2008/03/13 - 2008/03/13
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フロッガーさん
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足利学校をでて、太平記館に戻って中をチラ見したあとに法楽寺へ向かいました。前回、断念した場所だったので自分的にはやっと本題(笑)。
法楽寺・そしてこの後に向かう心通院共に織姫神社の山から北東の足利高校の麓に鎮座します。
あ、観光名所とかでよく有名な所の名前を冠した場所名が通称だったりすることがあって(例えば雄蛇ヶ池の「房総十和田湖」とか)、自然の場所を他の景勝地に例えて言うのは個人的に好きじゃないのですが(爆)。ここは、建造物ですし。。。あえて関東の銀閣と呼ばせてもらいます(^∇^)
TOP画像を見ていただければわかると思いますが、見事な銀閣寺(^▽^;)
法楽寺のこの本堂は、宝形二層造りで京都の銀閣(慈照寺)を模しています。法楽寺は足利氏・縁の場所であり、足利尊氏の5代前にあたる足利義氏(源姓足利氏三代目)が夢のお告げによって池の底から引き上げた阿弥陀如来像を本尊として建長元年(1249)に草創したと伝えられています。「法楽寺」の名は、義氏の法名である「法楽寺殿正義大禅門」からではないかといわれています。昔、鎌倉時代には足利義氏、江戸時代においては足利藩・戸田家の菩提寺でした。
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山門をくぐるとすぐ。屋根には鳳凰も見えます。
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京都に銀閣寺を建立したのは、義氏の子孫である室町幕府・第八代将軍の足利義政です。義政時代は義氏より200年ほど後になりますが、なぜここに銀閣を模した物が建てられたか。。。なんか変ですね(;´Д`A ```
現在の法楽寺の本堂は、昭和五十八年(1983)に建立されました。 -
寺務所がわに長廊下があります。そちら側から。
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法楽寺は万延元年(1860)に境内木小屋からの火災で大門を残して本堂・庫裡・土蔵までを消失したと言われています。明治元年(1868)に再建されました。それから100年経って現在の本堂は建てられていますが、この間の本堂の状態と銀閣を模す事になった経緯はよくわかっておりません。実は、最初ネットで検索していたのですが何も出てこなくて、地元の県立図書館等で調べてみたのですが、やはりわからず。。。足利で調べないと出てこなそうです。
ちょっと色合いやら明るめで違いますが、端から見ると「住宅地にいきなり銀閣」な場所です(笑)晩年、義氏はここに隠棲し余生を送ったということです。この義氏、最後の古河公方であった足利義氏と同姓同名ですが公方さんは子孫に当たります。 -
そして、すぐ近くにある心通院へ。ここは足利七福神巡りの6番目。寿老人を祀っている場所です。正式名称、「大圓山・心通院」を称します。
駐車場から。右には幼稚園だか保育園があって賑やかでした。 -
心通院は、永禄九年(1566)足利・長尾家五代目にあたる政長が両親(憲長夫妻)の菩提のために創建したと伝えられています。境内には「長尾氏墓所」があります。
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門から。
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再建された八角形の本堂には本尊である釈迦如来像が置かれています。八角円形の本堂は天井部から明かりを取り入れる方式。そして本堂左側に足利七福神の一つ寿老人を祀るお堂などがあります。
鉄筋八角形です。昭和三十八年(1963)に再建されました。 -
お堂の左手に寿老人がいます。
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駐車場に着いた時に、鐘を打つ音がしていたのですが誰もいない。。。自動でした(;´▽`A``
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本尊様。
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