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横浜線は一昨年開業100周年を迎えた。<br /><br /><br />明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出品と言えば生糸だった。<br />此の当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されていたが、国内外でも高評価で1級品認定されていたのは長野県産品、及び、群馬県産品だった。<br /><br />件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出された。<br />群馬県産品は群馬から横浜までの輸送経路が、日本鐵道(高崎→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と単純で運賃も廉価で済んだのに対し、長野県産品は、逓信省鐵道作業局(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と数社を経由する事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、不利にならざるを得ず、明治30年代後半ともなると販路の関係上、その差が歴然として深刻な状況が招来した。<br /><br />此の為に八王子から横濱に向け鉄道建設を願う声は日に日に高まったもが、明治政府は横濱線が政府主要建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とした為に財政的余裕が無く、故に、沿線民間出資に拠り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に横濱鐵道會社が設立され本社は横濱市青木橋に設置し、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注された。<br /><br />当時は現在の如く簡単に入手すべき可能な時代などでは無く、船便での発注手配であり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になる。<br /><br /><br />明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線開通した。<br />然し、横濱鐵道は開業の時点で企業設立時の目論見とは大きく異なる事態が発生していた。<br /><br />即ち、中央線沿線発横浜着の貨物激増に拠り、明治38年(1905年)2月15日から、甲府-横浜間に、甲武鐵道、日本鐵道を経由した直通貨物列車を運行開始した。<br /><br />更に、政府は日露戦争後に於ける全国に存在する私鉄の国有化を目差し、明治39年(1906年)3月31日に『鐵道国有法』(法律第17号號)を制定し該法律に基づき、甲武鐵道が同年10月1日、日本鐵道が同年11月1日に政府に拠り買収された為に、バラバラだった運賃計算が一貫通し計算が可能となり利用者からは歓迎を受けたが、反面、横濱港への短路とは言え高額な加算運賃を支払う私鉄経由たる横濱鐵道利用のメリットが無くなった事で当初の目論んだ数値より遙かに低い輸送量しか得られなかったからである。<br /><br />当時は横濱鐵道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと推定される。<br /><br /><br />横濱鐵道開業の頃より国内知識層間に軌間拡大論が展開される。<br /><br />即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人設計担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無な上に内容に就いて理解も吟味をもし得ず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となる。<br /><br />然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内の特に軍部を中心に台頭する。<br />政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐵道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始する。<br />広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職を余儀なくされ改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫する。<br /><br />政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対したが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後、此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果を招来させた。<br />即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(おがわ へいきち)(明治3年(1870年)1月2日~昭和17年(1942年)2月5日)は第26代内閣総理大臣 田中義一(たなか ぎいち)(元治元年(1864年)7月25日~昭和4年(1929年)9月29日)(昭和2年(1927年)4月20日~昭和4年(1929年)7月12日在任)の鐵道大臣在任中、私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ私鉄疑獄事件を起し、小川は鐵道大臣経験者と言ふ親補職元親任官にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され、起訴された為に裁判に付され大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処さ、位階剥奪されるが如く、此の手の政友会代議士は国益より自己利権に走狗する行為が露骨で我田引鉄を得意とした。<br /><br />政友会の後塵直系組織たる現在野党に大転落した○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。<br /><br />結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線東京-新大阪間開業まで留保される。<br /><br /><br />標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる鐵道院八濱線として新たなる出発をする。<br /><br />然し、国立公文書館に保存されている当時の公文書本文を精査すると政府の本心が垣間見て取れる。<br /><br />因みに本文中の新宿線とは現在の山手線である。<br /><br /><br />横濱鐵道借受ノ件<br /><br />別紙内閣総理大事請議横濱鐵道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム<br /><br /><br />指令書<br /><br />横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)<br /><br />運第壱百弐拾壱号<br /><br />横濱鐵道借受ノ件<br /><br />横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央ニ線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ<br />其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス<br /><br />一)該鐵道ノ運輸営業ニ要スル各種建造物車輛及附属品ヲ伴セテ借受クルコト<br />二)天災事変ニ起因シ損害ヲ来シタル場合ノ各種建造物及車輛等ノ修理保存ハ一切政府ノ負担トスルコト<br />三)借用料ハ該鐵道ノ営業成績ト該鐵道ヲ政府ニテ管理スル為メ官設鐵道ノ受クヘキ利益トヲ参酌シ其金額ヲ定ムルコト<br />四)該鐵道ノ借受期限ハ壱ケ年トシ政府ノ都合ニ依リ同一ノ條件ヲ以テ通計弐拾箇年ニ達スル迄壱ケ年毎ニ契約ヲ更新スルヲ得ルコト<br />但シ借用料ハ契約更新ノ都度之ヲ協定スルコト<br />五)臨港延長線及横濱港北防波堤ニ沿ヒ港内ニ面スル埋立工事ハ政府ノ費用ヲ以テ施行スルコト<br />六)前號ニ依テ政府ノ投シタル費用ハ鐵道返還ノ場合ニ於テ現実ニ存スル増加価格ヲ會社ハ政府ニ弁償スルコト但シ海面埋立ハ返還セサルコト<br /><br />右閣議ヲ請フ<br /><br />明治四十三年一月十八日<br /><br />内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎<br /><br /><br />横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿<br /><br />内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎 殿<br /><br /><br />当時の山手線は現在の如く複々線で客貨分離がさ成されておらず、複線で電車を頻発運転させながら貨物列車を割込運転させる等、綱渡り的運転を強いられ、既に運転上で列車遅延は常態化し飽和状態だった。<br />また、政府としても横浜北港埋立構築は日露戦争後に於ける対外国策上必要不可欠要件であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった。<br /><br />即ち、借与中に於ける民間所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させた。<br /><br />後年、昭和初期に鐵道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鐵道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額とされ、富士身延鐵道を政府於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして、前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鐵道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化する。<br />例外的に借上げ形態を採用したのは京成電気鐵道上野公園(現 京成上野)-日暮里間で、大東亜戦争中に運輸通信省本省の地下疎開基地先として選定され、強制借上げ後は特殊標準機を狭軌に改軌し、運用中止になり休車中の1、2等寝台車や1等展望車を搬入し防空壕代りに使用された。<br /><br />殊に、日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化する。<br />或る日、政府から会社に突然、代表者を鐵道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化する。<br />買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止だったが、然も、戦後になり我が国を見舞った超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然になり、故に、各方面から買収資産価値変換と無償払下運動が勃興するが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は政府や鐵道省、運輸通信省の言いなりになり組織をタダ取りされたと言ふ怨恨を残した。<br /><br /><br />東神奈川駅は鐵道院東海道本線と横濱鐵道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐵道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与された。<br /><br />横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東に所在の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名された。<br />然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し、神奈川-横濱駅間が180メートル弱しか離れていない為に、前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった。<br /><br /><br />鐵道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、及び、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化する事に決定し、大正11年(1922年)に工事着手する。<br />然し、工事途中にして関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になったが、電化に関する要員教育研修を兼ね、当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転を開始させた。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日11時57分頃 関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生した。<br />該地震で横濱線内に於ける被害では東海道線乗越橋破壊、相原隧道切通法面崩壊、及び、長津田-原町田間高ケ坂築堤破壊等々が発生し、特に、東海道本線上に2連架橋の乗越橋は、八王子方橋桁1連が東海道線上に落橋した。<br />駅舎関係では、小机駅、及び、原町田駅本屋が大破し、特に、原町田駅は大部分が湿地帯に停車場が設置された為に、駅構内施設が全滅被害が生じた。<br /><br />復旧工事は原町田-橋本間の如く震災当日に着手した所も存在したが、概して東海道本線開通が最優先された関係で完成は他線区に比較して遅さが目立つ。<br /><br />東神奈川-小机間 9月11日着手 9月28日完工<br />小机-原町田間 9月11日着工 9月22日完工<br />原町田-橋本間 9月1日着工 9月20日完工<br />橋本-八王子間 9月5日着工 9月20日完工<br /><br />該地震で被災した列車は、地震発生時に東神奈川-八王子間運転中の列車は、意外な事に、貨物列車1本だけだった。<br /><br />即ち、上り貨物第852列車は長津田-中山間走行中に該地震に遭遇し、該列車貨車6両が脱線被害が発生した。<br /><br />旅客列車は、東神奈川駅12時00分発八王子行客貨混合第907列車が始発駅発車直前だったが、若し、該混合列車が11時55分発だったら、震災発生時に東海道線乗越橋付近を走行して筈で、該橋梁が東海道本線上に落下被害が発生していた事から、該列車にも被害が及び、旅客に死傷者が発生していた可能性が高かったものと推定される。<br /><br />然るに、当時は横浜線支線だった海神奈川駅では、下り貨物第411列車が通過中に該地震に遭遇した。<br />59627号機に牽引された貨車44両中、数両が脱線転覆した。<br />然も、折しも、脱線転覆した貨車搭載物は火薬だった。<br /><br />該地震発生と同時に、現在の横浜駅西口付近に所在した、米スタンダード石油、及び、米ライシングサン石油の油槽タンクが破損し、油槽タンク内の石油が流出し、帷子川(かたびらがわ)に流れ出た石油に付近工場から出火した火が着火炎上し、帷子川両岸建造物を焼失させ流域を火の海にした。<br /><br />業火は横浜港に流れ込み、海神奈川駅方面に向かって来た事から、搭載貨物たる火薬取扱が急務となった。<br /><br />大正7年(1918年)7月26日夜半に発生した、下関駅構内関釜連絡船火薬大爆発事故に鑑み、鐵道省は陸海軍省、内務省とも協議の上、火薬取扱規則を制定し、火薬取扱は、駅長、若しくは、指定貨物掛立会に拠り、取扱時間も日の出から日没に限定された厳格な規則下で施行されていた。<br /><br />然し、該火薬誘爆の危機が迫って来た事から、該駅職員が規定外行動だったが、該搭載火薬を被災貨車から取出し、海中に投棄するの行動に出た。<br /><br />一連の爆発を回避させた行動は危機管理の観点から見ても妥当正当だった。<br /><br />貨車搭載火薬爆発未遂処理では、昭和20年(1945年)8月1日未明に東京都八王子市に対し、米空軍は全国最大規模の空襲を実行したが、該空襲開始直前に八王子駅構内に本土決戦用陸軍高性能火薬が貨車3両が留置されている事を知った当時の八王子停車場憲兵隊憲兵3名は、駅職員が深夜たる該時間帯を該規定をタテに他への移動を拒否したのに対し、憲兵3名が空襲で該火薬に誘爆すれば危険と判断し、上官の命令も待たず強権を以って構内に停車中の電車に連結させ隣駅豊田駅に退避を命令し、豊田駅到着直後に空襲が開始され、該憲兵3名は旅客職員を避難誘導したの後、3名共職場に踏み止まり殉職した一件があり、該駅構内に残置を継続していれば確実に焼夷弾が命中して誘爆が避けられず、八王子大空襲に於ける死者数が、陸軍憲兵や警察が住民達を的確に退避させた関係で少数だったが、若し、該火薬が爆発していれば、数千人規模の死者が発生してたものと思われ、該一件は八王子市史にすら記述が無いが、現在でも忘れてはならぬ史実である事を銘記すべきである。<br /><br /><br />東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化したが、横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鐵道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議される。<br />然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車国産化が成功したが、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造諸経費はC51型大型旅客用蒸気機関車2輌分に相当し、当時の震災復興中の鐵道省予算内に於ける車輌新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入し電気運転するなど論外的見解と言ふべきであり、現実にはに不可能だったに相違無い。<br /><br />然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線も電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より該電化区間に於いて電車運転が開始されたが、此れは横須賀線にモハ32型等々の専用車輌導入が一段落し、余剰車を転用の為に可能となった。<br />此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転される。<br />モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無装着の為に、モハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転された。<br />またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化後の毎時1本の運転形態は変化なく継続する。<br /><br />残りの非電化区間たる原町田-八王子駅間は昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始される。<br /><br /><br />昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鐵道(現小田急電鉄)、相模鐵道と共に戦時体制に組込れる。<br /><br />即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極める。<br />特に、陸軍士官学校卒業式に臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鐵道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築された。<br />他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が毎時1本の牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなった。<br /><br />原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、昭和15年(1940年)1月29日に大阪西成線安治川口駅ガソリンカー脱線転覆火災事故で死者189名負傷者69名を出す大惨事が教訓となり、横濱線全線が単線である事も輸送上の障害を来たしていた為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転される。<br />また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設される。<br />相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鐵道所属駅相模原駅は、鐵道省から開業を直前に駅名重複を避ける為に小田急相模原駅に改称を命令される。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された横浜大空襲に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他地域を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京濱線仲木戸駅付近で焼夷弾命中発火に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が此の火砕流に巻き込まれ、重軽傷者24名以外の7名は全員行方不明で遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされる。<br />東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過し運転される。<br />同年6月3日附を以って桜木町駅長飯田泰次郎氏が東神奈川駅長に赴任し混乱収拾をはかる。<br />横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され電車発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぐ。<br />横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎は全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地を日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設される。<br /><br /><br />大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れた感が強い。<br /><br /><br />横浜線は他線区に比較して複線化完成まで極めて遅動だった。<br />特に、小机以遠の工事が10年以上経過後の昭和50年代に再開したが、此れは複線化工事中当時に於ける日本国有鉄道の財政悪化が主原因である。<br />全線完成に至っては民営化後にずれ込む。<br /><br />菊名-新横浜間 昭和42年(1967年)10月22日<br />新横浜-小机間 昭和43年(1968年)2月4日 <br />大口-菊名間 3月12日<br />東神奈川-大口間 3月19日<br />小机-中山間 昭和53年(1978年)10月2日<br />中山-長津田間 昭和54年(1979年)4月1日<br />長津田-原町田(現 町田)間 7月15日<br />淵野辺-相原間 9月14日<br />町田-淵野辺間 昭和55年(1980年)9月27日<br />相原-八王子間 昭和63年(1988年)3月6日<br /><br /><br />現在の横浜線は純然たる通勤通学路線である。<br /><br />然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残存する。<br /><br />現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古軌条は横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てである。<br /><br /><br /><br />表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用された古軌条群と横浜線用205系電車。

横浜線歴史的痕跡探訪記 ~東神奈川-八王子間編 明治頌歌【建造中】~

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2009/08/05 - 2009/09/20

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

横浜線は一昨年開業100周年を迎えた。


明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出品と言えば生糸だった。
此の当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されていたが、国内外でも高評価で1級品認定されていたのは長野県産品、及び、群馬県産品だった。

件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出された。
群馬県産品は群馬から横浜までの輸送経路が、日本鐵道(高崎→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と単純で運賃も廉価で済んだのに対し、長野県産品は、逓信省鐵道作業局(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と数社を経由する事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、不利にならざるを得ず、明治30年代後半ともなると販路の関係上、その差が歴然として深刻な状況が招来した。

此の為に八王子から横濱に向け鉄道建設を願う声は日に日に高まったもが、明治政府は横濱線が政府主要建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とした為に財政的余裕が無く、故に、沿線民間出資に拠り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に横濱鐵道會社が設立され本社は横濱市青木橋に設置し、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注された。

当時は現在の如く簡単に入手すべき可能な時代などでは無く、船便での発注手配であり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になる。


明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線開通した。
然し、横濱鐵道は開業の時点で企業設立時の目論見とは大きく異なる事態が発生していた。

即ち、中央線沿線発横浜着の貨物激増に拠り、明治38年(1905年)2月15日から、甲府-横浜間に、甲武鐵道、日本鐵道を経由した直通貨物列車を運行開始した。

更に、政府は日露戦争後に於ける全国に存在する私鉄の国有化を目差し、明治39年(1906年)3月31日に『鐵道国有法』(法律第17号號)を制定し該法律に基づき、甲武鐵道が同年10月1日、日本鐵道が同年11月1日に政府に拠り買収された為に、バラバラだった運賃計算が一貫通し計算が可能となり利用者からは歓迎を受けたが、反面、横濱港への短路とは言え高額な加算運賃を支払う私鉄経由たる横濱鐵道利用のメリットが無くなった事で当初の目論んだ数値より遙かに低い輸送量しか得られなかったからである。

当時は横濱鐵道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと推定される。


横濱鐵道開業の頃より国内知識層間に軌間拡大論が展開される。

即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人設計担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無な上に内容に就いて理解も吟味をもし得ず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となる。

然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内の特に軍部を中心に台頭する。
政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐵道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始する。
広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職を余儀なくされ改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫する。

政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対したが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後、此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果を招来させた。
即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(おがわ へいきち)(明治3年(1870年)1月2日~昭和17年(1942年)2月5日)は第26代内閣総理大臣 田中義一(たなか ぎいち)(元治元年(1864年)7月25日~昭和4年(1929年)9月29日)(昭和2年(1927年)4月20日~昭和4年(1929年)7月12日在任)の鐵道大臣在任中、私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ私鉄疑獄事件を起し、小川は鐵道大臣経験者と言ふ親補職元親任官にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され、起訴された為に裁判に付され大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処さ、位階剥奪されるが如く、此の手の政友会代議士は国益より自己利権に走狗する行為が露骨で我田引鉄を得意とした。

政友会の後塵直系組織たる現在野党に大転落した○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。

結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線東京-新大阪間開業まで留保される。


標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる鐵道院八濱線として新たなる出発をする。

然し、国立公文書館に保存されている当時の公文書本文を精査すると政府の本心が垣間見て取れる。

因みに本文中の新宿線とは現在の山手線である。


横濱鐵道借受ノ件

別紙内閣総理大事請議横濱鐵道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム


指令書

横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)

運第壱百弐拾壱号

横濱鐵道借受ノ件

横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央ニ線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ
其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス

一)該鐵道ノ運輸営業ニ要スル各種建造物車輛及附属品ヲ伴セテ借受クルコト
二)天災事変ニ起因シ損害ヲ来シタル場合ノ各種建造物及車輛等ノ修理保存ハ一切政府ノ負担トスルコト
三)借用料ハ該鐵道ノ営業成績ト該鐵道ヲ政府ニテ管理スル為メ官設鐵道ノ受クヘキ利益トヲ参酌シ其金額ヲ定ムルコト
四)該鐵道ノ借受期限ハ壱ケ年トシ政府ノ都合ニ依リ同一ノ條件ヲ以テ通計弐拾箇年ニ達スル迄壱ケ年毎ニ契約ヲ更新スルヲ得ルコト
但シ借用料ハ契約更新ノ都度之ヲ協定スルコト
五)臨港延長線及横濱港北防波堤ニ沿ヒ港内ニ面スル埋立工事ハ政府ノ費用ヲ以テ施行スルコト
六)前號ニ依テ政府ノ投シタル費用ハ鐵道返還ノ場合ニ於テ現実ニ存スル増加価格ヲ會社ハ政府ニ弁償スルコト但シ海面埋立ハ返還セサルコト

右閣議ヲ請フ

明治四十三年一月十八日

内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎


横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿

内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎 殿


当時の山手線は現在の如く複々線で客貨分離がさ成されておらず、複線で電車を頻発運転させながら貨物列車を割込運転させる等、綱渡り的運転を強いられ、既に運転上で列車遅延は常態化し飽和状態だった。
また、政府としても横浜北港埋立構築は日露戦争後に於ける対外国策上必要不可欠要件であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった。

即ち、借与中に於ける民間所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させた。

後年、昭和初期に鐵道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鐵道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額とされ、富士身延鐵道を政府於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして、前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鐵道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化する。
例外的に借上げ形態を採用したのは京成電気鐵道上野公園(現 京成上野)-日暮里間で、大東亜戦争中に運輸通信省本省の地下疎開基地先として選定され、強制借上げ後は特殊標準機を狭軌に改軌し、運用中止になり休車中の1、2等寝台車や1等展望車を搬入し防空壕代りに使用された。

殊に、日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化する。
或る日、政府から会社に突然、代表者を鐵道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化する。
買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止だったが、然も、戦後になり我が国を見舞った超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然になり、故に、各方面から買収資産価値変換と無償払下運動が勃興するが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は政府や鐵道省、運輸通信省の言いなりになり組織をタダ取りされたと言ふ怨恨を残した。


東神奈川駅は鐵道院東海道本線と横濱鐵道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐵道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与された。

横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東に所在の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名された。
然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し、神奈川-横濱駅間が180メートル弱しか離れていない為に、前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった。


鐵道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、及び、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化する事に決定し、大正11年(1922年)に工事着手する。
然し、工事途中にして関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になったが、電化に関する要員教育研修を兼ね、当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転を開始させた。


大正12年(1923年)9月1日11時57分頃 関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生した。
該地震で横濱線内に於ける被害では東海道線乗越橋破壊、相原隧道切通法面崩壊、及び、長津田-原町田間高ケ坂築堤破壊等々が発生し、特に、東海道本線上に2連架橋の乗越橋は、八王子方橋桁1連が東海道線上に落橋した。
駅舎関係では、小机駅、及び、原町田駅本屋が大破し、特に、原町田駅は大部分が湿地帯に停車場が設置された為に、駅構内施設が全滅被害が生じた。

復旧工事は原町田-橋本間の如く震災当日に着手した所も存在したが、概して東海道本線開通が最優先された関係で完成は他線区に比較して遅さが目立つ。

東神奈川-小机間 9月11日着手 9月28日完工
小机-原町田間 9月11日着工 9月22日完工
原町田-橋本間 9月1日着工 9月20日完工
橋本-八王子間 9月5日着工 9月20日完工

該地震で被災した列車は、地震発生時に東神奈川-八王子間運転中の列車は、意外な事に、貨物列車1本だけだった。

即ち、上り貨物第852列車は長津田-中山間走行中に該地震に遭遇し、該列車貨車6両が脱線被害が発生した。

旅客列車は、東神奈川駅12時00分発八王子行客貨混合第907列車が始発駅発車直前だったが、若し、該混合列車が11時55分発だったら、震災発生時に東海道線乗越橋付近を走行して筈で、該橋梁が東海道本線上に落下被害が発生していた事から、該列車にも被害が及び、旅客に死傷者が発生していた可能性が高かったものと推定される。

然るに、当時は横浜線支線だった海神奈川駅では、下り貨物第411列車が通過中に該地震に遭遇した。
59627号機に牽引された貨車44両中、数両が脱線転覆した。
然も、折しも、脱線転覆した貨車搭載物は火薬だった。

該地震発生と同時に、現在の横浜駅西口付近に所在した、米スタンダード石油、及び、米ライシングサン石油の油槽タンクが破損し、油槽タンク内の石油が流出し、帷子川(かたびらがわ)に流れ出た石油に付近工場から出火した火が着火炎上し、帷子川両岸建造物を焼失させ流域を火の海にした。

業火は横浜港に流れ込み、海神奈川駅方面に向かって来た事から、搭載貨物たる火薬取扱が急務となった。

大正7年(1918年)7月26日夜半に発生した、下関駅構内関釜連絡船火薬大爆発事故に鑑み、鐵道省は陸海軍省、内務省とも協議の上、火薬取扱規則を制定し、火薬取扱は、駅長、若しくは、指定貨物掛立会に拠り、取扱時間も日の出から日没に限定された厳格な規則下で施行されていた。

然し、該火薬誘爆の危機が迫って来た事から、該駅職員が規定外行動だったが、該搭載火薬を被災貨車から取出し、海中に投棄するの行動に出た。

一連の爆発を回避させた行動は危機管理の観点から見ても妥当正当だった。

貨車搭載火薬爆発未遂処理では、昭和20年(1945年)8月1日未明に東京都八王子市に対し、米空軍は全国最大規模の空襲を実行したが、該空襲開始直前に八王子駅構内に本土決戦用陸軍高性能火薬が貨車3両が留置されている事を知った当時の八王子停車場憲兵隊憲兵3名は、駅職員が深夜たる該時間帯を該規定をタテに他への移動を拒否したのに対し、憲兵3名が空襲で該火薬に誘爆すれば危険と判断し、上官の命令も待たず強権を以って構内に停車中の電車に連結させ隣駅豊田駅に退避を命令し、豊田駅到着直後に空襲が開始され、該憲兵3名は旅客職員を避難誘導したの後、3名共職場に踏み止まり殉職した一件があり、該駅構内に残置を継続していれば確実に焼夷弾が命中して誘爆が避けられず、八王子大空襲に於ける死者数が、陸軍憲兵や警察が住民達を的確に退避させた関係で少数だったが、若し、該火薬が爆発していれば、数千人規模の死者が発生してたものと思われ、該一件は八王子市史にすら記述が無いが、現在でも忘れてはならぬ史実である事を銘記すべきである。


東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化したが、横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鐵道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議される。
然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車国産化が成功したが、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造諸経費はC51型大型旅客用蒸気機関車2輌分に相当し、当時の震災復興中の鐵道省予算内に於ける車輌新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入し電気運転するなど論外的見解と言ふべきであり、現実にはに不可能だったに相違無い。

然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線も電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より該電化区間に於いて電車運転が開始されたが、此れは横須賀線にモハ32型等々の専用車輌導入が一段落し、余剰車を転用の為に可能となった。
此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転される。
モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無装着の為に、モハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転された。
またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化後の毎時1本の運転形態は変化なく継続する。

残りの非電化区間たる原町田-八王子駅間は昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始される。


昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鐵道(現小田急電鉄)、相模鐵道と共に戦時体制に組込れる。

即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極める。
特に、陸軍士官学校卒業式に臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鐵道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築された。
他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が毎時1本の牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなった。

原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、昭和15年(1940年)1月29日に大阪西成線安治川口駅ガソリンカー脱線転覆火災事故で死者189名負傷者69名を出す大惨事が教訓となり、横濱線全線が単線である事も輸送上の障害を来たしていた為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転される。
また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設される。
相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鐵道所属駅相模原駅は、鐵道省から開業を直前に駅名重複を避ける為に小田急相模原駅に改称を命令される。


大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された横浜大空襲に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他地域を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京濱線仲木戸駅付近で焼夷弾命中発火に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が此の火砕流に巻き込まれ、重軽傷者24名以外の7名は全員行方不明で遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされる。
東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過し運転される。
同年6月3日附を以って桜木町駅長飯田泰次郎氏が東神奈川駅長に赴任し混乱収拾をはかる。
横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され電車発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぐ。
横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎は全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地を日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設される。


大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れた感が強い。


横浜線は他線区に比較して複線化完成まで極めて遅動だった。
特に、小机以遠の工事が10年以上経過後の昭和50年代に再開したが、此れは複線化工事中当時に於ける日本国有鉄道の財政悪化が主原因である。
全線完成に至っては民営化後にずれ込む。

菊名-新横浜間 昭和42年(1967年)10月22日
新横浜-小机間 昭和43年(1968年)2月4日
大口-菊名間 3月12日
東神奈川-大口間 3月19日
小机-中山間 昭和53年(1978年)10月2日
中山-長津田間 昭和54年(1979年)4月1日
長津田-原町田(現 町田)間 7月15日
淵野辺-相原間 9月14日
町田-淵野辺間 昭和55年(1980年)9月27日
相原-八王子間 昭和63年(1988年)3月6日


現在の横浜線は純然たる通勤通学路線である。

然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残存する。

現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古軌条は横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てである。



表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用された古軌条群と横浜線用205系電車。

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧西口駅舎跡<br />橋上化以前は猫の額の如きスペースに西口駅舎が存在。

    東神奈川駅



    旧西口駅舎跡
    橋上化以前は猫の額の如きスペースに西口駅舎が存在。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧西口駅舎跡<br />橋上駅舎化以前は猫の額の様な所に駅舎が存在した。

    東神奈川駅



    旧西口駅舎跡
    橋上駅舎化以前は猫の額の様な所に駅舎が存在した。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧西口跨線橋跡<br />今では東西連絡ぺデストリアンデッキとエレヴェーターが完成に依り階段利用者は激減。

    東神奈川駅



    旧西口跨線橋跡
    今では東西連絡ぺデストリアンデッキとエレヴェーターが完成に依り階段利用者は激減。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧西口跨線橋跡<br />跨線橋内部

    東神奈川駅



    旧西口跨線橋跡
    跨線橋内部

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧西口跨線橋<br />大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で壊滅的被害を被った東神奈川駅不動産関係で横浜駅方架線柱と共に持ち堪えた数少ない建築物。<br />皮肉にも駅舎橋上化に拠り一般通路と化した感が強い。

    東神奈川駅



    旧西口跨線橋
    大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で壊滅的被害を被った東神奈川駅不動産関係で横浜駅方架線柱と共に持ち堪えた数少ない建築物。
    皮肉にも駅舎橋上化に拠り一般通路と化した感が強い。

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧第1番線ホーム跡<br />横浜線用切込式ホーム痕跡。<br />昭和43年(1968年)東神奈川-小机駅間複線化の際に廃止。<br />東神奈川駅開業から使用中止まで切込式様式で駅本屋から直接乗降可能だった。<br />

    東神奈川駅



    旧第1番線ホーム跡
    横浜線用切込式ホーム痕跡。
    昭和43年(1968年)東神奈川-小机駅間複線化の際に廃止。
    東神奈川駅開業から使用中止まで切込式様式で駅本屋から直接乗降可能だった。

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />旧第1番線ホーム跡<br />現在では保修車両の留置場所として活用。

    東神奈川駅



    旧第1番線ホーム跡
    現在では保修車両の留置場所として活用。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />下記の写真と昭和6年(1931年)に同一個所で撮影。<br /><br /><br />T型タイプの架線柱は現在の京浜東北線の原典たる京濱線が大正3年(1914年)12月に電化の際に建植。<br /><br />ホームが打上られている事から撮影時期は半鋼製車モハ30型導入後の昭和初期と推定。<br /><br />T型架線柱は昭和50年代前半まで新子安-鶴見駅間に奇跡的に残存していたが現在は全滅。<br /><br />横浜臨海公園 蔵

    東神奈川駅



    下記の写真と昭和6年(1931年)に同一個所で撮影。


    T型タイプの架線柱は現在の京浜東北線の原典たる京濱線が大正3年(1914年)12月に電化の際に建植。

    ホームが打上られている事から撮影時期は半鋼製車モハ30型導入後の昭和初期と推定。

    T型架線柱は昭和50年代前半まで新子安-鶴見駅間に奇跡的に残存していたが現在は全滅。

    横浜臨海公園 蔵

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番線ホーム<br />ホーム上屋支柱に使用される横濱鐵道開業当時の古軌条群と横浜線用205系電車<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1276

    東神奈川駅



    第2番線ホーム
    ホーム上屋支柱に使用される横濱鐵道開業当時の古軌条群と横浜線用205系電車

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1276

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第1番線ホーム<br />東神奈川駅が橋上駅化される以前は駅舎とホームが直結して電車の乗降に便利な存在だった。<br />手前の白色木柱は横浜線起点標(0キロポスト)。

    東神奈川駅



    第1番線ホーム
    東神奈川駅が橋上駅化される以前は駅舎とホームが直結して電車の乗降に便利な存在だった。
    手前の白色木柱は横浜線起点標(0キロポスト)。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム側壁<br />煉瓦積側壁は駅開業当時の存在。<br />コンクリート側壁部は京浜線電車化と半鋼製モハ30型電車導入の際にステップ廃止で打上された。

    東神奈川駅



    第1番ホーム側壁
    煉瓦積側壁は駅開業当時の存在。
    コンクリート側壁部は京浜線電車化と半鋼製モハ30型電車導入の際にステップ廃止で打上された。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />ホーム側壁煉瓦

    東神奈川駅



    第2番ホーム
    ホーム側壁煉瓦

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム側壁<br />第1番ホーム西側、及び、第2番ホーム側壁に使用される煉瓦は国産品で 関東煉瓦八王子工場製。<br />典型的英国積様式。<br />関東煉瓦八王子工場はホフマン窯を擁すも日本煉瓦製造製品に太刀打ち出来ず、昭和8年(1933年)に工場火災で操業閉鎖。<br />

    東神奈川駅



    第2番ホーム側壁
    第1番ホーム西側、及び、第2番ホーム側壁に使用される煉瓦は国産品で 関東煉瓦八王子工場製。
    典型的英国積様式。
    関東煉瓦八王子工場はホフマン窯を擁すも日本煉瓦製造製品に太刀打ち出来ず、昭和8年(1933年)に工場火災で操業閉鎖。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム停車中の車輌は横浜線用205系電車。

    東神奈川駅



    第2番ホーム停車中の車輌は横浜線用205系電車。

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />件のホーム横浜駅側寄上屋支柱に使用されている全古軌条が横濱鐵道開業時に準備使用された年代物。<br />支柱番号、第13号横梁、第14号b、及び、第15号〜第23号までが該当品使用。

    東神奈川駅



    第2番ホーム上屋
    件のホーム横浜駅側寄上屋支柱に使用されている全古軌条が横濱鐵道開業時に準備使用された年代物。
    支柱番号、第13号横梁、第14号b、及び、第15号〜第23号までが該当品使用。

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋支柱古軌条<br />ホーム上屋支柱に使用される横濱鐵道創業時の古軌条。<br /><br />支柱番号第21号a

    東神奈川駅



    第2番ホーム上屋支柱古軌条
    ホーム上屋支柱に使用される横濱鐵道創業時の古軌条。

    支柱番号第21号a

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋支柱古軌条<br />1906 CARNEGIE A co Y.T.K.<br />(1906年 米カーネギー社製造 米 溶錬方様式:平炉 横濱鐵道株式會社発注品)<br /><br />支柱番号第21号a

    東神奈川駅



    第2番ホーム上屋支柱古軌条
    1906 CARNEGIE A co Y.T.K.
    (1906年 米カーネギー社製造 米 溶錬方様式:平炉 横濱鐵道株式會社発注品)

    支柱番号第21号a

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋支柱古軌条<br />H.WENDEL IX 1929 IBS ASCE IS BS<br />(仏ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品)<br /><br />「ASCE」はアメリカ土木学会規定の60ポンド(30キロ)第3種指定軌条。<br /><br />製造時期は軌条も第1次世界大戦後に於ける国産体制確立直前期に相当し輸入品末期の存在。<br /><br />支柱番号第6号b

    東神奈川駅



    第2番ホーム上屋支柱古軌条
    H.WENDEL IX 1929 IBS ASCE IS BS
    (仏ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品)

    「ASCE」はアメリカ土木学会規定の60ポンド(30キロ)第3種指定軌条。

    製造時期は軌条も第1次世界大戦後に於ける国産体制確立直前期に相当し輸入品末期の存在。

    支柱番号第6号b

    東神奈川駅

  • 東神奈川駅<br /><br /><br /><br />西神奈川地下道(にしかながわちかどう)<br /><br />関東大震災復興計画に拠り完成<br />大正14年(1925年)12月25日に内務省復興局は東海道本線他の列車往来激化に伴う交通障害除去の為に鐵道省に対し鶴見地区と共に地下道建設を要請。<br />建設に金312709円を要し、昭和3年(1928年)12月5日竣工。<br /><br />

    東神奈川駅



    西神奈川地下道(にしかながわちかどう)

    関東大震災復興計画に拠り完成
    大正14年(1925年)12月25日に内務省復興局は東海道本線他の列車往来激化に伴う交通障害除去の為に鐵道省に対し鶴見地区と共に地下道建設を要請。
    建設に金312709円を要し、昭和3年(1928年)12月5日竣工。

    東神奈川駅

  • 東神奈川-海神奈川間<br /><br /><br /><br />京急電鉄仲木戸駅<br />旧跨線橋<br /><br />右手坑口<br />東神奈川-東高島間貨物線跡。<br />左手坑口<br />東神奈川-海神奈川間貨物線跡。<br /><br />東神奈川駅を起点として海神奈川(うみかながわ)駅、及び、東高島(ひがしたかしま)駅間の貨物専用線は横濱鐵道線経由で輸送された物資を横浜港から輸出を容易とさせるべく東神奈川-八王子駅間に次いで着工され、明治44年(1911年)12月10日開通と同時に鐵道院借上となる。<br />然るに、該工事では既に品川-神奈川間を開通させていた京濱電気軌道(現在の京急電鉄)との交差が急浮上する事態となった。<br />当時の行政範囲は鉄道線は鐵道院が管轄していたのに対し、軌道線は道路を所管する内務省が管轄し此の様な問題が提起されると却って解決が困難性が増す事態を内包し、神奈川県内でも横須賀線鎌倉に於ける江之島電気軌道線との交差問題で同様の事例に直面する。<br />然し、列車運行に於ける諸問題解決の為に、鐵道院は京濱電気軌道側に譲歩をさせ、京濱側を盛土築堤で立体交差させ列車運行を容易ならしめた。<br /><br />後に横浜線所属支線から東海道本線所属支線に変更。<br /><br />昭和34年(1959年)4月1日、此の区間は営業廃止となったが、現在でも痕跡が残存し仲木戸駅付近の大形開口部や入江川第2派川に架橋する瑞穂廃橋梁が残存する。<br /><br />横浜市神奈川区東神奈川ー12−5<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩1分

    東神奈川-海神奈川間



    京急電鉄仲木戸駅
    旧跨線橋

    右手坑口
    東神奈川-東高島間貨物線跡。
    左手坑口
    東神奈川-海神奈川間貨物線跡。

    東神奈川駅を起点として海神奈川(うみかながわ)駅、及び、東高島(ひがしたかしま)駅間の貨物専用線は横濱鐵道線経由で輸送された物資を横浜港から輸出を容易とさせるべく東神奈川-八王子駅間に次いで着工され、明治44年(1911年)12月10日開通と同時に鐵道院借上となる。
    然るに、該工事では既に品川-神奈川間を開通させていた京濱電気軌道(現在の京急電鉄)との交差が急浮上する事態となった。
    当時の行政範囲は鉄道線は鐵道院が管轄していたのに対し、軌道線は道路を所管する内務省が管轄し此の様な問題が提起されると却って解決が困難性が増す事態を内包し、神奈川県内でも横須賀線鎌倉に於ける江之島電気軌道線との交差問題で同様の事例に直面する。
    然し、列車運行に於ける諸問題解決の為に、鐵道院は京濱電気軌道側に譲歩をさせ、京濱側を盛土築堤で立体交差させ列車運行を容易ならしめた。

    後に横浜線所属支線から東海道本線所属支線に変更。

    昭和34年(1959年)4月1日、此の区間は営業廃止となったが、現在でも痕跡が残存し仲木戸駅付近の大形開口部や入江川第2派川に架橋する瑞穂廃橋梁が残存する。

    横浜市神奈川区東神奈川ー12−5
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩1分

  • 東神奈川-海神奈川間<br /><br /><br /><br />京急電鉄仲木戸駅<br />旧跨線橋<br /><br />京急では珍しい煉瓦構築物。<br />英国積様式。<br /><br />京濱電気軌道は神奈川青木橋停留所までの区間を明治38年(1905年)12月24日に開通させたが、開業当時は横濱鐵道の存在は無く当然ながら先任者たる京濱電気軌道は地平区間として建設された。<br />然るに、横濱鐵道が東神奈川-海神奈川駅間を開業するに当たり該鉄道との平面交差が俄然表面化する結果を招来し、軌道線監督官庁たる内務省も捨てて置けず両者を立体交差させる事になり明治43年(1910年)6月1日に開通させた。<br />尚、該工事に関し詳細を記した資料は京濱電気軌道本社が関東大震災の際に罹災焼失した為に不明とされ長い間論点となっていたが、横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞の前身)が同年6月9日附朝刊に該箇所立体交差工事が同月上旬に竣工した記事が掲載され仔細期日判明。<br /><br />横浜市神奈川区東神奈川1−11−5<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩1分<br />

    東神奈川-海神奈川間



    京急電鉄仲木戸駅
    旧跨線橋

    京急では珍しい煉瓦構築物。
    英国積様式。

    京濱電気軌道は神奈川青木橋停留所までの区間を明治38年(1905年)12月24日に開通させたが、開業当時は横濱鐵道の存在は無く当然ながら先任者たる京濱電気軌道は地平区間として建設された。
    然るに、横濱鐵道が東神奈川-海神奈川駅間を開業するに当たり該鉄道との平面交差が俄然表面化する結果を招来し、軌道線監督官庁たる内務省も捨てて置けず両者を立体交差させる事になり明治43年(1910年)6月1日に開通させた。
    尚、該工事に関し詳細を記した資料は京濱電気軌道本社が関東大震災の際に罹災焼失した為に不明とされ長い間論点となっていたが、横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞の前身)が同年6月9日附朝刊に該箇所立体交差工事が同月上旬に竣工した記事が掲載され仔細期日判明。

    横浜市神奈川区東神奈川1−11−5
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩1分

  • 東神奈川-海神奈川間<br /><br /><br /><br />京急電鉄仲木戸駅<br />旧跨線橋<br /><br />東部地域療病センター前から第1京浜国道にかけて緩やかなカーヴを描き、嘗て此処に線路が存在した事を想起させる。<br /><br />横浜市神奈川区東神奈川2−36−1<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩1分<br />

    東神奈川-海神奈川間



    京急電鉄仲木戸駅
    旧跨線橋

    東部地域療病センター前から第1京浜国道にかけて緩やかなカーヴを描き、嘗て此処に線路が存在した事を想起させる。

    横浜市神奈川区東神奈川2−36−1
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩1分

  • 東神奈川-海神奈川間<br /><br /><br /><br />中央曲線を描く道路が旧線路跡<br />浜口雄幸(はまぐち おさち)内閣で井上準之助蔵相の下で実施された金本位制度復活が原因の政策が原因で不況が本格化した結果、生糸輸出は激減し、且つ、戦後は第1京浜国道を直角横切り踏切が存在した為に横浜市電との平面交差問題や自動車通行に不利とされ廃止に追い込まれた。<br />尚、一部文献に廃止を昭和59年とした記述を散見するが西暦と年号とを取違えた結果と推定され事実は昭和34年が正当。<br /><br />更に、手前の第1京浜国道で横浜市営交通電車生麦線と平面交差していた。<br /><br />横浜市神奈川区神奈川2−19−9<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩3分

    東神奈川-海神奈川間



    中央曲線を描く道路が旧線路跡
    浜口雄幸(はまぐち おさち)内閣で井上準之助蔵相の下で実施された金本位制度復活が原因の政策が原因で不況が本格化した結果、生糸輸出は激減し、且つ、戦後は第1京浜国道を直角横切り踏切が存在した為に横浜市電との平面交差問題や自動車通行に不利とされ廃止に追い込まれた。
    尚、一部文献に廃止を昭和59年とした記述を散見するが西暦と年号とを取違えた結果と推定され事実は昭和34年が正当。

    更に、手前の第1京浜国道で横浜市営交通電車生麦線と平面交差していた。

    横浜市神奈川区神奈川2−19−9
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩3分

    東神奈川駅

  • 東神奈川-海神奈川間<br /><br /><br /><br />旧線は道路右端を直進していた。<br /><br />横浜市神奈川区千若町1−3<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩4分<br />

    東神奈川-海神奈川間



    旧線は道路右端を直進していた。

    横浜市神奈川区千若町1−3
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩4分

    東神奈川駅

  • 旧海神奈川駅<br /><br /><br /><br />横濱鐵道傘下企業『横濱倉庫』に拠り埋立てられた土地。<br />浦島山から産出した土砂を利用して埋立てた。<br />鉄道廃止後は神奈川水再生センターとゴルフ練習場に変貌。<br />護岸の煉瓦積が出自が横濱鐵道たる事を示す。<br /><br />東神奈川ゴルフジョイ<br /><br />横浜市神奈川区千若1−3<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩6分

    旧海神奈川駅



    横濱鐵道傘下企業『横濱倉庫』に拠り埋立てられた土地。
    浦島山から産出した土砂を利用して埋立てた。
    鉄道廃止後は神奈川水再生センターとゴルフ練習場に変貌。
    護岸の煉瓦積が出自が横濱鐵道たる事を示す。

    東神奈川ゴルフジョイ

    横浜市神奈川区千若1−3
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩6分

  • 旧海神奈川駅<br /><br /><br /><br />英国積様式<br /><br />海神奈川駅の貨物取扱量は昭和8年(1933年)まで神奈川県内で第3位より上位にランクされていたが、浜口雄幸内閣井上準之助蔵相の金輸出解禁が原因で不況から脱却できず生糸輸出が振わなくなり、以後到着貨物の輸送量は釣瓶落とし的に下落。<br /><br />横浜市神奈川区千若1−3<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩6分

    旧海神奈川駅



    英国積様式

    海神奈川駅の貨物取扱量は昭和8年(1933年)まで神奈川県内で第3位より上位にランクされていたが、浜口雄幸内閣井上準之助蔵相の金輸出解禁が原因で不況から脱却できず生糸輸出が振わなくなり、以後到着貨物の輸送量は釣瓶落とし的に下落。

    横浜市神奈川区千若1−3
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩6分

  • 海神奈川-東高島間<br /><br /><br /><br />瑞穂橋梁(みずほ きょうりょう)<br /><br />下流側から望見。<br />昭和5年(1930年)4月1日附で横浜線所属支線から東海道本線所属支線に変更。<br />昭和34年(1959年)4月1日に路線廃止後50年間、忘れ去られた如く放置状態。<br /><br />横浜市神奈川区星野町5<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩8分

    海神奈川-東高島間



    瑞穂橋梁(みずほ きょうりょう)

    下流側から望見。
    昭和5年(1930年)4月1日附で横浜線所属支線から東海道本線所属支線に変更。
    昭和34年(1959年)4月1日に路線廃止後50年間、忘れ去られた如く放置状態。

    横浜市神奈川区星野町5
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩8分

    東神奈川駅

  • 海神奈川-東高島間<br /><br /><br /><br />瑞穂橋梁<br /><br />橋梁内部は軌条敷設のまま放置。<br />軌条銘柄は未確認。<br /><br />横浜市神奈川区星野町5<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩8分

    海神奈川-東高島間



    瑞穂橋梁

    橋梁内部は軌条敷設のまま放置。
    軌条銘柄は未確認。

    横浜市神奈川区星野町5
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩8分

    東神奈川駅

  • 東高島(ひがしたかしま)駅<br /><br /><br /><br />現在は貨物営業取扱は廃止され信号所。<br /><br />横浜市神奈川区星野4<br />東海道本線東神奈川駅東口 徒歩9分

    東高島(ひがしたかしま)駅



    現在は貨物営業取扱は廃止され信号所。

    横浜市神奈川区星野4
    東海道本線東神奈川駅東口 徒歩9分

    東神奈川駅

  • 東神奈川-大口間<br /><br /><br /><br />浦島丘(うらしまおか)<br /><br />現在の『浦島丘』一帯は大正初期まで『浦島山』と称する山並みを形成していたが、横濱鐵道は此の手近に豊富に存在する大量土砂に着目し、横濱鐵道線を経由して横浜北防波堤付近に埋立地を構築し埠頭建設を画策。<br />他方、日露戦争終結後、当時の明治政府は貴重な外貨獲得手段の為に港湾施設拡充を必要とし、横浜港北部地域一帯の埋立工事を推進させる為に横濱鐵道が有する権益に着目し政府に依り借上げの根拠となる。<br /><br />横浜港北部築港完成は第1次世界大戦後の大不況や関東大震災復興優先や昭和初期の世界的大不況の影響等々で遅延に遅延を重ね、昭和15年(1940年)に完成、『瑞穂埠頭(みずほ ふとう)』と命名。<br /><br />戦後は連合軍に占領され、現在も米軍管理下に在る。<br /><br /><br />横浜市神奈川区立町歩道橋上<br />東海道本線東神奈川駅西口 徒歩5分<br />

    東神奈川-大口間



    浦島丘(うらしまおか)

    現在の『浦島丘』一帯は大正初期まで『浦島山』と称する山並みを形成していたが、横濱鐵道は此の手近に豊富に存在する大量土砂に着目し、横濱鐵道線を経由して横浜北防波堤付近に埋立地を構築し埠頭建設を画策。
    他方、日露戦争終結後、当時の明治政府は貴重な外貨獲得手段の為に港湾施設拡充を必要とし、横浜港北部地域一帯の埋立工事を推進させる為に横濱鐵道が有する権益に着目し政府に依り借上げの根拠となる。

    横浜港北部築港完成は第1次世界大戦後の大不況や関東大震災復興優先や昭和初期の世界的大不況の影響等々で遅延に遅延を重ね、昭和15年(1940年)に完成、『瑞穂埠頭(みずほ ふとう)』と命名。

    戦後は連合軍に占領され、現在も米軍管理下に在る。


    横浜市神奈川区立町歩道橋上
    東海道本線東神奈川駅西口 徒歩5分

    東神奈川駅

  • 浦島丘<br /><br /><br /><br />画面右手が浦島丘<br /><br />大正中期まで東海道本線線路際まで山裾が迫り、画面右手の道路(国道1号線)は存在せず。<br />浦島丘は土砂採掘後は荒漠たる状態で戦後に至る。<br /><br />横浜市神奈川区立町24<br />東海道本線東神奈川駅東口 横浜市営交通バス浦島小学校入口停留所降車 徒歩2分

    浦島丘



    画面右手が浦島丘

    大正中期まで東海道本線線路際まで山裾が迫り、画面右手の道路(国道1号線)は存在せず。
    浦島丘は土砂採掘後は荒漠たる状態で戦後に至る。

    横浜市神奈川区立町24
    東海道本線東神奈川駅東口 横浜市営交通バス浦島小学校入口停留所降車 徒歩2分

    東神奈川駅

  • 浦島丘<br /><br /><br /><br />浦島丘は大東亜戦争終結の頃には荒れ果てたまま昭和30年代後半まで大部分の土地が日本国有鉄道所有とされたが現在は全部払下げられ民有地。<br />画面下手摺は、戦前、鐵道省所有時代に設置されたもので、浦島丘が以前は鐵道省所有だった事を示す。<br />同様の手摺は神奈川区青木橋付近にも残存。<br /><br />現在も付近に数ヶ所残存。<br /><br />横浜市神奈川区鳥越11−5<br />東海道本線東神奈川駅西口 徒歩5分

    浦島丘



    浦島丘は大東亜戦争終結の頃には荒れ果てたまま昭和30年代後半まで大部分の土地が日本国有鉄道所有とされたが現在は全部払下げられ民有地。
    画面下手摺は、戦前、鐵道省所有時代に設置されたもので、浦島丘が以前は鐵道省所有だった事を示す。
    同様の手摺は神奈川区青木橋付近にも残存。

    現在も付近に数ヶ所残存。

    横浜市神奈川区鳥越11−5
    東海道本線東神奈川駅西口 徒歩5分

    東神奈川駅

  • 東神奈川-大口間<br /><br /><br /><br />横浜線乗越橋<br /><br />画面中央背後の築堤は横浜線が単線時代に使用した築堤跡。<br /><br />横浜市神奈川区浦島丘2<br />東海道本線東神奈川駅西口 横浜市営交通バス浦島中学校下停留所降車 徒歩1分

    東神奈川-大口間



    横浜線乗越橋

    画面中央背後の築堤は横浜線が単線時代に使用した築堤跡。

    横浜市神奈川区浦島丘2
    東海道本線東神奈川駅西口 横浜市営交通バス浦島中学校下停留所降車 徒歩1分

    東神奈川駅

  • 東神奈川-大口間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋全景<br /><br />横浜市神奈川区子安通1−6−5<br />京急電鉄子安駅 徒歩1分

    東神奈川-大口間



    東海道線乗越橋全景

    横浜市神奈川区子安通1−6−5
    京急電鉄子安駅 徒歩1分

  • 東神奈川-大口間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br /><br />手前が昭和43年(1968年)3月19日に複線化の際に増設された橋梁。<br />後ろの石積橋脚は横濱鐵道開業時のオリジナル。<br /><br />横浜市神奈川区七島町144<br />京急電鉄子安駅 徒歩1分

    東神奈川-大口間



    東海道線乗越橋

    手前が昭和43年(1968年)3月19日に複線化の際に増設された橋梁。
    後ろの石積橋脚は横濱鐵道開業時のオリジナル。

    横浜市神奈川区七島町144
    京急電鉄子安駅 徒歩1分

  • 東神奈川-大口駅間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br /><br />関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で被災落橋。<br />東海道本線の輸送最優先とされた為に横濱線の復旧は遅れ同年9月28日にずれ込む。<br /><br />横浜市神奈川区七島町144<br />京急電鉄子安駅 徒歩1分

    東神奈川-大口駅間



    東海道線乗越橋

    関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で被災落橋。
    東海道本線の輸送最優先とされた為に横濱線の復旧は遅れ同年9月28日にずれ込む。

    横浜市神奈川区七島町144
    京急電鉄子安駅 徒歩1分

  • 東神奈川-大口間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br /><br />関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で横濱線橋桁が落橋し東海道本線運転に支障を生じる。<br /><br />横浜市神奈川区七島町128<br />京急電鉄子安駅 徒歩2分

    東神奈川-大口間



    東海道線乗越橋

    関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で横濱線橋桁が落橋し東海道本線運転に支障を生じる。

    横浜市神奈川区七島町128
    京急電鉄子安駅 徒歩2分

  • 東神奈川-大口間<br /><br /><br /><br />入江踏切(いりえ ふみきり)<br /><br />横浜大空襲(昭和20年(1945年)5月29日)で東神奈川駅構内が被災し横浜線電車が出入線不可能となった際に入江踏切横に臨時乗降場を設置し6月中旬まで電車は八王子方面に折返し運転し乗客は新子安駅まで徒歩連絡とした。<br /><br />横浜市神奈川区大口通134<br />横浜線大口駅西口 徒歩2分

    東神奈川-大口間



    入江踏切(いりえ ふみきり)

    横浜大空襲(昭和20年(1945年)5月29日)で東神奈川駅構内が被災し横浜線電車が出入線不可能となった際に入江踏切横に臨時乗降場を設置し6月中旬まで電車は八王子方面に折返し運転し乗客は新子安駅まで徒歩連絡とした。

    横浜市神奈川区大口通134
    横浜線大口駅西口 徒歩2分

  • 大口(おおぐち)駅<br /><br /><br /><br />横濱鐵道開業時は大口駅は存在せず、大東亜戦争中の横浜大空襲(昭和20年(1945年)5月29日)で付近一帯が被災焼失し、当時此の地に存在した日本大学専門部横浜校舎も全焼した為に終戦直後に日吉と静岡県三島市に移転転出した後、日本大学から無償寄贈された土地を活用し昭和22年(1947年)12月20日に大口駅開設。<br /><br />横浜線内で開設当時の平屋駅舎を使用するのは大口駅のみ残存。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=315

    大口(おおぐち)駅



    横濱鐵道開業時は大口駅は存在せず、大東亜戦争中の横浜大空襲(昭和20年(1945年)5月29日)で付近一帯が被災焼失し、当時此の地に存在した日本大学専門部横浜校舎も全焼した為に終戦直後に日吉と静岡県三島市に移転転出した後、日本大学から無償寄贈された土地を活用し昭和22年(1947年)12月20日に大口駅開設。

    横浜線内で開設当時の平屋駅舎を使用するのは大口駅のみ残存。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=315

    大口駅

  • 大口駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム<br /><br />複線化の際に使用中止。現在は痕跡のみ。

    大口駅



    旧第1番ホーム

    複線化の際に使用中止。現在は痕跡のみ。

    大口駅

  • 大口-菊名間<br /><br /><br /><br />寺尾隧道上部から菊名駅方俯瞰<br /><br />現代なら山を切崩し切り通しに上部に跨線橋を架橋したものと推定。<br /><br />横浜市鶴見区馬場7−2<br />東海道線東神奈川駅西口 横浜市営交通バス菊名老人センター停留所 徒歩1分

    大口-菊名間



    寺尾隧道上部から菊名駅方俯瞰

    現代なら山を切崩し切り通しに上部に跨線橋を架橋したものと推定。

    横浜市鶴見区馬場7−2
    東海道線東神奈川駅西口 横浜市営交通バス菊名老人センター停留所 徒歩1分

  • 大口-菊名間<br /><br /><br /><br />寺尾隧道(てらお ずいどう)<br /><br />八王子側から隧道坑門を見る。<br />右側が単線時代から存在。<br />左側は複線化の際に新たに掘削したもの。<br />但し、オリジナルは改修工事の際に断面拡張と共に消失。<br /><br />横浜市港北区菊名4−1<br />横浜線菊名駅 徒歩7分

    大口-菊名間



    寺尾隧道(てらお ずいどう)

    八王子側から隧道坑門を見る。
    右側が単線時代から存在。
    左側は複線化の際に新たに掘削したもの。
    但し、オリジナルは改修工事の際に断面拡張と共に消失。

    横浜市港北区菊名4−1
    横浜線菊名駅 徒歩7分

    菊名駅

  • 大口-菊名間<br /><br /><br /><br />横濱鐵道開業当初の橋台跡<br /><br />関東煉瓦八王子工場製。<br />東神奈川駅側壁と同品。<br /><br />菊名駅周辺は低域帯で以前は大雨が降り鶴見川が氾濫の都度、下を走る東急東横線敷地が浸水し東急東横線が度々運転中断となる為に、昭和44年(1969年)に横浜線複線化と同時に120cm嵩上げし、工事完成後に東横線も90cm嵩上げた結果、水害での運休は大幅に減少。<br /><br />然し、歴史的遺産に対し落書きが放置され見苦しい。

    大口-菊名間



    横濱鐵道開業当初の橋台跡

    関東煉瓦八王子工場製。
    東神奈川駅側壁と同品。

    菊名駅周辺は低域帯で以前は大雨が降り鶴見川が氾濫の都度、下を走る東急東横線敷地が浸水し東急東横線が度々運転中断となる為に、昭和44年(1969年)に横浜線複線化と同時に120cm嵩上げし、工事完成後に東横線も90cm嵩上げた結果、水害での運休は大幅に減少。

    然し、歴史的遺産に対し落書きが放置され見苦しい。

  • 菊名(きくな)駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡<br />現在は駐車場<br /><br />菊名駅は東京横浜電気鉄道(現在の東急電鉄東横線)が大正15年(1926年)2月14日に菊名駅を開設した事に依り地元の請願で同年9月1日に開業。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=545

    菊名(きくな)駅



    旧第1番ホーム跡
    現在は駐車場

    菊名駅は東京横浜電気鉄道(現在の東急電鉄東横線)が大正15年(1926年)2月14日に菊名駅を開設した事に依り地元の請願で同年9月1日に開業。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=545

    菊名駅

  • 菊名駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡。<br />橋台跡が残る。<br /><br />現在より低い位置に設置されていた事が判る。

    菊名駅



    旧第1番ホーム跡。
    橋台跡が残る。

    現在より低い位置に設置されていた事が判る。

    菊名駅

  • 菊名駅<br /><br /><br /><br />現在とは異なり元相対式ホーム時代の第1番ホーム跡<br /><br />『相対式ホーム』とは線路に対し上下別個にホームが存在。<br />此れに対し『島式ホーム』とは線路を挟み中央部にホームが存在。<br />地方路線の単線区間の殆どは相対式を使用。<br />此れは列車交換の保安設備として通票閉塞を使用しタブレットの交換を要した為に島式ホームでは担当職員がホーム上の旅客をかき分けての移動は不利が免れぬ事から一般的に相対式が採用された主理由。<br /><br />横浜線は、大口、菊名、長津田、及び、淵野辺各駅では開設当初は相対式ホームが採用されたが、その後、横浜線にCTCが採用され信号とポイント切換扱が自動化された結果、タブレット交換が廃止され島式ホーム採用に拍車が掛かった為である。<br /><br />但し、島式ホーム化された結果、その後の横浜線沿線に於ける予想外の爆発的乗降客増加に対処し切れず、ホーム幅拡張時に困難性を生じせしめたのは予想外だったものと思われる。<br /><br />

    菊名駅



    現在とは異なり元相対式ホーム時代の第1番ホーム跡

    『相対式ホーム』とは線路に対し上下別個にホームが存在。
    此れに対し『島式ホーム』とは線路を挟み中央部にホームが存在。
    地方路線の単線区間の殆どは相対式を使用。
    此れは列車交換の保安設備として通票閉塞を使用しタブレットの交換を要した為に島式ホームでは担当職員がホーム上の旅客をかき分けての移動は不利が免れぬ事から一般的に相対式が採用された主理由。

    横浜線は、大口、菊名、長津田、及び、淵野辺各駅では開設当初は相対式ホームが採用されたが、その後、横浜線にCTCが採用され信号とポイント切換扱が自動化された結果、タブレット交換が廃止され島式ホーム採用に拍車が掛かった為である。

    但し、島式ホーム化された結果、その後の横浜線沿線に於ける予想外の爆発的乗降客増加に対処し切れず、ホーム幅拡張時に困難性を生じせしめたのは予想外だったものと思われる。

  • 菊名駅<br /><br /><br /><br />旧東急連絡線跡<br /><br />田園都市線開業で長津田駅に旧陸軍省田奈弾薬庫専用連絡線設備が使用可能になった事で昭和44年(1969年)廃止。<br />横浜線と東急東横線に向かい建造物が微妙に円を描いているのが線路が存在した痕跡。

    菊名駅



    旧東急連絡線跡

    田園都市線開業で長津田駅に旧陸軍省田奈弾薬庫専用連絡線設備が使用可能になった事で昭和44年(1969年)廃止。
    横浜線と東急東横線に向かい建造物が微妙に円を描いているのが線路が存在した痕跡。

  • 菊名駅<br /><br /><br /><br />旧東急連絡線跡<br />背景曲線部が国鉄東急連絡線跡。<br />電車は乗入が廃止された東京メトロ日比谷線車両。

    菊名駅



    旧東急連絡線跡
    背景曲線部が国鉄東急連絡線跡。
    電車は乗入が廃止された東京メトロ日比谷線車両。

  • 菊名駅<br /><br /><br /><br />元東急連絡線跡

    菊名駅



    元東急連絡線跡

    菊名駅

  • 菊名-新横浜間<br /><br /><br /><br />旧築堤区間<br />現在でも新横浜運動公園横に遊水池が存在する様に、横濱鐵道開業当時は此の近辺一帯は鶴見川支流鳥山川(とりやまがわ)が集合する湿地帯だった為に度々水害に見舞われ鶴見川逸水を避け渡河の為に築堤構造で建設。<br /><br />右側崖が当時の築堤跡<br /><br />横浜市港北区篠原町2858<br />横浜線新横浜駅篠原口 徒歩5分

    菊名-新横浜間



    旧築堤区間
    現在でも新横浜運動公園横に遊水池が存在する様に、横濱鐵道開業当時は此の近辺一帯は鶴見川支流鳥山川(とりやまがわ)が集合する湿地帯だった為に度々水害に見舞われ鶴見川逸水を避け渡河の為に築堤構造で建設。

    右側崖が当時の築堤跡

    横浜市港北区篠原町2858
    横浜線新横浜駅篠原口 徒歩5分

    菊名駅

  • 菊名-新横浜間<br /><br /><br /><br />表谷跨線橋(おもてだに こせんきょう)<br />元来該区間部分は築堤で踏切が存在したが昭和39年(1964年)に東海道新幹線開通に合せ築堤横を掘下げ跨線橋構造となった。<br />また大雨の度に氾濫を反復させた鶴見川も護岸工事完工で以前の如き水害に悩まされる機会も減少。<br /><br />横浜市港北区篠原町2841<br />横浜線新横浜駅篠原口 徒歩5分

    菊名-新横浜間



    表谷跨線橋(おもてだに こせんきょう)
    元来該区間部分は築堤で踏切が存在したが昭和39年(1964年)に東海道新幹線開通に合せ築堤横を掘下げ跨線橋構造となった。
    また大雨の度に氾濫を反復させた鶴見川も護岸工事完工で以前の如き水害に悩まされる機会も減少。

    横浜市港北区篠原町2841
    横浜線新横浜駅篠原口 徒歩5分

    菊名駅

  • 小机(こづくえ)駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />横濱鐵道開業当時、東神奈川-小机駅間に大口、菊名、新横浜の各駅は未だ存在せず、菊名駅以外の開設は全て戦後。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=696

    小机(こづくえ)駅



    第1番ホーム
    横濱鐵道開業当時、東神奈川-小机駅間に大口、菊名、新横浜の各駅は未だ存在せず、菊名駅以外の開設は全て戦後。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=696

  • 小机駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />該駅該ホームは小机駅開業当時の痕跡が濃厚に残り、特に、横浜線が電車化以前に客車時代の低床様式のホームが奇跡的残存。<br />横浜線は運転当初こそ短編成だったものが客貨共に輸送量の増加に比例してホームが延長されたもので、電車化と同時に2輌編成になった事と、現在も8輌で事済む事から此の様に奇跡的に原形を残す結果をもたらしたものと推定。<br />

    小机駅



    第1番ホーム
    該駅該ホームは小机駅開業当時の痕跡が濃厚に残り、特に、横浜線が電車化以前に客車時代の低床様式のホームが奇跡的残存。
    横浜線は運転当初こそ短編成だったものが客貨共に輸送量の増加に比例してホームが延長されたもので、電車化と同時に2輌編成になった事と、現在も8輌で事済む事から此の様に奇跡的に原形を残す結果をもたらしたものと推定。

    小机駅

  • 小机駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />電車と客車との構造上の根本的相違は原則として客車はデッキとステップが設置され低床ホームの乗降が可能なのに対し、電車は昭和元年(1926年)に鋼製車輌登場以来、乗降時間の短縮と容易さとを目論みステップを廃止し高床ホーム乗降を原則とした点が相違。<br />此の為に、非電化だった区間が直流電化され電車が導入されると低床高に電車の床面に合わせた嵩上げが必要となり、ホームを一瞥し歴史的事実が判断可能。

    小机駅



    第1番ホーム
    電車と客車との構造上の根本的相違は原則として客車はデッキとステップが設置され低床ホームの乗降が可能なのに対し、電車は昭和元年(1926年)に鋼製車輌登場以来、乗降時間の短縮と容易さとを目論みステップを廃止し高床ホーム乗降を原則とした点が相違。
    此の為に、非電化だった区間が直流電化され電車が導入されると低床高に電車の床面に合わせた嵩上げが必要となり、ホームを一瞥し歴史的事実が判断可能。

    小机駅

  • 小机駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />開業以降車輌デッキ廃止に伴いホーム床面嵩上痕跡。

    小机駅



    第1番ホーム
    開業以降車輌デッキ廃止に伴いホーム床面嵩上痕跡。

    小机駅

  • 小机駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />平成23年度にJR東日本では横浜線に現用されている205系電車を車両更新を理由に京浜東北線と同じ233系に取換、併せて10輌化実施計画が存在する為に該原状が残されるのも極めて微妙な情勢。<br />

    小机駅



    第1番ホーム
    平成23年度にJR東日本では横浜線に現用されている205系電車を車両更新を理由に京浜東北線と同じ233系に取換、併せて10輌化実施計画が存在する為に該原状が残されるのも極めて微妙な情勢。

    小机駅

  • 中山(なかやま)駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />歴代側壁段差跡<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1113

    中山(なかやま)駅



    第1番ホーム
    歴代側壁段差跡
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1113

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />腕木信号機操動作ケーブル滑車取付跡<br />横浜線がCTC化されたのは昭和35年(1960年)1月。<br />然し、自動色灯信号機導入は昭和27年(1952年)1月完工。<br />信号機が色灯化に伴い腕木信号機撤去の際に腕木を動作させる滑車やケーブルも撤去されたが取付跡が現存。<br /><br />尚、戦前の昭和8年(1933年)11月18日に鐵道省線として初めてATS(列車自動停車装置)の機能試験を菊名-小机間で実施。

    中山駅



    第1番ホーム
    腕木信号機操動作ケーブル滑車取付跡
    横浜線がCTC化されたのは昭和35年(1960年)1月。
    然し、自動色灯信号機導入は昭和27年(1952年)1月完工。
    信号機が色灯化に伴い腕木信号機撤去の際に腕木を動作させる滑車やケーブルも撤去されたが取付跡が現存。

    尚、戦前の昭和8年(1933年)11月18日に鐵道省線として初めてATS(列車自動停車装置)の機能試験を菊名-小机間で実施。

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋支柱古軌条群

    中山駅



    第2番ホーム上屋支柱古軌条群

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋古軌条柱<br /><br />東神奈川駅第2番ホーム上屋柱で再活用されていた1906年(明治39年) 米カーネギー社製 横濱鐵道発注品軌条。<br /><br />中山駅上屋柱の古軌条は東神奈川駅上屋柱が95パーセント横濱鐵道発注品使用に対し中山駅は鐵道省発注品が混在。

    中山駅



    第2番ホーム上屋古軌条柱

    東神奈川駅第2番ホーム上屋柱で再活用されていた1906年(明治39年) 米カーネギー社製 横濱鐵道発注品軌条。

    中山駅上屋柱の古軌条は東神奈川駅上屋柱が95パーセント横濱鐵道発注品使用に対し中山駅は鐵道省発注品が混在。

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋古軌条柱<br /><br />1906 CARNEGIE A co Y.T.K.<br />(1906年 米カーネギー社製 溶錬方様式:平炉 横濱鐵道株式會社発注品)<br /><br />カーネギー社軌条刻印部を拡大<br /><br />

    中山駅



    第2番ホーム上屋古軌条柱

    1906 CARNEGIE A co Y.T.K.
    (1906年 米カーネギー社製 溶錬方様式:平炉 横濱鐵道株式會社発注品)

    カーネギー社軌条刻印部を拡大

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋古軌条柱<br /><br />SO AS BSCO STEEL IIIIIIIII 1928 OH I.G.R.<br />(米ベツレへレム・スティール社 1928年9月製 鐵道省発注品)

    中山駅



    第2番ホーム上屋古軌条柱

    SO AS BSCO STEEL IIIIIIIII 1928 OH I.G.R.
    (米ベツレへレム・スティール社 1928年9月製 鐵道省発注品)

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋古軌条柱<br /><br />刻印を拡大。<br /><br />1926年(大正15年)鐡道省発注軌条。<br />IGRは『鐡道省』を意味する。<br /><br />IGRを『日本帝国鉄道』と訳す文献を散見するが歴史認識希薄で事実無根の大誤訳と孫引が原因。

    中山駅



    第2番ホーム上屋古軌条柱

    刻印を拡大。

    1926年(大正15年)鐡道省発注軌条。
    IGRは『鐡道省』を意味する。

    IGRを『日本帝国鉄道』と訳す文献を散見するが歴史認識希薄で事実無根の大誤訳と孫引が原因。

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋古軌条柱<br /><br />此れら上屋柱に活用されていた歴史的古軌条群は、平成22年(2010年)3月竣工の中山駅耐震改良工事で交換撤去され現存せず。

    中山駅



    第2番ホーム上屋古軌条柱

    此れら上屋柱に活用されていた歴史的古軌条群は、平成22年(2010年)3月竣工の中山駅耐震改良工事で交換撤去され現存せず。

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />桜樹<br />背後に見える桜花は横濱鐡道中山驛開業を祝し植樹されたもの。<br /><br />横浜市緑区中山町161<br />横浜線中山駅南口 徒歩3分

    中山駅



    桜樹
    背後に見える桜花は横濱鐡道中山驛開業を祝し植樹されたもの。

    横浜市緑区中山町161
    横浜線中山駅南口 徒歩3分

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山駅<br /><br /><br /><br />桜樹<br />開業時に記念植樹された桜花、植樹後100年経過。<br /><br />横浜市緑区中山町161<br />横浜線中山駅南口 徒歩3分

    中山駅



    桜樹
    開業時に記念植樹された桜花、植樹後100年経過。

    横浜市緑区中山町161
    横浜線中山駅南口 徒歩3分

    中山駅 (神奈川県)

  • 中山-十日市場間<br /><br /><br /><br />第2谷戸川(だいに やとがわ)橋梁<br />谷戸川は恩田川、鶴見川の支流。<br />橋梁開設当初は橋の下が暗渠。<br />現在は埋設され水無川。<br /><br />横浜市緑区新治町<br />横浜線中山駅南口 横浜市営交通バス榎下城裏停留所降車 徒歩1分

    中山-十日市場間



    第2谷戸川(だいに やとがわ)橋梁
    谷戸川は恩田川、鶴見川の支流。
    橋梁開設当初は橋の下が暗渠。
    現在は埋設され水無川。

    横浜市緑区新治町
    横浜線中山駅南口 横浜市営交通バス榎下城裏停留所降車 徒歩1分

  • 中山-十日市場間<br /><br /><br /><br />第2谷戸川橋梁橋台<br />大正後期に開発登場したD50型大型蒸気機関車入線を想定しコンクリー橋梁橋台強化工事施行。<br />開業当時の原型を損ねる。<br /><br />横浜市緑区新治町<br />横浜線中山駅南口 横浜市営交通バス榎下城裏停留所降車 徒歩1分

    中山-十日市場間



    第2谷戸川橋梁橋台
    大正後期に開発登場したD50型大型蒸気機関車入線を想定しコンクリー橋梁橋台強化工事施行。
    開業当時の原型を損ねる。

    横浜市緑区新治町
    横浜線中山駅南口 横浜市営交通バス榎下城裏停留所降車 徒歩1分

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />北門踏切(ぼっかど ふみきり)<br />該踏切は横濱鐵道開業当時から歴史有する存在ながら、周囲の開発から取り残された為に、何故か該踏切北側には取付道路自体が存在せず、該踏切南側も獣道状の物しか存在せず、軽車両以外の車両通行は不可。<br />現在、横浜線内に於いて唯一の第4種踏切。<br /><br />横浜市緑区十日市場町508<br />横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バス石橋停留所降車 徒歩5分

    十日市場-長津田間



    北門踏切(ぼっかど ふみきり)
    該踏切は横濱鐵道開業当時から歴史有する存在ながら、周囲の開発から取り残された為に、何故か該踏切北側には取付道路自体が存在せず、該踏切南側も獣道状の物しか存在せず、軽車両以外の車両通行は不可。
    現在、横浜線内に於いて唯一の第4種踏切。

    横浜市緑区十日市場町508
    横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バス石橋停留所降車 徒歩5分

    十日市場駅

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />北門踏切南側<br /><br />夏は薮蚊とマムシの巣窟。<br />夜は街灯類一切無き闇。<br /><br />横浜市緑区十日市場町508<br />横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バス石橋停留所降車 徒歩5分

    十日市場-長津田間



    北門踏切南側

    夏は薮蚊とマムシの巣窟。
    夜は街灯類一切無き闇。

    横浜市緑区十日市場町508
    横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バス石橋停留所降車 徒歩5分

    十日市場駅

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />岩川橋梁(いわがわ きょうりょう)<br /><br />東神奈川-八王子駅間の橋梁で後述する旧大山街道青山架道橋と共に橋桁橋台が横濱鐵道開業時の原型を残す存在。<br />複線化後は下線専用。<br /><br />横浜市緑区いぶき野41−5<br />横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バスいぶき野停留所降車 徒歩2分

    十日市場-長津田間



    岩川橋梁(いわがわ きょうりょう)

    東神奈川-八王子駅間の橋梁で後述する旧大山街道青山架道橋と共に橋桁橋台が横濱鐵道開業時の原型を残す存在。
    複線化後は下線専用。

    横浜市緑区いぶき野41−5
    横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バスいぶき野停留所降車 徒歩2分

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />岩川橋梁橋台<br /><br />石積構造<br /><br />横浜市緑区いぶき野41−5<br />横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バスいぶき野停留所降車 徒歩2分

    十日市場-長津田間



    岩川橋梁橋台

    石積構造

    横浜市緑区いぶき野41−5
    横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バスいぶき野停留所降車 徒歩2分

    十日市場駅

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />岩川橋梁全景<br /><br />現地付近はマムシの巣窟で夏場は要注意。<br /><br />横浜市緑区いぶき野41−5<br />横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バスいぶき野停留所降車 徒歩2分

    十日市場-長津田間



    岩川橋梁全景

    現地付近はマムシの巣窟で夏場は要注意。

    横浜市緑区いぶき野41−5
    横浜線十日市場駅南口 横浜市営交通バスいぶき野停留所降車 徒歩2分

    十日市場駅

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />旧大山街道青山架道橋(きゅうおおやまかいどう あおやま かどうきょう)<br /><br />横浜市緑区長津田1−18<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス下長津田停留所降車 徒歩2分

    十日市場-長津田間



    旧大山街道青山架道橋(きゅうおおやまかいどう あおやま かどうきょう)

    横浜市緑区長津田1−18
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス下長津田停留所降車 徒歩2分

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />旧大山街道青山架道橋<br /><br />明治期に架橋された橋梁は当時の中型蒸気機関車の重量容積を基準に設定されたが、大正後期に至り輸送量増強で9900型貨物用大型蒸気機関車(後のD50型蒸気機関車)が開発された際に横浜線も該機関車導入対象路線となり軌道強化が直ちに検討され改良承認されたが横浜線は原則としてD50型蒸気機関車導入が見送られた為に軌道強化対策は略され結果的に原型で建設当時の構造が残された。<br /><br />横浜線には原則として8620型、8850型、9600型、5550型、C58型、B20型が入線使用された。<br /><br />横浜市緑区長津田1−18<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス下長津田停留所降車 徒歩2分

    十日市場-長津田間



    旧大山街道青山架道橋

    明治期に架橋された橋梁は当時の中型蒸気機関車の重量容積を基準に設定されたが、大正後期に至り輸送量増強で9900型貨物用大型蒸気機関車(後のD50型蒸気機関車)が開発された際に横浜線も該機関車導入対象路線となり軌道強化が直ちに検討され改良承認されたが横浜線は原則としてD50型蒸気機関車導入が見送られた為に軌道強化対策は略され結果的に原型で建設当時の構造が残された。

    横浜線には原則として8620型、8850型、9600型、5550型、C58型、B20型が入線使用された。

    横浜市緑区長津田1−18
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス下長津田停留所降車 徒歩2分

  • 十日市場-長津田間<br /><br /><br /><br />旧大山街道青山架道橋<br /><br />岩川橋梁と共に橋桁橋台が横濱鐵道開業当時の原型を残す貴重な存在。<br /><br />横浜市緑区長津田1−18<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス下長津田停留所降車 徒歩2分<br /><br />

    十日市場-長津田間



    旧大山街道青山架道橋

    岩川橋梁と共に橋桁橋台が横濱鐵道開業当時の原型を残す貴重な存在。

    横浜市緑区長津田1−18
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス下長津田停留所降車 徒歩2分

  • 長津田(ながつた)駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋跡<br /><br />現在は遊休地。<br /><br />因みに、駅名は『ながつた』、町名は『ながつだ』で駅名は濁音発音せず。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1100

    長津田(ながつた)駅



    旧駅本屋跡

    現在は遊休地。

    因みに、駅名は『ながつた』、町名は『ながつだ』で駅名は濁音発音せず。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1100

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡<br />横浜線が単線時代、通票閉塞使用時代の相対式ホーム痕跡。

    長津田駅



    旧第1番ホーム跡
    横浜線が単線時代、通票閉塞使用時代の相対式ホーム痕跡。

    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />南口連絡通路<br /><br />橋上駅舎化されるまで旧第1番ホーム。<br />元ホームを活用しているだけに通路として広々としている。

    長津田駅



    南口連絡通路

    橋上駅舎化されるまで旧第1番ホーム。
    元ホームを活用しているだけに通路として広々としている。

    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />桜樹跡<br />駅開業を記念して植樹されたソメイヨシノ痕。

    長津田駅



    桜樹跡
    駅開業を記念して植樹されたソメイヨシノ痕。

    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />桜樹跡<br />但し、経年に依り樹勢が退勢化した処、大型台風の影響で線路を支障した事から伐採され現在は根元のみ残存。

    長津田駅



    桜樹跡
    但し、経年に依り樹勢が退勢化した処、大型台風の影響で線路を支障した事から伐採され現在は根元のみ残存。

    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />旅客鉄道東急電鉄連絡線<br /><br />東急の新車投入や他社転出の際に使用。<br />元を糾せば現在の『子供の国』に存在した陸軍田奈(たな)弾薬庫連絡専用線跡。

    長津田駅



    旅客鉄道東急電鉄連絡線

    東急の新車投入や他社転出の際に使用。
    元を糾せば現在の『子供の国』に存在した陸軍田奈(たな)弾薬庫連絡専用線跡。

    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />旅客鉄道東急電鉄連絡線<br />分岐右手東急側。<br />左手JR東日本側。<br />

    長津田駅



    旅客鉄道東急電鉄連絡線
    分岐右手東急側。
    左手JR東日本側。

    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />旅客鉄道東急電鉄連絡線<br />左手 東急側。<br />右手JR東日本側。<br /><br /><br /><br />

    長津田駅



    旅客鉄道東急電鉄連絡線
    左手 東急側。
    右手JR東日本側。



    長津田駅

  • 長津田駅<br /><br /><br /><br />旅客鉄道東急電鉄連絡線<br />左手 東急側。<br />右手 JR東日本側。<br /><br /><br /><br />

    長津田駅



    旅客鉄道東急電鉄連絡線
    左手 東急側。
    右手 JR東日本側。



    長津田駅

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br /><br />分岐施設敷地跡。<br /><br />昭和16年(1941年)に当時の陸軍省命令に拠り周辺の土地が強制収用され陸軍田奈弾薬庫が設置。<br /><br />防諜上を理由に当時の帝國陸軍測量部作成地図には弾薬庫や引込線に関する記載一切無。<br /><br />田奈弾薬庫第1集積場は、現在の『こどもの国』駐車場から中央広場(横浜市青葉区奈良町)一帯にかけ設置。<br /><br />横浜市青葉区恩田2078<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分<br />

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡

    分岐施設敷地跡。

    昭和16年(1941年)に当時の陸軍省命令に拠り周辺の土地が強制収用され陸軍田奈弾薬庫が設置。

    防諜上を理由に当時の帝國陸軍測量部作成地図には弾薬庫や引込線に関する記載一切無。

    田奈弾薬庫第1集積場は、現在の『こどもの国』駐車場から中央広場(横浜市青葉区奈良町)一帯にかけ設置。

    横浜市青葉区恩田2078
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br /><br />長津田第4号踏切<br /><br />横浜市青葉区恩田2078<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡

    長津田第4号踏切

    横浜市青葉区恩田2078
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br /><br />現在は『こどもの国線』恩田-こどもの国駅間。<br /><br />施設は横浜高速鉄道保有(第1種鉄道事業)。<br />運転業務関係は東急電鉄委託(第2種鉄道事業)。<br /><br />横浜市青葉区恩田2078<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡

    現在は『こどもの国線』恩田-こどもの国駅間。

    施設は横浜高速鉄道保有(第1種鉄道事業)。
    運転業務関係は東急電鉄委託(第2種鉄道事業)。

    横浜市青葉区恩田2078
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br /><br />長津田第4号踏切付近に当時の途中分岐痕跡が唯一残留。<br />許可を得て残存軌条を精査したが刻印が見当たらず出所不明。<br /><br />横浜市青葉区恩田2078<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡

    長津田第4号踏切付近に当時の途中分岐痕跡が唯一残留。
    許可を得て残存軌条を精査したが刻印が見当たらず出所不明。

    横浜市青葉区恩田2078
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br /><br />ガーター橋梁が残留。<br />同地に分岐設備が存在。<br /><br />横浜市青葉区恩田2078<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡

    ガーター橋梁が残留。
    同地に分岐設備が存在。

    横浜市青葉区恩田2078
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス徳恩寺停留所降車 徒歩2分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br />長津田第4踏切<br /><br />横浜市青葉区恩田2078<br />横浜線長津田駅南口 徳恩寺停留所降車 徒歩2分

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡
    長津田第4踏切

    横浜市青葉区恩田2078
    横浜線長津田駅南口 徳恩寺停留所降車 徒歩2分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />陸軍田奈弾薬庫引込線跡<br /><br />長津田第5号踏切<br /><br />分岐点から田奈弾薬庫第2集積場跡、即ち、現在の学校法人トキワ学園横浜美術短期大学(青葉区鴨志田町1204)、及び、横浜市立奈良中学校(青葉区すみよし台363)所在地付近まで路線が存在した。<br /><br />田奈弾薬庫専用線で不要部分は廃止後も撤去されず若干ながら数箇所残存。<br />線路の半分は歩行者の利便を考慮しオーバーレイで残存。<br /><br />オーバーレイとは路面電車廃止後など道路上の軌道を撤去回収せずコンクリートやアスファルトなどで軌条上から埋没ませる工法。<br />但し、完全撤去と異なり後にパワーシャベル等に拠る掘返しでの重機類使用に制限が生じる。<br /><br />東京都は美濃部都政の下、経費節減を理由に積極的にオーバーレイを使用した為に、その後の道路工事の都度障害化が表面化し、且つ、都電廃止後35年以上経過するも、時折化けの皮が剥れるが如く道路中央部から路面敷が表面化する事例が後を絶たない。<br /><br />横浜市青葉区奈良334<br />横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス奈良橋停留所前

    横浜線枝線余話



    陸軍田奈弾薬庫引込線跡

    長津田第5号踏切

    分岐点から田奈弾薬庫第2集積場跡、即ち、現在の学校法人トキワ学園横浜美術短期大学(青葉区鴨志田町1204)、及び、横浜市立奈良中学校(青葉区すみよし台363)所在地付近まで路線が存在した。

    田奈弾薬庫専用線で不要部分は廃止後も撤去されず若干ながら数箇所残存。
    線路の半分は歩行者の利便を考慮しオーバーレイで残存。

    オーバーレイとは路面電車廃止後など道路上の軌道を撤去回収せずコンクリートやアスファルトなどで軌条上から埋没ませる工法。
    但し、完全撤去と異なり後にパワーシャベル等に拠る掘返しでの重機類使用に制限が生じる。

    東京都は美濃部都政の下、経費節減を理由に積極的にオーバーレイを使用した為に、その後の道路工事の都度障害化が表面化し、且つ、都電廃止後35年以上経過するも、時折化けの皮が剥れるが如く道路中央部から路面敷が表面化する事例が後を絶たない。

    横浜市青葉区奈良334
    横浜線長津田駅南口 横浜市営交通バス奈良橋停留所前

    長津田駅

  • 町田駅<br /><br /><br /><br />旧 原町田駅構内

    町田駅



    旧 原町田駅構内

  • 町田駅<br /><br /><br /><br />旧 原町田駅構内

    町田駅



    旧 原町田駅構内

  • 町田駅<br /><br /><br /><br />旧 原町田駅構内

    町田駅



    旧 原町田駅構内

  • 町田駅<br /><br /><br /><br />旧 原町田駅構内

    町田駅



    旧 原町田駅構内

  • 町田駅<br /><br /><br /><br />旧御召列車専用駅舎跡<br /><br />御幸通。<br />写真の位置に陸軍士官学校卒業式臨席の昭和天皇の為に御召列車専用ホームと駅舎が存在した。<br />戦後、駅舎とホームは取壊されたが、駅から取付道路たる御幸通のみ残存。

    町田駅



    旧御召列車専用駅舎跡

    御幸通。
    写真の位置に陸軍士官学校卒業式臨席の昭和天皇の為に御召列車専用ホームと駅舎が存在した。
    戦後、駅舎とホームは取壊されたが、駅から取付道路たる御幸通のみ残存。

  • 原町田(はらまちだ)駅<br /><br /><br /><br />旧御召列車専用駅前通<br /><br />木立並木が駅前通だった証<br />陸軍士官学校生徒が植樹<br /><br />東京都町田市原町田1−7−2<br />横浜線町田駅ターミナル口 徒歩3分

    原町田(はらまちだ)駅



    旧御召列車専用駅前通

    木立並木が駅前通だった証
    陸軍士官学校生徒が植樹

    東京都町田市原町田1−7−2
    横浜線町田駅ターミナル口 徒歩3分

  • 原町田駅<br /><br /><br /><br />旧御召列車専用駅舎跡<br /><br />現在は町田市営原町田1丁目駐車場<br /><br />東京都町田市原町田1−7−31<br />横浜線町田駅ターミナル口 徒歩2分

    原町田駅



    旧御召列車専用駅舎跡

    現在は町田市営原町田1丁目駐車場

    東京都町田市原町田1−7−31
    横浜線町田駅ターミナル口 徒歩2分

  • 原町田駅<br /><br /><br /><br />旧御召列車専用駅用地跡<br /><br />現在はJR東日本関連企業が入所<br />尚、該地に大東亜戦争末期、大井工機部から御料車数両を疎開させたとの話を仄聞した事が有るが、東浅川駅、及び、真岡機関区への疎開は事実だが、原町田駅への疎開に就いては資料での裏付が存在せず今後の研究に待つ。<br /><br />東京都町田市原町田1−7−24<br />横浜線町田駅ターミナル口 徒歩2分

    原町田駅



    旧御召列車専用駅用地跡

    現在はJR東日本関連企業が入所
    尚、該地に大東亜戦争末期、大井工機部から御料車数両を疎開させたとの話を仄聞した事が有るが、東浅川駅、及び、真岡機関区への疎開は事実だが、原町田駅への疎開に就いては資料での裏付が存在せず今後の研究に待つ。

    東京都町田市原町田1−7−24
    横浜線町田駅ターミナル口 徒歩2分

  • 原町田商店街<br /><br /><br /><br />旧原町田駅と小田急原町田駅間を結ぶ商店街。<br />写真に写っている人数が此れでも多い方だが、町田駅移転前は肩がぶつかる程の大雑踏だった。<br /><br />東京都町田市原町田4−3−7<br />横浜線町田駅ターミナル口 徒歩1分

    原町田商店街



    旧原町田駅と小田急原町田駅間を結ぶ商店街。
    写真に写っている人数が此れでも多い方だが、町田駅移転前は肩がぶつかる程の大雑踏だった。

    東京都町田市原町田4−3−7
    横浜線町田駅ターミナル口 徒歩1分

  • 横濱線広軌試験運転写真<br /><br /><br /><br />原町田駅構内で撮影。<br />機関車は英国製、通称B6型。<br /><br />横浜臨海公園 蔵

    横濱線広軌試験運転写真



    原町田駅構内で撮影。
    機関車は英国製、通称B6型。

    横浜臨海公園 蔵

  • 古淵-淵野辺間<br /><br /><br /><br />可視範囲直線が延びる<br />東神奈川方<br /><br />相模原市中央区東淵野辺4−27−1<br />横浜線古淵駅徒歩6分

    古淵-淵野辺間



    可視範囲直線が延びる
    東神奈川方

    相模原市中央区東淵野辺4−27−1
    横浜線古淵駅徒歩6分

  • 古淵-淵野辺間<br /><br /><br /><br />可視範囲直線が延びる。<br />八王子方<br /><br />広軌試験を実施した際に長い直線コースと適度な勾配は運転試験には好都合だったに相違ない<br /><br />相模原市中央区東淵野辺4−27−1<br />横浜線古淵駅 徒歩6分

    古淵-淵野辺間



    可視範囲直線が延びる。
    八王子方

    広軌試験を実施した際に長い直線コースと適度な勾配は運転試験には好都合だったに相違ない

    相模原市中央区東淵野辺4−27−1
    横浜線古淵駅 徒歩6分

  • 古淵-淵野辺間<br /><br /><br /><br />淵野辺駅引上線跡<br /><br />背景施設は カルピス飲料食品開発研究所<br /><br />相模原市中央区東淵野辺5−22−5<br />横浜線淵野辺駅南口 徒歩10分

    古淵-淵野辺間



    淵野辺駅引上線跡

    背景施設は カルピス飲料食品開発研究所

    相模原市中央区東淵野辺5−22−5
    横浜線淵野辺駅南口 徒歩10分

  • 古淵-淵野辺間<br /><br /><br /><br />淵野辺駅引上線跡<br /><br />背景施設は 青山学院大学相模原キャンパス<br /><br />相模原市中央区共和1−4−8<br />横浜線淵野辺駅南口 徒歩6分

    古淵-淵野辺間



    淵野辺駅引上線跡

    背景施設は 青山学院大学相模原キャンパス

    相模原市中央区共和1−4−8
    横浜線淵野辺駅南口 徒歩6分

  • 淵野辺(ふちのべ)駅<br /><br /><br /><br />上り出発信号機<br /><br />単線時代の旧本線。<br />直進状態の下り線が駅構内直前で湾曲しているが、単線時代は現在の上り線に繋がっていた痕跡。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1373

    淵野辺(ふちのべ)駅



    上り出発信号機

    単線時代の旧本線。
    直進状態の下り線が駅構内直前で湾曲しているが、単線時代は現在の上り線に繋がっていた痕跡。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1373

    淵野辺駅

  • 淵野辺駅<br /><br /><br /><br />旧木製架線柱切断痕<br />元架線吊電柱で木柱を撤去する際に根元でカットされた残滓。<br />木柱は根元から掘り起す為に痕跡が残りにくく此の様に木柱痕が残る例は極めて稀。

    淵野辺駅



    旧木製架線柱切断痕
    元架線吊電柱で木柱を撤去する際に根元でカットされた残滓。
    木柱は根元から掘り起す為に痕跡が残りにくく此の様に木柱痕が残る例は極めて稀。

    淵野辺駅

  • 淵野辺駅<br /><br /><br /><br />旧第1番線<br /><br />橋上化された際にホームが島式化され線路のみ嘗て本屋側に線路が存在した事を痕跡として残す。

    淵野辺駅



    旧第1番線

    橋上化された際にホームが島式化され線路のみ嘗て本屋側に線路が存在した事を痕跡として残す。

    淵野辺駅

  • 淵野辺駅<br /><br /><br /><br />米軍相模補給廠<br /><br />補給廠施設内部を望見されぬ為に壁の構築痕。

    淵野辺駅



    米軍相模補給廠

    補給廠施設内部を望見されぬ為に壁の構築痕。

    淵野辺駅

  • 淵野辺-矢部間<br /><br /><br /><br />横浜線(右)と米軍相模補給廠専用線跡(左)<br /><br />矢淵陸橋(やぶち りっきょう)上<br /><br />相模原市中央区淵野辺1−1−22<br />横浜線淵野辺駅南口 徒歩3分<br />

    淵野辺-矢部間



    横浜線(右)と米軍相模補給廠専用線跡(左)

    矢淵陸橋(やぶち りっきょう)上

    相模原市中央区淵野辺1−1−22
    横浜線淵野辺駅南口 徒歩3分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />米相模補給廠専用線跡(あめりかぐん さがみほきゅうしょう せんようせん)<br /><br />運転休止後、違法建築物群に依り占有される。<br />日本国内でありながらバンコクやマニラ並み。<br />当時の役所感覚で自身の所管に非ずと逃避意識が此の様な状態を招く。<br /><br />因みに、民法第162条では、所有権の取得時効に就いて、<br />1)20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。<br />2)10年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。<br />と規定し、現在、此れらの敷地は建築物所有主に依り正当に所有されている。<br /><br />相模原市中央区淵野辺1−1−10<br />横浜線淵野辺駅南口 徒歩5分<br /><br />

    横浜線枝線余話



    米相模補給廠専用線跡(あめりかぐん さがみほきゅうしょう せんようせん)

    運転休止後、違法建築物群に依り占有される。
    日本国内でありながらバンコクやマニラ並み。
    当時の役所感覚で自身の所管に非ずと逃避意識が此の様な状態を招く。

    因みに、民法第162条では、所有権の取得時効に就いて、
    1)20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
    2)10年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。
    と規定し、現在、此れらの敷地は建築物所有主に依り正当に所有されている。

    相模原市中央区淵野辺1−1−10
    横浜線淵野辺駅南口 徒歩5分

    淵野辺駅

  • 淵野辺-矢部間<br /><br /><br /><br />米軍相模補給廠専用線跡<br /><br />然るに、背後は土地簒奪に依る違法建築群<br /><br />相模原市中央区淵野辺1−1−12<br />横浜線淵野辺駅南口 徒歩4分

    淵野辺-矢部間



    米軍相模補給廠専用線跡

    然るに、背後は土地簒奪に依る違法建築群

    相模原市中央区淵野辺1−1−12
    横浜線淵野辺駅南口 徒歩4分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />米相模補給廠専用線跡<br /><br />ベトナム戦争中使用後、昭和54年(1979年)10月1日廃止<br /><br />昭和40年代当時の財産所有は大蔵省、運転担当は日本国有鉄道。<br /><br />相模原市中央区淵野辺1−1−2<br />横浜線矢部駅東口 徒歩1分

    横浜線枝線余話



    米相模補給廠専用線跡

    ベトナム戦争中使用後、昭和54年(1979年)10月1日廃止

    昭和40年代当時の財産所有は大蔵省、運転担当は日本国有鉄道。

    相模原市中央区淵野辺1−1−2
    横浜線矢部駅東口 徒歩1分

  • 横浜線枝線余話<br /><br /><br /><br />米相模原補給廠専用線跡<br /><br />相模原市立矢部駅北口自転車駐車場建設時に軌条は撤去された<br /><br />相模原市矢部新町3<br />横浜線矢部駅北口 徒歩1分

    横浜線枝線余話



    米相模原補給廠専用線跡

    相模原市立矢部駅北口自転車駐車場建設時に軌条は撤去された

    相模原市矢部新町3
    横浜線矢部駅北口 徒歩1分

    矢部駅

  • 矢部(やべ)駅<br /><br /><br /><br />矢部駅ホームから淵野辺駅を俯瞰。<br />該駅は、昭和25年(1950年)9月1日に米軍横浜技術廠相模工廠通勤労働者乗降取扱の為に開設された 相模仮乗降場(さがみ かりじょうこうじょう)が嚆矢。<br />その後、昭和32年(1957年)10月1日に正式に停車場に格上され一般取扱を開始。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1598

    矢部(やべ)駅



    矢部駅ホームから淵野辺駅を俯瞰。
    該駅は、昭和25年(1950年)9月1日に米軍横浜技術廠相模工廠通勤労働者乗降取扱の為に開設された 相模仮乗降場(さがみ かりじょうこうじょう)が嚆矢。
    その後、昭和32年(1957年)10月1日に正式に停車場に格上され一般取扱を開始。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1598

  • 相模原(さがみはら)駅<br /><br /><br /><br />駅は改築が完了し開業当時の痕跡はホームにのみ残るのみ。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=731

    相模原(さがみはら)駅



    駅は改築が完了し開業当時の痕跡はホームにのみ残るのみ。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=731

  • 相模原駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />ソメイヨシノ<br />駅開設を記念して当時第2番ホームに植樹。

    相模原駅



    第2番ホーム
    ソメイヨシノ
    駅開設を記念して当時第2番ホームに植樹。

    相模原駅

  • 相模原駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />ソメイヨシノ<br />老いたりとは申せ今年も樹勢は衰えを見せない。

    相模原駅



    第2番ホーム
    ソメイヨシノ
    老いたりとは申せ今年も樹勢は衰えを見せない。

    相模原駅

  • 橋本(はしもと)駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />階段拡張と共にホームも拡張された為に、元来、石積たるホーム側壁は塗り込められ原型を喪失。

    橋本(はしもと)駅



    第1番ホーム
    階段拡張と共にホームも拡張された為に、元来、石積たるホーム側壁は塗り込められ原型を喪失。

    橋本駅 (神奈川県)

  • 橋本駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />橋本駅が京王電鉄橋本駅乗入れに関連して橋上化された際に過去の施設が悉く撤去された中でホーム段差が橋本駅の歴史を物語る唯一の存在。

    橋本駅



    第2番ホーム
    橋本駅が京王電鉄橋本駅乗入れに関連して橋上化された際に過去の施設が悉く撤去された中でホーム段差が橋本駅の歴史を物語る唯一の存在。

    橋本駅 (神奈川県)

  • 片倉-八王子間<br /><br /><br /><br />日向前水路(ひなたまえ すいろ)跡<br />昭和63年(1988年)3月6日横浜線複線化を前に河川改修と暗渠化工事が施工され該ヶ所はコンクリートで封印された。<br /><br />東京都八王子市打越町2007−1<br />京王電鉄北野駅南口 徒歩4分

    片倉-八王子間



    日向前水路(ひなたまえ すいろ)跡
    昭和63年(1988年)3月6日横浜線複線化を前に河川改修と暗渠化工事が施工され該ヶ所はコンクリートで封印された。

    東京都八王子市打越町2007−1
    京王電鉄北野駅南口 徒歩4分

  • 八王子駅<br /><br /><br /><br />横浜線が全線複線化する際に一番ネックとなった八王子駅構内配置だった。<br />明治期に建築された煉瓦積機関庫なども解体されたが、車輌転向の際に使用するターンテーブルが奇跡的に残存。

    八王子駅



    横浜線が全線複線化する際に一番ネックとなった八王子駅構内配置だった。
    明治期に建築された煉瓦積機関庫なども解体されたが、車輌転向の際に使用するターンテーブルが奇跡的に残存。

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この旅行記へのコメント (31)

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  • りんごあめさん 2014/10/13 21:01:19
    ご無沙汰しています。
    横浜臨海公園さん、ご無沙汰しています。

    久しぶりの旅行記にいいねしてくださって有り難うございます。

    東神奈川ー八王子間。
    横浜に来て一年以上たったので土地勘もあるので、楽しく読ませてもらいました。

    東横線の横浜駅も乗り換えが複雑だな・・・と思っていたら地元の方から、みなとみらい線が出来る前の昔の横浜駅の事とか教えて貰い、不思議に思っていた事がいろいろ納得出来たり。

    いろいろ調べたりすると奥深いのでしようね(^^)

    これからもよろしくお願いします。

    りんごあめ より。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/10/20 09:47:32
    拝復
    りんごあめさま、おはようございます。


    学生たちが大学祭で焼きそばやフランフルトソーセージなどのテキヤ稼業に精を出している最中に、小生、硫黄島に渡り、戦没者の遺骨収集を行っていた関係で、返事を差し上げるのが大変遅くなりまして、誠に申し訳ございませんでした。

    横浜線の旅行記は現在85パーセント程度の完成度でございます。

    あとは、橋本-片倉間を追加すれば完成する予定です。

    菊名駅の乗り換えは駅改良の都度、だんだん複雑化され利用者にとっては不便極まりない状態です。




    横浜臨海公園
  • Cyunさん 2013/09/06 12:38:01
    なつかしいです
    こんにちは、横浜臨海公園 様

    以前相模大野に住んでいた当時、
    たまに利用していました。
    また高校時代には通学にも利用していました。

    幼少の頃はまだ、茶色い電車が走っており、
    町田駅もまだ原町田という名称で、
    場所も現在より数百メートル横浜寄りにありました。

    高校の通学時代は流石に103系に切り替わっていましたが、
    橋本-八王子間はまだ単線だったと記憶にあります。

    今思うと、大分昔の話となりましたが…

    では

    Cyun

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/09/06 13:56:41
    拝復
    Cyunさま、こんにちは。


    小生の掲示板に投稿を賜りまして誠に有難うございます。

    > 以前相模大野に住んでいた当時、
    > たまに利用していました。
    相模大野はJR東海のリニア停車駅最有力候補として、昨今注目を集めている所です。
    > また高校時代には通学にも利用していました。
    →と仰る事は、当時は小田急線と横浜線を利用されていた様子ですね。

    > 幼少の頃はまだ、茶色い電車が走っており、
    > 町田駅もまだ原町田という名称で、
    > 場所も現在より数百メートル横浜寄りにありました。
    →小生の旅行記の中にも登場しておりますが、当時の商店街は双方の電車に乗る為に、年配者以外は、殆どの人が走って移動していたのを記憶しております。

    > 高校の通学時代は流石に103系に切り替わっていましたが、
    > 橋本-八王子間はまだ単線だったと記憶にあります。
    →小生の記憶では、東神奈川駅から全線単線時代に遡ります。




    横浜臨海公園

    Cyun

    Cyunさん からの返信 2013/09/06 20:31:01
    RE: なつかしいです
    横浜臨海公園 様

    >→と仰る事は、当時は小田急線と横浜線を利用されていた様子ですね。

    仰る通り
    相模大野から町田までは小田急を利用しておりました。

    ちなみに当時は成瀬と十日市場の駅ができたばかりだったと思います。

    >→小生の旅行記の中にも登場しておりますが、当時の商店街は双方の電車>に乗る為に、年配者以外は、殆どの人が走って移動していたのを記憶して>おります。

    ん十年前は、
    町田駅原町田間は商店街でお店が並び、
    大型店など全くなく、
    町田駅(小田急)にOXストア、
    現在のModiのところに平屋のにシズオカヤという
    スーパーがあっただけだと思います。

    年に数度しかいかなくなりましたが、
    すっかり変わりましたね。

    Cyun
  • はくさんちどりさん 2013/06/30 18:45:47
    懐かしく拝見しました
    横浜臨海公園さんへ
     こんばんは!
     東京に本社がある会社に勤務していた時、単身赴任で町田に4年、菊名に1年住んでいました。休日の暇なときに、小田急線全線・横浜線・東急線の沿線と多摩川堤防を歩きました。
     今回横浜線の歴史もよくわかり、沿線の風景もたくさんあって、とっても懐かしく拝見させていただきました。ありがとうございます。
     機会があれば、小生の撮った写真も旅行記とともに投稿したいと思いますが、地場会社勤務・家庭菜園(約50坪)との3足のワラジを履いているほか、週末はJRAへのご奉仕があり、時間がかかりそうです。
     ほかの旅行記なども折をみて順次拝見させていただきたいと思いますので、今後もよろしくお願いいたします。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/07/01 10:26:58
    拝復
    はくさんちどりさま、こんにちは。


    旅行記へのお立寄りと投票を賜りまして誠に有難うございました。

    システムメンテナンス改定以前のフォートラベルでの旅行記の投稿は、保留が不可能だった為に、作成中とせねばならず、御見苦しい状況を何卒お許しを頂きたいと存じます。

    横浜線の旅行記も、今から考えると、東神奈川-町田、町田-八王子と2編に分けて作成すれば良かったと反省しております。

    兎に角、刊行されている史料ではなく、一次資料に当たり精査して旅行記にまとめておりますので、時間を要する作業であり、且つ、恥ずかしながら、昨年11月に、小生、置き引き被害に遭い、収集した資料を失う被害に遭っており、記憶を元に復元している最中でございます。

    完成まで、まだ時間を要するものと思われますが、何卒ご理解の程をお願い申します。

    小生こそ、今後とも宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • 蔦之丞さん 2013/06/28 09:53:03
    懐かしく拝見させて頂きました
    48年前から鶴ヶ峰・寒川・茅ヶ崎・平塚・横浜・川崎
    と住んでいたので
    懐かしい場所が沢山あり
    気持ちをタイムスリップさせて頂きました
    ありがとうございます!

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/06/29 08:12:34
    拝復
    蔦之丞さま、おはようございます。


    懇切なメッセージを賜りまして誠に有難うございます。

    実は、迂闊な事に、今回メッセージを賜るまで、蔦之丞さまが神奈川県在住の方だとは思ってもおりませんでした。

    此れからも宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園

    蔦之丞

    蔦之丞さん からの返信 2013/06/29 13:38:22
    RE: 拝復
    横浜臨海公園様
    神奈川に住んでいたのは昔の事で
    Uターンして、今は故郷の福島に生息しています。爆

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/06/29 16:20:43
    再拝復
    蔦之丞さま、こんにちは。


    早速メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    それにしても、福島県の方々は、何かにつけて無知で低級でおバカなマスコミ報道の為に、非常に不快な想いをさせられ、心より同情しております。
    何度か福島県浜通り、及び、仲通にボランティアで訪れましたが、地元の方々の憤りを目の当たりにして、人事ではないと思っております。

    フォートラベルの旅行記でも、東日本大震災関係で心無い非常識な内容の旅行記には心痛みます。




    横浜臨海公園
  • hanahana-kさん 2013/06/26 11:04:16
    なぜか懐かしい気持ちに
    横浜臨海公園様

    こんにちは。
    私は橋本−新横浜間を利用して、京都と自宅のある多摩を行き来しています。
    自分がみている向かいのホーム、電車の中からの画像、そして詳細な記録。
    ふと、旧国鉄、JR職員だった亡き祖父や父がこのサイトを見たら、
    どんな風に話がはずむのだろう・・・ととても懐かしい気持ちになりました。
     
    同行者が一緒だと写真を撮ることを躊躇し、画像をためることができない課題を抱えている私にとって、横浜臨海公園さんの旅行記は、旅行記を作成する原点を教えていただいているようでもあります。

               これからが出発進行!のhanahana-k より

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/06/27 16:12:47
    RE: なぜか懐かしい気持ちに
    hanahana-kさま、こんにちは。


    掲示板にメッセージ、及び、旅行記に投票を賜りまして誠に有難うございました。

    また過分にすぎるお褒めのお言葉を賜りまして恐縮しております。

    実は、多忙にかまけて、町田以西の状態を整えたいと思いながら時間ばかり経過してしまっております。
    建設当時、淵野辺の次は相原が計画され、途中に橋本は本来は駅設置が予定されておりませんでしたが、地元有志が土地を無償提供して急遽設置が決定した所です。
    橋本駅近くに記念碑が建っておりますが、此れとて、未だ該旅行記に追加投稿されていない状態です。

    明治期から大正期にかけて栄え、機関区や修繕を行った車庫も無くなった相原駅周辺は、現在では静かな住宅地になり、何も無かった橋本の発展ぶりは驚くばかりです。



    横浜臨海公園
  • DANAさん 2012/09/01 21:39:27
    祝・開通…
    横浜臨海公園様
     
     長津田のバス停のそばに、上の子どもが5歳になるまで住んでいました。毎日横浜線の音が聞こえる賃貸マンションでした。あらためて拝見して、とても懐かしくなりました。

     ついに八王子まで到達されましたね。素晴らしい作業と感じます。

    DANA

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/09/04 14:19:34
    拝復
    DANAさま、こんにちは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
    長津田駅周辺は、日華事変前後に当時の陸軍省が田奈弾薬保管庫を設置し、地主には10年後に償還可能な債権を交付したものの、昭和25年には超インフレの為に債権は紙屑同然になり、当時の政府に交渉しても解決済の一言だった為に、行政への不信へとなり、駅前再開発を何度立案しても地主達が結束して反対する為に今以って、駅前は開発から取り残され、交通事故が日常茶飯事な所になってしまっております。



    横浜臨海公園
  • mintさん 2012/08/26 22:11:53
    こんばんわ!
    横浜臨海公園さま


    お久しぶりです。

    横浜線歴史的痕跡探訪記・・拝見させていただきました。

    私は横浜が好きで何度か行ってますが・・
    鉄道の歴史まであまり考えてなかったですね・・!

    駅舎の柱やホームの柱・ホームの基礎のレンガの壁や架橋のレンガや
    石組みなど・・最近はあまり見られなくなりましたね・・!
    拝見してて、ドキドキでした!

    線路のポイント切り替えのところや、まっすぐ伸びた線路の脇に立ち並ぶ
    柱・・心がドキドキしました。


    横浜開港150周年のとき・・偶然寄り道したら
    横須賀線(大船〜横須賀)開業120周年と
    東海道線(新橋〜神戸)全通120周年の
    電車の記念切手ありましたのですかさずを購入しました。

    また楽しみにしてます。

       iroenpitu

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/08/27 10:36:49
    拝復
    iroenpituさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    > 横浜線歴史的痕跡探訪記・・拝見させていただきました。
    >
    > 私は横浜が好きで何度か行ってますが・・
    > 鉄道の歴史まであまり考えてなかったですね・・!
    >
    > 駅舎の柱やホームの柱・ホームの基礎のレンガの壁や架橋のレンガや
    > 石組みなど・・最近はあまり見られなくなりましたね・・!
    > 拝見してて、ドキドキでした!
    →実は、該旅行記は、ほぼ完成しているのですが、若干追加したい部分がございました関係で、完成まで非公開のつもりでしたが、夏休み中の事でもあり、高校生の方から夏休みの課題として参考にさせて頂きたいとのメッセージを賜り、一時的に再公開に踏み切ったものです。

    実は、横須賀線も95パーセント完成状態で再公開待ちの状態でございます。

    拙稿旅行記、つたないものばかりで恐縮ですが、何卒ご期待の程をお願い申します。



    横浜臨海公園
  • DANAさん 2012/06/26 20:30:09
    中山駅から延進&建造中の横浜線
    横浜臨海公園様

     ご無沙汰をいたしました。いつも静かなご声援、本当にありがとうございます。また、50万を超えるアクセスに対する謙虚なお言葉。あなたの誠実なお人柄を実感しております。

     さて、大好きな横浜線、今も丁寧に建造を続けていらっしゃる様子を拝見して、本当に脱帽でございます。そしてとても嬉しい気持ちです。
     島状ホーム・相対式ホームの説明も分かりやすく、少し高揚した気分でございます。神奈川駅と東神奈川駅の謎も解けました。ちなみに、知り合いのおぼっちゃまで鉄道大好き少年がいるのですが、彼に「東神奈川から横浜に行く途中で線路の音が変わるんだよ〜。おばちゃん気がついてた?」と聞かれて真っ青になった記憶が…。

     30年前、初めて横浜線に乗ったとき、車両の古さに驚きました。板張りの油が浮いた床、通路の真ん中に支柱のある車両。長津田駅に降り立った時、なんだか昨日まで生活していた故郷を思い出して不思議な気持ちでした。それから、十日市場と成瀬という駅ができたのですが、大雨が降るとよく不通になりました。…すごいタイムカプセルを、あなたは徹底的な精査と踏査でこれからも掘り起こされていくのですね。私は原稿が遅い作家を待つ愛読者ような気持ちで、これからも旅行記を楽しみにしております。

    DANA

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/06/27 19:28:56
    拝復
    DANAさま、こんばんは。


    過分に過分なるお褒めのメッセージを賜りまして恐縮しております。
    誠に有難うございました。

    >  さて、大好きな横浜線、今も丁寧に建造を続けていらっしゃる様子を拝見して、本当に脱帽でございます。そしてとても嬉しい気持ちです。
    >  島状ホーム・相対式ホームの説明も分かりやすく、少し高揚した気分でございます。神奈川駅と東神奈川駅の謎も解けました。ちなみに、知り合いのおぼっちゃまで鉄道大好き少年がいるのですが、彼に「東神奈川から横浜に行く途中で線路の音が変わるんだよ〜。おばちゃん気がついてた?」と聞かれて真っ青になった記憶が…。
    →実は、正直申しまして、あと30枚程度の写真を添付させたいと考えております。

    >  30年前、初めて横浜線に乗ったとき、車両の古さに驚きました。板張りの油が浮いた床、通路の真ん中に支柱のある車両。長津田駅に降り立った時、なんだか昨日まで生活していた故郷を思い出して不思議な気持ちでした。それから、十日市場と成瀬という駅ができたのですが、大雨が降るとよく不通になりました。…すごいタイムカプセルを、あなたは徹底的な精査と踏査でこれからも掘り起こされていくのですね。私は原稿が遅い作家を待つ愛読者ような気持ちで、これからも旅行記を楽しみにしております。
    →今では十日市場駅の駅前交番横に駅設置記念碑が建立されております。




    横浜臨海公園
  • ねずみんさん 2011/09/03 20:29:02
    横浜線の歴史を知りました
    わたしは横浜線沿線に住んで18年になります。

    私が10代のころは、京急沿線にすんでいました。
    そのころの横浜線は、単線のところもあったし、雨が降ると冠水して運転見合わせになったりと横浜を走るにしては、あれれ?な感じでした。

    最近は沿線の街並みも変わりました。近代的な景色も望めます。

    しかし、横浜線にこんな歴史があったとは!

    ただぼんやりと乗っているだけではいけませんね。

    こんど最寄駅にいったら、ホームの下や柱をじっくり見てみようとおもいます。

    ねずみん

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/09/06 04:41:33
    誹風
    ねずみんさま、おはようございます。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    拙稿、横浜線旅行記をご覧になられた由。

    本当に昔は小机から単線で落雷や大雨で、よく止まったものでした。
    今でも小机から横浜市内???と思える、のどかな風景が楽しめます。



    横浜臨海公園
  • パピーさん 2010/10/28 00:27:03
    そんなに古い地下道だったとは
    横浜臨海公園さん、こんばんは

    この東神奈川の地下道は、良く通るんですが、そんなに古いものとは知りませんでした。

    結構狭いので、もうちょっと広くできなかったのかと思っていましたが、昭和の初めのものでは仕方ないですね。

        パピー

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/10/28 14:10:54
    拝復
    パピーさま、こんにちは。


    東神奈川の地下道は鶴見駅の物と同様、昭和初期の建築で狭く、小生も車を運転していて対向車線に12トン超大型クレーンなどが走ってくると、思わずヒヤリとさせられます。
    以前は、神奈川署のワゴン車の警告灯が地下道の天井にぶつかって損傷などと言う笑える話もあったくらいです。


    横浜臨海公園
  • あんずの姉さん 2010/09/29 21:34:09
    すばらしい・・・。
    今回も大変興味深く拝見しました。
    毎回思うのですが・・・どこでこんなに詳しく調べられるのか?!、と。
    今回は特にもう絶句でございます。

    おまけにとても懐かしい景色も拝見出来て感激です。
    以前には沼津駅、今回は相模原、淵野辺、古淵、町田、などなど・・・。
    町田に御幸って道がある訳も分かって、為になります。
    私の祖父はお召列車に勤務していたのに・・・全然知りませんでした(涙)
    ありがとうございました。
    (多分この辺からの血ですね・・・電車好き。親戚は鉄道マンが多いです・・・(笑))


    これからも為になる&歴史オタクもウナラせるレポートをお待ちしています。

    そう、横浜臨海公園様の旅行記はもはやレポートか論文の域と思われます。
    今日、確信しました。
    横浜臨海公園様のレポートは数が多いので最近4トラ入りしたぺーぺーのワタクシは地道に拝見してゆこうかと思っております。
    よろしくお願いいたします。

    あんずの姉拝

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/09/30 02:10:35
    拝復
    あんずの姉さま、こんばんは。


    > 今回も大変興味深く拝見しました。
    > 毎回思うのですが・・・どこでこんなに詳しく調べられるのか?!、と。
    > 今回は特にもう絶句でございます。
    →過分なるお褒めお言葉を賜りまして誠に恐縮至極でございます。
    兎に角、鉄道の世界でもそうですが、世に出回っている歴史関係に関して、ウソが多過ぎることで、小生の場合、常に第一次資料にアクセスする様に心がけております。
    此の為に、国立公文書館、国会図書館憲政資料室、外務省外交資料館、等々で、当時のオリジナル資料を閲覧し事実関係を確認し、それからまとめてフォートラベルで発表しております。

    > おまけにとても懐かしい景色も拝見出来て感激です。
    > 以前には沼津駅、今回は相模原、淵野辺、古淵、町田、などなど・・・。
    > 町田に御幸って道がある訳も分かって、為になります。
    > 私の祖父はお召列車に勤務していたのに・・・全然知りませんでした(涙)
    →と、申しますと、お爺さまは鉄道省か国鉄関係者で大井工場か東京機関区、東京車掌区で勤務されていたと言ふ事でしょうか?

    > これからも為になる&歴史オタクもウナラせるレポートをお待ちしています。
    →その様な訳で、小生の旅行記は完成まで遅速で時間がかかり、また発表済のものでも写真や記事が追加されているものもすくなくありません。
    何卒、ご理解の程をお願い申します。



    横浜臨海公園
  • 一歩人さん 2010/06/19 14:58:27
    何度来訪しても力作です
    横浜臨海公園さんへ
    いいですねええ。
    人に歴史あり、駅に痕跡あり。
    消し去ることのできない証ですよね。ありがとうございました。
    失礼しま〜す。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/06/20 03:04:54
    拝復
    一歩人さま、こんばんは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    過分なるお言葉を賜り恐縮しております。




    横浜臨海公園
  • Medinaさん 2010/05/14 22:02:55
    B6形の貴重な写真を拝見致しました。
    こんばんは。Medinaでございます。
    旅から戻り仕事に追われ写真編集もままならず、皆様の旅行記も満足に拝見出来ない日々が続いております。

    私はSLが好きで今回も乗車して来ました。後日旅行記掲載いたしますが、この横浜様の貴重なB6形の写真を見て驚きました。大変珍しいです。

    B6形の由来は旧国鉄時代の2100形蒸気機関車で、国鉄の前身である官設鉄道が、1890年(明治23年)からイギリスより輸入したタンク式蒸気機関車で、作業局時代の形式称号により、同系の3形式(2120形・2400形・2500形)と共ににB6形と通称されております。

    また2323形は広軌化試験改造車で、1917年8(大正6年)に当時議論さた広軌(標準軌)化構想に基づき、機関車を広軌化改造する際に、どれほどの材料、工数、費用がかかるかを調べるため、試験車両として本形式1両 2323形が浜松工場で広軌化されました。同機は、同年5月23日から8月5日まで、横浜線原町田 - 橋本間で6輪ボギー車、4輪ボギー車、4輪単車、貨車3両と共に試験運転されました。
     その結果、広軌化による不都合はなく動揺は広軌のほうが少ないこと、また、狭軌からの改造車であっても十分実用に耐えるばかりか、性能が向上して、石炭の使用量も減少することも確認されましたが、広軌化構想は1919年(大正8年)に頓挫し、広軌化改造されていた2323形もしばらく大井工場に保管されておりましたが、間もなく廃車されたとの事です。

    日本の鉄道の機軸幅が4種類あるのも不思議な話で、標準軌1435mmの新幹線から1372mmの京王電鉄、都電荒川線、1067mmのJR線、多くの私鉄で採用、762mm最小軌の八王子線、近鉄内部線など。。。

    スペインでタルゴと言う車両がありますが、日本はなく軌軸を統一できれば
    線路1本で日本全国つながると思いますが。。。。

    ヨーロッパの新幹線、TGV、ICE,ユーロスター、ESスターこれらの列車は線路幅が統一されている為に、国境を超えて乗り入れが出来るのですが日本は。。。
    貴重な写真を拝見させて貰いありがとうございました。
    次回を楽しみにしております。

    Medina

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/05/23 09:08:56
    拝復
    Medinaさま、おはようございます。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでいた。
    仰せのとおり2120型蒸気機関車は日清間の国交情勢に緊迫の度合いが高くなった結果、導入された機種です。
    旅行記に添付した写真は大正時代に鉄道院から配布された資料から転載したもので著作権が時効により消失したもの使用しております。

    横浜線に於ける広軌化試験は本来であれば当時の旅客用大型蒸気機関車たるC51型を使用すれば効果が思われますが、C51型は当時の新鋭機であり、試験に廻す余裕が無かった事と予算上の問題がネックとなっていたものと推定されます。
    若し、此の段階でC51型を使用しておれば世論に対する効果は莫大なものだったと悔やまれます。




    横浜臨海公園
  • 一歩人さん 2010/01/24 08:44:04
    丹念な駅舎の歴史をありがとうございます。
    横浜臨海公園さんへ
    200回目のご訪問ありがとうございます。
    その大昔、鐘紡の長浜工場で新人研修を受けた一歩人です。
    生糸ですか。戦前・戦後の歴史の一幕ですよね。
    高度成長、バブル世代の私は、幸運にも、繊維の歴史も
    研修で学びました。
    実は、その前は、動力炉・核燃料事業団へ派遣されていたので、
    戦後の核燃料の歴史も学びました。
    当然、輸送手段は欠かせませんよね。
    もっと、勉強しよっと。
    失礼しま〜す。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/01/25 13:22:35
    拝復
    一歩人さま、こんにちは。


    200回目の訪問通知を懇切賜りまして誠に有難うございます。
    もうすぐ入試も近いので旅行記の作成も中断するかもしれませんが、現在進行中のシリーズを拝見くだされば幸いに存じます。

    今後とも亦何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園

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