2009/05/12 - 2009/05/23
40019位(同エリア47231件中)
明石DSさん
虎西山の南東麓:陸軍病院跡地
10:58:52
そこには平らな空き地が今も広がっていた
一体病院も含めてこの周囲の風景はどのようだったのか?
当時の写真でもあれば想像は可能だろうけど・・・
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8日目:虎頭にて
5月19日(火)雨のち曇りのち晴れ
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2009.平成21年5月19日(火)
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■虎西山に向う。
11時 陸軍病院跡に来る:虎西山の南東麓
この辺りにあった軍用停車場や完達駅跡は、今はもう何もないとのこと。陸軍病院跡にも行ったが、そこは何やらあったかのような雰囲気だけが残る概ね平たい空き地であった。ここでも多くの日本人が命を落としたのであろう。
尚、陸軍病院では終戦後の8月19日、全員自爆とある。ご冥福を祈るしかない。
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10:59:14
陸軍病院跡地の今の風景
ご冥福を祈る -
虎西山
11:03:36
今も残る交通壕の跡
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■虎西山を歩く
そこから道なき道を藪の中に入ってゆくと、そこら中に交通壕や戦車壕なのか、壕が今も縦横に残っていた。擁壁が石やコンクリートで出来た本格的な壕もあった。枯葉がうず高く積もり若干浅くなっているのは確かだが、すぐにも使用可能な立派な壕の跡を見て感動する。
その交通壕に足を踏み入れ、自分の感覚以上に枯葉が積もっていて身体が沈み壕の中でひっくり返ってビックリ仰天した。それくらい深い。
王○松に聞けば、小さい頃はこんなに木々も大きくなく、1945年当時は、ほとんど木はなく遠くまで見通せたのだろう。途中で錆びた空き缶を見つけて手にとり写真に撮った。日本軍の物か?それともソ連の物か?
途中、榴弾砲の砲座あとや穹窖の出入口が何ヶ所かあった。 -
11:03:44
1945年から64年の歳月を経た2009年
まだ山に埋もれず、その姿を留めている -
11:19:54
大虎嘯山へ向う
道なき道を歩き、頂上へと向う
その間も戦場の痕跡は至るところに残っている
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■大虎嘯山へ
虎西山から大虎嘯山方面に向う
当然だが案内がなければ、一人ではとても歩けない。周囲が木々に囲まれ下界も見えず、道はなく、交通壕が幾重にも縦横に伸びている。一度来ても二度目も一人では無理。道なき道を王○松は何を頼りに歩いているのだろうか?
11時28分:大虎嘯山
戦跡がそこらじゅうに残り、壕が幾重にも掘られた道なき道を30分ほど歩いた。そして頂上らしき場所に出た。ここが大虎嘯山の山頂だと言われても、すっかり周囲は木々が伸び景色を見通すことが出来ない。
しかし要塞の破壊跡なのか?コンクリートの残骸があちこちに剥き出しになっている。
その所々には入って行けない穹窖の口が開いているのが目についた。この虎嘯山陣地が8月26日、その日まで奮闘奮戦、今に関東軍兵士の意地を後世に伝える場所になった
日本人よくぞ戦えり、白人列強連合国相手に戦いを挑んだ大東亜戦争は日本の歴史に燦然と輝く壮挙であり、日本と言う国がある限り、その末裔達に勇気と誇りを与え続ける。その死に値うる言葉見つからず、ただ頭を垂れるのみ。
どうか安らかにお眠り下さい。肉体はこの地で朽ち果てても魂は祖国日本に戻り、靖国神社の境内で、静かに日本の今、ご家族の今を見守っておられることと信じます。
虎西山から大虎嘯山へと歩く、同じ様な風景が続いた。ここから王○松は虎嘯山・平頂山・腰営山へも順次案内しようとしてくれたが、正直360度木々に囲まれ、景色が同じなので、大虎嘯山の山頂で引返すことにした。
今から思えば折角そこまで行ったのに、何故?最後の決戦の地である「虎嘯山」に意地でも行かなかったことを悔やむ。今更だが、アカンなあ俺は・・・と反省す。 -
11:22:32
空き缶があった
誰かが手に取り、此処に居た -
11:25:14
埋もれた穹窖出入口 -
11:26:10
見たところ小さな砲座跡
埋もれた穹窖のすぐそばだし
10cm穹窖陣地跡なのかも? -
11:30:22
木々に囲まれ視界悪く、終始展望も開けず
それでも、その場に立った時は山頂らしき雰囲気を感じた
写真では分からない
この辺りが山頂だった。王○松は大虎嘯山の山頂だと言った -
11:32:56
あちこちに残る埋もれた穹窖の口 -
11:36:38
地上の建物跡もあった
分厚いコンクリート壁が戦争を物語る -
11:45:52
我、虎頭要塞陣地を去る
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頭要塞の戦い
虎頭要塞の象徴:41糎榴弾砲
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/kotou-top.htm
以下:上記HPより抜粋
正確な口径は、16インチ=40cm64mm。
戦艦陸奥、長門と同一口径
昭和20年8月9日午前11時、41糎榴弾砲はワーク河迂回線鉄橋に砲撃を開始した。第11発目は鉄橋左側基礎と橋脚の一部を破壊した。その後百数十発(一説には74発)でこの大砲は沈黙した。ソ連軍は昭和22年この大砲の運び出しを意図したが、余りの重量に、イマン河で運搬船が座礁沈没した説がある。
しかしながら行方は今もはっきりしていない。終戦直後41糎榴弾砲の上に立つソ連軍将校の写真は残されている。
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「ソ連が満州に侵攻した夏」半藤一利(著)
虎頭守備隊各隊の最後 290頁より抜粋↓
<守備隊本部>
8月19日に自爆、全員戦死し、脱出者なし。
<歩兵第一中隊>
虎東山、14日夜の斬り込みののち東猛虎山に移る。19日、完全包囲下に自爆。脱出者は1名。
<歩兵第二中隊>
西猛虎山陣地にあり、主力は21日までに斬り込みならびにガソリン攻撃で戦死。21日に残存の兵が最後の出撃を行う。脱出者13名。
<歩兵第四中隊>
虎北山陣地から、17日に残存者は本部陣地に合流、19日ほとんど全滅す。脱出者2名。
<速射砲(歩兵砲)中隊>
主力は本部陣地に位置し、一部を虎東山、虎嘯山陣地に配属。26日までにほとんど戦死。脱出者10名(一説に2名)
<砲兵第一中隊>
猛虎原にあり、30センチ・カノン砲と24センチ榴弾砲をもって戦う。15日に玉砕。脱出者1名。
<砲兵第二中隊>
40センチ榴弾砲、15センチ・カノン砲などで応戦。22日、砲を破壊して辛うじて13名が脱出。
<工兵隊>
本部陣地にありほとんど戦死。脱出しえたもの2名。
<虎頭陸軍病院>
19日、本部とともに全員自爆。生存者は陣地外にいた2名。{以上、計44名}
<在留邦人>
脱出者2名のほか、本部陣地で19日までに約300名の全員戦死。別に約150名は、虎嘯山西方陣地にあり、29日に脱出したが、清和駅付近でソ連軍の攻撃を受け大部分が戦死した。
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「虎頭要塞」での戦い・各資料より抜粋
猛虎山・虎北山・虎東山・虎西山・虎嘯山(こしょうやま)などの地下に築造された要塞。要塞にはシベリア鉄道を遮断するために大口径の榴弾砲やカノン砲が装備されていた。
元兵士・岡崎哲夫(談)
台地からの眺望は絶景というべく、対岸の狭苦しいソ連領の平野に集中するイマン市街地、サリンスキー、グラフスキーの軍事区、シベリア鉄道、イマン鉄橋、スターリン街道などを手に取るように眺めることが出来た。
8000人の国境守備隊員
最大動員1万2000人を収容、三ヶ月間、戦闘と生活を続けるに足る設備と物資が準備されていた。
昭和20年7月 新たに第15国境守備隊を編成する。
隊員1600人。常備戦力の五分の一、大半は要塞戦にはまったくの素人。
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↓北満洲に眠る「国境守備隊」を訪ねて:小林静雄(著)より
虎頭要塞:第15国境守備隊
昭和20年7月:約1500人。
その内、700人は『ねこそぎ動員』で補充された新兵。
開戦となるや、軍人家族50名、満鉄社員その他邦人210名、光開拓団約40名、合計1,900名が虎頭陣地に立て籠もった。
虎頭要塞戦闘状況
昭和54年『歴史と人物』に掲載された山西栄少尉の手記より
8月6日
ウスリー江の上流スンアチャ河畔の国境、于匣屯(ウコウトン)に位置する新橋国境監視哨が、突如、ソ連挺身隊に包囲され、川岸にはソ連軍の橋頭堡が築かれた。
当時、虎頭要塞の最先端にある臨江監視哨の監視隊長山西少尉は、部下17名でソ連領の監視の任に着いていた。
監視哨は、ウスリー河岸の崖上にあって、116倍にも達する変倍鏡を装備し、対岸のソ連領を見下ろしていた。正面には三軒家のソ連軍兵舎、シベリア鉄道のイマン鉄橋、ワーク木橋、サリスキー山を望み、右前方には、イマン市街、グラフスキー山を経てラゾの給水塔等の軍事施設が視界に入り、その手前からウスリー河岸までは点々と饅頭塚のような拠点式トーチカがこちらを向いていた。
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8月9日
午前零時から、ソ連領サリスキー・グラフスキー陣地の重砲(口径30センチ、20センチ、15センチ榴弾砲など総計24門)が一斉に砲門を開いて、虎頭要塞の主陣地・猛虎山に向けて砲撃を開始した。
当時、虎頭要塞の最先端にある臨江監視哨の監視隊長山西少尉は、部下17名でソ連領の監視の任に着いていた。
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8月10日
午後、ソ連軍は虎頭要塞地区の全山に対し、歩兵狙撃部隊による総攻撃を敢行した。虎西・辺連子が敵の手に落ちた。
いずれも一個中隊で守るべき規模でありながら、実際の守備兵は一個小隊(30人)。それが二個中隊以上(500人)の、しかも全員、自動小銃や狙撃銃で装備されるソ連軍の攻撃には抗すべきもなかった。
両山の陥落によりソ連軍は虎頭台地の制圧と要塞地区の東西分断に成功した。
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8月11日
午前、虎嘯山の速射砲により戦車一両を破壊されたソ連軍は、以後、要塞西側地区での戦車による威嚇作戦を止めた。それに替わって、確認された穹窖出入口に向けた迫撃砲弾の集中が始まった。
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8月13日
虎嘯山地区では、8月13日に、虎西山からの攻撃を受けて、主峰・大虎嘯山が陥落した。虎嘯山穹窖の出入口には、迫撃砲弾の上に、頭上からの狙撃銃弾が加えられた。
虎嘯山穹窖には、鮮血を流す重傷者が次々と運び込まれ、棲息所の床は赤黒い泥沼さながらであった。
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8月14日
虎東山穹窖が防禦不能に陥り、守備隊は西猛虎山に撤収した。
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8月15日
虎嘯山守備隊はソ連軍迫撃砲陣地を夜襲したが戦車による護衛線は破れなかった。
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8月16日
虎嘯山穹窖の裏出口(逆襲口)が、大虎嘯山からのソ連軍の奇襲により大爆破を受けた。
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8月17日
守備隊は大虎嘯山に総攻撃を掛けたが、重装備で、しかも穹窖に立て籠もる敵には歯がたたず、30人もの犠牲を出した。虎嘯山の残存兵力は、わずかに70数人となったのである。
虎北山が陥落、守備隊は東猛虎山に撤収した中猛虎山主陣地と虎嘯山との地下電話回線も不通となった。
中猛虎山穹窖の数ヶ所に50キログラム梱包爆薬が装置された。戦闘司令部がこの時点で非戦闘員を含めて玉砕を決意した証拠でもあろう。中猛虎山の空になった糧秣庫には、非戦闘員400人が避難していた。
同じく弾薬庫には、重傷者4〜500人がが収容され、戦闘末期には半数が死亡し、壁際には遺体が山と積み上げられていた。そして繃帯所(病院)では重傷者など100人の患者がうめていた。
軍使到来:中猛虎山
森虎頭在郷軍人分会長、川久保虎頭埠頭長たち、すでに虎頭街でソ連軍の捕虜になっていた5人の者が、軍使として要塞を訪れた。彼らを中猛虎逆襲口から陣内に迎え、応接した本部の中野中尉が、ソ連軍の降伏勧告状を受け取り、穹窖の奥に入った。
やがて出てくると「よし、ソ連軍に伝えよ。我が軍はこの地を死守せよとの命令を受けている。われわれはこの地を死守し、大日本帝国悠久三千年の大儀につくのだ」といい、勧告状に赤線で大きく×印を書いて森に渡した。
事件はその直後に起こった。
「何を思ったのか森氏はただ一人さっと地下壕から走り出そうとした。待て、間髪をいれず中尉が怒鳴った。森、東方に向ってそこに座れ。中尉はただ一刀のもとに森氏を切り捨てたのだった」(須田茂幸『白尖の塔』)
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8月18日
虎頭の山野は、久しぶりに銃砲声の絶えた静かな朝を迎えた。それは、不可解で不気味な時間であった。正午過ぎ、中猛虎山穹窖内で一つの事件が発生した。白旗を掲げた5人の使者が主陣地を訪れたのである。
彼らは、関東軍の降伏命令を伝え、ソ連軍の降伏勧告書を差し出した。応接した副官・中野利一中尉は、勧告書に赤鉛筆で大きく×印を書き、正使を斬り、残る4人を追い返した。
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8月19日
午後8時頃、梱包爆薬が爆発し、傷病者および非戦闘員を含む全生存者の運命は地下深くに封じ込められたのである。主陣地との地下連絡路を欠く、口径15センチカノン砲の残存者19人の将兵のみが組織的に脱出しえただけだった。
午後10時頃、砲塔入口の鉄扉を叩く音がする。出てみると、手前に大火傷をした川崎中隊長がずぶぬれになったまま立っている。私たちに「穹窖15センチ加農砲は薬筒射撃中に砲の側の装薬が敵弾を受けて大爆発を起こして全滅した。
砲塔15センチ加農砲の小隊(山西少尉)は、友軍の残存兵力を結集して陣地を脱出し、後方の友軍にこの激戦の状況を伝える」と告げた。
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8月20日
晴れ渡った静かな朝を迎えた。砲塔から100mほどのところに台車が一台停まり、敵は死体の収容作業を始めていた。声高に話し合っているのが聞こえる。もはや攻撃を加える友軍はいない。
私たちは生存者をできるだけ連れて、21日夜脱出することに決めた。その前に脱出経路を偵察し、残存兵の集結と食糧の確保をはかった。夜二組の斥候出した。一組は出発間もなく敵に発見されたらしく、機関銃音を聞いただけでついに戻らなかった。
戻ってきた猛虎山地下陣地偵察組の報告によると、土砂を排除しつつ奥深く潜入したが、ガスが充満し、ローソクの火もすぐ消えてしまったという。中猛虎山指揮所、東猛虎への通路は鉄扉が下ろされ前進不可能であった。
付近一帯に死体が累積し、生存者はいなかった。
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8月22日
朝もやに砲塔上の赤旗が目に沁みる。夜8時、猛虎山陣地唯一生き残りと思えた川崎中隊長以下30名は、前衛、本隊、後衛に分かれ陣地を出た。あらかじめ予定していた集結地に集結できたは、川崎中隊長以下総勢9名であった。
肩までつかる湿地帯を装具を着けて泳ぐように渡り、目指す腰栄屯に着いたころは、もはや夜も明けていた。
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8月22日
ソ連軍による主陣地猛虎山の爆破作業が始まった。幾本ものきのこ雲が高く空に舞い上がっていた。
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8月23日
ソ連軍は再び虎嘯山を包囲した。わが方は、毎晩、速射砲を撃って戦車の来襲に警告を発した。わが方に砲があることを誇示し、ソ連軍に戦車攻撃を思い止まらせるためであった。
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8月26日
ソ連軍が戦車攻撃に替えて口径20センチ榴弾砲4門の据付を始めたのは25日の深夜からで、完了したのが翌26日午前8時であった。その日、午前9時と午後1時からの二回にわたる各2時間砲撃で、穹窖の機能は破壊された。
午後3時、70人の守備兵が交通壕に布陣し終えた時、周りはすべてソ連軍狙撃兵団二個大隊(1000人)の銃口で埋められていた。銃撃戦はすぐに終わり、生き残った兵士たちは、穹窖内に退却した。
3時30分、戦いは終わった。そして、ソ連軍の穹窖爆破が始められたのである。
弾雨の下をかいくぐって谷間に逃れた十数人の兵士たちがいた。彼らは、谷底の湿地に身をひそめて頭上を高くのぼる大爆破の黒煙を凝視していた。
内地に帰還した者、53名に過ぎなかった。
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11:49:42
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■11時40分・虎嘯山陣地を去る
この地で8月26日、一番最後まで抵抗して玉砕したのは、虎嘯山(平頂山)陣地の守備隊だったと言われている。大虎嘯山山頂付近はその戦場の跡が今も生々しく残る場所だった。今は木々の緑がその残骸を覆い隠そうとしているが、それに抵抗するかのように剥き出しのコンクリートや壕のあとがくっきりと残る。「我ら、未だ戦えり」と叫ぶかのようにその存在感を示ている。
「後に続く者を信ず」
その気持ちを抱いて国に奉じて戦い抜いた方たちの多くは、黄泉の世界で今の日本国や日本人の姿をどのように見ているのか想像は余りある。今も、この地を知らぬ日本人も多い。無論彼等の命を賭した戦いなど脳裏になく、自らの快楽を追い求め日々を過ごす。
その精神は堕落を極め、自分の国を自分で守らず他国に依存している現況に疑問すら持たぬ者も多い。そして、近隣三ヶ国に媚びるが如く態度に終始し、それを正義と称し先人達の行為を悪とする。敗戦後一転するかのように腐り切った日本だが、世界は64年前に世界を相手に戦った日本人だからこそ・・・と未だ敬意を払ってくれる。
私は大日本帝国を罵倒する日本人を嫌悪する。自存自衛の戦いであり、当時の世界の大国としての当然の姿であった他国への進出、併合、植民地化を「侵略」と称する日本人を嫌悪する。
侵略とは、今の価値観に照らしあせて、それに当て嵌まる現在進行形の行為こそを「侵略」と言え。
それこそが今の中共の紛れもない姿であり、他民族を軍事力によって侵略し、その言語・文化・を消滅させようと躍起である。そんな中国に謝罪の行脚をする元兵士、そしてそんな中国におもねる戦後育ちの日本人とは・・・。ふざけるな!恥を知れ! -
12:10:02
虎頭ならではの標識
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■12時9分:虎頭村に戻る
途中、「虎頭村」の標識を見つける。ここは虎頭鎮というより村と呼ぶほうがぴったりする。そんな辺境の静かでのんびりした村だった。
「虎頭要塞300m」・「珍宝島95km」・「烏蘇里江浜1km」・「緑色明珠観光塔1km」などの標識もあった。
昼飯を食う
王○松に頼んで、「王○松が好きな物を私も食いたい」と言っても駄目で、彼は私に何かを選べと言う。「見ても分からんし、何でも良いから」と言っても私に選べという。仕方がないので適当に選んだら、やはり旨い物ではなかった。王○松にとってもまずかったようで大半を残した。
いつもこの調子だ。相手に好きな物を注文してと言っても無理なことが多い。それを注文して「こんなの不味い」と言われることが嫌なのだろうけど・・・。それに、デジカメのシャッターを押してと頼んでも、それはすぐにOKしてくれるのだが、なかなかシャッターを押せない。
若者は知らないが、まず、これはほぼ全員だと思う。あっち向けたり、こっち向けたり、傾けたり、右に左に前後に移動して一枚をなかなか写せない。こっちが“可以、可以”OK、OKと押す格好をして急がせないといつまでも待つ羽目になる。デジカメにまだ慣れていないのだろうけど、こんなことも面白い。
不味い昼飯を食い終わって、次に、虎頭鎮小学校の前を通ろうとした時、私がふと「小学校やね」と言うと、王○松は、「入って見るか?」と聞くので「入って見る」と言うと、先々先導して校舎の中に入って行き、校舎の事務所にいた二人の女性に何やら声を掛け、私が日本人で見学したいというようなことを言っていた。
そして、了解を得て二階の教室に行き、授業中なのにドアを開けて入って行った。5年生のクラスで私達二人が来ることをすでに担任の先生が分かっていたらしく、生徒に声を掛け、全員が立ち上がって大きな声で挨拶してくれた。
王○松は、それだけでさっさと出て行こうとしたが、私は戸惑い一応「日本から来ました。こんにちは、何年生ですか?」と挨拶し、聞いた。5年生のようだった。そして、目の前の男の子に「将来何に成りたいの?」と質問したら、子供には通じなかったようだが、先生は分かってくれたようで、子供に問い直してくれ私の質問が通じた。その子は「先生に成りたいです」と答えてくれた。
メチャ美人でスタイル抜群の若い先生だった。廊下には愛国精神を高揚すべく、国歌は無論、中国共産党旗・中国人民解放軍旗などが掲示されてある。これが普通の国家の教育機関だろう。国を疎かにして個や家族の存在や幸せが有る得るのか? -
12:12:54
虎頭のこの店で昼食を食べました -
12:35:08
たまたま頼んだ三品
どれも味は今一
王○松もそうだったようで残してました -
12:50:04
虎頭鎮小学
見学す
何で? -
12:51:32
授業が始まったのか・・・。 -
12:52:52
愛国教育の現場を発見
日本も当然かくあるべきだろう -
12:55:10
二階の廊下から虎頭鎮を写す -
虎頭友好公園?
13:07:48
中日友好ではなく虎頭友好?
何のこっちゃ
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■1時7分、中日友好公園に行く
今の日中関係を象徴し、中国に対しての日本の存在を象徴するかのように、お粗末でつまらぬ公園に成り果てている。ようするに日本が舐められている証のように思えた。
表看板も中日の名前はなく「虎頭友好公園」とある。日中友好の目的で1990年、91万元の内、日本が21万元を出して作られたそうだ。誰がそんなホラ話を信用するものか、どうせ10万元も掛かっていない代物だろう。
中にはプレハブ作りの訳の分からん小屋があり、着物姿の日本女性や芸者姿のでっかい写真看板が両側に貼り付けてあった。無様なり。中国の養父母に感謝する碑もあった。確かにそんな美談もあるにはあるだろう。それは否定しない。だが私はその実の裏側のほうが圧倒的に、より真実に近いと自分では思っている。
今も人身売買が普通にあり、誘拐が多発しているのが中国だ。以前はネットでも子供の売買情報が出ていたのを実際に見た事がある。そんな伝統文化こそが彼の国だ。それを必要以上に美談に仕立て上げ、恐縮している日本人に大いなる疑問を持っているのがこの私だ。 -
13:10:16
日中友好を奉じる日本人は
こんな看板を掲げさせて喜ぶ下等どもか
この看板こそが恥知らずの日本人の象徴だろう -
緑色明珠観光塔にて
13:16:06
早く登って見たい
ロシア側を見てみたい
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■緑色明珠観光塔
中日友好公園の奥に、私が行きたい登りたい「緑色明珠観光塔」がある。しかし今はエレベターも故障で入場ストップしているようだった。王○松が掛け合って階段を登った。お蔭で入場料は不要。早速、ワクワクしながら登って行った。猿が高い所へ登りたい気持ちが良く分かる。
自分の周囲の状況を把握したい。命ある生き物にとって我が身を守る為にも必然であろう。最上展望階に登った。360度周囲を見渡せる。ロシアの方向を食い入るように眺めたが、鉄橋は見えない。仕方なく周囲を見渡しながら虎頭要塞の陣地の方角を見入っていた。
そしたら、王○松が「あそこに鉄橋が見えるでしょ」と言う。望遠鏡がそれぞれの方向に設置され無料で見れる。早速、王○松が合わせてくれた望遠鏡を覗いたら、見えた!今も当時と同じ三双の鉄橋だった。あの鉄橋を41cm榴弾砲がぶち壊した。遠くに煙突やら街並みが遠望できる。
今はダリネレチェンスクと呼ばれる「イマン」との交流も、この虎頭では、全くないようで目の前が国境でありながらロシアとの日常的な交流を思わせる物は何もない。
一旦、この展望台を王○松と一緒に降り掛けたが、途中で思い直し、午後1時半ころだったがここで3時までの約束だった包車は終わりとした。王○松は下で待っているからと言ってくれたが、ここから十分歩いて戻れるし200元を渡して別れた。早く終わることもチップの内だ。
大体、包車する時は、予定の時間を想像して、それより1〜2時間くらい余裕を持って契約し、早めに終える。一日と言っても遅くとも3時くらいで終わるのが私にとってはベストで、その後はゆっくり再度行きたい場所があれば行く。そして、虎林まで100元(¥1500円)と言うので明日朝8時半に迎えに来てもらうことにした。
再度、展望台に上りゆっくりと周囲の景色を眺めていたら、後から登ってきた三人の若いグールプの一人から「おじさんは日本人ですか?」と日本語で呼びかけられた。誰かに上に日本人がいると聞いたのだと思う、そして彼女は日本語を独学で学んでいるようだった。まだまだ挨拶程度の日本語だったが、彼女にすれば実践練習の機会だったのだろう。
でもまだ初心者過ぎて何を話したのか記憶にない。しかし、私がこの展望台を降りて、村の中に歩いて行こうとした時、後ろから又「おじさん」と彼女から声を掛けられ、振り向くと「その道は悪い道です。こっちです」と注意してくれた。
虎頭でも日本語を学んでいる人がいる。昨年、兄がここに来た時に偶然日本語を話す人に出会い、その時「虎頭には日本語を話す者が四人いる」と言っていたそうだ。その内の一人が彼女だったのかも知れないけど・・・。
自分で納得するまで展望台からの景色を見た。猛虎山、虎嘯山などの山々を王○松に説明してもらいながら写真も撮ったが、やはり帰国後その写真を見ても特定する確信はない。その時は、「あの山が猛虎山だ」と写真をとっても・・・沢山撮るので、結局どの写真がそうなのか?分からなくなる。
ちゃんと写真を撮るのは難しい。デジカメは音声も録音出来るので、これからはそれが出来るようにしなければと思う。
こういう旅行記は間違って書くと、見た人も間違う。自分がそういう経験をしているので、出来るだけ確信の持てないことは書いては駄目だ。でも間違いも多いだろうなァ〜。間違いを見つけたら是非ご連絡を!金一封は出ませんが。 -
13:20:42
展望台のガラスに角度があり上手く写せない
この方向にイマン鉄橋が正面に小さく肉眼でも見える
この時点では分かっていなかったが -
13:21:02
北方向を写す
中国の国境監視塔、虎頭賓館がすぐそこに写っている
展望台のガラスが反射してる -
13:27:06
虎嘯山だと思う
手前の山裾が辺連子山ではないか・・・と -
13:27:22
猛虎山だと思う -
13:15:46
東猛虎山方向 -
13:40:22
今も三双の鉄橋が架かっている
デジカメズームで写す
http://www.youtube.com/watch?v=Ktf_1hgbaxE&feature=player_embedded -
14:02:22
南東方向を写す
烏蘇里江の対岸はロシア領
鉄橋がかすかに見えます。
http://www.youtube.com/watch?v=qUa1YEgrh_I&feature=player_embedded
見えない人は目が悪くなってますよ -
14:11:58
まだ午後2時
虎頭村を歩く
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■虎頭村
展望台を降りて、今の虎頭の村の中を歩いた。日本時代のこの辺りはどんな風景だったのだろう。多い時は1万人以上の日本人が暮らしていた虎頭だから今とは全く違っただろうと思う。この河畔に林口を起点とし、虎頭が終点の虎林鉄道が敷設されていた。その鉄路はソ連が戦後レールを全部剥がして泥棒の如くソ連に運んだ。
虎頭の村を歩いて散策した。
メーンの通りは今あちこちで側溝の改修工事が行われていた。先に道路をコンクリートで補修し、その後側溝の工事をしているようだった。大きな石をハンマーで叩き割り、側溝として掘った溝に小さく割った石を並べている。そのほとんどが手作業であり、村全体を改修するにはまだ当分工事が続くのだろう。
そのメーンの道を外れると舗装がない道が多く雨が降れば泥濘の道になるのだろう。冬期は積雪と凍結でさほど不便がないのかも。家屋は平屋で当然のように煙突が一軒の家に二本くらい突き出ている。
虎頭賓館の隣は監視塔が立つ解放軍の基地だ。今、国境は静かでロシア側のウスリー河中洲に古ぼけた監視塔が立っているが人の気配もなく、対岸のロシア側にも肉眼で見る限り兵士の姿も見えない。しかし、この虎頭の小さな村には人民解放軍の軍人が結構いるようだ。ウスリー河の海上警備基地やボートも係留されていた。
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14:21:22
側溝に石を砕いて敷く
力仕事ってのはこういう仕事 -
15:48:40
側溝工事完成の暁には
このような側溝になります -
15:53:04
これが側溝工事の手順です
ボチボチやります
女性もやってました -
15:55:04
中国人民解放軍兵士が歩いてます
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珍宝島事件:ウィキペディアより抜粋↓
1969年3月2日、15日にアムール川(中国語名は黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(中国語名は珍宝島)の領有権を巡って大規模な軍事衝突が発生した(珍宝島事件、ちんぽうとうじけん、ダマンスキー島事件)。
同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に発展した。かつて蜜月を誇った中華人民共和国とソ連の対立が表面化した事件でもあった。
//////////////////////以上・抜粋終わり -
虎公園
15:56:16
虎の頭という地名だから
そりゃあ虎に由来しての話がある
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■巨大な虎の像
おふざけ公園に入る
一応こんな公園にも入場料を払って入った。幾らだったか忘れた。寂れまくった公園だが、何人かが入っていたし、私の後にも入場者がいるのには驚く。それに中には売店もあった。ロシアの土産物が並んでいた。 -
16:42:24
ウスリー河の中州に立つロシアの国境監視塔
ぼろっちい、人影分からず
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■虎頭の関帝廟に行く
三国志で名高い劉備に仕えた武将・関羽を祀る廟、どこにでもある。張飛の廟もあるようだけど行ったことない。
小さい廟だが奇麗に整備され火が点けられた線香が並んでいた。私が入った時は無人だったが、次々とお参りに来る人がたえないのだろう。「東方第一廟」と書いていた。こじんまりした小さな廟だ。
その後・・・。
晩飯をいつもの小吃店で食べた。炒麺(ソバ焼き)と玉子スープ。そしてまたブラブラ歩く。散歩の最後はやはり又ウスリー河へと向う。河岸に下りても匂いはしないが水は淀んでいる。流れを全く感じない。
虎頭村での一日は終了した。明日の朝、虎頭を去って密山(東安)へ向う。再度、余ほどの事情がない限り、この地を訪れることはないだろう。
未だ故国日本に帰ることなく、この地に眠る同胞の遺骨が多数あるのだろうけど・・・。 -
16:51:46
烏蘇里江河畔にある虎頭艇組
中国海軍なのか?★のマークがある
「保衛祖国」との標語あり -
16:53:52
この船二隻が戦力です -
17:22:56
右側の白い建物は
虎頭人民法庭です -
17:57:58
いつもの小吃店で夕飯食って
隣のコンビニでこれ買いました
「日本人・リーベンレン」と
店のオバハンが、おっさんに告げてました
何を隠そう、私はリーベンレンです -
18:07:56
虎頭の関帝廟 -
18:11:40
ウスリー河 -
18:21:02
ウスリー河
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