2009/06/11 - 2010/10/30
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横浜臨海公園さん
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深谷市は埼玉県最北西部に位置し市中心部を中仙道が縦貫し坂東太郎の異名を有する利根川と荒川に挟まれた典型的北関東型地方都市です。
深谷は雅正2年(1456年)に上杉房親が築城以来、江戸中期に至るまで城下町を形成し、江戸中期以降幕末に至るまで幕府直轄地の天領として代官所が設置され幕府から任命された代官が赴任した所であり宿場町を形成していた。
明治16年(1883年)10月21日に現在のJR高崎線に相当する路線たる当時の日本鐡道線が熊谷から本庄まで延伸された際に同時に深谷駅が開設されたが、当時上野-本庄間に赤羽駅、及び、大宮駅は未だ存在せず、即ち、当時の深谷の地位の高さが窺い知れる。
明治政府は富國強兵政策と並行し内閣制度導入に拠り明治19年(1886年)に東京霞ヶ関から日比谷地区一帯に対し官庁集中建設計画が立案され井上馨(天保6年(1836年)1月16日〜大正4年(1915年)9月1日)が総裁に任命され『臨時建設局』を設置して大規模な西欧風近代建築物の構築に取り掛ります。
結局予算面で計画は大幅に縮小され日比谷は公園化されたが、霞ヶ関一帯の省庁庁舎建設が決定し、此の為に此れら大型建築物建設に必要な建築用煉瓦を大量に要する事から時間と予算面で輸入は得策に非ずとされ国産化する必要に迫られる。
関東地方各地を調査した結果、煉瓦製造に適した原料の良質粘土が深谷上敷免地域付近に大量に存在する事が判明した。
かくて、深谷上敷免地区は建築用煉瓦製造最適地として政府高官初め多くの人々に認識され、明治20年(1887年)10月に『日本煉瓦製造株式會社』が設立され明治政府をしてドイツより煉瓦製造技師ナッセンテス・ツェーゼ(Nascentes Ziese)が招聘された。
他方、上敷免には辰野金吾博士(嘉永7年(1854年)10月3日〜大正8年(1919年)3月25日)が設計し清水組が施工した工場が竣工し、明治21年(1888年)9月には工場が完全稼動状態になり建築用煉瓦が大量生産されるシステムラインが成立し同年10月4日には臨時建設局から建設用煉瓦22万個を受注する。
然し、日本煉瓦製造創業当時は完成品を艀に積み利根川経由で輸送していたが、いかせん川舟構造では輸送力に限界が在り、明治26年(1893年)5月には煉瓦製造自体を停止せざるを得ない事態に追い込まれる。
原因は輸送力を遥かに超越した生産力に輸送がまかなえず煉瓦の保管箇所払拭で会社は最早一刻を争う緊急事態と認識され急ぎ打開策を講じる必要に迫られます。
日清戦争最中の明治28年(1895年)5月に深谷駅から工場所在地たる上敷免まで4.2キロ間に我が国初の民営貨物専用鉄道『日本煉瓦製造専用線』が建設完成し此の路線を利用する事で工場内から完成品を貨車に搭載し深谷駅経由で全国各地への販路展開が拡大した。
開通当初は沿線住民から蒸気機関車から排出される煙火が原因で沿線火災への懸念から反対運動が勃発し已む無く牛馬で貨車を牽引させ運行していましたが約3ヵ月後に地元住民の了解を取り付け得た事から蒸気機関車を投入する事で発送力の激増に堪え可能になった。
因みに、件の貨物専用線開業当時は、我が国に於いて第1次鉄道開業ブーム途上の時期に一致し此れに因み作曲されたのが有名な『鉄道唱歌』ですが、鉄道唱歌は全国各地の土地土地の名所旧蹟をモティーフに唄われたものでしたが、日本煉瓦製造専用線は旅客輸送を一切しない純然たる貨物専用線だったにも拘らず、唯一、鉄道唱歌に歌詞が採り込まれた存在だった事からも上敷免に於ける煉瓦輸送への期待が高かったかを知る尺度になり得る。
尚、日本煉瓦製造専用線は昭和50年(1975年)に使命を終え廃止されましたが、廃止後はレールは撤去されたものの路盤跡が整備され煉瓦色に因み『あかね通り』と呼称され福川橋梁と共にプロムナードとして地元の方々に親しまれてます。
建築用煉瓦は原則として建築の本体、基礎、支柱部分等の建材として使用される普通煉瓦と構造物の装飾を彩る表積煉瓦とに分類される。
此の為に普通煉瓦は通常表面に出る機会が少なく、例えば東京駅丸ノ内本屋に日本煉瓦製造品は多数使用されているにも拘らず使用されているのが基本部分で表面部分は他社表積煉瓦を使用している為に一般に目に触れる機会は僅少です。
即ち、表積煉瓦は構造物の装飾も兼ねている為に煉瓦表面に凹凸が少なく光沢を帯びており材質も軟性なのに対し、普通煉瓦は表面がザラザラ状で見た目にも美しいとは言いかねる物で、特に日本煉瓦製造の物は全部の製造工程が機械化されてた為に他社製品とは煉瓦断面が歴然と違い、煉瓦イコール美と言ふ訳では無かった。
鉄骨鉄筋コンクリート建築確立以前では大型建造物を構築するのであれば煉瓦建築に頼る他無く、日本煉瓦製造の煉瓦を使用した当時の代表的建造物では、
官公庁
海軍省本館(明治27年、1894年)設計 コンドル
司法省本館(明治28年、1895年)設計 ベックマン、エンデ
日本銀行本店本館(明治29年、1896年)設計 辰野金吾
東京刑事地方裁判所本館(明治29年、1896年)設計 ハルトウンク
赤坂離宮(明治42年、1909年)設計 片山東熊
警視庁本庁舎[2代目](明治44年、1911年)設計 辰野金吾
他多数
民間
三菱1号館(明治27年〜、1894年〜)設計 コンドル
東京商工会議所(明治32年、1899年)設計 妻木頼来
帝国劇場(明治44年、1911年)設計 横河民輔
慶應義塾図書館旧館(明治45年、1912年)設計 曽禰達蔵
開港記念横浜会館(大正6年、1917年)設計 山田七五郎
他多数
鐵道省
東京駅、萬世橋駅、新橋駅[2代目]、横浜駅[2代目]、飯田橋-御茶ノ水-萬世橋-神田-東京-新橋煉瓦高架橋群、碓氷峠煉瓦橋梁隧道群、大井工場ボイラー館
他多数
煉瓦建築に貢献した企業として現在の清水建設の存在を忘れる事は出来ない。
清水建設は明治期は清水組と称し社員20数名程度の弱小零細企業の1社に過ぎなかったが、煉瓦建築に於いて独自に研鑽を積重ね、特に明治期から大正期にかけて我が国西欧風近代建築の第一人者たる辰野金吾博士の信頼とバックアップを得て清水組は煉瓦建築に於ける名門企業として急成長を遂げた。
地元深谷出身の代表的人物として明治期から昭和初期にかけて我が国財界に於いて活躍した渋澤栄一翁(天保11年(1840年)3月16日〜昭和6年(1931年)11月11日)の存在も忘れ得られません。
渋澤翁は幕末に江戸に出て徳川慶喜公(天保8年(1837年)10月28日〜大正2年(1913年)11月22日)に見出され、明治維新以降は明治新政府発足当初の大蔵省に一時籍を置いた以外、終生一貫して民間在野に身を置き、第一國立銀行(現 みずほ銀行)、日本郵船、王子製紙、東京証券取引所等の創設者として我が国財界の重鎮の1人と現在でも認識されます。
渋澤翁は日本煉瓦製造創立当時の発起人として名を連ね初代会長職として同社の発展に寄与する。
元来コンクリート材は煉瓦建築に於ける継目たる目地の役割しか無い微々たる存在だったが、然し、日本煉瓦製造の煉瓦使用量と共に目地使用量も増加の一途をたどりコンクリート部門は元来子会社だった存在を大正7年(1918年)に日本煉瓦コンクリート株式会社として独立させ、更に大正12年(1923年)1月に社名を『秩父セメント』に変更する。
要するに我が国有数の大手コンクリート会社 秩父セメント も元をただせば黎明期は煉瓦の目地を取扱う企業が発展した存在。
明治末期に於ける鉄骨鉄筋コンクリート建築の出現は煉瓦建築の新たなる脅威となる存在となる。
特に当時の我が国政府内に於いて一番の黒字官庁たる鐵道省はコンクリート建築に対し煉瓦積みに対する時間短縮と工程短縮は切実たる問題として積極的取組姿勢を見せた。
大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で煉瓦建築の脆弱性が浮彫りにされまた。
現在では当時の建築方法の問題が伏線が存在したものと学術的に解明されているが当時はその様な理解など無く、ただ闇雲に煉瓦建築は震災に脆弱との判断が下された。
横浜では現在の中区吉田町付近に存在した横濱刑務所の煉瓦高塀が根元から折損倒壊し、偶然走行中の市電側面を直撃損壊させ通行人の頭上から襲うなどの被害で多数の圧死者が生じる惨事が発生する。
関東大震災以降、煉瓦建築に対する信頼が一気に低下し反比例して鉄骨鉄筋コンクリート建築が大量導入拡大化され、結果的に新規の煉瓦建築は急激に数を低下させる。
昭和20年(1945年)8月14日深更、東京皇居内通称『御文庫』内部に於いて、鈴木内閣で閣内に於ける大臣間の終戦継戦かの意見の一致を見る事が適わず、昭和天皇は鈴木貫太郎(慶応3年(1868年)1月18日〜昭和23年(1948年)4月17日)内閣総理大臣の進言に依り大東亜戦争終結の御為に畏れ多くも御聖断あらせられ、国民全員に対し戦争終結を周知させるべく玉音放送の為の録音が終了していた頃、深谷の街は隣接地たる熊谷、本庄、高崎と共に米空軍の空襲を受け、特に、熊谷、本庄は街全体が全滅に均しい被害を受けたにも拘らず、深谷、高崎は軽微な被害状態で終戦を迎える。
下って、平成18年(2006年)6月29日、日本煉瓦製造は株主総会で企業として将来に於ける建築用煉瓦需要は終了し最早期待無きものとして自主廃業し会社は清算解消する事に決定し茲に日本煉瓦製造は100年を超える歴史に幕を閉じる。
現在、深谷市上敷免地区に残存する煉瓦製造に関係した諸設備多数が国指定産業遺産に登録指定され、且つ、一連の施設は平成19年(2007年)に日本煉瓦製造から深谷市に所有権移転した為に今後の保存体制が急がれ、嘗ての煉瓦製造産業の栄華衰退を現代に伝える。
表紙の写真は上敷面 旧日本煉瓦製造株式会社ホフマン式輪窯第6号窯煙通路内部
深谷市教育委員会生涯学習課
?: 048−572−9581
www.syogai@city.fukaya.saitama.jp
http://www.dnet.jp/nikkei/kindai/23/
http://www.fukaya-ta.com/
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
高崎線深谷駅
第2番ホーム
画面左側に映っているのは京浜東北線で使用され地方向改造待ちの209系電車。 -
高崎線深谷駅
第2番ホーム上屋支柱古軌条
UNION D. 1886 N.T.K.
(独ウニオン社ドルトムント工場1886年製造 日本鐡道會社発注品)
深谷駅で発見した歴史的古軌条は此れ1本のみ。 -
高崎線深谷駅
前面全景
深谷駅は明治16年(1883年)10月21日、日本鐡道が熊谷-本庄駅間開通と同時に開業。
深谷駅開業当初、上野-本庄駅間に赤羽駅、及び、大宮駅は未開業な状態であり旧武蔵國に於ける深谷の街の地位の高さが窺い知れる。
現駅舎は開業以来3代目で嘗て深谷が煉瓦生産地たるを想起させる東京駅丸ノ内本屋をモティーフに外部に装飾煉瓦を使用した鉄骨鉄筋コンクリート造で平成8年(1996年)8月竣工。
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1350 -
深谷駅前
嘗て貨物線群が存在した所。
現在は国鉄清算事業団を通じ民間に払下げられホテルやマンション、駐輪場に変化。 -
深谷駅旧貨物駅構内跡
日本通運支店が残り以前は貨物取扱が存在した事が証明。
日本通運深谷支店
深谷市西島町2−1−17
高崎線深谷駅北口 徒歩1分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
深谷貨物取扱所跡 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
和舟に拠る煉瓦輸送打開の為に明治28年(1895年)5月に深谷駅-上敷免間が開通させた日本煉瓦製造貨物専用鉄道。
地元住民から蒸気機関車の煙害に拠る被害を懸念する声が大きかった事から当初は貨車を牛馬や果ては蓄犬等に牽引させていたが、約3ヵ月後に地元の理解が得られた事から蒸気機関車牽引化され輸送力が飛躍的に増大した。
約80年使用され昭和50年(1975年)廃止。
専用線廃止後は軌条路盤撤去の上、路盤を整備し歩行者自転車専用プロムナードして開放され、煉瓦色に因み あかね通り と命名され地元民の生活道路に変貌を遂げる。
深谷市西島町
高崎線深谷駅北口 徒歩2分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
唐澤川橋梁(からさわがわ きょうりょう)
歴史的構造物に現代風煉瓦を組合せた物。
装飾欄干は『あかね通り』改築時の取付。
高崎線深谷駅北口 徒歩3分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
唐澤川橋梁
下部のプレートガーターと煉瓦製橋台が開通当時の原型。
煉瓦は勿論、日本煉瓦製造。
高崎線深谷駅北口 徒歩3分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
唐澤川橋梁
下流側から上流側を見る。
背後は高崎線電車。
高崎線深谷駅北口 徒歩3分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
高崎線深谷駅北口 徒歩10分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
高崎線深谷駅北口 徒歩17分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
青淵歩道橋(せいえん ほどうきょう)
国道17号線は自動車通行量が多い為に歩道橋で乗越。
青淵 とは 澁澤栄一翁の雅号
高崎線深谷駅北口 徒歩25分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
沿道中央に桜が植樹され30年以上経過し大木化
高崎線深谷駅北口 徒歩35分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
福川橋梁(ふくかわ きょうりょう)
架替後の あかね通り 新橋梁
PCコンクリート製
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁
架替前の旧橋梁
政府御雇技師 チャールズ・A・W・ポーナル(Charles A.W.Pownall)設計 プレート・ガーター橋桁
現存物では我が国最古
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁
プレート・ガーター橋桁 拡大
ポーナル設計のガーター橋桁現用品は中央本線多摩川橋梁(明治19年、1889年)、武豊線石ヶ瀬橋梁(明治21年、1891年)が残存。
ポーナル設計の橋桁は明治期の中型蒸気機関車重量の通過では何等問題なかったが、大正中期に大型蒸気機関車が導入されると荷重負荷過剰問題を生じ、幹線では次第に交換されローカル線に転用される。
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁
ベルギー製古軌条
SJC-92-K.T.K.-1894
(白ソーン・コンチソール社 1894年製造 甲武鐵道會社発注品)
一見すると深谷と脈絡的に何等関連性が存在しない甲武鐵道會社発注品が存在する事に奇異な感を懐ちがちだが、当時の甲武鐵道は澁澤栄一翁が役員がしており、故に、余剰品を日本煉瓦製造に廻したものと推定。
鉄道創業期から1896年まで、当時の鉄道用軌条は米国は未だ参入せず英独独占状態で、且つ、ベルギーから軌条が纏って輸入開始は明治36年(1903年)からで、製造会社も、OUGREE(ウグレー)、COCKERILL(コッケルリ)、PROVIDENCE(プロヴィデンス)、ANGLEUR(アングリュー)4社に限定され、コンチソール社は含まれておらず、此の時期、何故ベルギーから独自の企業の軌条が輸入されたか謎で今後の研究課題である。
尚、コンチソール社製軌条を錬鉄製との記述を為す文献を見た事が有るが、軌条に関する限り、1870年代半ばに錬鉄製品製造は終了し全部鋼鉄製に移行時期である事から該製品が錬鉄製品である可能性は限りなく低いと観るべきである。
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁避溢橋
避溢橋(ひいつきょう)とは、通常は橋梁下に流れが無いが氾濫溢水時に水流を留めず流す水害防止構造橋。
但し、原型は橋桁のみ
煉瓦は復元品
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁避溢橋
ボックス・ガーター橋桁
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁
逓信省鐵道作業局橋梁設計技師 古川精一(明治元年(1868年)〜昭和14年(1939年)が担当。
古川は福川橋梁以外では、東海道本線大井川橋梁、天竜川橋梁、山陰本線餘部橋梁、信越本線碓井第3橋梁、等々の設計を施行。
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
福川橋梁
全景
高崎線深谷駅北口 徒歩45分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
備前渠橋梁(びぜんきょ きょうりょう)
専用線開通当時の姿を原型で残す。
高崎線深谷駅北口 徒歩60分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
備前渠橋梁
備前渠は慶長9年(1604年)に幕府関東郡代備前守に依り開通した農業用水。
高崎線深谷駅北口 徒歩60分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
備前渠橋梁
橋台煉瓦は日本煉瓦製造品で英国積
高崎線深谷駅北口 徒歩60分 -
旧日本煉瓦製造貨物専用線跡
あかね遊歩道
高崎線深谷駅北口 徒歩95分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧変電室正門
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧変電室
蒸気機関駆動から電動駆動に変更すべく明治39年(1906年)に深谷市内で最初に電線を吊張した際に建築。
煉瓦造平屋建
内壁は漆喰塗
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧変電室
国重要文化財指定
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧事務所
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧事務所
ドイツから来日した煉瓦技師、ナッセンテス・ツェーゼ(Nascentes Ziese)の為の住宅兼事業所として明治21年(1888年)に建築。
木造平屋建
翌年帰国後は日本煉瓦製造事務所として活用。
現在は煉瓦歴史資料館。
深谷市上敷免28−10
?: 048−572−9581
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧事務所
国重要文化財指定
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧事務所
資料展示室
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧事務所
資料展示室
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
旧事務所
ホール兼会議室
深谷市上敷免28−10
高崎線深谷駅北口 徒歩100分 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯大煙突 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯
入口部 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯
右部煙通路
国重要文化財指定 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯
左部煙通路 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯
内部部屋入口 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯
煙通路側壁 -
日本煉瓦製造上敷免工場
ホフマン輪窯第6号窯
煉瓦積構造は 捩りまんぼ(ねじりまんぼ)
重量構造下で利用された。 -
日花園(にっかえん)
花草卸売業
深谷市本住町1−7
?: 048−571−3840
水曜定休日
高崎線深谷駅北口 徒歩6分 -
日花園
蔵を改造して店舗として使用。
今年に入り移転して現在は無人。 -
塚本商店(つかもと しょうてん)
梁は秩父山から切出した石に日本煉瓦製造の煉瓦で積上げうだつを形成。
大正元年(1912年)建築
深谷市本住町1−5
?: 048−571−0630
高崎線深谷駅北口 徒歩6分 -
塚本商店
典型的英国積建築 -
塚本商店
塚本商店は日本煉瓦製造に必要な石炭を一手に納入していた業者。 -
常盤園茶舗(ときわえんちゃほ)
明治初期の建築
土蔵の周囲に煉瓦を積上げた物。
先般の近隣火災でビクともせず頑丈さを実証。
深谷市仲町1−15
?: 048−571−6001
9:00〜18:00
水曜定休日
高崎線深谷駅北口 徒歩6分 -
常盤園茶舗
煉瓦積形状
下部は英国積
上部は独逸積
同一建築物で中途から煉瓦積が変更されるのは珍しい存在。 -
大慶堂薬局仲町店(だいけいやっきょく なかまちてん)
平成5年(1993年)廃業
現在は無人
高崎線深谷駅北口 徒歩5分 -
仲町會館(なかまちかいかん)
全景
大正期の木造建築
町内会館ながら建築当時の深谷仲町の寄合集の為に建築された木造家屋で当時の仲町寄合集の財力を物語る。
区画整理事業で解体される計画だったが移設保存の方向で検討中。
深谷市仲町1−5−10
高崎線深谷駅北口 徒歩5分 -
仲町會館
正面玄関 -
仲町會館
裏側 -
藤橋藤三郎商店(ふじはし とうざぶろう しょうてん)
煉瓦製煙突
明治末期から大正初期に建築された煉瓦蔵と煙突。
西埼玉地震で被災せず。
但し、区画整理事業の為に周囲は解体聖地中。
煉瓦煙突は先端部分形状が変更予定。
深谷市仲町4−10
?: 048−571−0136
8:00〜18:30
日曜定休日
高崎線深谷駅北口 徒歩4分 -
藤橋藤三郎商店
-
坂本邸(さかもとてい)
幕藩時代深谷宿で最大級と位置づけられる典型的な町屋建築
蔵も保守が行届く。
深谷祭りでは代々坂本家に伝承される山車のイミテーションが装飾され格子越しに見学可能。
深谷市田所町 -
坂本邸
深谷市田所町 -
滝澤酒造(たきざわ しゅぞう)
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
煉瓦煙突
昭和5年(1930年)建築
翌年9月21日発生の西埼玉地震(にしさいたまじしん)で先端部が崩壊損壊
欠損部復元と共に修復の際に煙突周囲を鉄枠で保護
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
煉瓦煙突
左下に昭和20年(1945年)8月15日の深谷空襲の際に敵機動部隊艦上機から受けた機銃掃射痕が残る。
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
表彰状
大鳥圭介(おおとり けいすけ)や閑院宮戴仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の名がみえる。
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
滝澤酒造
載仁親王とは閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王(慶応元年(1865年)11月10日〜昭和20年(1945年)5月20日)で、陸軍大将を経て元帥を賜る。
大鳥圭介(天保4年(1833年)4月14日〜明治44年(1911年)6月15日)は元幕臣で箱館五稜郭の戦の後、新政府に投獄されるが赦免後、新政府に仕え主に外交関係で活躍。
深谷市田所町9−20
?: 048−571−0267
高崎線深谷駅北口 徒歩12分 -
-
糸屋製菓店(いとや せいかてん)
深谷市 -
旧田中籐左衛門商店(たなかとざえもん しょうてん)
深谷市
?: 048−571−2933
火曜定休日
高崎線深谷駅北口 徒歩10分 -
旧田中籐左衛門商店
江戸中期の正徳6年(1716年)に『十一屋』として創業。
平成16年(2004年)廃業。 -
旧田中籐左衛門商店
煉瓦煙突 -
福島邸(ふくしまてい)
コンニャク原料倉庫兼製造工場
煉瓦建築は大正10年(1921年)頃と推定
窓辺がアーチ状
高崎線深谷駅北口 徒歩5分 -
福島邸
工場側面 -
福島邸
-
小林商店(こばやし しょうてん)
木造3階建洋館
昭和2年(1927年)建築 -
小林商店
大正元年(1912年)建築の煉瓦建造物 -
深谷れんがホール(ふかや れんがほーる)
昭和8年(1933年)に深谷信用組合倉庫を解体した際に発生した古煉瓦を再用し建築。
1階が煉瓦造
2、3階は木造土壁倉庫で滑車が設置されている。
1階は改造されイヴェントや会議等々で利用可能。
深谷にぎわい工房
?: 048−571−2933
高崎線深谷駅北口 徒歩7分
www.npo-fnk.org -
釜屋金物店(かまや かなものてん)
道路面は増築床され原型を損ねているが明治15年(1882年)建築。
元禄6年(1693年)創業。
深谷市仲町4−7
?: 048−571−0107
水曜定休
高崎線深谷駅北口 徒歩6分 -
青淵 渋沢栄一翁 銅像
高崎線深谷駅北口駅前広場
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この旅行記へのコメント (9)
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- ムロろ~んさん 2012/01/24 10:41:39
- フォロワーありがとうございます。
- 横浜臨海公園様
ムロろ〜んです。
この度はフォロワーをして下さり、ありがとうございます。
埼玉を取り上げておられたので、興味を持って読みました。深谷の煉瓦の建物を中心に見ました。いつまでも残っていて欲しいと思うのですが、維持管理が難しいと思われます。
煉瓦工場の中も見れるのですね。
知りませんでした。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/01/24 22:17:16
- 拝復
- ムロむ〜んさま、こんばんは。
早速フォローを承認して下さりまして誠に有難うございました。
深谷煉瓦工場は現在は深谷市に無償譲渡され、深谷市教育委員会が管理しております。
ただ、該教育委員会が作成したパンフレットなどを見ると誤解釈が多く、必ずしも参考になるものではありません。
因みに、一般公開は原則として4月、及び、10月最終土日曜日に開催されますが、概ね1000名前後来場するとかで行列が絶えないようです。
小生が見学した時は折からの大雨で参加者が午前中は計15名しかおらず、ゆっくり鑑賞でき良かったです。
小生こそ、今後とも何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- わんぱく大将さん 2011/09/25 07:45:37
- 煉瓦積み形状
- 横浜臨海公園さん
煉瓦積み形状の違い、初めて知りました。 有難うございます。
大将
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/09/28 16:27:28
- 拝復
- 大将さま、こんにちは。
メッセージを賜りながら返事をなかなか差し上げられず本当に申し訳ございませんでした。
煉瓦の積み方には、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスなど独自の方法がございます。
我が国でも、当初は見た目の良さからフランス積が主流を占めておりましたが、フランス積の欠陥は地震が存在しないフランス故に地振動に弱く、殊に、当地横浜では関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)の初動で殆ど倒壊に瀕し、関東でフランス積が見られるのは北関東たる群馬県や栃木県の煉瓦建築に残存するだけに過ぎません。
此れに対し、イギリス、及び、ドイツ積は見た目が良くないにも拘らず、耐震性があった為に、震災での倒壊例は極めて少なく、更に、小生の広島電鉄の被爆施設の旅行記にも投稿しておりますが、煉瓦建の広島電鉄本社変電所は爆心地から1200メートルだったにも拘らず、爆風で側面にクラッチが入った程度で、宇品の陸軍糧秣煉瓦施設と共に現存する数少ない被爆建物として貴重な存在です。
横浜臨海公園
-
- 義臣さん 2010/10/31 10:37:18
- 詳細に
- 詳細 丁寧 それでいて素人にもわかる文章
拝見させて頂き、、感激
私の住む 東京都北区には 渋沢氏の記念館 邸宅も一部も残り
深谷の地にいつか訪れたいとは思うのですが
いまだにその機会も無く、、
来春の一般公開には是非 伺いたく思います
義臣
- 横浜臨海公園さん からの返信 2010/10/31 10:56:20
- 拝復
- 義臣さま、こんにちは。
過分なるお褒めのお言葉を賜りまして恐縮至極でございます。
仰せの通り、同じ埼玉県内川越市と異なり、深谷は観光地化されていない為に、平日などはゆっくり堪能できる街並みです。
是非ともお越しになられると良いと思われます。
横浜臨海公園
-
- 一歩人さん 2009/05/19 17:19:35
- 明治煉瓦政策の栄枯盛衰ですよね
- 横浜臨海公園さんへ
何かを語り継ごうとしているようでした。
東京駅から有楽町までの高架橋(浜松町まで?)、
旧万世駅とか、今でも煉瓦を見ることが
できますよね。
関東大震災でそれまでの不燃都市の代名詞の評価が
一変しましたよね。
外国の地形・地質とは大きく異なることが
それまでわからなかったのですよね。
江戸時代、安政の大地震があったの
ですが。
一歩人でした。
失礼しま〜す。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2009/05/21 18:59:31
- 拝復 明治煉瓦政策の栄枯盛衰です
- 一歩人さま、こんばんは。
小生が日本煉瓦製造の旅行記を作成しようとした背景には、他のトラベラーさま方々は発表された旅行記で、例えば横浜の煉瓦建築を取り上げても、それは外見外郭だけの事で何か一つ掘り下げた内容のものが皆無だったのが発端です。
時間の余裕が出来れば写真にコメントをつけて漸次発表していきたいと思っておりますので、もう少しのご猶予をお願い申します。
横浜臨海公園
- 一歩人さん からの返信 2009/05/22 09:06:33
- RE: 拝復 明治煉瓦政策の栄枯盛衰です
- > 一歩人さま、こんばんは。
>
>
> 小生が日本煉瓦製造の旅行記を作成しようとした背景には、他のトラベラーさま方々は発表された旅行記で、例えば横浜の煉瓦建築を取り上げても、それは外見外郭だけの事で何か一つ掘り下げた内容のものが皆無だったのが発端です。
> 時間の余裕が出来れば写真にコメントをつけて漸次発表していきたいと思っておりますので、もう少しのご猶予をお願い申します。
>
>
>
> 横浜臨海公園
横浜臨海公園さんへ
思いは伝わっていると思います。
日本煉瓦製造だったんですか。
楽しみにしています。
ありがとうございました。
失礼しま〜す。
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