に教えてくれた。鳥の丸焼きが売っていて、肉をがっつり食べようしたが失敗、味付けがない。街を散策したがそれなりに楽しかった。駅周辺は黒人と中国人が多く、市街地は白人が多く、楽しくなってきた!マップに乗っている有名所は全て回ったので、ヴェネチアに帰る事にした。帰りはローカルの1stクラスに乗って座ってたらいきなり二人組の黒人に囲まれた!まじかよ!!と思ったら、金のネックレスを売り付けてきた。何とか断り、しばらくしたら他の黒人が金を恵んでくれといってきた。金じゃなく、煙草を数本あげたら去って行った。いや〜、結構ビビったよ!ヴェネチアに戻り、ハンガリー行きの列車を見たらオンボロでデンジャラスだ!黒人もいる!しかも席は出入りが自由なコンパートメントで十三時間も耐えられないし、夜を越せないと思い、駅員に頼み込んで、21Euro払い、ボロイけど、内側から鍵を掛けられるクシェットにした。一先ず安心かな〜<br /><br /><br />概要<br />イタリアヴェネト州の都市、パドヴァ県の県都で、経済・通信のハブ地である。市は時にはヴェネツィアを含んだパドヴァ=ヴェネツィア都市圏に含まれ、人口およそ160万人の規模となる。<br /><br />歴史 <br /><br />ウンベルト1世通り 古代 <br />パドヴァは北イタリア最古の都市であると主張している。伝承によれば、少なくともウェルギリウスの『アエネイス』に書かれた時代からあったといい、自身が繁栄した中世コムーネ時代に証拠が再発見された。それによると、トロヤ王子アンテノポス(&#7944;ντ&#942;νορο&#962;)によって紀元前1183年にパドヴァはつくられた。アンテノポスは、パフラゴニア(アナトリア・黒海沿岸の地方)からイタリアへヴェネティ人を率いて建設を支援した。市は1274年に巨大な石のサルコファガスを発掘し、これらがアンテノポスの遺骸とされると表明した。<br />共和制ローマからパタウィウム(Patavium)として知られていたパドヴァには、アドリア・ヴェネティ人が住んでいた。彼らはウマの飼育とヒツジからとる羊毛で知られていた。アドリア・ヴェネティ人の男たちはカンナエでローマ人と戦った。パタウィウムは紀元前45年からローマのムニキピウムとなった。パタウィウムは、すぐに無数の戦闘要員を集められるほど強力であった。近郊にあるアーバノは、歴史家リウィウスの生誕地とされている。パドヴァではガイウス・ウァレリウス・フラックス、アスコニウス・ペディアヌス、プブリウス・パエトゥスが生まれた。<br />パドヴァ地域をキリスト教化したのは聖プロスドキムスであったとされる。彼はパドヴァ初代司教として深く敬われた。<br /> 古代後期 <br />古代後期以後のパドヴァ史は、イタリア北東部の多くの都市がそうであったのと同じ過程を辿った。<br />パドヴァは452年、アッティラが指揮するフン族の侵攻を受けた。次にはゴート族のオドアケル、テオドリックの支配を受けた。しかしゴート戦争(en)の間の540年に、東ローマ帝国へ従属した。パドヴァはその後再度トーティラによって略奪・破壊されるが、568年に東ローマ将軍ナルセスによって帝国領へ復帰した。6世紀にロンゴバルド族支配を受けた。<br />601年、パドヴァはロンゴバルド王アギルルフ(en)に対し反乱を起こした。12年に及んだ長く血塗られた包囲戦後、アギルルフ王によって略奪され市は焼かれた。古代のパドヴァは消滅してしまった。古代の円形演技場の遺跡と、一部の橋の基礎部分が、ローマ時代から現代まで残っている。パドヴァ市民は丘陵地帯へ逃れ、廃墟の中で細々と暮らすために戻ってきた。年代記によれば、支配階級はラグーナのために市を見捨てた。アギルルフの蛮行からの復興はたやすくなく、ロンゴバルドの次にフランク王国が北イタリアの覇者となっても、パドヴァはかつての栄光の失せた小さな町に過ぎなかった。<br /> フランク支配と教会主権 <br />828年のエクス=ラ=シャペル議会で、パドヴァの含まれるフリウリ地方にある公領と辺境侯領は4つに分割され、その一つがパドヴァ公領となった。<br />北イタリア都市がカトリック教会主権の下にあった時代、パドヴァは非常に重要とも活発だともみられていなかった。叙任権闘争を通じた政策の一般的な傾向は、皇帝優位であり教会派ではなかった。司教は大半をドイツ人が占めていた。中世最盛期の大事件は、899年に起きたマジャール族のパドヴァ略奪である。パドヴァがこの痛手から立ち直るまで何年もかかった。<br /> コムーネの非常事態 <br />表面下で、いくつもの重要な出来事が起きたことは、パドヴァの後世の発展のための形成であることを証明していた。<br />11世紀初頭、パドヴァ市民は通常議会または立法議会、クレデンツァ(credenza)または執行委員から構成される組織をつくった。<br />12世紀、市民はバッキリョーネ川とブレンタ川の水運権をめぐってヴェネツィア=ヴィチェンツァと戦争状態となった。これは、同盟者を求めずとも自力で戦えるほどの力をパドヴァが蓄えていたことを意味した。<br />有力貴族であるカンポサンピエロ家、エステ家、ダ・ロマーノ家が台頭し始め、パドヴァ地域を分割した。自らの自由を守るためにパドヴァ市民は自分たちでポデスタ(en、行政長官)を選ぶことを余儀なくされた。彼らの最初の選択で、エステ家の一員が選ばれた。1174年、大火がパドヴァを破壊し尽くした。これで事実上の市の再建が始まった。<br />ドゥオモロンバルディア同盟の同時代の快進撃が、パドヴァを強化するのを助けた。結果、1236年にパドヴァと周辺都市で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は自らの専制的な代理人としてエッツェリーノ・ダ・ロマーノ(彼は住民に対し恐ろしい暴行を日常的に行っていた)を擁立するのに少々困難が伴うことを知った。教皇アレクサンデル4世のため、エッツェリーノは市民の血を流すことなく1256年6月に免職した。<br />パドヴァは平穏な繁栄の時代を謳歌した。聖人を祀る大聖堂建設が始まった。パドヴァはヴィチェンツァをも支配下においた。パドヴァ大学は1222年に創立され、13世紀に繁栄した。<br />13世紀のパドヴァの発展が、ヴェローナ領主カングランデ1世・デッラ・スカラとの対立を、最終的にもたらした。1311年、パドヴァはヴェローナを譲渡しなければならなかった。<br />1318年、ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれた。1318年から1405年まで、輝かしいカッラーラ家出身の9人がパドヴァ領主となった(1328年から1337年までスカリジェリ家の事実上の支配、そして1388年から1390年までジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが支配した時期を除く)。カッラーラ家時代は、定期的な戦争のために安息のない長い時代であった。1387年、パドヴァに雇われたジョン・ホークウッドが、ジョヴァンニ・オルデラッフィ率いるヴェローナと戦ったカスタニャーロの戦いで勝利した。<br />カッラーラ家時代は、ヴィスコンティ家の強大化と、ヴェネツィア共和国の重要性が増したことでついに終焉を迎えた。<br /> ヴェネツィア支配 <br />1405年にパドヴァはヴェネツィアの元へ下った。それは1797年にヴェネツィアが没落するまで続いた。<br />カンブレー同盟戦争時代、1509年に市の支配者が事実上変わった時期がある。1508年10月10日、教皇大使、フランス王国、神聖ローマ帝国、スペイン王国が反ヴェネツィア共和国のカンブレー同盟を締結した。その同意内容は、イタリアにおけるヴェネツィア領の完全な解体、条約調印国の間での分割であった。皇帝マクシミリアン1世はヴェローナとその他領土に加えてパドヴァを受け取ることになった。1509年、帝国軍によってわずか数週間でパドヴァは陥落した。ヴェネツィア軍は素早く奪還し、帝国軍の包囲戦にパドヴァを守り抜くことに成功した。<br />パドヴァは、文民であるポデスタと、軍人である隊長を務める2人のヴェネツィア貴族によって統治された。どちらも16ヶ月の任期であった。これらの統治者のもと、大小議会が自治政府の実務を果たし続け、パドヴァ法を施行した。国庫は2人の出納官が管理した。5年ごとに、パドヴァ市民は地元貴族の一人をヴェネツィアへ公使(nunzio)として派遣した。公使となった貴族はヴェネツィアに住み、生まれ故郷の問題を見つめていた。<br />ヴェネツィアは、パドヴァを新しい城壁で防衛強化した。そこには長く世に残る門の一連があった。<br />トロンコ・マエストロ・リヴィエーラ。水路沿いの歩道 <br />ラジオーネ <br />1817年頃描かれたシニョーリ広場 オーストリア支配 [編集]<br />1797年、ヴェネツィア共和国がカンポ・フォルミオ条約で地図上から消されると、パドヴァはオーストリア帝国へ割譲された。1814年にナポレオンが退位すると、市はロンバルド=ヴェネト王国の一部となった。<br />オーストリアは、北イタリアの進歩的集団に人気がなかった。パドヴァでは1848年革命が学生暴動となり、2月8日には大学とペドロッキ・カッフェ(世界最大のカフェ)が、学生とパドヴァ一般市民が敵味方に別れた戦闘の場となった。<br />オーストリア支配下で、パドヴァは産業発展を始めた。最初の鉄道軌道、パドヴァ=ヴェネツィア線が1845年に建設された。<br />1866年、コニッグラッツの戦いで、イタリアは旧ヴェネツィア共和国領とヴェネトの残りからオーストリアを押し出す機会を得た。これらの領土はイタリア王国へ併合された。<br /> イタリア支配 <br />1866年のイタリア併合で、パドヴァは北イタリアの貧しい地域の中心となり、1960年代まではヴェネト地方でもあった。これにもかかわらず、市は経済的にも社会的にも続く10年間繁栄し、工業が発展し、重要な農業市場、重要な文化技術の中心(パドヴァ大学)となった。市には主要指揮権と多くの連隊を抱えた。<br /> 20世紀 <br />1915年5月24日、イタリアは第一次世界大戦へ参戦、パドヴァはイタリア軍の主要基地に選ばれた。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と総司令官カドルナは戦時中パドヴァで生活した。1917年秋のカポレットの戦いでイタリアが退けられると、前線がピアーヴェ川に据えられた。これはパドヴァから50km,60kmであり、市はオーストリア砲兵隊からの射程距離内に入った。しかしイタリア軍司令部は退却しなかった。市は数度にわたって砲撃された(およそ100人の市民が亡くなった)。忘れられない功績は、パドヴァ近郊のサン・ペラジョ城飛行場からウィーンへガブリエーレ・ダンヌンツィオが飛行したことである。<br />1年後、パドヴァへの危機は取り除かれた。1918年10月下旬、イタリア軍はヴィットーリオ・ヴェネトの戦いで決定的な勝利を挙げた(まさにカポレットの戦いでの敗退から1年であった)。オーストリア軍は自滅した。1918年11月3日、パドヴァのヴィッラ・ジュスティで、オーストリア=ハンガリー帝国がイタリアへ降伏する、停戦が結ばれた。<br />戦争の間、産業は強力に推進され、これが戦後さらなる発展の基盤をパドヴァに与えた。大戦後の数年間、仮に労働者と上流階級の衝突が当時猛烈であったとしてもパドヴァは歴史的な市街の外で発展し、市は拡張し人口が増加した。<br />イタリア内外の多くの地でそうであったように、パドヴァは戦後すぐに大きな社会的混乱を経験した。市はストライキと衝突で押し流され、工場と野外は占有されてしまっていた。退役軍人たちは、再び市民生活へ戻ることに格闘していた。市民の多くが新たな政治の道、ファシズムを支持した。イタリアの他のコムーネと同様、パドヴァでのファシスト党はすぐに繁栄の保護者、反革命の権威として迎えられた。市は、最大級のファシスト全体集会が行われた地の1つで、出席したムッソリーニの演説を30万人の観衆が聞いたと伝えられている<br />典型的なファシスト建築である新しい建物が、市内でそびえ立った。それらの建物は、スパラート広場周辺、鉄道駅、市役所新館、大学の建物であるボー宮殿の一部に、現在も見られる。<br />1943年9月8日、第二次世界大戦でのイタリア降伏に伴い、パドヴァはナチス・ドイツの傀儡イタリア社会共和国の一部となった。市には新国家の公共教育省、軍、軍用空港が置かれた。レジスタンス運動は、新ファシスト政権下、そしてナチス支配下でも非常に活発であった。レジスタンスのリーダーの一人は、パドヴァ大学の副総長コンチェット・マルケージであった。<br />パドヴァは連合国側の戦闘機によって数度の爆撃を受けた。最も被弾したのは、鉄道駅とアルチェッラ地区北部であった。これらの爆撃の最中、マンテーニャのフレスコ画を所蔵していた、美しいエレミターニ教会付属の礼拝堂が破壊された(教会がドイツ軍本部に隣接していたため巻き添えとなった)。一部の美術史家は戦時中イタリア最大の文化的損失とみなしている。<br />1945年4月28日、パドヴァはついにパルチザンとイギリス軍によって解放された。小さなイギリス連邦・戦争墓地が市西部にあり、これらの軍の犠牲者を埋葬している。<br />大戦後、北イタリアの最貧地方からヴェネト地方が脱したのを反映して、パドヴァは急速に発展した。現在パドヴァを含むヴェネトはイタリア国内有数の裕福かつ活発な地方である。

ノリで行っちゃいました  イタリア パドヴァ

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2009/10/20 - 2009/10/20

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kawabekentarou

kawabekentarouさん

パドウ゛ァに行っちゃえ〜。勿論ガイドブックもなく、不安だったけど、インホメーションセンターを見つけ、地図をゲットした!受け付けのお姉さんは綺麗で良い人でいろいろ丁寧に教えてくれた。鳥の丸焼きが売っていて、肉をがっつり食べようしたが失敗、味付けがない。街を散策したがそれなりに楽しかった。駅周辺は黒人と中国人が多く、市街地は白人が多く、楽しくなってきた!マップに乗っている有名所は全て回ったので、ヴェネチアに帰る事にした。帰りはローカルの1stクラスに乗って座ってたらいきなり二人組の黒人に囲まれた!まじかよ!!と思ったら、金のネックレスを売り付けてきた。何とか断り、しばらくしたら他の黒人が金を恵んでくれといってきた。金じゃなく、煙草を数本あげたら去って行った。いや〜、結構ビビったよ!ヴェネチアに戻り、ハンガリー行きの列車を見たらオンボロでデンジャラスだ!黒人もいる!しかも席は出入りが自由なコンパートメントで十三時間も耐えられないし、夜を越せないと思い、駅員に頼み込んで、21Euro払い、ボロイけど、内側から鍵を掛けられるクシェットにした。一先ず安心かな〜


概要
イタリアヴェネト州の都市、パドヴァ県の県都で、経済・通信のハブ地である。市は時にはヴェネツィアを含んだパドヴァ=ヴェネツィア都市圏に含まれ、人口およそ160万人の規模となる。

歴史

ウンベルト1世通り 古代
パドヴァは北イタリア最古の都市であると主張している。伝承によれば、少なくともウェルギリウスの『アエネイス』に書かれた時代からあったといい、自身が繁栄した中世コムーネ時代に証拠が再発見された。それによると、トロヤ王子アンテノポス(Ἀντήνορος)によって紀元前1183年にパドヴァはつくられた。アンテノポスは、パフラゴニア(アナトリア・黒海沿岸の地方)からイタリアへヴェネティ人を率いて建設を支援した。市は1274年に巨大な石のサルコファガスを発掘し、これらがアンテノポスの遺骸とされると表明した。
共和制ローマからパタウィウム(Patavium)として知られていたパドヴァには、アドリア・ヴェネティ人が住んでいた。彼らはウマの飼育とヒツジからとる羊毛で知られていた。アドリア・ヴェネティ人の男たちはカンナエでローマ人と戦った。パタウィウムは紀元前45年からローマのムニキピウムとなった。パタウィウムは、すぐに無数の戦闘要員を集められるほど強力であった。近郊にあるアーバノは、歴史家リウィウスの生誕地とされている。パドヴァではガイウス・ウァレリウス・フラックス、アスコニウス・ペディアヌス、プブリウス・パエトゥスが生まれた。
パドヴァ地域をキリスト教化したのは聖プロスドキムスであったとされる。彼はパドヴァ初代司教として深く敬われた。
古代後期
古代後期以後のパドヴァ史は、イタリア北東部の多くの都市がそうであったのと同じ過程を辿った。
パドヴァは452年、アッティラが指揮するフン族の侵攻を受けた。次にはゴート族のオドアケル、テオドリックの支配を受けた。しかしゴート戦争(en)の間の540年に、東ローマ帝国へ従属した。パドヴァはその後再度トーティラによって略奪・破壊されるが、568年に東ローマ将軍ナルセスによって帝国領へ復帰した。6世紀にロンゴバルド族支配を受けた。
601年、パドヴァはロンゴバルド王アギルルフ(en)に対し反乱を起こした。12年に及んだ長く血塗られた包囲戦後、アギルルフ王によって略奪され市は焼かれた。古代のパドヴァは消滅してしまった。古代の円形演技場の遺跡と、一部の橋の基礎部分が、ローマ時代から現代まで残っている。パドヴァ市民は丘陵地帯へ逃れ、廃墟の中で細々と暮らすために戻ってきた。年代記によれば、支配階級はラグーナのために市を見捨てた。アギルルフの蛮行からの復興はたやすくなく、ロンゴバルドの次にフランク王国が北イタリアの覇者となっても、パドヴァはかつての栄光の失せた小さな町に過ぎなかった。
フランク支配と教会主権
828年のエクス=ラ=シャペル議会で、パドヴァの含まれるフリウリ地方にある公領と辺境侯領は4つに分割され、その一つがパドヴァ公領となった。
北イタリア都市がカトリック教会主権の下にあった時代、パドヴァは非常に重要とも活発だともみられていなかった。叙任権闘争を通じた政策の一般的な傾向は、皇帝優位であり教会派ではなかった。司教は大半をドイツ人が占めていた。中世最盛期の大事件は、899年に起きたマジャール族のパドヴァ略奪である。パドヴァがこの痛手から立ち直るまで何年もかかった。
コムーネの非常事態
表面下で、いくつもの重要な出来事が起きたことは、パドヴァの後世の発展のための形成であることを証明していた。
11世紀初頭、パドヴァ市民は通常議会または立法議会、クレデンツァ(credenza)または執行委員から構成される組織をつくった。
12世紀、市民はバッキリョーネ川とブレンタ川の水運権をめぐってヴェネツィア=ヴィチェンツァと戦争状態となった。これは、同盟者を求めずとも自力で戦えるほどの力をパドヴァが蓄えていたことを意味した。
有力貴族であるカンポサンピエロ家、エステ家、ダ・ロマーノ家が台頭し始め、パドヴァ地域を分割した。自らの自由を守るためにパドヴァ市民は自分たちでポデスタ(en、行政長官)を選ぶことを余儀なくされた。彼らの最初の選択で、エステ家の一員が選ばれた。1174年、大火がパドヴァを破壊し尽くした。これで事実上の市の再建が始まった。
ドゥオモロンバルディア同盟の同時代の快進撃が、パドヴァを強化するのを助けた。結果、1236年にパドヴァと周辺都市で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は自らの専制的な代理人としてエッツェリーノ・ダ・ロマーノ(彼は住民に対し恐ろしい暴行を日常的に行っていた)を擁立するのに少々困難が伴うことを知った。教皇アレクサンデル4世のため、エッツェリーノは市民の血を流すことなく1256年6月に免職した。
パドヴァは平穏な繁栄の時代を謳歌した。聖人を祀る大聖堂建設が始まった。パドヴァはヴィチェンツァをも支配下においた。パドヴァ大学は1222年に創立され、13世紀に繁栄した。
13世紀のパドヴァの発展が、ヴェローナ領主カングランデ1世・デッラ・スカラとの対立を、最終的にもたらした。1311年、パドヴァはヴェローナを譲渡しなければならなかった。
1318年、ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれた。1318年から1405年まで、輝かしいカッラーラ家出身の9人がパドヴァ領主となった(1328年から1337年までスカリジェリ家の事実上の支配、そして1388年から1390年までジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが支配した時期を除く)。カッラーラ家時代は、定期的な戦争のために安息のない長い時代であった。1387年、パドヴァに雇われたジョン・ホークウッドが、ジョヴァンニ・オルデラッフィ率いるヴェローナと戦ったカスタニャーロの戦いで勝利した。
カッラーラ家時代は、ヴィスコンティ家の強大化と、ヴェネツィア共和国の重要性が増したことでついに終焉を迎えた。
ヴェネツィア支配
1405年にパドヴァはヴェネツィアの元へ下った。それは1797年にヴェネツィアが没落するまで続いた。
カンブレー同盟戦争時代、1509年に市の支配者が事実上変わった時期がある。1508年10月10日、教皇大使、フランス王国、神聖ローマ帝国、スペイン王国が反ヴェネツィア共和国のカンブレー同盟を締結した。その同意内容は、イタリアにおけるヴェネツィア領の完全な解体、条約調印国の間での分割であった。皇帝マクシミリアン1世はヴェローナとその他領土に加えてパドヴァを受け取ることになった。1509年、帝国軍によってわずか数週間でパドヴァは陥落した。ヴェネツィア軍は素早く奪還し、帝国軍の包囲戦にパドヴァを守り抜くことに成功した。
パドヴァは、文民であるポデスタと、軍人である隊長を務める2人のヴェネツィア貴族によって統治された。どちらも16ヶ月の任期であった。これらの統治者のもと、大小議会が自治政府の実務を果たし続け、パドヴァ法を施行した。国庫は2人の出納官が管理した。5年ごとに、パドヴァ市民は地元貴族の一人をヴェネツィアへ公使(nunzio)として派遣した。公使となった貴族はヴェネツィアに住み、生まれ故郷の問題を見つめていた。
ヴェネツィアは、パドヴァを新しい城壁で防衛強化した。そこには長く世に残る門の一連があった。
トロンコ・マエストロ・リヴィエーラ。水路沿いの歩道
ラジオーネ
1817年頃描かれたシニョーリ広場 オーストリア支配 [編集]
1797年、ヴェネツィア共和国がカンポ・フォルミオ条約で地図上から消されると、パドヴァはオーストリア帝国へ割譲された。1814年にナポレオンが退位すると、市はロンバルド=ヴェネト王国の一部となった。
オーストリアは、北イタリアの進歩的集団に人気がなかった。パドヴァでは1848年革命が学生暴動となり、2月8日には大学とペドロッキ・カッフェ(世界最大のカフェ)が、学生とパドヴァ一般市民が敵味方に別れた戦闘の場となった。
オーストリア支配下で、パドヴァは産業発展を始めた。最初の鉄道軌道、パドヴァ=ヴェネツィア線が1845年に建設された。
1866年、コニッグラッツの戦いで、イタリアは旧ヴェネツィア共和国領とヴェネトの残りからオーストリアを押し出す機会を得た。これらの領土はイタリア王国へ併合された。
イタリア支配
1866年のイタリア併合で、パドヴァは北イタリアの貧しい地域の中心となり、1960年代まではヴェネト地方でもあった。これにもかかわらず、市は経済的にも社会的にも続く10年間繁栄し、工業が発展し、重要な農業市場、重要な文化技術の中心(パドヴァ大学)となった。市には主要指揮権と多くの連隊を抱えた。
20世紀
1915年5月24日、イタリアは第一次世界大戦へ参戦、パドヴァはイタリア軍の主要基地に選ばれた。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と総司令官カドルナは戦時中パドヴァで生活した。1917年秋のカポレットの戦いでイタリアが退けられると、前線がピアーヴェ川に据えられた。これはパドヴァから50km,60kmであり、市はオーストリア砲兵隊からの射程距離内に入った。しかしイタリア軍司令部は退却しなかった。市は数度にわたって砲撃された(およそ100人の市民が亡くなった)。忘れられない功績は、パドヴァ近郊のサン・ペラジョ城飛行場からウィーンへガブリエーレ・ダンヌンツィオが飛行したことである。
1年後、パドヴァへの危機は取り除かれた。1918年10月下旬、イタリア軍はヴィットーリオ・ヴェネトの戦いで決定的な勝利を挙げた(まさにカポレットの戦いでの敗退から1年であった)。オーストリア軍は自滅した。1918年11月3日、パドヴァのヴィッラ・ジュスティで、オーストリア=ハンガリー帝国がイタリアへ降伏する、停戦が結ばれた。
戦争の間、産業は強力に推進され、これが戦後さらなる発展の基盤をパドヴァに与えた。大戦後の数年間、仮に労働者と上流階級の衝突が当時猛烈であったとしてもパドヴァは歴史的な市街の外で発展し、市は拡張し人口が増加した。
イタリア内外の多くの地でそうであったように、パドヴァは戦後すぐに大きな社会的混乱を経験した。市はストライキと衝突で押し流され、工場と野外は占有されてしまっていた。退役軍人たちは、再び市民生活へ戻ることに格闘していた。市民の多くが新たな政治の道、ファシズムを支持した。イタリアの他のコムーネと同様、パドヴァでのファシスト党はすぐに繁栄の保護者、反革命の権威として迎えられた。市は、最大級のファシスト全体集会が行われた地の1つで、出席したムッソリーニの演説を30万人の観衆が聞いたと伝えられている
典型的なファシスト建築である新しい建物が、市内でそびえ立った。それらの建物は、スパラート広場周辺、鉄道駅、市役所新館、大学の建物であるボー宮殿の一部に、現在も見られる。
1943年9月8日、第二次世界大戦でのイタリア降伏に伴い、パドヴァはナチス・ドイツの傀儡イタリア社会共和国の一部となった。市には新国家の公共教育省、軍、軍用空港が置かれた。レジスタンス運動は、新ファシスト政権下、そしてナチス支配下でも非常に活発であった。レジスタンスのリーダーの一人は、パドヴァ大学の副総長コンチェット・マルケージであった。
パドヴァは連合国側の戦闘機によって数度の爆撃を受けた。最も被弾したのは、鉄道駅とアルチェッラ地区北部であった。これらの爆撃の最中、マンテーニャのフレスコ画を所蔵していた、美しいエレミターニ教会付属の礼拝堂が破壊された(教会がドイツ軍本部に隣接していたため巻き添えとなった)。一部の美術史家は戦時中イタリア最大の文化的損失とみなしている。
1945年4月28日、パドヴァはついにパルチザンとイギリス軍によって解放された。小さなイギリス連邦・戦争墓地が市西部にあり、これらの軍の犠牲者を埋葬している。
大戦後、北イタリアの最貧地方からヴェネト地方が脱したのを反映して、パドヴァは急速に発展した。現在パドヴァを含むヴェネトはイタリア国内有数の裕福かつ活発な地方である。

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