2009/05/12 - 2009/05/23
34426位(同エリア45926件中)
明石DSさん
7:21:52
こんなん食いました
まあまあでした
“美味いなあ〜”には出会いませんが
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3日目:哈爾濱〜牡丹江:磨刀石
5月14日(木)晴れ
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2009.平成21年5月14日(木)
■磨刀石へ行く、その日の朝が来た。
昭和20年8月7日午前3時、石頭にある甲種幹部候補生約4,000名は非常呼集に叩き起こされソ連の宣戦布告を知らされる。
急遽戦時編成となった。そして11日に出動命令が出て、猪股大隊約1,000名は無蓋貨車に立ったまま磨刀石へと向う。
その磨刀石に今日、俺は行く。
朝、6時過ぎに起き7時からの朝食を食べに行く。房産賓館は良かった。朝食バイキングもまあまあでここにも豆乳が用意され二杯飲んだ。
9時にホテル前で林○金と待ち合わせなので、それまでに駅前に行き明日の東寧行きバスを確認しに行った。8時前にホテルを出て駅前には歩いて10分も掛からない。
駅の左側に沢山のバスが並んでいる。フロントに大きく行き先を書いているので分かりやすい。ここには哈爾濱のようなターミナルはない。バスの切符も乗る前に、或いは乗ってから車掌から買えば良い。
東寧行きのバスの横で、質問していた時、横の“おっさん”の目に手を上げた私の指が当たった。結構痛かっただろうとその感触からも分かった。人相の良くないオッサンも言いたい文句も言えず目をパチクリしながら涙目になっていた。(笑)
牡丹江から直接東寧に行くバスがあることが分かりひとまずホッとする。そして最後に行きたい場所である阿城行きのバスも並んでいた。そうか哈爾濱に戻らずにここから阿城にも行けるのか・・・と、分かり5月21日の目途が立った。
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7:21:58
房産公寓賓館は良かったです
写真で見ても小奇麗で
三泊しました。 -
7:52:46
房産公寓賓館
牡丹江七星街75号
電話:0453−6923100
駅から徒歩5分
歩行者天国があって夜店も開きます
是非、ご利用を、一泊¥200元(¥3000円) -
8:02:20
明日の東寧行きの為にバスを確認しに行く
駅の左側にバスが並んでいる
直接行き先のバスに乗れば良い
発券所や待合室のような建物は無かった -
8:05:30
このちいこいマイクロバスが牡丹江⇔東寧のバスでした
明日これに乗って行きます
このハゲ頭のおっちゃんの目に私の指が入ってしまった
メチャ痛そうで、涙目でした(笑) -
8:11:16
阿城行きのバスもありました
どう見ても阿城は終点に見えません
私は一体何を考えていたのでしょうか?
22日の旅行記を見て頂けば何があったか分かります
乞うご期待 -
8:12:32
駅周辺の光景
朝早くから荷物担いで何処に行く
こんな風景一体いつまで? -
8:16:44
牡丹江駅から右にカーブして北山公園方面に歩く
おっちゃん何処行くの?
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■再度、虹雲橋へ行く
次に昨日の夕方渡ったあの虹雲橋に向う。多くの日本人が行き来し、少年時代、青春時代、そしていろんな世代の日本人が故国を遠く離れたこの牡丹江で虹雲橋を渡り家路へと急いだであろう・・・その橋へと。
駅から虹雲橋に向うと大きく右にカーブして緩やかな上り坂になっている。手前の交差点はT字路で北山公園の方から来る車は橋を渡って左右どちらかに別れる。正面には花川睥酒(ビール)の会社がある、今も昔もこういった風景だったのだろうか? -
8:17:10
虹雲橋南、朝の三叉路の風景
交通警官が交通整理をしています
信号はありません -
8:19:20
虹雲橋、峠の頂から北山公園方向を写す
青空が空一杯に広がり
今日の磨刀石行きを祝してくれています -
9:09:38
牡丹江公路大橋を越え、綏芬河へ向う道に入ると
すぐ短い区間だけだが、この悪路がある。
それを抜けると快適な道が磨刀石へと続く
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■磨刀石へ、いざ出発!
9時の待ち合わせに間に合うように又ホテルの方へと戻って来た。戻ってきたらまだ時間には5分ほどあったが林○金が待っていた。
林○金は44歳、以前はトラックの運転手だったが会社が倒産したのか、リストラになったのか、職を失いタクシーに転向したそうだ。大連とか青島までぐらいはトラックの仕事で行ったらしい。
体格90kg、寡黙だが腰は低い漢族の運転手。林○金の車で牡丹江から代馬溝目指して走り出した。天気が良くて絶好の磨刀石日和となる。牡丹江公路大橋を渡るとすぐに鶏西と綏芬河に道は二つに別れ、綏芬河方面に走る。別れてすぐ「道不好=悪路」の道があったが、そこを抜ければ快適なドライブでひた走る。
30分くらいで磨刀石の地名の碑があり、そこで一旦車を降りて写真をとる。そこから左手に磨刀石の村が見える、そして小高い山も。左に磨刀石を見ながらまっすぐ代馬溝に向った。 -
9:13:06
一路、磨刀石へ
気合が入る
ここでの壮絶な戦を知れば
誰しも気持ちは引き締まる
その磨刀石へ行く -
9:27:14
磨刀石鎮の碑
牡丹江から30分足らずで着いた
この右手向こうに駅があり戦場がある
まず、磨刀石へ入る前に代馬溝へ向う -
9:50:06
昭和20年8月12日、この代馬溝にソ連軍は宿営した
磨刀石から若槻挺身隊が攻撃に向かい玉砕した
そして翌、13日ここから磨刀石へとソ連軍は進撃を始めた
そのソ連戦車を磨刀石で待ち受け、若き候補生達は捨て身の戦法で戦った
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「戦争に捧げた青春」白井信三(著)
http://www13.plala.or.jp/s_chiba/txt/text9.htm:↓抜粋
若槻挺身隊の出撃
若槻見習士官は言った。
「敵戦車群は、本日、代馬溝に入った。そして、今夜は夜営する模様。これを奇襲攻撃する為、私が長となって挺身斬込隊を編成する。もとより、生還は期し難い。今日限り、私が命を預かる事になる。希望者は申し出ろ。」
若槻見習士官は、静かな声で言った。
すぐ、谷口進一候補生が手を上げて「七区隊全員が希望します。」といった。
間髪を容れず、全員が「おー。」と声を出して一歩前に出た。
区隊長は、「よし、有難う。人数に制限がある。俺が選ぶ。」と言って、若槻隊長は1人1人と対面し言葉を交わし、そして30名を選んだ。(隊長を含む)
選ばれた人は死ぬのであるが、区隊全員が泣いて隊長との同行を切望した。区隊長と候補生との心の絆がいかに深かったのか、若槻隊長の人格が偲ばれる。
人選に洩れた候補生の中にあきらめられず
「隊長―。自分も連れて行って下さい。」と悲痛な声を出す者が居た。
「自分もお願いしますー。」「自分も。」「自分も。」 多くの声が上がった。
若槻挺身隊長は
「俺達30人は、代馬溝で敵を攻撃する。残った者は、この磨刀石で攻撃してくれ。どこで戦おうと、国に報ゆる道は1つである。磨刀石を頼む。」 区隊長、若槻見習士官の静かな声に残留者は頭を下げ、声が無かった。
2中隊の指揮班の位置で太田中隊長と別れの杯を交わし、急造の爆雷を背負い出発する迄の一部始終を見ていた。 これは、昭和20年8月12日の夜10時頃と記憶している。
若槻挺身隊は、線路ぞいの小径を進んで行ったが、無情にも夏の夜が明け、攻撃開始前に敵に発見され猛烈なる集中砲火を浴びた。 挺身隊は後退せず、敵機甲師団に突撃をして、全員29名が戦死した。(1名、命令により報告に戻った。)
////////////////////////////以上・抜粋終わり
■先に、代馬溝へ行く
若槻挺身隊が攻撃に向った代馬溝は、車の距離で15.6kmあった。夜の10時頃、線路沿いの小道を歩いて向ったのだから何キロの道中なのか分からない。だが、夏の夜は3時を過ぎれば明るくなって来るだろう。5月の今でも4時頃なら結構明るい。
こな辺りは満洲といっても見渡す限りの大地が広がるのではなく、小高い山々があちこちにあり、丘陵地帯というような感じだ。そしてそんな台地に畑が広がっている。
磨刀石の石碑から20分弱くらいで代馬溝の駅に着く。
ここで8月12日ソ連軍戦車軍団は夜を明かしたのか・・・。そして翌朝、磨刀石へ向う。代馬溝の駅で写真を写し、すぐに折り返し磨刀石へと戻った。
この車で走っている道がいつ頃からの道か知らないが、右手に線路があり、これ以外に大きな道は無さそうなので多分この道を戦車は牡丹江へと向ったのだろう。
道は小高い山々や峠を縫って磨刀石へと続く、やがて右カーブを曲がりながら磨刀石方面の展望が開けた。今、この旅行記を書きながら手元に「われは銃火にまだ死なず」南雅也(著)がある。石頭予備士官学校生だった南氏が磨刀石の戦いから生き残り書いた著書である。
その本の70頁に私が見つけた磨刀石の唯一の戦場地図があり、それがこの磨刀石で戦場を探る私にとっての全てでもある。
鉄路・川・駅・そして、その地図に描かれている幾本かの道、文章の中のいろんな描写を頼りに私は磨刀石へ行き、そして歩いた。代馬溝から磨刀石に戻り磨刀石鎮(MADAOSHIZEN)の碑が建つ所を右折して村に入って行った。
川を越え右手方向に進むと左手が線路で、道路が代馬溝方向に伸びている。5月20日再度この地に来た時に確認したが、この道こそ、その両側に蛸壺を堀りソ連戦車に肉攻攻撃を仕掛けた道路だ。
そして駅前に行く為に地元の人に道を聞き、若干来た道を引返し、踏切を越えて線路北側の道に出て、すぐに二股に分かれる道を右折し、少し走ると右手に磨刀石の駅があった。 -
9:50:46
代馬溝から磨刀石、牡丹江方向を写す
逆方向は綏芬河
ここから磨刀石へと戻る -
9:54:36
代馬溝の部落を抜けて一路磨刀石へ -
9:57:40
鉄道は高い地点を走っていた
代馬溝からこの道を磨刀石へ
唸りと地響きを立てて、ソ連軍戦車が向ったのだろう -
10:08:44
この下りのカーブを右に走れば
磨刀石方面が開ける
代馬溝からこの道を磨刀石へ
すでに戦車の轟音は蛸壺の候補生の耳にも届いていただろう -
10:10:40
前方が磨刀石鎮だ
互いにその全容を確認し、すでに砲弾も飛び交う戦場と化し
戦車砲から砲弾を次々と日本軍陣地めがけて放ち
砲弾、ロケット弾が飛びかう修羅場になり
この辺りから、ソ連戦車は磨刀石へ接近侵攻したはずだ -
10:12:34
磨刀石鎮の全貌
主戦場はもっともっと線路に接近した道路だ
中隊指揮班に配属された候補生の手記でも
肉攻攻撃は
『俺の位置から100mか150m位、模様が手に取るように分かる。』
↑とある
当時この手前の畑地は脱出困難な湿地だったと思う -
10:15:24
代馬溝方向から来れば、「磨刀石鎮の碑」を右折する
いよいよ戦場に入る
でも、この時は初めてなので、まだ全くと言って良いほど
何も分かっていなかった
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「われは銃火にまだ死なず」南雅也(著)
さっき郵便ポストに入れられた。
その本を開いた最初に以下の言葉が書かれていた。
・・・・・・・・・・・・・・以下、抜粋
死なば共にと日頃から
思いしことも夢なれや
君は護国の鬼となり
われは銃火にまだ死なず
ソ連国境、磨刀石というの名の戦場・・・ここで若い学徒兵たちが死んだ、終戦を目の前にして・・・。知られざる戦場、磨刀石に散った学徒兵はいずれも陸軍甲種幹部候補生であり、平均年齢弱冠二十歳。この地に九百二十余名が出陣し、わずか二日間の戦闘でその大半が散華したのである。
候補生たちはそれは初陣で、つい昨日までペンを持ち学窓にあったとは到底思えぬような、文字通り軍人らしい最期を遂げた。その戦いは、大挙して南下して来たソ連軍赤軍の大機甲軍団に銃剣と手榴弾、そして手づくりの急造爆雷を抱えて敵戦車に体当たりを挑んだ凄絶無比の死闘だったのだ。
しかもその任務は、軍主力が撤退して後方に、最後の防禦線とすべき複郭陣地を築き上げるまでの死の抵抗線であり、国境付近から避難して来た在留邦人の大群が無事南下するまで、急迫するソ連軍を阻止する身代わりの防波堤であった。
その戦いの記録と、候補生一人一人の生き様、死に様を私は、生き残り候補生の一人として、ここに書き留めなければならない。
・・・・・・・・・・・・・以上、抜粋終わり
最初の頁を読むだけでも胸が熱くなる。確かに軍主力は其の後の戦略の為に後退したが、それぞれの拠点では必死の死闘が行われていた。
まだまだ当時の日本軍が一億玉砕の本土決戦を念頭に入れていれば、軍主力の後退もやむ得ない戦略だったはずだ。関東軍は「邦人保護をせず逃げた」などとの言葉は、あまりも短絡に過ぎる。
巻末に石頭予備士官学校第13期生:戦没者名簿が付記されていた。兵庫県人だけでも50人を越える。
戦死日時は8月13、14日が圧倒的に多い。今の20歳の若者を見よ、彼等と同い年の候補生が初陣で自らの命を投げ打って磨刀石にて在留邦人を守る為に、後退する軍主力の陣地構築に貢献するために散華した。
私を含め、今の日本人はまだまだ知らなさ過ぎる。東寧要塞でも・・・、虎頭要塞でも、海拉爾要塞でも、ソ連軍と死闘を演じている。磨刀石も、みんな紛れもなく関東軍だ。 -
10:16:30
先ず駅に行く為、線路の南側を右折して代馬溝方面に走る
林○金も駅に来たことないようだった
後になって分かったが、この道こそ主戦場である
多くの候補生が肉攻攻撃で散華した道だった
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■磨刀石の駅に来る
権香玉に確認したらこの駅の場所は変わっていないとのこと、確かに駅舎は新しくなったが駅の位置がそのままならば地図から推測する場所もそんなに違いはないと信じる。
この駅に到着した時、北側の山肌すれすれにソ連空軍機三機の機銃攻撃を受け初陣を前に磨刀石駅で12名が戦死した。ここで車から降りて私は早速、地図を頼りに北側の山に向って歩いた。
地図では駅北側には満人部落があり、北東方面に中隊本部や歩兵砲中隊が陣地を構築した場所であろうところを目指して。 -
10:18:34
8月13日、向こう正面から戦車は地鳴りを上げて近づく
それに対して、道の両側に掘った蛸壺から
爆雷を抱えて候補生が飛び出しっていった
その道がこの道だと、今は確信す
左、すぐ傍を線路が走る、磨刀石駅はこの左側にある -
10:20:40
磨刀石駅南出口
ここは閉鎖され、使われていない。
駅前は線路北側にあるようだった -
10:26:52
線路南側の道から戻り
踏み切りを越え線路北側に行く、
そして又二つに別れる道を右に入る。
この上り勾配の道を上がれば右側に駅前広場がある -
10:28:24
磨刀石駅に、やっと来た
昭和20年8月11日、磨刀石到着時ソ連機の銃撃を受け
12名がソ連戦車との戦闘前に無念にも亡くなった
その中には
第一区隊中隊長・吉橋幸一少尉も含まれる
吉橋少尉も初陣を前に空軍機の機銃掃射で戦死した
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「われは銃火にまだ死なず」南雅也(著)
■40頁・・・以下抜粋
8月10日午後10頃 出動命令下る
非常呼集である。遂に来るべき時は来た。完全軍装20キロの我が身の重さを忘れ、眼を血走らせた顔、顔。襟につけた甲幹の座金がキラキラと輝いて、みんな樫の木ようにガッチリ立っている。
ああ、これがかっての学生だったのだろうか。目を光らせ、新装の軍衣をまとった候補生たちは、身じろぎもしないで灰色の靄(もや)の中に立ち尽くしている。(お父さん、お母さん、征きますよ。見てて下さい)誰もがそう呼びかけて、ワッと叫びたい衝動を歯を食いしばり堪えていた。
「ここに幹部候補生による世界一の精鋭部隊が編成された。国境を突破し侵入せるソ連軍を粉砕すべく、只今より出陣する・・・」
今は第一大隊長:猪俣大尉の命令が、ずしりと胸にかたえる。
乾パンの糧秣と、僅か5発の小銃弾を各自受領し、東京(トンキン)城方面へ南下するという小松連隊配下の候補生たちに訣別の礼、そして遥かに東方を向いて宮城遥拝、故郷への最後の別れが命令された。期せずして、候補生たちの中から海ゆかばの大合唱が津波のように沸き起こる。涙がとまらなかった。
8月11日 午前1時を過ぎていた。
我々の出発の時が来た。校門近く万歳の声がする。「二中隊前へーッ」の号令の中、リュウリュウたるラッパの音が轟く。軍靴の整然たる足並みが営庭にこだまして、万歳の中に吸い込まれてゆく。やがて、早駆けの号令が下った。先頭の一中隊が出発したのはその直前、午前零時過ぎのことである。
指揮班、榊候補生は吉橋幸一第一中隊長が大声で言うのを聞いた・・・「いいかみんな。石頭駅午前1時発の列車に乗車するので、落伍しないようについて来い。もし午前一時までに石頭駅に到着出来ない場合は、牡丹江まで強行軍することになる。絶対遅れるな。いいか、ついて来い!」
石頭駅→牡丹江駅
貨車はやがて牡丹江駅に着く。駅付近は避難民でごった返し、事態の重大さがひしひしと身に迫って来る。一機二機、上空を旋回する飛行機がある。退避命令が出、広場でしばらく様子をうかがうが空襲はまだなかった。
11日正午過ぎ
駅には南下する列車を待ち構えるのか、軽装の邦人で人の渦である。着のみ着のままで避難していくのであろう。正午過ぎ、貨車は間もなく動き出し液河で再び停車した。聞けば、ここで大五軍の団隊長会議実施中という。
貨車から大隊長、将校たちが軍刀のツカを握りしめて飛び降りて行った。乗車のまま待機していた我々に、第五軍より軍命令が下された。
第5軍より命令下る
「一部を磨刀石に派遣。小林部隊の指揮に属し、敵戦車の侵入を阻止するとともに、主力は液河東方台地を占領。軍の複郭陣地を構築すべし。」そこで現在地に荒木連隊長以下の連隊本部と和澤直幸大尉指揮する第二大隊を残し、わが第一大隊が猪股大尉の指揮で次の磨刀石へ向け、更に前進しることになった。国境へもう一歩、肉迫していくのである。
無蓋貨車がガクンガクンと速度を落とし、磨刀石駅に停車した時だった。
突然、駅北側の山側から山肌すれすれに縫うような超低空で、緑色の三機編隊が迫って来た。「敵だーッ。退避ッ、退避ッ」たちまち騒然となる。爆音は、ほとんど聞こえなかった。
バリバリバリッバリバリバリッ、機銃掃射だ。
その時の機銃掃射によって、猪股大隊・第一中隊・第一区隊・吉橋幸一少尉等12名が戦死した。吉橋少尉も初陣だった。少尉は職業軍人ではない。敵機の銃撃に晒された貨車から降りる候補生を最後まで見守り、最後に貨車から降り機関砲弾に撃ち抜かれた。
実家はミナト横浜で大きな鮮魚店を営む旧家である。
この日早朝、石頭校舎から駅まで早駆けで8キロの道を必死に走った時、少尉は一中隊の先頭を指揮班とともに走りながら、皆に大声でこう言ったことを、伝令要員の榊候補生は覚えている。
「わしはこの年まで実戦の経験が無い。これが初陣であるが、貴様らはこの若さで出陣出来るのだから幸せと思え」
また、磨刀石に向う無蓋貨車の中で少尉は言った。
「戦争をすることは誰でも、最初はこわいものだ。ふだんどんな強がりを言う人でも、実戦の経験のない者は、身近に弾が飛んで来たり、爆弾が落ちると、生きた気持ちはしないものだ。これはどんな者でも皆同じだ。わしもそうだ。心配するな・・・」
勇気付けるように、静かに諭すように吉橋少尉は言ったという。そういう少尉が、中隊長として初陣の地上戦闘の指揮をとる間もなく、誰よりも真先に壮烈な死を遂げてしまおうとは、候補生の誰一人として思いもしなかったことである。少尉もまた、どんなにか残念であったことだろうか。
折からシトシトと細雨が煙り出し、音もなく候補生たちを濡らし始める。集合命令が掛かった。太田隊長の訓示だと言う。その隊長の鉄帽が雨に濡れ、ギラリと光って恐いようである。諄々と諭すように言葉を続ける中尉の姿。
雨が頬を伝い、口許に流れ込み、五体が小刻みに私は震えつづけた。中尉を取り囲むようにして、音もなく立ち尽くす候補生たちは、背をこごめ眼だけ上目遣いにして聞き入った。
コンバットという戦争映画がある。数年前、このテレビ映画を深夜見ていて、どこかで見た場面だという気がしてならなかった。外被を着た俳優ビッグ・モローの軍曹を取り囲む兵士らの、鉄帽に軍服に雨が黒ずむほど叩きつけている。
ああそうだ、あの時だと私は愕然と中隊長を思い出していた。そっくりなのである。テレビは白黒だった。だがやはり、あの時も白黒だったとしか記憶にない。不思議に色が思い出せないでいる。戦場の色は、兵士の目に映る色は、もしかしたら白黒なのかもしれないと思った・・・。
太田中尉の訓示は、以下のようなものだったと記憶している
「現在地は穆稜(ムーリン)県磨刀石である。只今は敵機の襲来を受け若干の戦友を失ったが、戦いはまさにこれからである。諸子は学徒兵の栄誉を担って今まで、練磨を重ねて来た。
この未曾有の国難に際し、畏れ多くも上御一人のご宸襟(しんきん)を安んじ奉る重大な責務を、我等は今こそ全うせねばならぬのである。勇猛果敢、肉弾をもってよく敵の侵攻を阻止し、最後の御奉公をせよ」
諄々と説く中隊長の鉄帽から、ポタポタと滴り落ちる雨が顔を濡らすが、身じろぎもしなかった。
//////////////////////以上、抜粋終わり
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10:31:44
駅前から北側の道を東方向に向う
途中振り返って駅方向を写す
この写真の右方向が小高い山であり
戦闘概要図によれば中隊本部が構築されていたのだろう
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■石光真清の磨刀石
この磨刀石は、日露戦争開戦3年前の1902年、明治34年2月に石光真清が哈爾濱に写真屋を開業すべく四人連れで向う道中、この磨刀石で宿に泊まった場所でもある。
当時の磨刀石の宿の描写は以下のように記されている。
『勝って知ったる客桟・・・と言っても木賃宿ではあるが、そこへ四人が入ってゆくと、薄暗いランプが一つ、部屋の中央に吊り下げられているだけで四隅は良く見えなかった。とにかく満員盛況で、清国人の他に韓国人とロシア人が混じって40名ばかり、雑然とあぐらいをかいたり寝転がっていた』
そんな描写が記されている。こんな内陸の何の変哲もない場所が、107年前にはそんな活況を呈していたのは何故なのか?そしてカザック兵の検問とは?清国でありながらすでに当時はロシアが牛耳っていたのだろう。
その客桟内で、連れの武藤大尉が持っていた拳銃が検問に宿に入って来たカザック兵に見つかった。同行の軍人ではない阿倍野が身代わりに立ち、通訳として同行していた柔道師範でもある秋山の二名が連行された。
翌日の明け方近くロシア語堪能な秋山の弁解が通じ、それに取調べの将校も義和団事件の日本軍の有力な協力を誉め、日露は相助けて行くべきなどと御世辞を行って釈放してくれたそうだ。そんなロシアと三年後に日本は戦端を開いた。 -
10:34:34
地図と比べながら、その方向に上って行く
基点は磨刀石駅であり
駅を常に意識しながら山に上る
山と言うより丘なのだろうけど
頂上までの道がはっきりせず迷う
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■磨刀石、探索
でもその時は、私の脳裏にはそのことは思い浮ばず、ひたすら候補生達の戦場を思っていた。そして、駅前から北側の山に登って行った。地図の位置を確認しながら・・・。そして取りあえず磨刀石北側の小高い山の頂上を目指す。
その途中、少し高台に中隊本部があり、歩兵砲中隊が陣地を構えていたのだと思う。
頂上を目指したが道が無く、農家の玄関に行き当たりその門を入って行くしか上に進めない。そこらにいる人に聞いた感じでは頂上まですぐに行けるという雰囲気は分かった。でも行く道が分からず、何度か行きつ戻りしながら探していた時、農家の門から子供たち出てきたので道を尋ねた。
私の拙い中国では子供に上手く伝わらなかったが、子供が機転を利かせ中に居る大人を連れて来てくれた。40代か50代前半の女性で私が「ここは1945年日本軍とソ連軍の戦場になったところで、この山の頂上に行きたい」と言うと彼女は分かってくれた。そしてここが戦場であったことも知っていた。
その彼女が指差して示してくれた道は、一番最初にここを行きたいと思った道だが農家の門になっており入って行けなかった所だった。幸い門が開いており彼女も方向を示してくれたので入って行った。
そして、20分ほどで石がごつごつした頂上に立てた。この近くに第三野築があったのだろうか?そして「白井候補生」が登って来た頂上であるのかも知れない。 -
10:40:22
すでにここまで上がれば、磨刀石駅は眼下であり
この範囲から東に陣地を構築したのだろうと思われる
『肉攻の候補生が次々と飛び込む
100mか150m位、模様が手に取るように分かる。』
指揮班配属の候補生の手記の描写を考えても
道路からそんな離れていないのは明らかだ -
10:50:22
頂上への道が分からず迷っていたら
子供が大人の女性“王○英”を呼んで来てくれた
王○英に教えてもらって上って行った
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「戦争に捧げた青春」白井信三(著)
http://www13.plala.or.jp/s_chiba/txt/text13.htm:↓抜粋
「白井―。白井候補生居るかー。」
太田中隊長の声である。
「ハーイ」大声で怒鳴るような返事をし、夢中で中隊長の壕へ飛び込んだ。
「貴様。後ろの方に小高い岩があるが。あれだー、判るか。」
中隊長の指差す方向を見た。
「ハイー。判ります。」
「あそこへ行って、線路沿いの小道を敵が来るか見張れー。」
「発見したら、すぐ知らせろ。合図を打ち合わせて行け。」
「ハイー。すぐ出発します。」
俺は、怒鳴るように復命し自分の壕へ駆け戻り偽装網をかぶった。宗像が匐ってきて、肩や背中に草を付けてくれた。仲間から1人離れて行く。体が震えた。武者震いか。無数に飛んでくる弾の中を匍匐で進んだ。
しばらくして、大きい石がごろごろしている所へ出た。石の間を隠れる様にして、崖を登りすぐ頂上へ出た。汗がしたたる顔を拭いてくまなく見渡したが線路沿いの小道にも眼下の草原にも人影は無い。
指揮班の位置は草の偽装で定かでないが、打ち合わせたとおり、手を高く上げ2回左右に振った。しかし、応答は無い。更にもう1回。応答は確認できなかった。
敵の砲撃はますます激しくなり、殷々たる砲声はあたりを圧していた。この頃は、大隊本部と思われるあたりに砲撃が集中していた。
///////////////////////////////////以上抜粋終わり
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10:54:30
こういう広場があれば“もしやこの辺りに陣地を”と思いながら
振り返りつつ歩く
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■11時11分:磨刀石北側の小高い山の頂上に立つ。
頂上というのは360度見渡しても付近にここより高い所はない。代馬溝へと続く道が山裾を縫うように続いているのが見える。一番右端はさっき車で走って来た公路で、その道をソ連戦車は磨刀石に接近し部落へと侵攻して来たのだろう。
しばし佇み、この頂上で日本から持ってきたタバコにビスケット、キャラメルを置き線香を供えて般若心経を詠む。冥福を祈り、後に続く一人の日本人として今の日本の現状を詫びる。
いつの日か彼等の戦いあればこそ日本人は覚醒し、今より少しはまともな国になるだろうと思う。
そんな日がいつになるのか分からねど、国体を思い家族を思い、見事に散華した幾多の英霊の魂は永久に日本国と日本人を守り続けてくれることを信じる。
20分近く頂上でボーと風景を眺め降りて行く。腰の痛みも蛇の恐さも頭になく、ひたすら登りそして降りて行く。頂上付近まで開墾され二頭の牛が日向ぼっこしていた。
地図の通り右斜め下に今は色鮮やかな磨刀石駅が見える。そして線路を越えてすぐの道が肉攻攻撃の舞台になった道路だ。その道もすぐ近くに見える。
中隊指揮班に配属された白井元候補生の以下の手記によれば、肉攻攻撃の道路は『100mか150m位、模様が手に取るように分かる。』とあり線路南の道しか有り得ない。 -
10:54:44
代馬溝から侵攻するソ連戦車は
写真左斜め前方方向から
やって来る -
10:59:32
少しづつ高くなるにつれ展望が開ける
写真正面の蛇行した道路を
敵戦車は砲弾を放ちながら向ってきたはずだ -
11:00:42
デジカメズームで磨刀石駅を写す
写真中央付近が磨刀石駅
牡丹江に続く肉攻の道が良く見える
家の陰で見難いが、駅の前からずっと左へと続いている
この道こそが、上記の概略図の主戦場の道だと思う -
11:01:48
振り返りつつ、そして又上へと登る -
11:02:00
岩の頂上が見えた
「戦争に捧げた青春」白井信三(著)
この岩の上が、上記の頂上だと思う
私もこのあとすぐに登ったが360度展望が開け頂上だった -
11:11:36
我、登頂に成功す
代馬溝からの道が見える
磨刀石へと入ってくる道も見える -
11:20:00
磨刀石にて
山頂に登り、代馬溝、及び東方向を写す
日本から持って来たタバコ・ビスケット・キャラメルを供え
心ばかりの慰霊を行う
東を向いて般若心経を唱える -
11:27:50
代馬溝方向(東)を望む -
11:27:56
山頂より北方向を写す -
11:28:06
山頂より西方向を写す
http://www.youtube.com/watch?v=EP7GON6GUTc&feature=player_embedded -
11:35:02
頂上より降りる途中
写真左側の岩山がさっき登った頂上
ここまで開墾され畑地が広がっている
牛が二頭のんびり日向ぼっこをしてた
//////////////////////////////////////////////
「戦争に捧げた青春」白井信三(著)
http://www13.plala.or.jp/s_chiba/txt/text12.htm:↓抜粋
以下↓抜粋
磨刀石前面の戦場は、さながら地獄絵図と化した。
肉攻の候補生が次々と飛び込む。
俺の位置から100mか150m位、模様が手に取るように分かる。
戦車に向って候補生が走る。機関銃に倒される。「ドカン」候補生が散る。人間が戦車の下へ。「ドカーン」人間の足や手は飛び散るが、戦車は再び動き出す。
「ちきしょうー奴等を吹き飛ばす爆薬はないのか。」切歯扼腕、拳を振り上げる。
このあと、敵戦車先頭2輌は、道の両側を火炎放射器で焼き始めた。(火炎放射器という兵器は、ボンベに「ガソリン」を2/3ほど入れ、これに空気を150気圧から200気圧入れて高圧でガソリンの霧を吹きつけ、後から点火する仕組みである。)
蛸壺に入って居る候補生は、頭からガソリンの霧をかけられ、それに火がつけられる。ガソリンの霧は蛸壺を隠蔽している草もぬらし、そして爆発的に激しく燃える。
「わー。」とび出せば待ち構えているのは機関銃。まるで地獄である。
これは、昭和20年8月13日午前11時少し過ぎた頃と思われる。俺は、こんな状況を、しっかりと見届けていた。
そのうち、敵戦車群は全砲火を大隊本部後ろの山の上に集中した。
何百発もの砲弾が集中したので、短時間で山の形が変わってしまった。 その時は不思議に思ったが、後に、ここに味方の砲兵の観測班が出ていたらしいが、短時間で全員戦死した。
たった1門あった味方の15榴は観測班をつぶされ目くらとなってしまった。4km後方にあった砲兵陣地も敵の自走砲の集中砲火をあび、破壊されてしまった。
//////////////////////////以上、抜粋終わり -
11:38:46
代馬溝方向
写真に写っている
白く蛇行する道が気になって仕方がない -
11:45:30
磨刀石駅から牡丹江へと続く道
そこに手に取るように見える
この道こそが・・・。
肉攻攻撃が行われたであろう道だ。 -
11:53:52
開いていた門が閉まっていた
この写真では良く分からないが、この道に門がある
やっぱしここは農家の敷地内だったようだ
と言っても行き来は自由なのだろう
この家の主人らしき人が私の方を見ていたが
何も言われず -
11:59:08
王○英と子供達が私を待っていてくれた
しばし休憩しお茶を飲ませてもらう
食事も勧めてくれたが
運転手と一緒に食べるからと断った
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■頂上から降りる
山を降りながらこの辺が中隊本部だったのだろうか?と推測しながら降りて来た。登る時に開いていた農家の門が閉まっており、一瞬ヒヤッとしたが門の横が通れるので一安心、見ればこの家の主のような人が少し離れたところで怪訝そうに私を見ていたが何も言われなかった。
そして、門の外に出て少し行くと、さっき道を教えてくれた女性が家の前で私を待っていてくれた。中に入って食事をしろと言ってくれる。私は「タクシーの運転手を駅前で待たせており一緒に食べるので結構です」と言うと、「お茶でも飲んで下さい」と言ってくれるので中にお邪魔した。
その家は彼女のお姉さんの家で、彼女(王明英)は磨刀石の小学校の先生だった。自分は少し離れた所から通っているので学校がある時はいつも姉の家で昼食を食べ昼休みを過ごしている。
彼女のお姉さんも磨刀石の中学校の先生とのこと。お姉さんは居なかった。子供は娘が一人、今、牡丹江大学の学生だそうだ。そして主人も教師。
中国の昼休みは長いので家が近ければ戻って昼食をしている。ここにいる大勢の子供は教え子で昼休みを共に過ごしているとのこと。
地図には満人部落とあったので彼女も満洲族のなのかと思って聞いたら漢族だった。聞けば、今ではこの辺りも漢族が多数のようだ。そしてお茶を飲みながら彼女は写真を見せてくれた。日本人の一人の若い女性がやはりこの家の前で写した写真だった。
日本人が時たまここを訪れると言っていた。ここにも何の慰霊碑もない。知らないが遺骨もそのまま放置されているのかも知れない。この地を日本人の誰もが知る場所になり、その戦いの事実を誰もが知る時にこそ日本はまともな国になっているのだと思う。
お茶を二杯よばれ、その家を去った。そして、線路の北側沿いに東へと(代馬溝方向)と歩いた。 -
猪股大隊戦闘概要図
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