2009/05/12 - 2009/05/23
31925位(同エリア47220件中)
明石DSさん
朝の散歩
3:53:58
午前4時前、虎頭はまだ雨は降っていなかった
部屋の窓から外を写す
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8日目:虎頭にて
5月19日(火)雨のち曇りのち晴れ
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2009.平成21年5月19日(火)
■虎頭の朝
虎頭の朝は3時半には明るくなっている。今回の旅行は虎頭要塞の戦いを知り、ここに来ようという思いからその計画が始まり、東寧、磨刀石、麻山などを次々と知ることになった。
今日、その虎頭要塞を巡る。窓の外を眺めると7時前頃には地面が濡れ雨が降っているようだった。虎頭賓館は朝食はない、というより宿泊客も私以外に居るのか居ないのか?そんな感じのホテルだ。
朝食を食べに、セーターを着てその上にウィンドブレーカーを着て冬の服装で出かけた。まだ雨雲に蔽われ、いつ雨が降って来るか分からないが、何とか今は雨は上がっていた。まずは朝食をと、昨日の夕飯を食べた小吃店に行った。「何でも良いから作ってくれ」と言うと野菜が少し肉たっぷりの料理だった。
朝からこんな物を出すのか?と思ったが仕方がない。それと玉子スープを頼み肉料理は半分残して店を出た。この店は夫婦で営み、一人娘は虎林で結婚して孫も一人居る。
冬期は、この食堂も店を閉め虎林の娘の家で孫の守をしながら冬を越すそうだ。そして春になるとまた虎頭に来て店を開ける。なかなかの幸せ家族のようだ。
そこらを散歩して王○松との約束の8時半前に戻った。時間前に来ており、早速出発となる。私は資料で提示した場所、全部を巡りたいが、順番は王○松に任せた。
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7:23:38
ホテルの隣が、軍の基地で、その隣がこの虎公園です
訳が分かりませんが -
7:44:20
例の鶏西大冷面で朝食を
朝から肉山盛りはないやろ
任せたら駄目です -
8:01:04
朝、ちょっと雨が降ってました
雨が止んだようでホッと -
虎頭要塞
8:33:58
侵華日軍虎頭要塞遺址
何?侵略?
ふざけるな自存自衛の為の進出じゃ
侵略とは中共のチベット・ウィグル・内モンゴル
現在進行形のこれらのことだ
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■虎東要塞へ行く
まず最初に行ったのは一番近くの虎東山要塞遺跡で、ここが観光遺跡として整備されている。朝の8時半ごろなのにちらほら中国人観光客も来ていた。虎頭にもホテルが幾つかあり昨日から泊まっていたのか?それとも虎林辺りから今朝早く出発したのか?
何せ、中国国内ツアーっていうのも強行軍で朝もメチャ早いのは普通だから・・・。三峡下りの時に中国人ツアーに参加した時もそうだった。
まず要塞に入る前に博物館に入る。
興味深い満洲時代の虎頭の町の区割りや、その他、当時の写真も展示されていたが写した写真もピンボケで意味がなかった。写真は駄目と言われながら中国人は平気でフラッシュを光らせて撮っていた。それでも構わないようだったので私も撮ったが、焦って撮った。アカン。
割れていたが、41cm榴弾砲の砲弾も置いてあった。その博物館の中に要塞への入口がある。今、要塞内部は足場を組み工事中だった。ほとんどまともに見れないという状況で、中国人団体の後に付いて歩いたらあっけなく出口に出た。
そのまま一旦、中国人団体と歩き出したが、あまりに短かったので、その道を戻り今度は出口から逆に入って行った。来る時は見れなかった要塞の中の弾薬庫に当時の砲弾やその他・手榴弾・鉄兜なども並んでいた。
一体この砲弾は火薬が入ったままなのか?日本なら不発弾として近寄るのも危険だと言われそうだが、ここでは金網越し、触ることは出来ないが本物が置いてあるようだ。
元に戻り、博物館から出たが、入る時に気が付かなかった神社跡を見つけた。やはり戻って来たのが幸いだった。「侵華日本軍軍用神社遺跡」との表示が掲げられている。枕詞に侵華とか偽満とか付けないと気がすまないのが中共だろうが、自らこそが今現在進行形で新疆ウィグル・チベット・内蒙古と侵略を継続し、ここ満洲もそうだ。
今の中共政府は漢族支配の独裁政権であり、彼等にこの地を支配する正当性など微塵もないはずだ。1949年から2009年の今年まで、たった60年辛うじて侵略し支配している地に過ぎない。そんな奴等が侵華とは冗談もいいとことだ。奴等こそが自らの侵略を自覚しているからこその文言だろう。
階段と礎石しかない神社遺跡にニ礼ニ拍手一礼をし、故国日本を遠くはなれたこの地で亡くなられた同胞の冥福を祈った。1時間近くここに滞在し次に向う。 -
8:35:26
要塞の上に立っているようです
この中から地下要塞へと行きました -
8:40:24
ロシアの写真と同じ物が展示されてました
虎西山と書いてます -
8:43:34
博物館内部から虎東山要塞へ
「を」と「な」は確かに似てますが
やつら・・・きっと
分かってるくせに笑いを取ろうとしてます -
8:44:20
ここでもヒンヤリとした冷気を感じながら
日本人は私だけ、中国人ボチボチ
朝早くから来てます、一体何処から? -
9:01:16
内部は工事中で落ち着いて見れませんでした
でも広さは実感できます
主陣地は猛虎山で、この虎東陣地では
大した戦闘は行われなかったそうです -
9:01:50
両サイドの壁は修復の壁ですね -
9:02:58
中国人見学者とともに歩く
朝が早いからか
みんな黙々と歩いてました -
9:03:46
壁の碁盤模様が印象的です -
9:03:54
食品貯蔵庫 -
9:04:02
爆弾、砲撃跡なのか? -
9:04:26
博物館から離れたところに出ます
中国人ご一行様 -
9:09:18
中国人ご一行様の後に付いて行きましたが
途中で引返し出口から再度要塞内に入って行きました -
9:12:54
工事やってる“おっちゃん”にあっちに行けと指差され
行って見ると「弾薬庫」がありました
工事中で通常の見学コースから外れていたようです
お蔭で砲弾の展示が見れました
火薬はまだ装填されたままでしょうね・・・きっと -
9:13:42
この金網の網目にデジカメレンズを入れ写しました
砲弾類に触れることは出来ません
そりゃあそうでしょうね、手榴弾もありました -
9:18:34
博物館から出てきたら神社跡に気がつきました
入って行く時に、ここにあるのは知りませんでした -
9:19:30
二礼ニ拍手一礼し、哀悼の意を表す -
9:21:48
博物館そばに、この碑があります
虎東山陣地遺址
この虎頭要塞は
日本の調査団↓と合同調査しているから
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/kotou-top.htm
ホンマ、つまらん売国奴調査団です↑が
確かな表示だと思います -
9:26:12
第二次世界大戦最後集結地
猛虎山陣地へ向う -
猛虎山陣地
9:31:28
第二次世界大戦終結地紀念碑
実際の終結地は虎嘯山
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戦跡に祈る」牧野弘道(著)より:抜粋
虎頭要塞へ行く(2004年・平成16年、夏)
午後はいよいよ虎頭要塞へ行く。
要塞は主陣地の猛虎山をはじめ、虎北山、虎東山、虎西山、虎嘯山(こしょうやま)=平頂山(へいちょうやま)の五つの地下陣地から成る。
まず中露国境のウスリー江に最も近い虎東山要塞に向った。
ここは標高100メートルほどしかない小さな丘で、虎頭要塞全体の前衛基地と見るべき存在だろう。当初は強力な砲兵の援護下で1万以上、旅団規模の兵力で守るはずの虎頭要塞だったが、ソ連軍侵攻時は1,600余の兵力しかなく、ために虎東山には小部隊を配置しただけで、それも早めに主陣地の猛虎山に撤収させているからたいした戦闘は行われなかったはずだ。
しかし観光用には虎頭の市街地に近いほうがいいのだろう。中国側はこの虎東山地下要塞だけをまず整備して、その上に立てた「侵華日軍虎頭要塞遺址博物館」と名付けた博物館とともに一般の見学に供している。
館長が隣接する未整備の猛虎山陣地へ案内してくれた。
ソ連軍の砲爆撃で破壊されたコンクリートの塊が散らばっているだけの15センチカノン砲陣地。そして圧巻は日本陸軍最大の巨砲41センチ榴弾砲を据えた砲座だった。360度回転式の砲座の直径は15メートルを超える。
直撃弾が火薬庫を爆砕、陣地ごと吹き飛ぶまでにこの巨砲は重さ1トンの砲弾を百発近く発射し、その一弾はシベリア鉄道イマン鉄橋の破壊に成功した。見事任務を達成した砲兵の意地と壮烈な最期に粛然とする思いだった。
猛虎山の山頂には、中国軍の長老遅浩田(ちこうでん)元国防省の筆で「第二次世界大戦終結記念碑」と刻まれた巨大な碑が最近建ったばかりだった。この碑もちょっと不自然である。
猛虎山陣地の守備隊は8月19日までに全滅しており、最後の8月26日まで抵抗して玉砕したのは一番奥にある虎嘯山(平頂山)陣地の守備隊だったからだ。
虎頭要塞の地価構造を知る上で日中共同学術平和調査団日本側編集委員会編の『虎頭要塞』が随分と参考になった。ただ、この調査団のあまりにも中国側におもねる態度には合点が行かない。
中国側が何と言おうとそれは構わない。しかし日本の学者が虎頭要塞を「日本の侵略と戦争のシンボル」と位置づけるのは売国奴的発言である。
侵略、侵略というけれど当時の日本人の感覚では未開発の地域を開発するための進出というのが大方の考えだったことをこの人たちは忘れている。虎頭要塞は日本にとって中国侵略のシンボルではなく、「対ソ防衛のシンボル」だったはずである。
この似非学者たちは中立条約を踏みにじって満州に侵攻したソ連をどう評価しているのだろう。
ウスリー江畔には廃線となった虎頭駅のしゃれた駅舎や、日本軍の船着場などが残っている。
/////////////////////////////以上・抜粋終わり
■猛虎山陣地へ行く
猛虎山の山頂に、「第二次世界大戦終結地紀念碑」のデカイ碑が立っていた。その碑のプレートには
「この大戦は、6年間、戦争参加国60余ヶ国、地球人口の五分の四に及び、亡くなった者5千余万人に及ぶ。中国は戦争による被害を最も被った国の一つである。その惨烈の状、耐え難くその想いをここに記す。」
そんな内容が書かれている。自らの愚を省みることなく、事実を捻じ曲げ“やられた?”ことを恥じず。平気で強調、捏造し、プロパガンダとして何処でもここでも嬉々として記し相手への恨みを促す。そんな民族の精神には辟易するのみ。
哀れを通り越し軽蔑す。虚偽と捏造の象徴、南京虐殺紀念館ある限り奴等の性根は、真っ当になることはない。これも文化と言えるのか?
加えて瀕死の状況の日本に対して、火事場泥棒以下のソ連軍に解放してもらい、それを讃える。そんな民族が今、権力を握っている中共の漢族の正体だ。
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41cm榴弾砲の砲座跡
9:39:42
さっきの猛虎山山頂の紀念碑から
この道を少し走れば
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■次に41cm榴弾砲の砲座跡に行く
虎頭博物館の案内人に連れられてなのか?多くの中国人団体が見学を終えて戻ろうとしていた。写真からも伝わってきたが、実際の砲座跡はやはり巨大だった。今は周囲が緑に蔽われ、当時の雰囲気が分からないが、きっと難攻不落の要塞に構築されたその様は凄かっただろうと思う。
100発以上が撃ちだされ、その内の一発はイマン鉄橋を破壊した。丸い砲座跡の中心部は池のように水がたまり深さは分からない。周囲のコンクリートの厚さも破壊された状況を目の当たりにすれば余計に分厚さを感じさせる。
その射撃の様子を生存者が語る
「兵士たちの目はくらみ、鼓膜はほとんど破れたと思った。砲塔前面のの遮蔽林は、ごっそりえぐらりとばされ、異様な火焔に包まれた旋風が西猛虎山頂に走ったと見ると、頂上の保護林の大木数本が、巨弾の弾道に吸い込まれて、根こそぎ上空に吹き飛んで行くのが見えた。
そのあとには、砲塔前面から山上一帯にかけ、もうもうたる土煙が立ちこめて、視野はぜんぜんつぶれてしまった」
この大砲の11発目が、イマン鉄橋三双アーチの北端に落下し、橋桁がぐにゃりと折れて河上にぶらさがっているのを観測兵が見たそうだ。後ほど、ウスリー河畔にある展望台から、今の鉄橋を見たが、同じように三双だった。
41cm榴弾砲砲座あとの片隅で、私は日本から持ってきた線香とタバコに火をつけ般若心経を詠む。やぶ蚊が凄く驚いた。 -
9:43:12
巨大なコンクリートの塊がある
これが41cm榴弾砲の砲座跡だ
迅雷鳴り響く轟音を残して敵陣地に砲弾は向った -
9:43:22
彼らの服装を見れば観光ツアーの一団には見えず
一体どういう一行なのか?
赤タスキの兄さんは博物館専属のガイドのようだ -
9:43:42
デッカイなあァ〜・分厚いなあァ〜・ごっついなあァ〜
それが第一印象だった
戦艦「陸奥」の主砲と同一口径、
「大和」の主砲が更に大きく46センチ
戦艦の主砲の凄さに改めて恐れ入る
その時代の日本の製作技術に感嘆する -
9:44:18
41cm榴弾
陸上で、これだけの頑強な砲座が必要なのに
戦艦は艦上に据付、波間に揺れながら
大砲をぶっ放すことが出来たとは・・・。 -
9:51:54
哀悼の意を表す
やぶ蚊が凄い、やたらに多い -
9:52:14
41cm榴弾と人
この砲座は西猛虎山の西山麓に位置するそうだ
外径35m、内径17.6m -
9:57:02
全体を写せる場所がない
破壊された砲座の高い所から写す -
9:57:06
あの赤い車で待ってます
運転手の王○松が、あそこで待ってくれてます -
10:00:14
虎頭戦跡に詳しい王○松
真面目で良い運転手でした
虎頭巡りには是非、ご利用お勧めです
虎頭賓館で彼のことを聞けばすぐ分かると思います -
■虎頭要塞に思う
この虎頭要塞に関しては・・・。日中で調査が行われている。
牧野氏が読み以下の感想を述べている『虎頭要塞』という本を、私も一応資料として入手し旅行の前にも読んだ。
牧野氏(談)↓
『日中共同学術平和調査団日本側編集委員会編の『虎頭要塞』が随分と参考になった。ただ、この調査団のあまりにも中国側におもねる態度には合点が行かない。』
牧野氏もこう述べているが、この本の中心的人物でもある虎頭要塞の岡崎元兵士の談話を読めば、この元兵士が如何なる思想の持ち主か分かる
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/kotou-top.htm
この調査団のHPにも『一兵士の書いた執念の記録がきっかけとなり』との一文があるが、「遥かなる黒龍江」の著者である元兵士もそうだが、こんな元兵士こそが戦後の日本を駄目にした元凶であり私が最も嫌悪する輩たちだ。
「虎頭要塞」日中共同学術平和調査団日本側編集委員会「編」という本の181頁に「弔意の原点」なる以下の一文を書いている。
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岡崎元兵士の語る・弔意の原点
日中共同学術平和調査団日本側編集委員会「編」181頁より抜粋↓
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虎頭要塞から脱出生還者は53人。生存率はわずか3パーセントに過ぎなかった。このような情況下にあって、生存者が自らの生還を「幸運」としてのみ位置づけるならば、それは単なる逃避であり、かつ死者に対して道義的な裏切り行為になるだろう。
このような無残な情況を作り出し、「虎頭」という名をして「殺戮」と「悲劇」の代名詞にしてしてしまった者の責任を厳しく糾弾することこそが、生存者の権利であり、また死者に対する厳粛な義務でもあるはずだ。
そしてそれのみが真の意味の弔問となる。
真実はきわめて明々白々である。悲劇の歴史は、まず、おびただしい中国の人たちを使役した上、殺害して要塞を築城した日本陸軍の侵略と支配の野望から始まった。
そして、解放戦を戦ったソ連軍の死者が全滅した守備隊とほぼ同数(約1500人)といわれるほどの激戦を強いたのも、日本陸軍の指揮系統に共通する伝統的な反人道的倫理観によるものであった。
虎頭要塞の真実を追究することは、日本軍の暴虐の歴史を明らかにし、このような軍隊とその倫理観を地上から払拭するたたかいでもある。私の虎頭訪問と要塞探査の原点はそこにあった。
//////////////////以上・抜粋終わり
以上↑抜粋終わり
この岡崎の能書きを写し書くだけで頭に血が上る。ソ連軍の戦いを解放戦だと公言する日本人は彼の他にいるのか?こんな輩が、この地で戦い亡くなった仲間を弔うとは笑止千万であり、弔いどころか英霊の魂を著しく傷つけるだけだ。
日本軍の暴虐の歴史とは?このような軍隊を地上から払拭・・・。
己も紛れなくその一員でありながら自分を被害者であるが如く仕立て上げ、まるで日本軍が悪魔の軍隊であったかのような文言には反吐がでる。
ならば、お前自身が行った悪魔の所業をまず列挙しろ。そして、そこまで断罪するなら自らその行為に対して、まず己が責任をとれ。
おびただしい中国人を殺害?
その事実も明らかではなく、中国側の一方的な聞き取り調査を、さもその全てが事実であるかのように書いている。その内容↓を読めば誰しも分かる。
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中国側の虎頭要塞で働いた労働者への聞き取り調査
「虎頭要塞」日中共同学術平和調査団日本側編集委員会「編」より
要約一部抜粋↓
(一)労働者募集で虎頭へ 孫同修(1920年生)
毎日12時間働いたうえに、夜にはさらに残業があり、日曜日すらありませんでした。夜1時間残業すると一毛(1元の10分の一)もらえますが、毎日4時間は残業しなければなりませんでした。
支給されたのお金は紙の券で、囲いの中だけ通用し、買い物をすることができました。私が山洞でやっていた作業は外へ石を運びだすことで、ときには鉄筋を入れ、セメントを流し、レンガをトンネルの壁に積み上げました。
中国人労働者のほかに、要塞工事には日本人の技術者も7,8人いたでしょうか、中には年配者もいて、一人は40歳以上、一人は50歳以上でした。私は春の初めに虎頭に来て、冬になるまでの一年間、南の山(虎頭山)で働きました。
要塞の工事は終わり、後は電灯を取り付けるだけでした。大工・瓦工などの職人をとどめたほかは、労働者はみんな出て行くことになりました。このようにして一年間働いて私は80元余りを受け取りました。
出ていく時に日本人は私たちに訓話して「帰ってから、山洞を造ったことを決して話してはならない」と言いました。私たちを送り帰すのに有蓋車につめこんで、連れてきたもとの所へ帰らせました。まとめて送り帰されたのは1000人余りで、一車両に150人くらい乗っていました。
汽車はいっきに大連まで走り、途中どこにも止まりませんでした。大連から来ていた年老いたお百姓さんといっしょに、私は大連に着きました。
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「虎頭要塞」日中共同学術平和調査団会編によれば
上記の他に何人かの聞き取り証言が掲載されている。
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(二)土地っ子は証言する 馮玉福(68歳)
私と弟の玉才は虎頭の土地っ子で、偽満の時代からここに住んでいます。
日本人が要塞を造ったとき、私は11、2歳でした。募集に応じて父親と一緒に独木河から腰営(ようえい)に行き砕石作業をしました。最初は私たちに石を運ばせておいて要塞工事をさせましたが、後になると労働者を連行していきて要塞を造らせ、現地で採用した労働者には砕石作業をさせました。
中略
憲兵隊には十数人の中国人の特務がいて、最も悪質でした。特務は私服を着ており、いつでも勝手気ままに人を逮捕しました。夜、話をしていたり、河のほとりで対岸をちょっとでも見ているとすぐに逮捕されました。
理由を作っては逮捕され殴られ、唐辛子入りの水を飲まされたり、電気をかけられたり、毎日苦しめれれ、ついにはウスリー江に投げ込まれた人もいました。ちょっとしたことでソ連と通じている言い掛かりをつけられ、二十歳以上の男はすっかりいなくなり、みんな殺されてしまいました。
///////////////////////////////以上↑抜粋終わり
↑上記が当時の実状を正直に表している。
「中国人の特務が最も悪質」
この一言から、何を推察できるのか?
彼のその他の証言を見れば、いろんなことが浮んでくる。
それに、この馮玉福が「土地っ子」であるということを強調しているかのような証言記録に私は関心を持ち彼の証言の矛盾を考えた。
虎頭鎮は地図で見れば分かるように対岸がソ連で周囲を小高い山々に囲まれた小さな村である。そんな地域に当時、1万人を越え多数を占めていただろう日本軍人や日本人が地元民に恐れられていれば馮玉福の父親は、まだ11,2歳の息子と共に労工募集に応募するのは不自然だ。
地元民は馮玉福苦親子が労工募集に応じた時点では、関東軍に対して何の恐れも抱いていないと言える。
「中国人の特務が最も悪質」
そう語った後、当時、少年だった馮玉福は、以下のようなことも証言している。
①「労働者を日本人が大きな穴を掘って機関銃で撃ち殺しました。」
②「私は虎頭の二十歳以上の男が、ソ連に通じているとして逮捕されるのをこの眼で見ました。夜、部屋で眠っているときに、日本人が突然窓から入ってきて連行し、生きたままで麻袋に入れてウスリー江に投げ込んだのです」
残った労働者を日本人が穴を掘って機関銃で撃ち殺していた・・・。
生きたまま麻袋に入れてウスリー江に投げ込む。
もしそれが事実なら、そんな日本人こそが、最も悪質ではないのか?
私が思うには・・・。
「労働者を機関銃で撃ち殺し穴に埋めたり」は馮玉福が実際に目撃した光景ではないと思う。
もし日本人による上記の証言内容が事実なら、「土地っ子」であり中国人少年である馮玉福にとって、当然最も悪質なのは日本軍人であり、日本人でなければおかしいのではないか。
「中国人の特務が最も悪質」と言いながら、日本人の仕業と言う。それに増しての残虐行為をスラスラと語る?馮玉福の証言に信憑性は感じない。
それに馮玉福は、要塞完成後もずっと虎頭鎮に住み続け、ソ連が侵攻してきた時に腰営山に避難している。
上記証言が事実なら、そんな残虐事件後にも馮玉福父子が、関東軍、日本人と一緒に小さな村中で暮らし続けることは不自然極まりない。
そして・・・。
自分の証言に少しでも信憑性を持たそうとするのか・・・。
馮玉福は後には現地採用者は砕石作業で、連行者が要塞造りとか証言している。これは要塞内部の構築に携わった労工だけが虐殺されたと言いたいのだろうが、あまりにわざとらしい。
とにかく虎頭はグーグルアースの衛星写真でみれば一目瞭然「ホント狭い」一画だ。
中国人はどんなところにもすぐに「万人杭」なるものを虐殺秘話として語り継ぐ。それは中国の残忍な文化伝統として、実際に起こって来たことであるからだ。一体、何人の労工が要塞築城に携わり、何人が虐殺されたと言うのか?その埋葬地も明らかでなく、大量の人骨も出ていない。
大方の事実は「孫同修」の証言のようなことだっただろうと思う。
そして・・・。
「虐殺」などの戦争に付き物の悲惨な悪行については、被害者側の立場の者が「風聞」や「想像」で加害者側を追求し非難するのは感情的に仕方がないが、加害者側と言われる子孫は、何をおいても、まず自らの国・軍・親・先祖・同胞を信じることが第一義である。
それが出来ない人間は、そもそも共同体に身を置く人間として失格であり、そんな輩に正義や道義を語る資格はない。
それに、例えどんな確定的な証拠があったとしても、戦争と言う日常とは掛け離れた状況で起きたことは、その現場でしか真実は分からないものだ。
ようするに私が言いたいのは、平和時に思う「どんな残酷非道な虐殺」も「想像を絶する悪辣行為」も、すべては戦争の範疇であり、そのことで戦いに行った先祖を忌避したり非難したり相手に謝罪する必要は全くない。
そして、その逆も真なり。覚悟しろ。
何故なら、それが戦争というものだからだ。
しかし、だからといって今後の戦争で何をやっても良いと言うのでは決して無い。
今、先の戦争について被害者側から糾弾され、そのことで自虐に陥っている今の我々子孫の愚と哀れを思う時、同じ愚と哀れを我らの子孫にさせない為にも、戦争は勝ちこそ必定であり敗戦の教訓を将来に生かさねばならない。
そして将来、万が一戦争になれば日本軍として、日本人として「厳しく自らを律する」ことこそが我等が成すべきことだ。
『「虎頭要塞」日中共同学術平和調査団会』が、数人の中国側証言者の証言を、中国側の聞き取りのまま検証もせず、日本で発行する本にそのまま掲載しているのには憤りを感じる。
もしこれらの証言に、少しでも捏造があったり、事実ではないことがあれば、国を守る為に故国遠く虎頭要塞で散っていった関東軍兵士を辱め過去現在未来の全ての日本人を辱めることになる。
元兵士という立場を前面に出し、さも自らこそが虎頭での真実?を語る資格があり、公平で正義感を持つかのように己の主観で反軍反戦を語る。そこには同胞を信じる気持ちも無く、庇う気持ちも無い。
ただ相手側の証言を自虐的に垂れ流し、相手に媚びる。それは、あまりに自己中で見苦しく日本人の風上にも置けない腐った輩たちだ。
戦争を生き延び旧日本軍を悪し様に言う卑怯千万な元兵士を含め、必ず彼等には因果応報の報いがあり、歴史は彼らを断罪する。
虎頭に関しては、生き残り兵士も少ない。それだけに情報も少ない中『「虎頭要塞」日中共同学術平和調査団会』や、虎頭生き残り元兵士のつまらぬ言辞は如何ともしがたく影響力を持つ。
その責任は重大だ。こんな中国に諂(へつら)う腐った調査団のお蔭で、この地や、ここでの英雄的な戦いに対して素直な感情を持てぬ日本人が出て来ることを危惧してならない。彼等のその罪:万死に値する。
http://www.youtube.com/watch?v=RXUPoZTdfUo&feature=player_embedded -
猛虎山の要塞
10:08:04
王○松の案内で後ろを歩いていたら穹窖の入り口があった
中は真っ暗、今日も懐中電灯を持って来てない
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■猛虎山の要塞へ 10時8分
41cm榴弾砲跡を見て、次にすぐ近くにあった要塞入口に入る。ここはまだ整備されていなく、東寧の勝鬨要塞と同じ様に内部は真っ暗闇だ。東寧での経験を生かせず懐中電灯を持たずに来たのが情けない。
安全を確かめながら少しは中に入って見たかったのに・・・。
私にとっては冬の今日であるが、穹窖入口へと一歩踏み込むと凄い冷気が体を襲う。一歩入った瞬間に寒さを実感する。5月の19日にしてこんな感じなら厳冬期は如何にあろう?ムムム、いや逆に地上より暖かいのかも、まあ地下深くになれば、ある程度温度は一定なのだろう。
要塞穹窖へと入る通路は、今も深い壕としてそのまま残っている。そして、整備されていないから当時の要塞の様子が伺える。その壁は、今観光目的で入っている要塞の内部とはことなり、岩盤の地肌がむき出しのままの通路だった。ここも両側の壁は碁盤模様になっていた。
どうせならセメントで奇麗に塗り固めず、危険がない範囲で当時を再現して保存を望むが・・・。何でもかんでもピカピカ好きな文化だからどうしようもない。
通路上部は鉄筋も露出しコンクリートが使われていたようだ。穹窖周辺も外部に分厚いコンクリートの破壊片が瓦礫となってあちこちに残っていた。要塞上部が適砲弾や爆撃によって破壊された跡なのか?それとも地上に頑丈な建物があったのだろうか。 -
10:08:28
やはり整備されていなのでリアルだ
これでも、ある程度整備しているのかもしれないが
中は闇で光がないと進んでは行けない -
10:09:34
この要塞を盾に圧倒的なソ連軍と戦った
音・熱・恐怖・その修羅場というのは想像も出来ない
この碁盤目の壁がその全てを知っている -
10:10:02
天井に残るのは戦いの痕跡なのか? -
10:10:36
苔むす穹窖への通路が時の経過を示している
兵どもの戦いの跡
日本帝国陸海軍があり、関東軍があった
そして世界に冠たる日本と日本人がいた
戦い敗れたとはいえ、良くぞ戦えり -
弾薬庫跡??空き地
10:11:46
この広さは戦車壕なのか・・・。そこら中にあった
今は木が生い茂り、方角も分からず
デジカメ時間が距離を示す
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■10時15分:弾薬庫跡??
次に弾薬庫があったという場所に案内された。ここがどの辺りなのか?何も分からず。
只周囲が崖になり、残った弾薬を一挙に爆破させて、このように広い敷地がその跡に残ったと言われれば、建物の残骸であるだろう大きなコンクリート辺も散らばり、なるほどそうかと思うような“ざっくり”と吹き飛ばされたような空間になっていた。
しかし、確実なことは何も分からない。でも跡地が奇麗過ぎておかしいし。もう少し王○松に確かめておけばよかったが、何かがあった跡地ではあるのだろう。
-
10:12:02
まさに戦場の跡ここに残る
王○松の後に続き歩く
そしてデジカメのシャッターを押す -
10:15:34
この突如開けた空間が弾薬庫跡?だと王○松は言った
コンクリートの破壊片が転がる
私の聞きとり間違いということもあるかも? -
10:15:38
空き地と瓦礫はあるが跡地が奇麗過ぎるし
良く分からない -
西猛虎山:氷の穹窖
10:17:56
氷の穹窖、それは弾薬庫跡のすぐ近くにあった
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■10時18分:西猛虎山:氷の穹窖へ
氷の張りつめた穹窖に驚く。この要塞入口を一歩入って本当に驚いた。先に入ろうとする私に、後ろから王○松が「慢走!:まんぞう、ゆっくり歩け」との声が掛かった。その声となにやら不思議な感触にふと下を見ると、入口まで氷が敷き詰められた通路だった。
真っ暗で奥の方の情況は分からないが、数センチの氷の絨毯である。移動で車に乗ったとはいえ、さっきの穹窖ともさほど離れていない。標高だってたかが知れている。何故?ここはこんなに温度が低いのか?
懐中電灯なく、デジカメのフラッシュ撮影の画像を見て、奥まで続く氷の通路を知った。
この要塞のあるここは西猛虎山(XI MENG HU SHAN)と教えてくれた。 -
10:18:14
ドアが開いたままの穹窖への入口があった -
10:18:44
私が入ろうとすると、後ろから王○松の声が響いた
“慢走”ゆっくり歩け・・・と
一瞬立ち止まり、見れば氷が敷き詰められていた
全く予期しない様子に、息を呑み驚く
何故?ここだけ、こんなに氷がと
どこも冷気は感じたが、これほどまでとは露も思わず
真っ暗、足許も危なく、引き下がる -
-
10:33:26
虎西山・虎嘯山(平頂山)戦場遺跡への入場ゲート
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■虎嘯山方面へ
そこから10分ほど車で行ったところにゲートがあり、最初の虎東要塞の入場券を持っていれば入場出来る。有料入場の遺跡が虎頭では二つ{虎東山・東・中・西猛虎山・虎北山}と{虎西山・虎嘯山(平頂山)}に分かれてあり、入場券は共通ということのようだ。
そのゲートをくぐって3〜4分のところで王○松は車を停めて私を案内してくれた。何の変哲もない畑地を横切り、低い潅木の密集をかき分けて進んだら二つ並んで砲座跡があった。
10、15、24,34cm?何の榴弾砲陣地か分からないが、比較的「大きいなあ」と感じる砲座跡があった。王○松曰く「私しか知らない」ところだそうだ。
砲座跡だけで周囲には何もなくまだ低い潅木と畑地が広がっている。 -
10:37:54
入場ゲートを少し行った畑地広がる場所に車を停め
王○松は潅木の中にスタスタ歩いて行った -
10:39:12
潅木を踏み分け進むと
砲座跡があった
ふーん、こんな所に
41cm榴弾砲のミニ版のような砲座が二つ並んでいた -
10:41:06
ここにも陣地があった
でもこの場所も、何の砲座跡なのかも何も分からず -
10:41:28
ちょっと離れると茂みに隠れて
その存在は消えてしまう -
10:41:46
この景色の背中側の潅木の中に二つの砲座跡がある -
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